■科学的議論ではなく、自己実現の場と化す
毎日新聞による2000年の旧石器捏造(ねつぞう)事件スクープは今も記憶に鮮やかだ。数十万年前の石器を次々と掘り当て「神の手」とまでもてはやされた男が、明け方こっそり偽物を土の下に埋めている姿は、人間の浅ましさを余すことなく晒(さら)しており、怖いぐらいだった。
その男、藤村新一が事件後どうなったのか気になっていただけに読み応えがあった。著者は元々この事件を追っていたわけではなく、岩宿遺跡発見で有名なアマチュア考古学者・相澤忠洋とその盟友・芹沢長介という旧石器研究をリードしてきた二人について取材を進めるうち、図らずも捏造事件に辿(たど)り着いてしまったという。
日本の旧石器時代の扉を開くことになったのは戦後間もない岩宿遺跡の発見で、それが芹沢によるさらに古い前期旧石器時代の研究へとつながっていく。しかしこの前期旧石器時代は現生人類の前の原人の段階で、石器も黒曜石を選ぶなどという高度なことはせず、その辺の固い石を砕いただけだった。そのため自然の礫(れき)と見分けがつきにくく、プロの学者の間でも本当に石器なのか議論が絶えなかったという。そのわかりにくいグレーゾーンで藤村という特異なキャラクターが「出たどーッ」という朴訥(ぼくとつ)とした掛け声とともに次々と「石器」を発見したものだから支持派ならずとも飛びついた。
本書に登場する考古学者は皆、魅力的だ。私生活をなげうち真摯(しんし)に、そして純粋に日本人の起源を解き明かそうとする姿勢は感動的ですらある。ところが、それが偏屈に、視野が狭まっていき、最後は捏造という奇形した姿に変容したのは何故(なぜ)なのか? 結局、岩宿発見の時点で捏造を生む病巣は宿されていたのだ。学者たちは学閥にとらわれ、業績に執着するあまり目が曇り、考古学は科学的な議論ではなく単なる自己実現の場と化していたのである。
著者は福島県にある藤村の自宅を何度も訪れ、事件の真相を質(ただ)す。藤村は藤村という姓を捨て、藤村と「神の手」に関連する一切を文字通り切断してしまう。その異様な姿は人間が半分壊れてしまったようで、衝撃だ。
最後のほうである研究者が事件の後も何も変わらなかったと話す場面があるが、それが事実なら日本の考古学会は一人の人間を怪物に仕立て上げ、そして壊しただけだったということになるだろう。確かに事件を引き起こしたのは直接的には藤村だが、彼を調子に乗らせて躍らせ続けたのは考古学会の歴史と体質でもあるからだ。
長い取材を通じて人間的な関係を築いた著者と藤村との別れのシーンは憐(あわ)れみを誘う。人間の没落とはかなさを見せつけられた気がして、なぜか悲しかった。
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新潮社・1620円/うえはら・よしひろ 73年、大阪府出身。10年、『日本の路地を旅する』で大宅壮一ノンフィクション賞受賞。著書に『被差別の食卓』『異形の日本人』『聖路加病院訪問看護科』『差別と教育と私』ほか。