LEDやレーザーと、白熱灯や蛍光灯の光の最大の違いは「素性の良さ」にあります。分子レベルで波長が厳密に決まった、単色性の良い光。レーザーはさらに位相が揃った光が大出力で発振可能なので「破壊力」を持ち得、私が子供の頃はウルトラマンなどが「レーザー光線」的な兵器を駆使して活躍していましたが、現実にも「レーザーメス」などが実用化されています。
私自身が担当した仕事は、素粒子実験で検出器として用いられる「フォトマル」に、素性のよく分かったレーザーの光を入れることで、きちっと動いているかを確認する装置の試作と動作確認というもので、非常に地味なテーマでもありましたが、流行ものにも目を配ってのテーマ設定でもありました。
おりしも青色発光ダイオードの発光成功が報じられ、新しいデバイスがあれば、何でもフルに使い倒そうというのは物理屋の発想ですから、ある意味ミーハーに、貪欲に、新技術の動向について研究室の「お茶の時間」に雑談を交わしたものでした。
が、こうした自由闊達な仕事が可能だったのは1980~90年代前半あたりまで、バブル期ならではのことだったようにも思います。
実際「平成構造不況」などと言われるようになって以降、日本の大学がどれくらい、オーソドックスな基礎研究誕生の舞台として充実しているか、定かではありません。さらにはSTAP詐欺で露呈したように、おかしな「基礎研究利権」などもとぐろを巻くようになってしまった。
今出ているノーベル賞は多くが20~30年前の成果が評価されているもの。逆に言えば2030年、2040年代に「日本発」(あえて日本人とかつまらないことは言いません、日本を舞台にインド人、エジプト人が仕事しても業績は業績です)の基礎業績がどれくらいあるか、未来に責任を持っているのは、現在の私たち自身にほかなりません。
オーソドックスな問題設定
さて、この種の話題では毎回同じことを記しますが、不易流行の骨法なのでここでも再び焦点を当ててみたいと思います。「業績」というのは「ターゲット」と「方法」の2つがきちんとしているとき、初めて大きな果実を生み出します。
例えば素粒子実験でも、これが確認できれば大業績、というテ-マ、ターゲットは山のようにあります。が、それをどうすれば確実に実現できるか、という方法については、現実的技術的な問題がうずたかく積み上がっている。
これ、科学でも技術でも、いろいろ言えることですよね。
「タイムマシン」とか「不老長寿の薬」みたいなごちゃ混ぜの「ターゲット」では、そもそも原理的に実現不可能なものも多いわけですが、「電球や蛍光灯ではなく半導体素子を用いて発光、ないしレーザー発振ができれば、様々な利点がある」という問題設定は、「真空管ではなくダイオードやトランジスタを用いて回路を組めば、様々な利点がある」という問題設定の光量子エレクトロニクス版で、古くは1900年代初頭から、少なくとも第2次世界大戦中には十分に現実的な開発課題になっていたものにほかなりません。
特に第2次世界大戦末期、コンピューターの実用化にめどが立つと、スイッチング素子の固体化は至上命題になってきます。
と言うのは「電気の球は切れる」から。