「ネオ漂泊民の戦後」という本がでますヨ
kenzee「アハハー!著者のボクでース」
司会者「ホントにあと2週間ぐらいで本、出ちゃうんでしょ? 今のうちに解説しとかないと」
kenzee「書影ももうできている」
司会者「これは・・・。ちゃんと内容を反映したデザインなの?」
kenzee「「ネオ漂泊民の戦後ーアイドル受容と日本人」ーアイドルと流行歌から見えてくる「ネオ漂泊民」の実像、日本社会の「成熟」と「喪失」後の”母”を探して、というタイトルとキャッチなのだが、コレをボクは今年の2月から8月まで半年かけて書いていたのだった。きっかけは本のあとがきにもあるように、ある日、花伝社の編集者の方からメールがきたのだ。内容をまとめると「あなたのブログのファンです。アレとかアレとか面白かったです」といった半ばファンレターのようなもので、ボクは「フムフム、この展開だと最後になにかの雑誌に2000字ぐらいのコラム書きませんか的な依頼、というオチに違いない」と思った。2000~3000字ぐらいのコネタだったらボクは常に持っているので「ヨシヨシ、コレで20000円、肉食って本買って一杯飲めるナ」ぐらいの軽い気持ちで読んでいた。そしたらシャー」
単著をお出しになる気はありませんか?
司会者「「赤ん坊にモチ食わす」って表現はこういうときに使うべきなのかな?」
kenzee「「で、私はこんな本とかこんな本とか担当してきました。文量としてはだいたい10万字でお願いします」って書いてある。エ?ってなりますよね。そういう時って人間思考がショートするもので、「肉何枚食うんやろう」とか」思った」
司会者「その「こんな本」のなかには有名ブロガーの精神科医「シロクマの屑籠」のシロクマ先生の本とかもあるじゃないですか」
kenzee「シロクマ先生は花伝社以外にも講談社新書とか出してるエライ人だ。コリャー大変な依頼だゾーと思った。そもそも10万字も埋めるネタ、ボクないですヤン。400字詰め原稿用紙に換算して250枚ですよ。京極夏彦かっツー」
司会者「京極はその10倍ぐらいあるだろう」
kenzee「でね、オイラも考えた。「当方、ヘッポコ音楽ライター、さすがに10万字のネタはありません」て断るべきかとの思ったんだけど、昔、20代の頃に夜中にNHK教育のソリトンB観てたら林原めぐみが出てて、「チャンスを逃すな!」みたいな話してたのを思い出したのだよ、それでなんにもネタないんだけど「イヤー、奇遇だなア、ボキもそろそろ単著をだしたいなって思ってたトコなんスよ、アア、ネタもバッチシありますし」って返答した」
司会者「だんだん詐欺師の匂いがしてきたな」
kenzee「編集者「そうですか、受けていただけますか!じゃあ、企画書を!」と話はトントン拍子に進んでいった」
司会者「企画書なんかないジャン」
kenzee「ウン。なんにもないんだよ。とりあえずどういう相手さんかを見極めようと思って図書館で「出版社、花伝社」で検索してあるヤツ一通りだしてきてもらった。したら結構堅い本とか実用書とかの強い版元さんだったのだ。たとえば先の都知事選にも出馬した宇都宮弁護士の自伝とか。最近だと社会学者、南田勝也さんの「オルタナティブロックの社会学」とか。で、ワーどうしよう、オイラバカなのにって」
司会者「バカなうえになんにもない」
kenzee「イヤホント、でも林原の言う通り「できますできます。マッハッハー」とか言っちゃったので、話も動き出してしまった。そこでだな、このブログを直近5年分ぐらい読み返してみた。したらねえ、コネタばっかりなんだよこのブログ。ただ、2年ぐらい前にやった「アイドルブームと近代社会とは?」っていう全然反響の薄かったシリーズが目に留まった。これは江藤淳の1967年の長編評論、「成熟と喪失」とはつまり、現在のアイドルブームの予言だったのではないか?っていうとっかかりからスタートしたものなのだけど、これをムリクリ拡げたら3万字ぐらいにはなるかなあと思った。でも全然足りない。で、最近の記事読んだら「連合赤軍の永田洋子は広義のアイドルだったのではないか」みたいな話をオイラしてるわけだよ。アレ、待てよ、と連合赤軍話だったらオイラ5万字ぐらいはできるぞ、と。ハイ8万字、と思った」
司会者「スゴイ雑な計算だな。ホントに本屋に並ぶ本の話とは思えんな」
kenzee「あとの2万字はファッファーとしたエッセイみたいな感じで10万字完成、ってなるのでは?と思った。このように突貫工事で始まった企画だが、突貫工事なりの迫力というのはでていると思う。まず、ボクが4年前にライターデビューしたときってアイドルブームの絶頂期だったのですよ。震災の直前のワーっとした感じね。で、当然Jポップ専門ということになってるボクのとこにもそういう依頼がきたりしたんだけどボク、今のアイドルブームがまったく理解できてない人だということがわかったのね。もうその成り立ちからなにから。ヲタの心理とか。いきなり時代遅れになってしまった。で、困ったなあとか思っていたのだ。で、それとはまったく別に去年、aikoさんの音楽の話をサンザンここでしたのだけど、これは好評であった。そこでボクが掴んだのは「ファンでもない埒外の人間が知ろうとして知っていく過程は、うまくすればエンターテインメントになりうる」ってことだったんだね。つまり、今あるサブカルチャー本の多くは「このジャンルに詳しいボクが読者の皆さんに教えてしんぜよう」なのですよ。逆も真なりでエンタメ足りうる、と。つまり、この本はアイドルが理解できない者が理解しようとする過程で広義の文明批評みたいなものを見てしまう、という流れになっている。これはそんなに突飛なアイデアでもないはずだという確信もあった。映画だと黒沢明「野良犬」とか今村昌平「人間蒸発」のような、「ささいなきっかけから社会や文学を垣間見る」という話は多い。それで結構イケるんじゃないかということでスタートした」
司会者「今風に言うと、東浩紀さん言うところの「観光客」視点でアイドルを見たってことになりますかね」
kenzee「まさにボクは村人ではない。観光客だから見えるものもある。端的に言うと、アイドルって近代社会にしか現れえないものだし、しかも社会のなかで抑圧される立場、つまり暗黙のうちに二級市民とされるジェンダーに担わされることになる、ということだな。つまり、アイドルだったりAV女優がすごく輝いて見える状況というのは女性の地位の低下の裏返しなんではないか、というようなことをイロイロ言ってます。ずーっと、通奏低音としてある問題意識は江藤淳の問題提起、「母」は近代化のなかでいかに崩壊していったか、ということ。江藤淳が生きてて、今も現役で活動していたらたぶん綿矢りさとかには目もくれなかったと思う。でもAKBにはなにか言ってたと思うんだ。そういう問題意識なの。永田の話ももちろんでてくるんだけど、一番この本のキモとなるのはあさま山荘事件で山荘メンバーのお母さんたちが投降を呼びかけにくる。あのお母さんたちの歴史的な位地を考察するところかな」
司会者「もとをただせば「なんで、アイドルが過呼吸おこしてブッ倒れてるんだろう」みたいなとこからスタートしてやがて「戦後社会とは?」というやたらデカイテーマにブチ当たるまでの軌跡、という感じですかね」
kenzee「で、なにか期待してる人がいるかもだけど、この本のトータルの印象って嘆き節なんだよね。「オレについてこい」とか「希望の話をしよう」のような若々しさはない。「戦後民主主義とか近代ってこんな感じだったみたい。もう、嘆こう」という本です」
司会者「売ろうという感じがしませんな」
kenzee「でも自分に正直に書いたらこういうトーンになるんだよ。ホントはもっと、江藤淳の60年代のエッセイの話とか田中康夫のなんクリとか渡辺美里とか岡田有希子とか坂口弘の短歌とか見田宗介の歌詞分析の話とかしたいところなんだけど、これは買って読んでください。(定価1,500円+税)」
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