※Twitterの呟きのまとめです
なぜ非リアなのかについて気づいてたけど口にしなかったことがあります。
非リアなのは臆病だからだ。なぜ臆病かというと他人に理解されない悲しみをお腹いっぱいに(個人的には)なるほど感じてきたからだ。ここには多少の被害妄想も混じっているんだけれども、何を理解されないと思っていたかというと「自死遺族としての自分だ」。
「自死遺族としての自分」を理解してもらわなければ自分を理解してもらえたことにはならないと思っていた。割と最近までこの考えはあった。中1で父が自殺してから中学、高校時代はそのことを口に出したことがなかった。「自死遺族です」と口に出して拒否されたら自分を否定されたことになると思ってた。
軽く自殺ネタを友人に話してみては反応を伺う。そんな行為ばかり繰り返していたものだから私の中に常にあったのは疑う心だ。疑う心で付き合ってもロクな人間関係を築けるわけがなかった。「お前に私の苦しみがわかるわけがない」私は自意識過剰の塔を建ててそこに篭った。非リアの塔の出来上がりだ。
非リアの塔から他人を見下ろすことしかできなかった。そんな中で対等な関係をつくれるわけがなかった。中学、高校時代の友人と疎遠なのはそうやって塔の上からしか人を見ることができなかったから。他人を見定めるだけ。寄ってくるな でも離れないで そんなアンビバレントな思いを抱いてるのが私だ。
だけど「自死遺族としての自分」ってなんだろうと思うようになった。父が自殺したことが私のなかで大きな傷を残したのは事実だけど、他人に傷をみせたいわけじゃないし他人と傷を見比べたいわけでもない。自分の中で傷を癒していければよかった。その治癒を他人に全て委ねていたことに気づいた。
自分の問題なのに他人に全てを任せていたのだ。それでは相手も荷が重くなってあたりまえじゃないか。自分がどうやって生きたいのか考えるようになった。他人に全てを委ねる人生か、自分で全てを切り拓く人生か、それとも他人に適度に頼りながら自分らしく進む人生か。やはり最後の一択になる。
なので今は「他人に適度に頼る」ことを学ぼうとしている。依存でもなく、自立に偏りすぎるわけでもなく、自分に合うバランスを探している。それで私は気づいた。「自死遺族としての自分」がなくても自分を理解してもらえることは可能だ。それがなくても相手を信頼する関係は築ける。
別に過去を遡る必要性が必ずしもあるわけではないのだ。だけどこう考えられるようになったのは「自死遺族としての自分」を受け入れてくれる人がいるから。理解ではなく受容。これが人との関係の上で大切なことだと学んだ。神様ではないのだから全てを理解するなんて無理だ。でも受け入れることはできる。
受容が大切なのは自分の存在を肯定されているからだ。私はそう考えるようになったので、全てを理解するよりも、受け入れるように努めるようにした。道を外した人を受け入れる、理解はできないかもしれないけど。なので非リアの塔を建てていた自分も受け入れる。それも自分の一部なのだから。
だから私はなんだかんだ言って今が一番楽しいです。社会人になってからのほうが楽しいです。どん底のころはこんなの想像できなかった。だから生きててよかったと思います。
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— ポンコつっ子 (@ponkotukko) 2014, 10月 14