2006年08月

2006年08月27日

**2度目のカルチャーショック**

24日、TAKAさん{クリス松村さん}から2本のDVDを頂戴しました。1本は昨年メモリアルコンサートのファイナル前にオンエアーされた「ドシロウト」、もう1本は今夏行われた「キラキラ隊」のイベントでした。25日の夜、女房といっしょにジックリ拝見しました。2月ミーケイから頂戴したメモリアルコンサートのDVDを見て、おもいおもいのコスチュームを身にまとい、会場で踊るファンの姿に驚かされました。このときが1回目のカルチャーショック、今回2度目のショックを受けました。キラキラ隊、メモリアルからお互い会場で知り合い、自然発生的に誕生したとのこと、隊則?もなく出入り自由の由。ピンク・レディーに対するファンの対応も変わったものだとしみじみ感じました。当時は「ミーちゃん」「ケイちゃん」と叫ぶ、野太い声が聞かれたものです。当時は小学生であったり、中学生であった「キラキラ隊」のメンバー、今は40才前後の働き盛り、何事に対しても自由奔放に表現できる階層、こういう人たちがピンク・レディーのファンであることは誠に心強い限りです。振り付け指導のクリス松村さんはエアロビクスのインストラクター。「ピンク・レディーの振り」をエアロビクスに取り入れた功績は高く評価されます。確かピンク・レディー全盛のころはバーに行っても、クラブに行っても、ギターやピアノの弾き語りだったと記憶しています。 その後カラオケブームが到来。カラオケはピンク・レディー人気維持には一役買ったと思います。他のジャンルに及ぶことは最高のパブリシティー、クリス松村さんのエアロビクスに期待しています。
24日の『笑っていいとも』にピンク・レディー艶舞団の小倉 操さんが出演されていました。昔の関係者としては嬉しいことでした。
当時はマスメディアを利用して、一網打尽のパブリシティーで済みましたが、今の時代は周辺の話題を取り上げてもらうことが最も有効と思います。
ファン層は色々だと思います。デビュー前から事務所にはファンの方たちがきていました。その人たちは親衛隊を形成しました。その後時代を経るにつれ、ファン層も変化し、表現法も変わってきました。昔のイメージを大切にし、コンサート会場には現れずCD他商品は買い続けているファン。会場には行くが、黙って見ているファン。キラキラ隊と一緒に踊りたいが、テレが災いし踊れないファン。ファンのたたずまいは千差万別、皆ピンク・レディーのファンであることは間違いないことで、ファンは皆同志、ピンク・レディーを盛り上げましょう。


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2006年08月25日

祝 デビュー30周年

私が芸能プロとしてスタートしたのが1976年4月3日、故相馬のアクト・ワンと合体したときです。4月12日にはミーケイが上京してきました。私にとって、このときがピンク・レディーのはじまりでした。二人はデビューに向けて、きつい特訓に耐え8月25日を迎えました。相馬も後々では考えられませんが、テレビ・ラジオ・新聞・雑誌のブッキングに苦労していました。私はこと芸能界に関しては全くのど素人で、相馬の指示を受けて動く毎日でした。このころの私の頭の中はピンク・レディーというより、ペッパー警部でいっぱいいっぱいでした。それまで証券しか売ったことのない人間、1枚600円の小額商品、戸惑いました。結論としては、やらせでも何でもよい、とにかく買い捲り、友人知人に押し付けることでした。押し付けられた友人たちはその後会うとそのときの想い出話をしてくれます。10月中旬、ヒットの兆しが出て、ホッとしたものです。
今年2月、四半世紀ぶりに二人に会ったとき、スリムで見事なプロポーションには驚きました。余程日ごろ摂生しているのだなと実感しました。ピンク・レディーの立役者、相馬が欠けたことは残念ですが、本人たちが健康で今日を迎えたことは何よりです。
ザ・ピーナッツやキャンディ-ズは引退・解散後、2度と復活していない。これも美学と思いますが、死にいたるまで歌い続けた美空ひばり、これこそ美学と思います。
ブログを通して知りましたが、ピンク・レディーには熱いファンの方々がいます。
片仮名のミーケイに帰って、ピンク・レディーの活動も続けて欲しいものです。
片仮名のミーケイと漢字の未唯MIE、増田恵子をうまく使い分けることが熱いファンにとっては最も嬉しいことでしょう。
何はともあれ、ミーケイのお二方おめでとうございます。
ファンの皆さん、30周年をともに熱く見つめていきましょう。

nukirenew40 at 12:48|PermalinkComments(18)TrackBack(0)

2006年08月23日

心機一転

昨年10月20日からブログをはじめました。ブログを書きはじめたときは「30周年」は全然思いつきませんでした。真面目に取り組んでいたことを多少でも世間にわかって欲しいという気持ちでした。1981年3月31日以来、むしろいじけた気持ちで、もやもやした気持ちで過ごしていました。もし{30}という数字を意識していたとしたら、私にとっては「30周年」ではなくて、「30回忌』ぐらいの気持ちでした。書き込んでいくうちにファンの皆さんとコメントを通して交流ができ、ビクターのスタッフとも交流ができ、その上、今年2月4日にはミーケイと感動的な再会を果たし、7月にはMUSEUM参加のおまけまでつきました。MUSEUMでは多くのファンの方々と知り合えました。今はブログをやって良かったとしみじみ思っています。
明後日、真のデビュー30周年を迎えます。明後日を"ピンク・レディー"を高める第一歩にしたいと思っています。
誠に勝手ですが、ブログの本文は削除しました。むろん皆さんとのコメントはコピーしました。ブログをはじめた動機と今の気持ちが全然違いますので、もう一度よく考えたいと思っています。
明後日から向こう一年、心機一転、新たな気持ちでブログを続けるつもりです。邪魔にならないよう、陰ながら"ピンク・レディー"の応援をしていきます。

nukirenew40 at 17:45|PermalinkComments(10)TrackBack(0)

2006年08月20日

歌伝説 ザ・ピーナッツの世界

昨夜のBS 2を見ました。ポップスの歴史を改めて感じました。確かデビューが昭和33年、引退が昭和50年2月、紅白出場が16回。昭和34年といえば天皇陛下ご成婚の年、私は同志社大学3年のときでした。まだ下駄を履いて通学する時代で、ザ・ピーナッツの曲はよく耳にしていました。クレイジー・キャッツも全盛の時代でした。ザ・ピーナッツとクレイジー・キャッツが渡辺プロの基礎を作ったということがよく理解できました。ハーモニーは双子ゆえ申し分なしとして、コスチュームには驚かされました。あの時代にしては随分洒落たコスチュームだと感心してみていました。ザ・ピーナッツの原点はシャボン玉・ホリデーとは知っていましたが、良い番組だったんですね。
「ウナ・セラ・ディ東京」「恋のフーガ」などのヒット曲は前半の時代で、後半は海外進出などを試みる努力の時代だったのかもしれません。それにしても16年の年月、たいしたものです。
ザ・ピーナッツ、キャンディーズに続く、ピンク・レディー。 声質のまったく異なる独特のハーモニー、パンチのあるピンク・レディーが私にとってはやはり最高です。

nukirenew40 at 09:26|PermalinkComments(9)TrackBack(0)

2006年08月11日

阿久 悠さんのインタビュー記事 

昨日の日経夕刊に掲載されていました。抜粋しますと
「昭和とともに歌謡曲の時代は一度終わりました。今はミュージックはあってもソングがない」
平成も18年になり阿久さんの視界には、美空ひばりの死とともに消えてしまった歌謡曲の後姿ばかりが映っている。「歌謡曲というのは世の中と人との真ん中にあったものです。歌で伝えたいこと、感じたいことは現在もあるはずなんですが・・・」
「小説家か映像作家になりたかったんです。それを3分25秒でやる方法があるんじゃないかと考えたら作詞があった」
「今の歌は詞と旋律で紡ぐソングではなくメロディーだけが聴こえるミュージック」
音楽の教科書にビートルズの"イエスタディ"が収録されたときに「ああこれで教科書がソングブックになってしまった」
阿久さんのコメントは短くてシンプルなものですが、常に含蓄のあるコメント、考えさせられます。私は阿久さんと同年生まれですが、"時代""世の中""音楽の世界"に対する洞察力には凄みがあり、いつも思考回路をさづかっています。尊敬の念でいっぱいです。
ピンク・レディーの原点は阿久・都倉さんコンビの一枚AB合わせて6分50秒のシングル14枚です。合計して1時間31分の楽曲を起点にして、直接レコード売り上げ150億円をもたらし、その後CD化等もあり、その経済波及効果は計り知れないものがあります。 

nukirenew40 at 10:37|PermalinkComments(6)TrackBack(0)

2006年08月06日

私事ですが、61回目の記念日

1945年8月6日午前8時15分、8才国民学校{小学校}2年生のとき、爆心地から2.7KMで被爆。上半身裸、パンツ一枚で家の近所の貯水池で遊んでいました。何がなんだかわからず、慌てて家に帰りました。爆風で瓦は飛び散り、壁も崩れ落ちていました。不思議なもので、このときから全ての記憶が鮮明になりました。私には"原爆"という言葉より、"ピカドン"のほうが馴染み深い言葉です。毎年8月6日は私にとっては、強烈な記念日です。私の相棒 加納も同じ原爆少年でした。
9日後終戦、戦後「りんごの唄」から始まった歌謡界の歴史にピンク・レディーもその名を刻んでいます。そのピンク・レディーのプロジェクトに関与したなんて、人生は予測のつかないものだとしみじみ感じています。
今日は午後3時からのディズニーランド・スターライトに孫娘二人と女房と行きます。
ロスでかって東京ディズニー準備室の方々とご一緒したことがあります。記憶は定かではありませんが、アメリカでのピンク・レディースタッフの旦那さんがオープニングから、エンタティンメントに関わったと聞いています。1981年ピンク・レディー解散、1983年東京ディズニーオープン。又、ピンク・レディーのマネージャー春日氏はピンク・レディー解散と同時にディズニーの準備段階から加わり、今も園内で繰り広げられる各種エンタティンメントを手がけているそうです。
    

nukirenew40 at 09:44|PermalinkComments(20)TrackBack(0)

2006年08月04日

ボックス・セット  ブーム

7月26日東京新聞、7月27日スポーツニッポンに関連記事が掲載されていました。興味深く読みました。T&Cが幕引きしたデビュー35周年の南 沙織、デビュー25周年の中森明菜、松田聖子にいたっては総曲数875曲、総再生時間は60時間47秒、価格10万円だそうです。ファミリー的なプロダクション、サンミュージックを離れ、プライベートでも幾多の辛酸をなめてきた"生きざま"が共感を呼ぶのでしょうか?
ピンク・レディーとほぼ入れ替わりの1980年デビュー、今も第一線で活躍中、大したものです。10万円のセット、予約注文8000もうなづけます。
ピンク・レディーの『プラチナ・ボックス』も紹介されていました。ビクターも今年に入り、30thと銘打って矢継ぎ早に商品を発売していますが、全部をあわせると相当な金額となり、皆さんに出費を強要する結果となっています。お蔭様で、いまのところ評価は上々のようで、安堵しています。
このごろ、音楽業界、やたらと25周年、30周年、35周年の記念テーマを目にし、耳にします。それだけ1970-1980年代は音楽業界、レコード業界は良き時代だったんだと思います。その良き時代にピンク・レディーが存在できたことは本当に幸せでした。
しかし欲を言えば、ミーケイが骨身を削って作り上げ、他を圧倒するレコード売り上げ、もっともっと評価されても然るべきだと思っています。再び人気の裾野が広がることを願っています。

nukirenew40 at 10:18|PermalinkComments(2)TrackBack(0)
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