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2014-10-15

クリエイティビティとロボット

 ある種のクリエイティブは幻想なんじゃないか、と思っていた。

 少なくとも、幻想としてのクリエイティブと、実際的なクリエイティブの二つがあるのだと。


 先日、品女でプログラミングを教えている先生はもとは家庭科の先生だったということを知って大いに驚いた。と同時に納得した。


 つまりそれは「技術家庭科」というジャンルで捉えられているのである。


 家庭科とプログラミングには相似性がある。

 家庭科で料理や縫い物を作るように、プログラミングではプログラムを作る。


 すごく当たり前のことなのに、これは重大な発見であるような気がした。


 僕の母親は元は声楽家で、それから田舎にひっこんでピアノ教師になった。

 彼女はとても上手にピアノを引き、歌を歌う。70近くなった今でも、市民オペラに出演したりしている。


 あるとき、「とてもクリエイティブなお母さんですね」と言われたことがあって、たしかに子供の頃の母のことを思い出してみると、やたらとステンドグラスを作ったり、工作したり、クリエイティブなこと、少なくともクリエイティブと思われることをやっていた気がする。


 気がする、というのは、実際のところ、母親は全く僕の考えるクリエイティブなことはなに一つしない人だからだ。


 母はそれで飯が食えるほどピアノが上手いのに、作曲をしない。

 歌うことが何より好きなのに、詩を書かない。


 

 母は僕にピアノの弾き方を教えたかったが、僕が知りたかったのは作曲の仕方であって、ピアノの弾き方ではなかった。だからバイエルの途中で飽きてしまって、それきりピアノは弾いてない。


 大人になって音楽好きの友達ができると、親がピアノの先生なんて羨ましい、と言われることがあった。

 でもぜんぜん違う。僕は羨まれることなんて何もない。


 僕にしてみたら、独学で、見よう見まねでピアノを弾き、ギターを覚え、コード進行をマスターして下手でも未熟でも曲がりなりにもオリジナルの曲を紡いで弾き語る彼らのほうがよほどクリエイティブで、格好よく見えた。


 いったいぜんたい、母はなぜ作曲家になる道を選ばなかったのだろう。

 誰の母でもない。僕の母だと言うのに。


 誰か知らない人が誰か知らない人のために作った曲を弾き、知らない人のためのラブソングを歌うのはなぜなのか。

 

 それでふと、パーンと頭の奥底で弾けるものがあった。

 そうか、そうなのだ。


 人は本質的にクリエイティブではあり得ない。

 その言葉は、本来、創造主たる神のみに許された動詞だ。我々がそれを使うのは、非キリスト教徒、もっと言えば旧約聖書の教えから自由である人間であるからに過ぎない。


 同じ言葉をそういう文化圏の人の中で使えば全く異なる意味になる。


 つまりクリエイティブとは、暗黙的には神懸かり的な行為なのだ。



 そしてそうした世界の根底には、神は自分たちの姿に似せて人間を作ったという前提がある。


 古代ギリシャの哲学者、プラトンはイデア論を唱えた。イデア論とは、ざっくり言うと、絶対的な正義、正しい形が存在する「イデア界」があり、人間は何かを見てそれが何かを判断するときに頭の中でイデア界にアクセスしてそれを認識する、という考え方だ。


 つまり全てのものには原型となるイデアがあり、そのイデアが歪んだ形で現世に現れているという考え方で、物事の共通した性向が直接は知覚できないどこか別の場所(イデア界)に存在するという。


 もちろん、そんなことはすぐに弟子のアリストテレスの世代で否定されてしまうのだけど、このイデアが現在でいうアイデアの語源になっていることから、僕は興味を持った。


 そうすると、たとえば楽譜というのは一つのイデアである。

 つまり、直接アクセスはできないがその楽曲の正しい形が楽譜という形で譜面に表現されている。


 しかし楽譜はそれだけでは音楽にはならない。

 誰かがそれを演奏し、指揮し、唄わなければならない。


 もし神が自分たちのイデアを原型として人間を作ったと考えるならば、イデアをもとに人間を作る作業はクリエイトと言えただろうし、アダムの肋骨からイブを創ったのも、クリエイトであったと言える。


 つまりイデアを現世に再現すること、イデアから事物を産み出すことそのものをクリエイトであると考えると、楽譜から楽曲を演奏したり、歌を唄ったりすることも十分、クリエイティブであると言える。


 当然、楽譜から演奏される楽曲は実際的には時と場合によって微妙にニュアンスが異なる。


 楽曲そのものを作り出すことを僕はクリエイティブな行為だと思っていたけれども、実はそれを演奏する行為も、それは人のイデアから人を作り出すのと同じくらい、クリエイティブなのだと。


 とすると、料理やカラオケといった身近なことも、全てがクリエイティブというキーワードで繋がる気がする。


 料理はレシピの通りに創ってもいいし、レシピを自分なりにアレンジしてもいい。

 レシピとは楽譜でありイデアであり、調理とは演奏でありクリエイトだ。


 カラオケも同様である。


 とすれば、世の中にはなんとクリエイティブに溢れていることか。

 たとえ創造主たる神が自分たちに似せて人間を創ったという説を積極的に受け入れなくても、人間とは、どれだけクリエイティブな生き物と考えられるだろうか。


 むしろ人間とそれ以外の動物を分ける境界線が、クリエイティブであるということ、なのかもしれない。

 ビーバーはダムを作り、ツバメは巣を創るが、何世紀かかってもそれを改良したり、進歩させたりということは決してない。


 人間が家を創ったら、次の世代の人間はもっと丈夫な家を創る。

 誰かが何かを創ったら、それを見よう見まねでコピーする。遺伝子だけをコピーするのではなく、物体や音楽、料理をコピーするのもまた人間だけの特技と言える。これは時として生物学的なコピー、すなわち分裂や生殖よりも遥かに効果的だ。


 アイデアにアイデアを重ねてより良い暮らしを創る。

 これが人間の本能であり、人間が根源的に持つ創造性なのだ。


 たとえばこの広い銀河系に、生命体が産まれる可能性のある星がいくばくかはあるかもしれない。


 けれども、そこで人間のように、常に何かを作り出し、それを改良するという本能を持った生命体が産まれるかどうか。もしそういう生命体が産まれなければ、そうした生物は決して人間のような創造性を獲得せず、従って何万年にも渡って、ビーバーやツバメと同じように、進化のない住居を造り続け、原子力も計算機もない野蛮な世界でただ滅亡まで無為に生きる時を過ごしているのだろう。


 ゲームになぜ人は夢中になるのか。

 ゲームを遊ぶことそのものが、クリエイティブな行為だからだ。


 攻略や戦略を考え、試行し、そしてまた考え、という繰り返しで、これがとても高速に行われる。


 僕はレールの上のクリエイティビティをそれほど好まない子供だった。

 楽譜をなぞるよりも、自分の表現手段としての音楽を身につけたかった。


 けれども今ならそれは、クリエイティビティへの幻想を自分が抱き、焦っていたのだなと思う。

 クリエイティブとは、こうだ、という思い込みが、僕にはあった。



 与えられたレシピの通りに料理を創るのでも、充分なクリエイティビティがある。これはコピーしているのと同じだ。そしてコピーもまたクリエイティブな行為なのである。


 そこから一歩抜きん出て、新しいレシピを創り出すというのは、大変な努力と才能を要する。


 プログラムの場合、最初からクリエイティブであることを求められるケースが多い気がする。

 昔はそうではなかった。

 良く言われるように、ゲームプログラミングは、まずプログラムリストの打ち込みから始まったのだ。

 これも、プログラムリストというイデアを具現化する、コピーするという行為の範囲でクリエイティブであり、従って間口は広かった。


 俗に「写経」と呼ばれている学習法である。

 そういえば、本家の写経、つまり仏教における写経などはまさにこのイデアのコピーの典型と言える。



 アシモフの「宇宙の小石」では、なぜ地球だけが多種多様な生命体が産まれたのか、という問題についてSF的な視点から考察を加えている。

宇宙の小石

宇宙の小石


 ファウンデーションシリーズは、残念ながら「ファウンデーションの彼方へ」以降はまだ電子書籍になっていない。


 しかしファウンデーションがいよいよ大傑作の様相を呈してくるのは「ファウンデーションの彼方へ」で地球に言及し始めた頃からだと僕は思う。そして「ファウンデーションと地球」「ロボットと帝国」へと繋がって行くわけだ。



 「ロボットと帝国」は非常に衝撃的な内容で、これを楽しむにはまずアシモフのロボットシリーズを読んだ方がいい。

 かの「ドラえもん」にも影響を与えたロボット三原則が登場する「我はロボット」はもちろんのこと、アシモフのロボットものの真骨頂は地球人イライジャ・ベイリとロボットであるR・ダニエル・オリヴォーのデコボココンビが大活躍する推理小説シリーズだ。この世界ではロボットは人間と見分けがつかないほど精巧になっているため、名前の頭に「R」と付けることに鳴っている。ちなみにゆうきまさみの「究極超人あ〜る」の主人公がR・田中一郎であるのはここに由来すると思われる。

 

 ロボット探偵シリーズ第一作の鋼鉄都市、これは幸い、Kindle版が出てる。

 はだかの太陽、そして夜明けのロボットはまだ紙のものしかない。しかし一読の価値がある。

鋼鉄都市

鋼鉄都市

はだかの太陽 (ハヤカワ文庫 SF 558)

はだかの太陽 (ハヤカワ文庫 SF 558)

 この三部作はロボットが当たり前になりつつある、この時代だからこそ読み返しておきたい傑作だと思う。


 これらの作品ではロボットはどう振る舞うべきか、どのような社会問題があり得るか、ということを丁寧に描いている。

  

 人間はそもそもなぜ自分たちとそっくりなロボットを創りたいと欲し、またそれを所有してみたいと欲するのか。


 神が自分たちに似せて我々人間を創ったように、我々も自分たちに似せてロボットを創り出そうとするのだろうか。


 とすれば、ロボットもいずれ様々な形でのクリエイティビティを獲得するかもしれない。

 そのひとつのあらわれが、たとえば3Dプリンタではないか。


 3Dプリンタは本当に安くなって来た。ちょっとした趣味のために購入する人がもっと増えてもおかしくないし、3Dプリンタを活用した商売がもっとうまれてもおかしくない。


 3Dプリンタも、ロボット工学的には立派なロボットだ。

 ただ自走せず、顔がついていないだけで、中身の構造は立派なロボットだと言える。それは自動車工場のロボットが立派なロボットであるというのと同じ程度の意味において。


 3Dプリンタは既に危険なものを創り出すことが出来る。

 

 創ろうとするもののイデアがあれば、3Dプリンタはいくらでも創り出すことが出来る。

 そのうちできあがった結果を3Dスキャンし、自動的に改良を加えて行くようなアルゴリズムもできあがるかもしれない。そうしたアルゴリズムそのものも、遺伝的に自律的な改良がなされていくだろう。


 するといつの時代か、そう遠くない未来に我々と同程度か或いはそれ以上に優秀な知性を持つ3Dプリンタができるだろう。


 知性とは手に象徴され、手とは何かを創り出すための道具である。

 その「手」にあたるものが、これまでコンピュータにはなかった。だから彼らは優れた計算性能を持ちながらも、万能生き字引以上の知性を直接は見せてくれなかったのかもしれない。


 "彼ら"が3Dプリンタという「手」を獲得することで、これまでとは全く違った性質の進化をなし得ることはあり得る。


 さて。