相撲博物館

展示室が1室のため常設展示ではなく、年6回の展示替により様々な資料をご覧いただけるよう努めています。

現在の展示

優勝力士100人

展示期間 平成26年(2014)8月26日(火)〜10月17日(金)

 力士が一度は夢見る幕内優勝。栄冠を手にした力士のしこ名は相撲史に刻み込まれます。平成26年(2014)3月場所で優勝した鶴竜は、幕内優勝100人目の力士となりました。個人優勝制度は、大正15年(1926)春場所、摂政賜盃(現在の賜盃)が完成したことで生まれたものです。しかし、明治42年(1909)夏場所以降、幕内最優秀成績力士に時事新報社(現毎日新聞社)から優勝額が贈られており、明治42年夏場所から大正14年夏場所までの優勝額獲得力士も含めて、個人優勝力士として数えられています。
 この展覧会では、100人に達した幕内優勝力士を紹介するとともに、賜盃や賞品のレプリカ、優勝決定戦に関する資料などを展示し、優勝に焦点をあてます。

1 優勝回数1位 大鵬幸喜 優勝30回表彰状の贈呈
 大鵬幸喜(1940〜2013)は、北海道弟子屈町出身の48代横綱。1位である32回の優勝のほか、6場所連続優勝2回をはじめ、最年少優勝、最年少大関・横綱昇進(いずれも当時)など数々の記録を打ち立てた。
 昭和44年(1969)9月場所初日、日本相撲協会は、大鵬が達成した優勝30回の偉業を讃え、一代年寄大鵬を贈呈した。初日の中入の時間に、武蔵川理事長(出羽ノ花)から表彰状を受ける大鵬。
2 高見山酉之助
 高見山酉之助(1873〜1924)は、千葉県銚子市出身の関脇。
 時事新報社は、旧両国国技館の開館を記念して、明治42年(1909)夏場所から、幕内で最もよい成績を上げた力士に優勝額(等身大の肖像写真)を贈呈し、旧両国国技館に掲額することとした。これによって、誰が優勝額を獲得するかが注目を集めるようになった。初めて優勝額を獲得したのは、前頭7枚目の高見山酉之助で、成績は7勝3分だった。
 個人優勝制度は、大正15年(1926)春場所に摂政賜盃が完成したことで正式に制度化されたが、優勝回数は明治42年夏場所以降、優勝額が贈呈された力士にさかのぼって数えられている。
3 鶴竜力三郎
 鶴竜力三郎(1985〜)は、モンゴル・スフバートル出身の71代横綱。平成26年(2014)3月場所の初優勝で、高見山酉之助から数えて100人目の幕内優勝力士となった。前さばきを生かしたもろ差しからの攻めと、柔軟な身のこなしを武器としている。
4 双葉山定次 賜盃模盃
 幕内優勝力士には、のちに賜盃の模盃が贈られる。双葉山定次(1912〜1968)は、大分県宇佐市出身の35代横綱。未だに破られていない69連勝の大記録を打ち立てた昭和の大横綱。優勝12回は、48代横綱大鵬幸喜(1940〜2013)に抜かれるまで最多記録だった。
5 国技館に掲げられた優勝額
 優勝額は、縦3m17cm、横2m26cm5mm。平成25年(2013)11月場所までは重さ80kg、それ以降は重さ59kg。国技館の各方向に8枚ずつ、計32枚が掲げられている。東京場所前に最も古い2枚と最新の2枚を入れ替える。
 時事新報社はその後、東京日日新聞社に併合され、さらに毎日新聞社となったが、現在も優勝額の贈呈は受け継がれている。昭和26年(1951)から色彩写真額として、白黒写真に油絵の具で色づけがされていたが、平成26年(2014)1月場所の優勝額から、カラー写真額に代わっている。国技館に掲げられる優勝額と同じ図の小さい額も本人に贈られ、東京場所前日に贈呈式、初日に除幕式がある。
各段優勝制覇
 序ノ口から幕内までは、6つの段(階級)があるが、全ての段で優勝しているのは、羽黒山政司と栃東大裕の2人だけである。
6 羽黒山政司
 羽黒山政司(1914〜1969)は、新潟県新潟市出身の36代横綱。筋肉質の堂々たる体、その怪力で堅実な相撲を見せた。今年が生誕100年にあたり、郷土では記念行事が行われている。
7 栃東大裕
 栃東大裕(1976〜)は、東京都足立区出身の大関。おっつけを武器に、相手を下から押し上げて出る相撲を得意とした。現玉ノ井親方。父は栃東(元玉ノ井)で、史上2組目の親子幕内優勝を果たしている。
優勝決定戦
 昭和21年(1946)秋場所の興行成績が思わしくなかったことを受けて、相撲協会の首脳部は報道関係者との懇談会を開催して、相撲興隆のための意見を募った。そこで提案された事柄の一つに「優勝決定戦」があり、昭和22年夏場所から導入。早速その場所の幕内では横綱羽黒山、大関前田山、大関東冨士、前頭8枚目力道山が9勝1敗で並び、4人によるトーナメント戦が行われ、十両・幕下・三段目・序二段も決定戦となった。優勝争いに新たな興味を呼ぶこととなった。
8 昭和22年(1947)夏場所優勝の羽黒山
 羽黒山は、優勝決定戦でまず力道山に勝ち、続いて前田山を破って3連覇を達成した。
9 優勝決定戦 くじ引き
 3人以上の優勝決定戦の場合、土俵下でくじを引いて対戦相手を決める。
 平成26年(2014)5月場所の十両は11勝4敗で4人が並んだ。くじ引きの結果、青狼と鏡桜、逸ノ城と琴勇輝の対戦と決まった。勝った鏡桜と逸ノ城が対戦し、逸ノ城が寄り切って新十両での優勝を果たした。

展示解説のお知らせ

日時9月13日(土)の14時から
参加ご希望の方は相撲博物館展示室までお越しください。
 

次回の展示

相撲博物館開館60周年記念展「館蔵名品と60年の歩み」

展示期間平成26年(2014)10月21日(火)〜12月24日(水)

 相撲博物館は、今年開館60周年を迎えました。昭和29年(1954)に開館した蔵前国技館に創設され、昭和60年の両国国技館の落成に伴い移転し、現在に至っています。日本が誇る文化の一つとして、相撲に関する資料を収集、保管、展示するとともに、調査・研究などを行い、大相撲普及の一翼を担う施設として活動してきました。収蔵資料は、初代館長を務めた酒井忠正のコレクションを基礎に、多くの方々の寄贈などにより、現在約30,000点を数えます。
 60周年という節目にあたり、収蔵資料の中からこのところ相撲博物館での展示機会が少なかった化粧廻しや錦絵、絵巻などの名品を展示するとともに、60年の歴史を振り返ります。

1 相撲博物館展示室
 相撲博物館は、昭和29年(1954)9月18日に落成した蔵前国技館に設立。昭和60年1月9日、現国技館の落成に伴い移転して、現在に至っている。
 公益財団法人日本相撲協会の直属機関で、相撲文化向上、発展に寄与することを目的とし、相撲に関する調査・研究、展示、資料の収集・保管などの事業を行っている。
 収蔵資料は、錦絵をはじめとする美術、人形、化粧廻しや力士の書などの歴史、番付、勝負付、星取表、書籍、雑誌、新聞、写真の10分野、約30,000点であり、その多くは初代館長酒井忠正のコレクションによる。特に相撲の錦絵は、約3,700点を数え、世界一の収蔵数といわれている。
 展示室は国技館1階にあり、広さは186.3㎡。展示室が1室のため、常設展示はなく、年6回の企画展を開催。相撲の歴史や相撲を題材にした美術、相撲界についてなどの展覧会を通じて、日本の文化の一つとして相撲を紹介。相撲普及の一翼を担う機関として活動している。
2 蔵前国技館正門
3 蔵前国技館の相撲博物館展示室
 昭和29年(1954)9月18日、蔵前国技館が落成。その正門に相撲博物館が設けられた。敷地は392㎡、展示室は2階で136㎡だった。
4 釈迦ケ嶽雲右衛門と女  磯田湖龍斎(生没年不詳)画
 磯田湖龍斎(いそだこりゅうさい)は、明和から天明にかけて活躍した絵師で、美人画、花鳥画を得意とし、柱絵(家の柱に掛けるために細長い紙を使った絵)の傑作を多数残した。
 釈迦ケ嶽雲右衛門(1749〜1775)は、巨人力士(227㎝、180㎏)として有名で、釈迦ケ嶽の大きさを細い画面を使うことで巧妙に表現している。
5 大空武左衛門 牛跨の図  渓斎英泉(1791〜1848)画
 渓斎英泉(けいさいえいせん)は、菊川派の絵師。妖しさをたたえた独特の美人画を描き、幕末の頽廃美を象徴する存在となった。滑稽本など文筆業でも活躍した。
 大空武左衛門(1796〜1832)は、227㎝、130㎏の巨人力士。牛を跨ぐほどで別名「牛股」といわれた。相撲を取ることはなかったが、その登場は大きな話題となり、多くの錦絵が残っている。
6 土俵入の図  池大雅(1723〜1776)画
 池大雅(いけのたいが)は、江戸時代中期の文人画家、書家で、のびのびとした明るい画風を見せた。障壁画を始め多くの作品が残る。
 寛延3年(1750)の作品。京都で暮らしており、京都相撲や大坂相撲を見て描いた可能性がある。
7 鴨川角觝図絵巻より  河村文鳳(1779〜1821)画
 河村文鳳(かわむらぶんぽう)は、岸駒(がんく)に師事した岸派の絵師で、人物や山水画を得意とした。
 京都鴨川の二条河原での相撲興行の様子を描いた絵巻で、多くの観客を集めた相撲場から、その盛況がうかがえる。
8 『相撲隠雲解』 式守蝸牛(かぎゅう)(1739〜1822) 著 寛政5年(1793)
 式守蝸牛は、初代式守伊之助を名乗った行司で、蝸牛は隠居号。膏薬「相撲膏」の販売をし、長らく子孫が受け継いだ。
 この書は、相撲の起こりから相撲節会といった歴史、四十八手や技の解説をはじめ、当時の大きなできごとである寛政元年(1789)の横綱免許、寛政3年の11代将軍徳川家斉の上覧相撲についてなどが記されている。
9 江戸相撲番付 安永5年(1776)10月
 番付は、力士の地位を記したもの。力士の履歴や興行の規模などを知るための基本資料となる。
 江戸相撲は、宝暦7年(1757)10月から1枚の紙の右側に東、左側に西を配した番付を発行した。これが現在にも受け継がれている。
10 大坂相撲番付 安永5年(1776)5月
 大坂相撲や京都相撲の番付は、明治時代に入るまで、東と西が別々の横長の紙2枚で構成されていた。
 大坂相撲や京都相撲の研究は、まだ十分に進んでいないが、江戸で2回、大坂で1回、京都で1回という江戸時代の興行形態を考える上で、番付や勝負付などの資料を読み解く必要があると考えている。

展示解説のお知らせ

日時12月6日(土)の14時から
参加ご希望の方は相撲博物館展示室までお越しください。

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