Fuzzy Logic

時事ネタ、音楽、映画、本、TV番組などなど、幅広く適当に語ります。

「ミニマリスト」としての「スナフキン」と、彼の生き方

さてさて。

先日「ミニマリスト」について記事を書きましたら沢山シェアしていただきました。コメントまでいただいたりして(おいさん (id:Doraneko1986)さん、ありがとうございます!)。


「ミニマリスト」って、どんな人? - Fuzzy Logic

はてなブログの「旬のトピック」にもなったりして、色々な方の考え方を読むことが出来たので、ここで数日間ぼんやりと考えたことをブレインストーミング代わりに書いてみたいと思います。


なぜ今「ミニマルライフ」なのか

前回の記事で「ミニマリスト」のことを「基本的にはシンプルライフを志向し、「物を持たないこと」をもっと突き詰めて考えておられる方々」という風に定義しました。

では、なぜ今「ミニマルライフ」という考え方が世間の注目を集め、「ミニマリスト」を志向する人たちが増えているのか。

まず頭に浮かんだのが、今まで日本経済を回してきた「大量生産・大量消費」的な価値観に対するカウンターという考え方です。「大量生産・大量消費」なんていう価値観自体が既に前時代的ですが、それのカウンターとしての「シンプルライフ」や「断捨離」であり、さらに先鋭化させたのが「ミニマルライフ」である、という。他のブログ様でも同様の指摘があったように思います。

また、前回の記事でも書きましたが、「お金が無いからミニマルライフにならざるを得ない」というのも実態としてはあるのだと思います(おいさんさんが書かれていた学生時代の生活もそうでしたね)。「ミニマルライフ」を志向されているブログ様を見てても、ある種の節約術としての「ミニマルライフ」という印象を受けることがありましたので、これも確かに言えるのかな、と。

「ミニマルライフ」を「モノを極力所有しない生活」というのであれば、前者は「もっと本質的な幸福を希求するために、あえてモノを所有しない」、後者は「経済的な理由からモノを所有したくても出来ない」という違いがあります。しかし、両者は並立し得ると思われますので、そういった諸要因の複合なんだと思います。


「ミニマリスト」としての「スナフキン」

「ミニマリスト」と言われてぼくが最初に思いつくのは、やはり「ムーミン」に出てくる「スナフキン」ですね。

スナフキンの名言集

スナフキンの名言集

自由と孤独、音楽を愛する旅人。物事を所有することを嫌う。冬の来る前に南へ旅立ち、春の訪れとともにムーミン谷に戻ってくる。


(中略)


原作のスナフキンは理知的ではあるが孤独を好み、どちらかといえば人づきあいが苦手な人物として描かれている。人に指図されるのを嫌い、公園の「芝生に入るべからず」のような立て札を見て怒り、抜き捨てたこともある。心を許しているのはムーミンなどごく一部の人々にすぎず、『ムーミン谷の十一月』ではヘムレンさんなどの他人に対してひどく無愛想である。


(中略)


スナフキンの自由気ままな生き方は、原作読者・アニメーション視聴者の子供たちはもとより、日々の生活に疲れた一部の大人たちの郷愁・憧れも誘い、「スナフキン的な生き方」は理想の生活、スローライフの代名詞としても用いられることもある。


ムーミンの登場人物 - Wikipedia

彼には「親しい友人」としてのムーミン谷の人たちがいますが、家族はいません。旅から旅への生活をしているため「家」もない。

「所有しない」「つながりを求めない」が故に「自由」であり「孤独」である――それがスナフキンです。

みんなスナフキンになりたいのかなぁ。。。


全然スナフキンが羨ましくない

これはぼくが家族を持っているからかもしれないんですが、スナフキンの生き方ってぼくはまったく羨ましくないんですね。

ぼくは孤独が恐ろしい。死ぬのが怖い、ということと根は一つなのかもしれないんですが。

一人でいれば頑張る必要はない。なりたくもない自分にならずに「ありのまま」の自分でいられる。「義務」も「責任」も一人でいれば最小限(まさに「ミニマム」)で済んでしまう。

でもそれって「なぜ自分は生きていかなければならないのか」を常に自分自身に問い続けなければならない、しんどい生き方なんじゃないかとぼくには思えるんです。

人間は社会的な動物だから、「生きているだけで、それでいい」とは中々思えない生き物です。社会という他者とのつながりの中に生きていく意味を見出す生き物。

(余談ですが、そういう社会とのつながりに疲れた人が「生きているだけで素晴らしい」ということ、「命の価値」を再確認する物語として「自殺島」があります)

自殺島 11 (ジェッツコミックス)

自殺島 11 (ジェッツコミックス)


「人」と「モノ」との距離感を測る「モノサシ」はどこにあるのか

スナフキン的な生き方を選ぶのであれば、それは一つの選択です。しかし、そういう生き方を否応なしに選ばざるを得ない状況があるとしたら、それは不幸です。

でも、「モノ」や「人」とのつながりを出来るだけ軽くしたい、という傾向が今の人(特に若い世代)の中にあるように、ぼくは感じています。

万人に共通するモノサシはありません。自分にとって最適な「人」や「モノ」との距離感は、自分自身で見出すしかない。「断捨離」も「シンプルライフ」も「ミニマリスト」も、言葉でしかないから、自分のキャパシティがどの程度なのかは結局自分にしかわからない。

だから、試行錯誤も悪くはないと思います。でも、距離感を誤ったままずっと生きていくのは想像以上にしんどい。

そういう「希薄化したつながり」に対するオルタナティブとして「ネット」があるんじゃないか、と前回の記事で書きました。

それがいいのか悪いのかはぼくにはわかりません。結局は自分自身に問いかけるしかない。答えなんてない。



今日もやっぱりまとまらなかった。