以下、その報告書(甲185号証の 2)の目次部分を掲載して、掲載ページへのリンクも付けたので参考にして頂きたい。
甲185号証の2 目次部分
(本記事で紹介するのは、下記赤字部分)
序文
1) 日本の国際的義務違反
>> 宗教の自由 (ICCPR(市民的及び政治的権利に関する国際規約)第18条)
>> 個人が自由及び安全保障を享受する権利 (第9条) 及び移動の自由 (第12条)
>> 拷問その他の虐待の対象とならない権利 (第7条)
>> 結婚し家庭を築く権利(第23条)
>> 有効な救済を享受する権利 (第2条)及び 差別を受けない権利(第26条)
2) 拉致・監禁及び 強制的脱会カウンセリング(ICCPR 第7、9、12、18 及び 23条違反)
>> 親の当然の心配から拉致決定まで
>> 拉致監禁の実行
>> 強制的脱会カウンセリング
>> 拉致監禁の結果
>> 12年5ヶ月にわたり監禁された後藤徹氏の場合
3) 被害者保護に対する警察の失敗 (ICCPR第2、18及び26条違反)
>> 警察が対応を渋った事例
>> 警察が被害者への語り掛けを怠った事例
>> 警察の介入が拉致被害者の解放に役立った事例
>> 警察が加害者側に味方した事例
>> 統一教会員が警察を信頼できなくなった事例
4) 刑事免責の継続 (ICCPR第2、18及び26条違反)
>> 加害容疑者に対し刑事訴訟が為された事例が皆無
>> 民事訴訟
勧告事項
以下、甲185号章の2 第二章:
(読みやすくするため、段落間に行をあけたり、見出しをカラーにしたり、枠をつけたり等の作業を行いましたが、文章自体は、裁判所に提出された原文のままです。)
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2) 拉致監禁及び未承諾の脱会カウンセリング
(ICCPR第7、9、12、18及び23条違反)
本章では、HRWF の研究者たちが日本における棄教目的の拉致監禁及び未承諾の脱会カウンセリングについての研究の際に観測してきた主要なパターンを紹介し、被害者とその親及び「脱会カウンセラー」の正体に関する疑問を取り上げ、被害者たちが受けてきた拉致のプロセス及び監禁の性質に関するさらなる情報を提供している。数多くの事例において被害者の親その他の近い親戚、家族の友人及び「脱会カウンセラー」によって実行された行為に関連してICCPR第7、9、12、18及び23条に対する違反が行われてきたとHRWFは見なしている。
>> 親の当然の心配から拉致の決定へ
家族の一員が新たな宗教に回心するとその改宗者が根本的にその生き方を変えることになり得るため、そのことはその家族全体にとって深刻な意味合いを持ち得る。それゆえ親や配偶者は愛する家族が統一教会やエホバの証人といった新宗教運動のメンバーから影響されることを恐れることが多く、そういう彼らの恐れはこれらの団体に関する否定的なマスコミ報道や統一教会が使っていると言われている洗脳という技法について直接間接に聞かされると益々増大することが多い。親たちはまた、新宗教運動に加入した子供が金銭的に搾取されているのかも知れないという不安を抱いている。
エホバの証人の場合、一方の配偶者が回心すると多くの場合その夫婦間における摩擦が招来されてきた。エホバの証人の拉致事件の大部分は妻の回心を受け入れていない夫によって実行されてきた。
統一教会では最初は主に成年に達した大学生を回心させ、今でも多くの青年を回心させている。統一教会に回心した青年の親たちは自分の息子娘が統一教会に入会した後に経験した変化に衝撃を受けることが多い。ほとんどの日本人と同様、親たちは自分たちを無宗教と見なしているが、しかし社会的な仏教及び神道の慣行の一部には参加している(注13)。多くの場合、新しい回心者は寮に引っ越し信仰仲間と共同生活をするようになる。統一教会における慣行として文師が信徒男女を将来の結婚に向けて組み合わせることで、同教会の教理によると、文師夫妻が信徒たちの「真の父母」(注14) となるが、このことは生みの親にとっては特に試練となりかねない(注15) 。 生みの親はこれを自分の子供との血の繋がった関係の剥奪であり、彼らの子供の自由な意志の喪失であり、一種の心理的征服と理解される可能性がある。実際に多くの場合に拉致被害者は、他の統一教会員と婚約することになっていたか、或いは既に宗教的には結婚していたものの法的な登録が未だ為されていなかった青年男女であった。
統一教会員N.I.は2012年前半に両親によって4ヶ月にわたり無理やり監禁された。彼女は3月24日に韓国で行われた国際合同祝福結婚式に参加することになっていた。彼女はHRWFが入手した説明の中で「私は祝福結婚式に参加する機会を奪われたことがとても残念です。明らかに私の両親は私が祝福結婚式に参加するのを妨害するという目的もあって私の監禁を企てたのです」と回顧している。
多くの親たちは途方に暮れ、新宗教運動の元信者や牧師、カルト専門家、反カルト活動家やその関連といった相談できる相手となる団体や個人を探してきた。彼らは不安の解消を求めた末に「脱会カウンセラー」たちに出会い、それらから誘われるままに勉強会に参加し、そこで似た状況に置かれた他の親たちと知り合い、問題の宗教運動に加わったメンバーが晒されてきたとされる危険性について聞かされる。実際、「脱会カウンセラー」たちは自分から統一教会員の親を探し出して接触してくることがよくある。「脱会カウンセラー」たちは多くの場合、未承諾の脱会カウンセリングに従い自分の信仰を放棄または偽装放棄した拉致被害者を促して統一教会信者の名簿を用意させる。「脱会カウンセラー」のほとんどはプロテスタント教会(注16) の牧師や平信徒であり、その中には回心者の家族の不安を、異端と闘う為の、そして多くの場合は新しい会員を獲得する為の機会として利用している。
「脱会カウンセラー」たちの話は親たちの心に一層の不安を吹き込み、他の親が拉致監禁によって子供を脱会させるのに成功したという話を聞かされると、拉致を含む如何なる手段によっても愛する子女を「救出」しようと思わせられるようになる。こうして家族は徐々に、子女を拉致し信徒仲間から隔離して強制的に説き伏せて脱会カウンセリングして棄教、そして時には別の宗教への改宗へと導く以外に他の選択肢はないと確信させられるが、その別の宗教というのは通常は福音主義のプロテスタント教会である(注17) 。
説得のプログラムには聖書のプロテスタント的解釈が含まれ、聖書に関して標的とする宗教運動の教理上の矛盾や誤謬とされる点に焦点が当てられるが、こういうやり方は、もしそういうプログラムへの参加が自由意志によるものである限りにおいては「宗教の自由市場」という立場からは合法的であり、表現の自由に準拠するものと見なし得るかも知れない。しかしながら、そのプログラムを受け入れ棄教を勧める行為が個人を監禁して強制する状況下で行われるなら、それは国際的な人権擁護の基準から見て決して容赦されるものではない。
1994年に元統一教会信者からプロテスタント教会に転向した後2002年に死去した田口民也(タグチ・タミヤ)が出版した著書『統一協会:救出とリハビリテーション』は親たちをして宗教的デプログラミング目的の拉致監禁の実行を奨励した。この本には、拉致実行の為の親戚の動員、アパート探しと監禁条件への適合、賃貸契約、家庭用品の選択(どういうものを選び、どういうものを避けるべきか)、食事、警察が訪ねてきた時の対応といった、「救出作戦」の各段階について詳細な奨励が行われている。こういう書籍やマニュアルが出版されることは、かかる不法行為を幇助し扇動する行為と見ることができる。
A.Y.は環境科学分野の博士号を持ち、日本で著名な研究所で働いていた。2011年1月1日に拉致された彼女はHRWFに次のように証言した:
私の母が監禁後に私に語ったところによると、彼女は日本基督教団 (注18) の新宿西教会を訪問し、いわゆる「マインドコントロール」研究に従事してきた西田公昭を訪れたそうです。彼女は脱会カウンセラーの宮村峻と4回の相談の時間を持ったと言っていました。私の家族のようなありふれた家族の一例として、私の母は子供を誘拐し監禁するなどという考えは決して自分からは思いつかなかったはずです。
自分の息子娘の拉致監禁について証言しようという親を見つけるのは容易ではないが、両親その他の親族に3回拉致監禁されたことのあるS.A.の父親であるK.S.は第三者によって彼らがどのように精神的に準備させられたのかについてHRWFに証言した(注19) 。
私と妻とは別に宗教的ではなく、ほとんどの日本人と同様、たまに仏教的しきたりに従ってきただけでしたが、勧めらめられるままにキリスト教会主催の東京都内の麻布での統一教会反対父母の会の集会に何度か参加しました。その後私たちは車で片道3時間かかる新潟県の新津市内にある或るプロテスタント教会に週末毎に通い、反統一教会学習会に参加しましたが、そこには私たちと似た事情を抱える親たちが通常50〜80人来ていました。学習会の内容は、子供に自らの誤りを説得するのに役立たせる為という聖書学習、子供を統一教会から離教させるのに成功した親の証し、そして救出作戦実行についての指示事項でした。私たちが実行を決断すると、その牧師と個別の会合が持たれましたが、彼は私たちに親戚や友人を動員し手伝わせるよう指示し、手配・段取りに関するありとあらゆる厳重な指示を出しました。私たちは、脱会説得計画に成功し娘を統一教会から離教させたという人からアパートを借りました。
(注13)本人は普通、新年には神道の儀式を行い、結婚式は基督教式か神道式で、葬式は仏教式で行う。
(注14)統一教会の教理によると、「真の父母」の概念は文師夫妻が「精神的な父母」となることを意味する。
(注15)2012年の文師の聖和以来統一教会はこの役割を果たしてきた。
(注16)ジャーナリストの米本和広氏によると、この現象が起こり始めて最初の20年間は、或る特定の教派の200名前後の牧師が新宗教運動からの棄教及びプロテスタント教会への改宗目的の「保護説得」及び「強迫的或いは強制脱会説得」に関与していた。様々な理由(年齢、訴訟される可能性、この問題についての否定的な評判、彼らの説得技法に原因する心理的ダメージの自覚)からその数は顕著に減少し、今でもまだこういうことに従事しているのは12名に過ぎない。
(注17)「脱会カウンセラー」は拉致や監禁あるいはデプログラミングといった恐ろしい用語を避け、運動からの「救出」、「後見」「保護」「説得」「家族の話し合い」といった、より柔らかくて社会的に受け入れやすい用語を用いる。こうすることで彼らは不法行為を介入または扇動したという告訴を受けずに済み得るからである。
(注18)日本基督教団の英語名はUnited Church of Christ in Japanで、略字はUCCJ
(注19)彼女は1983年には1週間(脱会したフリ)、1993年には2ヶ月(脱出)、そして1995年には2ヶ月(偽装脱会)と、3回自由を奪われたが、しかし棄教させられなかった。
>> 拉致監禁の実行
拉致の段取りは念入りに準備されなければならない。親や夫その他の近い親族が慎重に監禁施設の場所を選び、来るべき状況に備え適応させ、監禁される人が外から見えたり聞こえたりしないように、外部の世界と接触できないように準備する。ほとんどの場合、アパートは反カルト活動家の支持者や自分の子供を棄教させるのに成功した別の家族から借りられる。
親や親戚は数週間から数ヶ月、例外的な事例では何年間も、いつ終わるとは知れない期間にわたり昼夜を分かたず番人の役割を務める心構えができていなければならないが、しかし、こんなことをし続けるなら仕事に差し支え、或いは仕事を止めなければならなくなってしまう。
1994年に神戸地方裁判所に提訴された第1732号裁判(「青春を返せ」裁判 《注20》 )では、統一教会側の弁護士が「脱会カウンセラー」の役割を演じた独立系のプロテスタント教会の高澤守牧師に次のように尋問した:
問:子どもは命がけで信仰してるんだから、救出するために親も命がけでという指導はされているんでしょうか。
答:はい。それは、私、申し上げます。
問:それから、子どもを救出するためには仕事をやめる覚悟も必要という指導もされてるんですか。
答:時によっては、悲しいことですけれども、そういうことになる場合がございますね。
問:時によってはじゃなしに、まあ何カ月もかかりそうだというんであれば、もう常にそういう必要があると
いうことですね。
答:それは親御さんのほうが、やはり仕事よりも子どもの命が大切だというふうに、皆さん捉えられますので、こちらがことさら申し上げなくても、自然と親のほうが、真剣な目で判断をなさっていく、こういうことが現状ですが。
統一教会員の場合、通常その拉致を計画した場所に彼らを誘き寄せる為に使われる手口は、親元への帰省、レストランや家族のイベントへの招待という口実を使ったやり方である。拉致監禁は通常は親だけでは実行されず、他の近い親戚や友人といった何人かの人々を参加させる必要がある場合が多い。或る事例では親が拉致実行の為に暴力団員を雇ったという報告もある(以下参照)。
2010及び2011年にHRWFが行った事実調査中に何人もの被害者がHRWFに自らの体験について詳細に語ってくれた。例えば或る統一教会員の場合、その拉致は他の多くの統一教会員の拉致と類似の方法で行われたが、その体験談を匿名で語ってくれた:
私は2011年1月1日に実家に帰りました。私たちは多くの日本人がするように、近くの神社に初詣に行き、その日の夜に、父が私の新しい信仰について話し始めました。突然、リビングに伯父、叔母、生物教師、男性の保育士がぞろぞろと入ってきて、私は彼らに取り囲まれました。私は机に置いてあった携帯電話を手にしました。私が抵抗すると、彼らはますます力強く私の両腕を押さえ、その間に姉が携帯を無理矢理もぎ取りました。私は叫び始めました。寝る前の姿だったし、着替えたいと言いましたがダメでした。腕をがっしりつかまれながら、玄関から出ると、見たこともない黒い車がとめられていました。私はその中に押し込まれました。私の乗っていた黒い車の前には、白い車が走っており、そこには姉と生物教師が乗っていたようです。車はエスポワール白川という4階建てのマンションの前に止まりました。この時、だいたい午前1時半頃であったと思います。私は周りを取り囲まれながら、階段を上がり、3階の部屋に連行されました。
HRWF には拉致が例外的な状況下で行われた幾つかの事例も紹介された。例えば吉村正(ヨシムラ・マサシ)は彼の親が雇った暴力団まがいの集団に拉致されたとされている。
京都大学工学部土木科を卒業し武道の心得もある吉村正がHRWFに語ったところによると、1987年に彼の母親が統一教会反対父母の会に勧められままに北海道の会という暴力団まがいの集団から人を雇い息子の拉致を実行した。彼の回顧によると:
私は白昼堂々と路上で拉致されました。4人の男性により両手両足をつかまれ、無理矢理タクシーに乗せられて、手錠を掛けられて、そのまま名古屋にある空港に連れて来られました。そこでセスナ機が私たちを待っていました。私は北海道に連れて行かれ、北海道の会の建物に2カ月半閉じ込められました。私の滞在中、2人の拉致被害者のために他の部屋が借りられていました。幸い、私は脱出することができました。私はこの失敗した試みのために、両親がどのぐらいのお金を支払ったのか想像もつきません。私は刑事告訴をしましたが、検察は不起訴処分としました。
富澤裕子(トミザワ・ヒロコ)が拉致された方法も特殊で、彼女の親族と幾人かの私立探偵と反カルト活動家が武器をもって教会を襲撃するという方法であった。
1997年6月7日午後2時、元警察官である私の父、親戚、5人の私立探偵、および反統一教会グループのメンバー(総勢約20名)が、スタンガン、鉄パイプ、チェーンなどの武器を携行して鳥取統一教会を襲撃しました。集団は玄関ドアのガラス部分を損壊し、ドアの鍵を開け、教会業務を妨害し、4名の教会員に暴行傷害を加え、私を拉致しました。私はワゴン車に押し込まれて連れ去られました。
しかし、彼らは私をすぐに大阪には連れて行かず、四国を迂回して、鳴門にあるリゾートマンションの高層階に私を3日間監禁しました。
6月10日午後10時過ぎ、私は手錠を掛けられ、部屋を出てワゴン車に担ぎ込まれました。私たちは淡路島を経由してフェリーで大阪に渡りました。6月11日、私は大阪市に到着し、そこでマンションの10階の一室に監禁されました。
HRWF には、統一教会に所属する夫婦が二人とも同時に両方の親たちによって拉致されるという事例も報告されている。
1996年9月22日、T 夫妻は実家の法事に参加した後で親戚宅を訪ねた。T 夫人はHRWF は次のように語った:
親戚宅でお茶を出していただき、ひと息ついているところに、部屋のふすまがサーッと開き、驚いたことに私の親族ばかりでなく、夫の親族も出てきて、私と夫は、別々のワゴン車に乗せられ、監禁場所に連れて行かれました。私は、抵抗するにも力ずくでは難しく、夫の名前を叫んでいましたが、私の声は届きませんでした。とても衝撃的でした。
統一教会員の場合、拉致された後は通常、監禁場所に連れて行かれる。日本ではその自由剥奪の期間は数日から数ヶ月、時には1年以上に及ぶこともある。最も極端な事例は、家族によって12年間以上監禁された統一教会員の後藤徹氏のケースである。
HRWF の注目を引いた一事例としては、1997年に妊娠中の統一教会員が妊娠8ヶ月に至るまで3ヶ月間監禁され、彼女は棄教したという条件でやっと解放された。
韓国で夫と暮らしていたY.H.は1997年8月に妊娠5ヶ月の身で日本の実家に帰省した。彼女は実家に到着して最初の夜に数人の親戚に拉致され、新潟市内のアパートに閉じ込められた。監禁期間中の彼女の体験を綴った供述書が日本統一教会からHRWFに提供されているが、その中で彼女は、「アパートの入り口のドアにはチェーンロックの上に補強に鎖がかけられ、それにさらに南京錠がかけられていました。どの窓も全て特殊な鍵でロックされて中からは開けられなくなっており、外から中が全く見えなくする為にガラスには特殊なフィルムが貼ってありました。寝室のドアは中から鍵がかけられないように改造されていました」と回想している。
その報告によると、新津福音キリスト教会の松永堡智(マツナガ・ヤストモ)牧師と何人かの元統一教会信者が定期的に彼女のもとにやって来ては、彼女本人には「侮辱的・攻撃的」と感じられた、未承諾の脱会カウンセリングを続けた。彼女は監禁期間中ずっと胎児のことが心配で悩まされ、「私は妊婦がストレスを感じると、子宮の中の胎児はその何百倍ものストレスに悩まされると知っていたので、私が発狂でもしようものなら胎児がどういうことになるのか悩まされました」と回想している。
特に彼女が驚愕させられたのは、看護士である従兄弟から「ここで統一教会の誤りに気づいて妊娠中絶を決心しても、既に妊娠5ヶ月を過ぎているので通常は医者から拒否されるけれども、(看護士である)私が特別にお願いして誰か中絶手術をしてくれる医者を見つけてあげる」と言われたことだったという。
松永牧師は11月中旬に彼女にこれ以上統一教会には行かないという声明文を作成し統一教会の教理と実践についての全ての間違いのリストを送り付けるよう強要した。彼女は不本意ながら自分自身と胎児の生命を守る為に仕方なくその指示に応じ、その結果、彼女は11月末に解放された。但し彼女はその解放後も統一教会の信仰を保ち続けた。
HRWF には、拉致被害者たちが親族によって殴打されたり、床に投げ倒されたり、とびかかられたり、或いは何度も枕で窒息させられたとされる報告が寄せられている(注21) 。
2000年7月に数日間監禁された統一教会員R.H.(女性)は、日本統一教会からHRWFに提出された拉致監禁体験の報告の中で、彼女が監禁されていたアパートから逃亡しようと試みた後に父親に「床に投げ倒され、飛び掛かられました。私は逃亡できなくて絶望感に満たされた上に、自分の父親に暴力まで振るわれて衝撃を受けました」と回想している。
寺田こずえは2001年12月に両親によって監禁された。彼女は12月に誰か近くを通りかかった人が見つけて警察に届けてくれること期待して救出を求めるメモ書きをアパートの外に密かに送り出すことができた。すると実際に12月19日に一人の警察官がやってきてドアの外に立ってノックしていたので、その間に彼女は何度も繰り返して「助けてください!私は不法に監禁されています!」と叫んだ。
すると彼女の両親はすぐに手で彼女の口を塞ぎ、部屋の奥に彼女をひきずっていったという。彼女は「私が助けを求めて叫び続けると、母は力一杯両手で私の頭と顔を6〜7回殴り続けました。それでも私が黙らないので、今度は父が掛け布団を持ってきて私の全身を被い、畳の床に押さえ付けて身動きできなくし、私の体の上に乗って口を塞ぎました」と付け加えている。彼女はその結果、頸部捻挫および両仙腸関節炎を患い、強制監禁から解放された後に約1ヶ月にわたる治療をしなければならなかったという。
HRWFが入手した一報告によると、両親によって2,005年、2006年、2010年の3回にわたり拉致監禁された一統一教会員は「エスカレートして身体的虐待にまで至ることが何度もありました。私は姉に背中を殴打され、髪を掴まれ、引きずり回されました」と述べている。
親は自分の子供の為なら愛情ゆえに大金でも払う用意がある。ワゴン車を借り、いつまで続くとも知れない監禁用のアパートや家を借りて改造するには、かなりの大金が必要である。HRWF が2011年と2012年の事実調査中に集めた証言によると、親たちはその(拉致監禁の)活動の為に「脱会カウンセラー」たちに金銭を支払っており、2013年6月には一人の「脱会カウンセラー」が初めて裁判所の法廷でそのサービスの対価として親たちから金銭を受け取ったことを認めたが、その支払われた金額については HRWF では検証できていない。2013年6月17日、「脱会カウンセラー」である宮村峻は東京地方裁判所で統一教会員の親から20〜30万円を受け取ったと述べているが、(注22) HRWFがインタビューした拉致被害者たちからは400万円から1,000万円という金額が報告されている(注23)。
(注20) 統一教会を脱会した多くのメンバーが反統一教会活動家またはカウンセラーの助言により統一教会に入って失った何年かを失ったことに対し経済的損害賠償を申し立てる提訴した。いわゆる北海道の札幌から始まった、統一教会員によって行われた伝道活動は不法と訴えた「青春返せ賠償裁判」である。これらの裁判は霊感商法反対弁護士連合会によって主導されたが、それは統一教会に反対する事例を専門的に扱ってきた300名前後の弁護士の集まりで、彼らにとってこういう裁判は重要な収入源であった。札幌の裁判は1987年から2001年まで14年間続けられた。必ずしも全てではないが、ほとんどの場合、訴えた側が賠償を勝ち取ってきた。
(注21) 様々な場面で親族によってほとんど窒息死させられるそうになったと訴えている以下の後藤徹氏の事例を参照。
(注22) 英語の原文では、本報告が書かれた2013年時点での換算レートでユーロによる金額が表示されている。
(注23) 各々6ヶ月と29ヶ月の2度にわたり拉致監禁された美山きよみによると、「脱会説得屋」の宮村峻が「カルト会員」救出の為に受け取る代金は500万円近くに及んだ。ハラ・サユリによると、彼女の両親は定期的に牧師と「脱会カウンセラー」に一定の金額が入った封筒を手渡していたが、彼女は 両親が或る叔父から400万円近くを借りていたことが母親の手帳に記されているのを見つけている。非公式ながらジャーナリストの米本和広氏は警察からその平均の金額が400万円であると聞かされたことがある。同氏が或る反統一教会派の牧師から聞いた話では、何らの宗教的動機付けを持たない(=単に商売として強制脱会説得に従事している)或る「脱会カウンセラー」 は子供への心配から縋る思いで頼ってくる或る母親に拉致監禁を薦めた時に「1,000万円の報酬でどうか」と持ちかけたという。
>> 強制的な脱会カウンセリング
HRWF に知らされた多くの拉致事例においては、統一教会員の親たちは「脱会カウンセラー」が息子娘の信仰を棄てるよう説得する為に訪ねてくるように手配している。多くの場合、彼らは相手(統一教会員)が望むと望まざるに関係なく定期的にやって来るが、時には棄教に役立てる為に元統一教会信者を伴って来ることもある。数多くの事例において「脱会カウンセラー」は自分たちが説得行為をしている間、その監禁場所に出入りする際に異常なまでに厳重な監禁道具が目に入らないはずがないという理由からも、相手の被害者が自由を剥奪されていることを充分に気づいていたと考えられる。HRWF が数多くの拉致監禁被害者から得た報告には、被害者を訪れて来る「脱会カウンセラー」たちはその若い被害者男女が監禁されていることを間違いなく知っていたはずだと供述されている。
2001年に拉致され大阪にあるアパートに監禁された寺田こずえはHRWFに提出した供述書の中で次のように回顧している:
2001年10月29日朝、叔父と妹らが仕事のためマンションから出て行き、父と叔母ら3人が私の監視役として残りました。
同日午後2時頃、キリスト教神戸真教会の高澤守牧師がマンションに来ました。私は高澤に対し、『これは監禁です』と抗議しました。高澤もこれを認めて『そうです。これは監禁です』と答え、『でも、お父さんやお母さんも監禁されているんですよ』と言いました。高澤は『頼まれて話し合いをしている』と主張し、2時間ほど滞在して統一教会の教理批判をしていきました。
10月30日午後2時、高澤が部屋に来ました。高澤は、私の意思を無視して対話を強要し続けました。私は『ここに居たくないので警察に電話します。携帯電話を貸してください』と言って手を差し出しました。すると高澤は感情的になり、『どうせ警察が来ても、統一教会のことだと分かったら「じゃあ頑張ってください」と協力してくれる』と言いました。高澤は財布から警察の名刺を5、6枚出し、『私は警察と付き合いがある』と強調しました。
2011年に統一教会員A.Y.が拉致された別の事例についてHRWFが入手した監禁に関する供述書の中で彼女は、一人の「脱会カウンセラー」と2人の元統一教会信者が彼女に統一教会と文師に関する批判を聴くよう強要したと述べている。その報告によると、その「脱会カウンセラー」は彼女に「満場一致でうなずいたら、解放しますよ」と言ったという。彼女は「私がその部屋から解放されるか否かは彼が決定権を握っていることが分かった」と付け加えている。
自由剥奪の場面に「脱会カウンセラー」が共犯者として連座していることは幾つもの民事裁判事例でも明らかに証明されている。
例えば神戸地裁1994(平成6)年1732号事件(青春を返せ訴訟)の記録によると、統一教会側弁護士が「独立系」プロテスタント教会の高澤守牧師に対し監禁された統一教会員が逃亡を試みた事例(いわゆる岡本事件)に関連して質問している:
問:(弁護士)そういう拘束場所をね、あなたのほうで世話することはあるんですか。
答:(牧師)やむを得ず、状況によってご紹介するケースはあります。
問:それから救出には親戚の協力も必要だという指導もされてるわけですか。
答:はい。
問:親戚を多数集めなさいというような指導。
答:そうですね。(…)
問:それから拘束の順番が回って来たときですね、その拘束の日程とか、これは事前に綿密に打ち合わせをするわけですか。
答:その日程というのは、どういう意味なんでしょうか。
問:だから何日に信者本人が、たとえば自宅に帰って来るから、それに合わせて親戚を集めて、それから拘束場所のマンションを、それまでに手配してとかいう綿密な打合せはしなきゃいかんのじゃないですか。
答:それは、ご家族で当然なさることです。
問:それに対して、あなたも関与してるんじゃないですか。
答:それは仕方がないことだと思います。ですから渋々それを理解する、了解するという、こういう形ですね。
同じ裁判の議事録には、統一教会側弁護士と高澤守牧師の間の次のようなやりとりが記録されている:(注24)
問:これは、飛び降りたんですか。
答:これは飛び降りたんではなくて、逃げようとしたんですけれども、家族がですね、そこへ駆けつけて、そして中に引き戻そうとする時に、何と言うんでしょう、もみ合いになって、そのはずみで落ちてしまったということですね。
問:脱出しようとして大けがをしたということですね。
答:そうです。
問:脱出しようとしたというのは、説得を受けるのがいやだったということですね。
答:そういうことですね。
問:で、自由になるためには、普通に玄関から出て行くという、そういうことができる状態ではなかったということですね。
答:そうです。
献金問題を扱った前橋地方裁判所高崎支部の1993(平成5)年458号事件で、日本基督教団の清水与志雄牧師は強制監禁状態下での脱会カウンセリングに自らが関与したことを認めた:
問:(弁護士)あなたが脱会の説得を手掛けたのは何人くらいおられますか。
答:(牧師)名前が思い出せるだけで、50人以上はいるんですけれども。
問:あなたが説得するときには、信者をどこかの場所に監禁して説得するわけでしょ。
答:私がするんですか。
問:監禁はしていないと、こういうことですよね。
答:監禁の定義はどういう定義でしょうか。
問:窓にかぎをかける、靴を隠すとか、そういったことで、あるいはずっと見張っているとか。
答:そういうことはあります。
問:そういうことをやらなければ説得できないんですか。
答:できない場合もあります。
(注24) この尋問も1996年5月21日に行われた
>> 拉致監禁の結果
信者に対する拉致監禁の結末は様々である。棄教(と見な)した後に拉致実行者により釈放、脱会説得の失敗、外部者による解放、被害者の脱出といった事例がHRWFに知らされている。中には同じ被害者が2度3度と繰り返し拉致される事例もある。
アクロバット的脱出劇
最短時間(24時間)の監禁と最もアクロバット的な脱出という記録を保っているA.Y.はHRWFに次のように語った:
2011年1月3日の午前2時40分頃、父母と姉が寝静まったのを見計らい、細心の注意を払いながら、私が寝ている部屋と姉が寝ている部屋を仕切るふすまの戸を閉め、自分のハンドバッグを持って、ベランダのガラス戸を開けました。3階のベランダへ抜け出ると、手を伸ばして届くくらいの距離に電信柱がありました。私はベランダの柵をまたいで手を伸ばして電信柱のくいをつかみ、何とか電信柱に乗り移ることができました。電柱のくいをつたって降りましたが、あわてていたため最後はどさっと尻餅をついて道路に落ちてしまいました。アパートはとても飛び降りることのできる高さではなく、もし、足を踏み外して落下すれば、大変なことになっていたと思います。
婚約者と弁護士によって監禁から救出された女性信者
2009年に当時29歳だったH.K.は両親によって拉致され、車で遠方に連れて行かれ、そこで2ヶ月間監禁されて脱会カウンセリングを受けた。その間に彼女の婚約者や教団の仲間たちが私立探偵の助けを借りて彼女を捜索し、ついに監禁場所を突き止め、弁護士を伴ってそこを訪れた。彼女はHRWFに次のように語った:
ベルが鳴って、父が戸を開けると、聞き覚えのある声がするではありませんか。婚約者と教会の方々、それに弁護士さんが玄関の外に立っていたのです。そして私が自分の意思に反してこの場所にいるのかどうか尋ねてきました。『はい、そうです』と答え、彼らと一緒にアパートを後にしました。私は本当に嬉しかったのです。その後に両親に連絡を取ろうとしましたが、電話にも電子メールにも手紙にも一切応じてくれませんでした。悲しいことです。
2度の拉致:エホバの証人の女性信者Y.K.の場合
Y.K.は当時働いていた店の近くで親に拉致された。最初は1998年のことで、3日後に実兄が教団関係者に通報した結果、彼女は解放された。1999年に2度目の拉致をされたが、その時は早朝4時45分で、車で2時間の場所に運ばれ、そこに4ヶ月間監禁されたが、脱出に成功した.
拉致監禁被害者の精神的影響
多くの拉致被害者が拉致監禁及び棄教強要の結果としてPTSD(心的外傷後ストレス障害)を経験してきた(注25) 。
2004年に池本桂子 (注26) 氏と中村雅一氏 (注27) は、『法と精神医学の国際誌』(International Journal of Law and Psychiatry) (注28) に、「宗教からの強制的ディプログラミングと精神衛:PTSDの事例報告」を発表した。その中で被害者(匿名)とされたのはエホバの証人の32歳の女性信者で、本人にも家族にも精神病歴はなかった (注29) 。彼女は家族に拉致され20日間単独で監禁された。彼女が経験した心的外傷後ストレス障害について、こう書かれている。
監禁からの解放後に自宅に戻ったが、精神科医に中度から重度の鬱(うつ)状態と診断された。彼女は単独でいることを怖がり、友人宅に3週間滞在した。また自転車に乗るのを怖がり、物音に敏感に反応し、誰かが牧師と同じような話し方をするのに耐えられず、不安と不眠を訴え、夜中に手足を縛られる感覚を覚えた。彼女はまた棄教したことに罪悪感を抱き、一方で両親との関係も回復できずにいる。
この研究に報告されているように、1年後に彼女はセラピストに「職場でうまくやっているが、あの事件以来、少し気力がなくなったような気がする。いまでも両親は許せな い。レイプした相手に対するような感情をもっている、あの時のことを思い出すと緊張する」と述べた。両親の側は、彼女に対する監禁と裏切りの深刻な影響に気づき、彼女に謝罪したいと思っている。しかし、彼女は二度と両親には会いたくないと言っている。
強制下での脱会カウンセリングとPTSDの関係に関する結論部分で、池本・中村両氏は、宗教学者ジェームズ・R・ルイスと社会学教授デビッド・ブロムリーに言及している (注30):
ブロムリーとルイス(1987)は、強制的に脱会カウンセリングを受けさせられた36人のうち、61%に意識の浮遊や変容状態、47%に悪夢、58%に健忘が生じ、こうした異常は、自発的に脱会カウンセリングを受けた人では発生頻度が低い(41%,N=29)ものの、他者の関与を必要としない自発的脱会者(8〜11%,N=89)よりは出現頻度が高いことを示した。脱会カウンセリングはたとえ自発的に受けるものであっても精神衛生上有害であるとするこのような結果は、宗教的信条に関する自律性が損なわれる状況がトラウマとなり、PTSDの原因となる可能性を示唆するものと考えられる。本症例の場合、強制的な脱会カウンセリングの結果一時的に棄教したという事実が、本人なりの道義心をそこなったこともトラウマの一因となった。
「国境なき人権」がインタビューした被害者の一人S.N.は匿名で1993年からPTSDを患ってきたことを証言した:
しばしば鬱陶しくなったり眠れなくなりました。何かに集中することが難しくなりました。親があのようなこと(拉致・監禁)を子供にできるということが理解できませんでした。両親は私の婚約者に会おうともせず、2人の孫の顔を見ようともしないのです。仲直りしたいとは思いますが、まずもって、私への仕打ちに対して申し訳なかったと言ってもらいたいのです。20年近く経っても私の傷は癒えていません。
(注25) 棄教目的の拉致監禁の精神的影響及び家族関係に対する影響に関するより詳しい情報については、ウィリー・フォートレ( Willy Fautré )著「事実調査報告:日本における棄教目的の拉致監禁及び自由剥奪」、pp. 31-86. (http://www.hrwf.org/images/reports/2012/1231%20report%20final%20eng.pdf).
(注26) 国立南花巻病院臨床研究所(岩手県花巻市諏訪500,〒025−0033)
(注27) 西東京市、カウンセリングサービス協会
(注28) Issue 27(2004), pp 147-155.英語の論文は以下のサイトで閲覧可能: http://sciencedirect.com.
(注29) この女性の名前は守秘の理由からこの研究においては匿名とされた。HRWF は彼女が信仰する宗教に関する情報を本機関の事実調査活動中に入手した。
(注30) 詳細はジェームズ・ルイス(James R. Lewis)及びディヴィッド・ブロムリー(David G. Bromley)著「The Cult Withdrawal Syndrome: A Case of Misattribution of Cause?(カルト脱会シンドローム:信念の誤帰属の一事例)」宗教の科学的研究誌(Journal for the Scientific Study of Religion)26巻 No. 4 (1987年12月)、pp. 508-522、http://www.jstor.org/pss/1387101.
>> 12年5ヶ月にわたり監禁された後藤徹氏の事例
私は決して彼らの行為を許すことができません。彼らは私の人生の最も大切な期間のみならず基本的な人間としての尊厳性を私から奪いました。それなのに私の家族と「脱会カウンセラー」たちは未だに何の後悔の念も謝罪の姿勢も見せていません。(後藤氏が2011年9月にHRWFに語った言葉)
後藤徹は1963年、裕福な家庭に生まれた。家族は特に宗教的ではなかったが、社会慣習として仏事や神社行事に参加する家だった(注31)。彼とその兄、妹が1980年代末に統一教会と接触するようになったが、彼の両親は3人の子供たちの新たな方向性に深い懸念を抱き、統一教会から離脱させたいと考えた。そこで両親は元信者の親たちで作った「水茎会」(みずくきかい)と連絡を取っていたが、そこの幹事役が宮村峻だった。宮村は広告代理店の社長で、宗教的な動機・背景のない脱会カウンセラーだった。1987年春、彼の兄が突然姿を消し、再びその兄が現れた時には完全に変心していた。兄はプロテスタント教会の信者になり、統一教会を糾弾するようになっていた。1989年に妹も統一教会を離教した。
1987年に強制監禁
後藤徹の兄が家族によって強制的に監禁されたのと同じ年である1987年の秋、彼も東京都内ののホテルの一室で強制的に監禁された。彼は抜け出そうとしたが、ドアは特殊装置で閉め切られ、逃げ出すのは無理であった。憤慨した徹氏は兄や両親とつかみ合いになったが、結局、多勢に無勢で勝ち目がなかった。毎日のように宮村峻が統一教会元信者を数人連れてきて徹氏に棄教を迫った。その後、東京都杉並区荻窪のマンションに移された。逃げる術のないことを悟り、徹氏は信仰を断念する振りをして解放を待ったが無駄だった。後に11月になって彼はようやく脱出した。
後藤氏は再び拉致されるのを恐れ、働いていた大成建設を辞め、居所も変え、教会活動に専念することに決めた。1990年に彼は家族と連絡を持つようになり、しばしば実家を訪問するまでになった。家族が再び拉致を行わないと約束してくれたからだ。
1995年から2008年までの強制監禁
ところが1995年9月11日の夜、後藤徹氏は西東京市にある実家を訪ねた際、両親、兄と見知らぬ男性に拉致された。彼は拘束され、新潟県にある一室に連行され(パレスマンション多門607号)、1995年9月12日から1997年6月22日までそこでの生活を余儀なくされた。彼の証言によれば、監禁場所は厳重に閉ざされ、全ての窓と玄関ドアは内側から鍵をかけられていた。彼には外出用の鍵は渡されなかった。彼の家族が常に周りを固め、信仰を棄てるよう圧力をかけ続けた。松永牧師も何回も訪れてきては統一教会からの脱会説得を行ったという。
1995年末頃に後藤氏は脱会を表明したが、両親も牧師も信用せず監禁を続けた。翌1996年3月に彼の父が入院し、その後パレスマンション多門に戻ることはなく、ガンが原因で1997年6月22日に享年65で他界した。徹氏は西東京市の実家に連行され父の遺体と対面した。そのような折でも8人に「同行され」、逃亡のチャンスは全くなかった。父親が亡くなった直後、徹氏は東京のアパート(荻窪プレイス605号)に移された。そこでも鍵を与えられず、6ヶ月間監禁された。1997年12月末に徹氏は荻窪フラワーホーム804号室に連れて行かれ、そこで約10年間監禁された。
同年1月から9月まで宮村峻は統一教会元信者らを804号室に連れてきて、徹氏に棄教を強要した。徹氏自身の記録によれば、宮村は9月までに73回もマンションを訪れた。宮村はこううそぶいていたという:「貴様を監禁しているのは俺じゃないぞ、お前の家族だ。外に出たいなら家族に訴えるんだな!」。つまり脱会カウンセラーとして、徹氏の自由が奪われていたことは百も承知だった。実兄も妹も威嚇的に語ったという:「あなたが変わらないなら、一生ここで暮らすことになる!」
かつて自分も拉致監禁の被害者となった美山きよみは、後で脱会カウンセリングチームの一員となったことがあり、その後に再び統一教会に戻ったが、彼女は当時の後藤徹氏の状況をHRWFに次のように証言した:
私も以前その同じフラワーホームの別の部屋に監禁されたことがありましたが、1998年にそのマンションの804号室を訪れると、後藤さんが監禁されていました。元信者の方がドアをノックすると、後藤さんのご家族が重い錠を外して私たちを中に入れてくれました。そしてすぐに内側から鍵をかけました。宮村が批判の言葉を浴びせ続ける間、後藤さんは終始うなだれていました。私たちが部屋を出ようとすると、後藤さんのご家族が玄関の錠を開けてくれ、外に出るやいなや再び錠を掛けました。後藤さんを見たのは、その時だけでした。定かではありませんが、大体20分から30分の間だったと思います。その部屋に入った時、宮村と他の方々は後藤さんに語りかけていましたが、宮村は私のことを、『この人は、あんたの大学の後輩だ。初めのうちは彼女も口を開かなかったが、今では我々の仲間だ!』などと紹介しました。
後藤さんは下を向いていました。説得の最中は張りつめていましたので、私までひどくストレスを覚えました。目を伏せた後藤さんの姿を見て、本当に気の毒に思いました。それゆえ私は後藤さんに何も語れませんでした。宮村の脱会説得の手助けになるような言葉も一切言いたくありませんでした。
その部屋にいた後藤さんは身動きひとつせず、下を向いていました。宮村らは後藤さんが脱会説得に対して全く反応しなかったので、大学の後輩である私が顔を出せば、少しは先輩風を吹かせるとでももくろんだのでしょう。それと暗に、『お前より激しく抵抗したこの女性も、結局、我々の話を受け入れて統一教会を離れたんだ!』と後藤さんを揺さぶろうとしたのでしょう。
時が経つにつれ後藤氏は絶望的になって、玄関に向かって突進して逃げようとまでしたが、家族に制止されるばかりであった。彼はしばしば「警察を呼べ!」とか「弁護士を立てて訴えてやる!」と叫んだ。そんな時には家族の方も徹氏を布団巻きにして口を塞いだりしたので、ある時は呼吸困難に陥り窒息寸前まで行った。何度かの逃亡の試みはすべて失敗し、監視が厳しくなるだけであった。2004年から2006年までに、後藤氏は三度、ハンガーストライキをした。21日間のハンガーストライキを二度、30日間のハンガーストライキを一度断行したが、家族は「信仰上の断食だ」と黙殺した。統一教会側からの情報によると、彼がハンガーストライキを断念する度に家族は彼に充分な食事を与えず、そのため監禁期間の終盤には深刻な栄養失調状態になっていたという(注32)。その結果、彼は肉体的に衰弱し、そのアパートを脱出する為に家族・親族を圧倒するのに必要な肉体的な強さを蓄えておくことができなかった。
2007年11月頃、後藤氏の家族は監禁に伴う経済的負担が重くなってきたようで、監禁を継続するか否か話し合うようになったようだ。東京でマンションを借りるのには月15〜20万円を要するからだ。2008年2月10日午後4時頃、徹氏の兄、兄嫁、母親そして妹が突然、徹氏にマンションから出ていくよう命じた。当時、徹氏の肉体は非常に弱っていたが、室内着を着ただけで、玄関前のコンクリート廊下に投げ出され、私物も身分証の類も渡されなかった。
再び自由の身に
後藤氏は統一教会本部に行こうとして、近くの警察署でお金を借りようとした。だが事情をうまく説明できず追い返されてしまった。本当に幸いなことに、道ばたで統一教会信者に出くわし、小銭を借りてタクシーで教会本部に到着できたのだ。その夜、後藤氏は「栄養失調」と診断され、緊急入院することとなった。しばらくの間は立ち上がるのさえ不自由だった。
2011年1月日に後藤氏は「全国拉致監禁・強制改宗被害者の会」を設立した(注33)。同氏のリーダーシップの下に同会は反カルト活動家との対話を求め、彼らの活動がいかなる被害をもたらしているかを啓蒙する努力を続けている。
(後藤氏の監禁の加害者を法によって処罰する為の試みについては第4章に紹介。)
(注) 後藤徹氏の強制監禁が例外的に長引いた理由としては、「脱会カウンセラー」の宮村峻が後藤氏の監禁を継続すべきことを主張し、後藤氏の家族が宮村の命令を忠実に実行したことがある。この主張は、「霊感商法対策全国弁護士連合会」所属の一弁護士、伊藤芳朗氏がジャーナリストの米本和広氏とのインタビューの中で行った。伊藤弁護士は反統一教会の多くのケースを扱ってきたが、しかし多くの統一教会元信者が拉致監禁の後に信仰を放棄させられてきたことを知るに至って、彼は「脱会カウンセリング」に対して批判的な姿勢を取るようになった。 後藤徹氏の家族が社会的に高い地位にあることや、製紙工場の工場長代理として数千人の従業員を率いてきた彼の父親の豊かな経済状態といったことが、彼を12年間以上も監禁することを可能にした重要な要因となったものと思われる。
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以上、第二章終わり
次回は、同じく甲185号証の2、第二章: 「被害者保護に対する警察の失敗 (ICCPR第2、18及び26条違反)」 をお届けいたします。
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1ヵ月後には、上告審の判決です。
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