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14 Oct 2014 02:39

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乃木坂46のアンダーライブに見えた希望の兆し 伊藤寧々卒業と研究生活動辞退に寄せて

リアルサウンド 10月14日(火)7時1分配信

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乃木坂46のアンダーライブに見えた希望の兆し 伊藤寧々卒業と研究生活動辞退に寄せて

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乃木坂46のアンダーライブに見えた希望の兆し 伊藤寧々卒業と研究生活動辞退に寄せて
乃木坂46『何度目の青空か?(DVD付C)』(ソニー・ミュージックレコーズ)

 2014年の乃木坂46は、かつてなくライブへの注目度が高まっている。もちろん、神宮球場に3万人を動員してファイナルを迎えた夏の全国ツアーも大きかったが、今年の乃木坂46のライブを象徴するのは、なによりアンダーメンバーによる連日のライブだ。そのアンダーライブは現在、六本木ブルーシアターで上演中のセカンドシーズンが折り返しを迎えている。昨今のグループアイドルシーンの趨勢にほとんど逆行するように、乃木坂46というグループはライブ活動にかける比重が小さい。そのこともあって、ライブパフォーマンスは今もってこのグループの弱点といえる。アンダーライブは、その弱点を地道に解消していくような頼もしさをもって、日々充実の度合いを増している。

 ところで、このアンダーライブにはもうひとつ、先月グループからの卒業を発表した伊藤寧々の、活動の集大成としての意味も込められている。単独ライブを日常的に行なうことのなかった乃木坂46にあって、連続するライブがメンバー卒業へのラストスパートになることは稀有だ。彼女の所属期間最後の日々をライブ活動で締めくくれることは、メンバーにとってもファンにとっても得難いものであるはずだ。

 しかし、この伊藤寧々の卒業が、理想的なお膳立てのもとに迎えられているのかといえば、そうすっきりとした感慨を抱けないのが実情でもある。率直に言えば、どこか不完全燃焼の部分を抱えているように見えてしまう。連日のライブによってメンバーたちがパフォーマンスを向上させていく充実感の中に、そんな彼女の卒業をめぐる物寂しさが交錯する。それが、現在のアンダーライブセカンドシーズンである。1期生伊藤寧々の卒業とアンダーライブの意義、今回はここを基点に乃木坂46の現在地を考えてみたい。

 あるメンバーが、次なる目標のためにアイドルグループから「卒業」するとき、基本的にそれはポジティブなものとして受け止められるべきだろう。特にAKB48系の場合、グループでの活動は、メンバー各人が次の段階に向かうためのステップとして明確に位置づけられている。だからこそ、それぞれの志向に応じた活動への道はグループ所属時から多く設けられているし、その中で彼女たちはグループとしての活動と、卒業後の姿を模索するための活動を並行して行なう。もちろん、48グループ自体のダイナミズムが、エンターテインメントとして当初の予想をはるかに超えて世に浸透していることで、各人のステップの場というコンセプトはともすれば見えづらくなっている。しかし、48グループ自体のエンターテインメントとしてのネームバリューはまた、各メンバーに将来への種を蒔くための機会やコネクションを多くもたらし、彼女たちはその機会を利用していく。このサイクルが48グループの強みと言っていい。

 しかし、「48グループ」には通常含まれない、別働隊のような立場にある乃木坂46の場合、その条件はちょっと違う。伊藤寧々が卒業発表に際して、「次のやりたいことが見つかった」という前向きな言葉を伴っていたにもかかわらず行き詰まりの感を拭えなかったのは、所属時にパフォーマーとして自らを試す場を、十分に与えられていなかったためだ。この傾向は彼女に限らず、乃木坂46が総体として持っている課題である。

 ひとつには、選抜メンバー枠の多くが事実上固定されていることで、そこから漏れたメンバーはマスメディアで活路を見出す機会がなかなか持てないことが原因である。もっとも、グループ自体が認知されるために、ある程度同じメンバーが顔になることは必然でもある。問題は、メディア露出の少ないメンバーが自身をアピールし試す場が、乃木坂46の場合、著しく乏しいことの方だ。その結果、所属はしているものの、パフォーマーとしてファンの目に触れる機会も少なくなる。その難しさは、昨年から加入した2期生になるとさらに顕著だろう。伊藤寧々の卒業発表にあわせて、2期生の矢田里沙子、米徳京花二人の研究生の「活動辞退」も発表されている。研究生の立場にある二人の決断に関して、「卒業」という言葉さえ与えられないことに、ファンからは不満の声も大きかった。それは、単に言葉だけの問題ではなかったはずだ。上が詰まっていると同時に、日常的にファンやスタッフにアピールする機会もなく、正規メンバーへの道も不透明。一年以上、乃木坂46の一員として過ごしてきた二人に向けられた「活動辞退」は、この閉塞した状況を象徴するような言葉だったのだ。

 そんな中で、現在行われているアンダーライブは、この状況に新鮮な光を差し込む予兆を見せている。アンダーライブとはその名の通り、目下の選抜メンバーから外れたアンダーメンバーおよび研究生が出演するライブではある。とはいえ実際のところ、これは選抜から漏れたメンバーにあてがわれた単なる代替活動ではない。センターとしてチームを引き締める井上小百合や伊藤万理華、ムードメーカー的立場から良い空気作りを促す永島聖羅、「制服のマネキン」の中心に立ち、この曲の見え方さえ変えてしまう川村真洋らがアンダーライブで放つ輝きは、選抜メンバーとして活動してもなかなか発揮できない類のものだ。ここに生まれているのは、選抜漏れしたメンバーに用意された活路という以上の、ライブパフォーマンスを通じた乃木坂46の新しい武器である。

 しかし考えてみれば、ライブパフォーマンスによる魅力の発揮は、アイドルというジャンルにとってきわめてオーソドックスなもののはずだ。それが新鮮に映る、というのが乃木坂46の特性である。こうしたグループの性格は、半ば意図された方針の結果といえる。今月刊行のムック『OVERTURE』(徳間書店)で、乃木坂46運営委員会委員長の今野義雄が、「一線級の役者と並んでも遜色がないように羽ばたいてほしい」とメンバーの将来像を語るように、乃木坂46は「芝居ができるアイドル」を確立しようとしている。年間を通じての一大イベントである舞台公演『16人のプリンシパル』はそのための核である。アンダーライブが勢いを見せつけているのと同時進行で、選抜メンバーからは生田絵梨花が今月上旬、ミュージカル『虹のプレリュード』に主演し、その豊かすぎるほどの素質を堂々と見せつけた。今週16日からは若月佑美が劇作家・前田司郎の岸田國士戯曲賞受賞作『生きてるものはいないのか』に出演、25日からは衛藤美彩と桜井玲香がスーパー・エキセントリック・シアターの舞台に立つ。『プリンシパル』から繋がるメンバーの将来像が、少しずつ具体的な形になろうとしている。これらは乃木坂46の方針だからこそ具現できたことであり、このグループの大きな誇りになるものだ。

 音楽中心のライブを絶対的な核に置くわけではない乃木坂46は、今日のアイドルシーンの中では実は、一風変わった毛色を持っている。そこに、アンダーライブという新鮮かつオーソドックスな武器が備わったのが現在のグループの姿である。芝居への志向を根幹に持ちながら音楽ライブのレベルも高めつつある今、パフォーマーとしての充実度と将来性にはこれまでにない期待が込められる。

 一方で、世間的な認知としてはもちろん48系のグループのひとつだし、だからこそ先ごろ松村沙友理に関して報じられたスキャンダルも、これまで繰り返されてきた48グループの「事件」の流れで大々的に扱われる。周知のように、48グループはそんなスキャンダルを自前の「物語」の中にしたたかに取り込んできた。それと同様の基準で、乃木坂46がこの件をどう扱うかに注目が向けられるだろう。しかし、「芝居ができるアイドル」としての側面とライブパフォーマンス向上の側面、そのいずれにも手応えがあらわれてきた現在、グループ全体を覆う空気がスキャンダル発の「物語」に回収されるのはあまりに惜しい。それよりも、実を結びつつある希望の兆しの方にこそ目を向けたいし、いうまでもなくそちらの方が誰にとっても意義深いはずだ。

 もちろん、現在のような兆しはグループ結成当初から見えていたものではない。ここに至るまでに十分に自分を試す機会を得られなかったメンバー、元メンバーもいる。アンダーライブで見る伊藤寧々の姿が最後になってしまうのは正直惜しいし、まして矢田や米徳にはその手前の機会さえ十分にあったとは思えない。やるせない手触りはいまだ残る。

 けれども、グループでの経験を卒業後すぐさま芸能として形にあらわすことばかりが所属することの意義ではなく、また所属時の経験をその後の糧にするのはフロントメンバーとして華々しく卒業したメンバーだけの特権ではない。メンバーが卒業し表舞台から姿を消すことが何かの「終わり」に感じられたとしても、それはファンの側の勝手な切り取り方でしかないのだ。受け手がどう切り取ろうが、彼女たちの日々は続くし、彼女たちが見据えるのは常にその時々の「現在」だ。彼女たち全員にとって、このグループに所属することが糧に繋がればそれ以上のことはないし、今グループに見えている希望の兆しがその環境を用意するものであると願いたい。

香月孝史

最終更新:10月14日(火)7時1分

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