子猫と先祖とナスの牛 (お盆のお話)
赤い屋根の一軒家のリビングルーム。
フローリングの床に腰を下ろし、小さな女の子はテーブルの上を見つめる。
視線の先にいるのは小さな馬。キュウリと割り箸でできたお盆用の精霊馬だ。
そして、女の子の手にはナスが握られていた。
「えーっと。まねっこすればいーのよね? ママ」
「うん、そうそう。このキュウリの馬のようにナスに足をつけてあげなさい」
母親のうなずきを見て、彼女は意を決したように折られた割り箸を手にした。そして、ナスに向かって突き立てる。
「えいっ! ……えいっ! ……ここかな。えいっ! ……ここ、じゃなくてここらへん……えいっ!」
女の子が気合いを込めて作ったのはナスの牛。
その牛をキュウリの馬の横に立たせて、女の子は額の汗をぬぐう。
「でーっきた。じょーずにできたわ。ママ」
自慢げに顔を上げる娘に母は優しい微笑みを返す。
「うん。上手、上手」
母親はキュウリとナスを拾い上げ、小さなタンスの上に載せる。
「ここに置いとこうね。仏壇に近いから」
タンスの上には小型の仏壇も鎮座していた。
「ねえ、ママ。なんでおぶつだんのちかくにおくの」
「これはお盆にご先祖様が乗る馬と牛を表してるの。ご先祖様は普段、仏壇にいるから。乗りやすい場所に置いたってこと。本当は十三日に置くんだけどね……少し、フライングしてもいいでしょう」
母親はリン棒を手に取ると、リンを鳴らす。澄んだ音を聞いた女の子は、仏壇を見上げて手を合わせる。
「ごせんぞさま。あたしが作った牛にのってね」
「私の作った馬にも乗ってくださいね」
母も仏壇に向かっておどけたように言う。
その時、仏壇の前を黒ブチの子猫が横切った。
「あっ、ポチ! どこ行ってたの?」
女の子の問いかけにポチと呼ばれた子猫は答えない。
背を湾曲させ、爛々とした瞳で何かを見つめている。
――緑の瞳が狙っているのはナスの牛。
黒い尻尾をふりふりさせ、足に力を込めて獲物目がけて飛びかかる。と同時に母親の手が子猫をつかんだ。
「コラッ、ポチ。イタズラしないの!」
彼女が腕の子猫をにらんで言うと、娘も怒ったような口調で言う。
「そうよ。いたずらはダメ! これはごせんぞさまの牛なんだから……」
女の子は母から子猫を受け取り、一度、怖い顔をしてみせる。
そして、母親を見上げて言った。
「ところで、ママ。ごせんぞさまってだれ? おぶつだんの中にはおじいちゃんとおばあちゃんがいるんでしょ。パパのパパとママのことだよね。ごせんぞさまともいうの?」
我が子の問いかけに母は少し戸惑った。
(言われてみれば、先祖ってどこから先祖なんだろう? 祖父母は先祖にしては近いし、その上の代? けど、私のお祖母ちゃんはまだ健在だし、この子の曾祖母に当たるし……その上の代?)
「……パパのパパのパパの、そのまたパパくらいかな?」
「パパのパパのパパのそのまたパパ?」
母親の言葉を復唱しながら、女の子は首をかしげた。
黒いブチの子猫が窓の隙間を通って外へと顔を出す。
目を細めて空に浮かぶ太陽を一瞬だけ見る。
『ううっ、あついよー。……けど、いかなきゃ』
アルミ製のサッシから、レンガの塀に跳び乗り、その上をたどるように進む。
角を曲がると家の影に入る。そこでひと息つき、再び歩き出す。
目指すは隣の家の窓だ。
窓の見える位置までやってきて、ポチは大きな声を出す。
『おかあちゃーん』
返事はない。
『ねえ、おかあちゃん。いないのー?』
塀の上をうろうろしながら、彼は母親を呼ぶ。すると、塀の下から声が聞こえた。
『どうかしたのかい? ポチ』
『あっ、おかーちゃん』
ポチは隣家の庭へと飛び降りる。
そして、母の鼻先に自分の鼻をぶつけて言った。
『あのね。おかーちゃんにききたいことあるの』
『聞きたいこと? 何が聞きたいの?』
『あのね、あのね。ボクのおとーちゃんってだあれ?』
意外な問いかけに母は瞬時に凍り付く。
『えーっと……。何が聞きたいって?』
まだ半冷凍の状態で母はポチに問いかける。
『だからね。ボクのおとーちゃんはどこにいるの?』
ポチは再び同じ質問をする。
(よ、弱ったねえ……。お父ちゃんっていわれても……。うちは人間が仲人しなかったから……)
血統書付きだったり、完全室内飼いの場合は人間が猫の仲人をしてくれることもある。
だが、彼女は雑種で外にも自由に出ることができた。
猫の恋はひと春のアバンチュール、ひと秋のアバンチュール。……猫によってはひと月ごとにアバンチュール。
ひとときのアバンチュールの相手は一匹とは限らない。
(……うーん……。誰だろう?)
彼女の脳裏に近所の雄猫の顔が次々浮かぶ。
猫の恋。そのリードは雌猫が握る。よりよい子供を残すため、イイ雄猫以外はシャットアウトしてきた。
しかし、この近辺、結構自分好みの雄が多かったわけで……。
『……ポチ、何でそんなこと聞きたいの?』
『ボクね。おとーちゃんのおとーちゃんのおとーちゃんの、そのまたおとーちゃんさがすの。そして、ウマとウシみるの』
夢を見るような瞳でポチは語る。
(何があったんだか……。この子の毛並みが父親似だったらわかったかもしれないけど……。この子、私似なんだよね)
自分によく似た黒ブチ模様を眺めながら母は考える。
そして、ある決断をくだした。
(父親……この子に決めてもらおう)
――ジージージジジジジジジジ……
神社の境内でアブラゼミが大合唱している。
そんな五月蝿い子守歌を聴きながら、真っ黒な猫が昼寝をしていた。
そして、たった今、境内に子猫が一匹やってきた。母に教わり、父親を探しに来たポチである。
境内をうろつき、彼はようやく目当ての猫を見つける。
『あっ、いた!』
遠目に見える昼寝中の真っ黒な猫が彼の父親だ。
『ボスー!』
黒猫めがけて、ポチは猛スピードで突っ込んでいく。勢い余って無防備なお腹に激突する。
『い、いきなり何するんだ!』
突然の衝撃にボスと呼ばれた猫は立ち上がる。そして、原因であるちびっ子をにらんでみたが、彼は全く動じない。
興奮した状態で、何やらまくし立てるだけだ。
『あのね。ボスにききたいことあるのー!』
ボスは子猫をにらむのをやめる。
彼はこの一帯のボスなのだ。この近辺で一番強い猫なのだ。子供相手に大人げないことはできない。
そう考えて、ボスは心を落ち着ける。すると、ポチが妙な問いかけをしてきた。
『あのね、あのね。ボクのおとーちゃんのおとーちゃんってだあれ?』
『はぁっ?』
チビ猫タックルで昼寝から目覚めたと思ったら、よく分からない質問をされた。
ボスが固まるのも当然である。
『だからね。ボクのおとーちゃんはボスでしょう。だから、ボスのおとーちゃんは……』
『まてまてまてまてまてぃ! どうして俺がお前の父ちゃんなんだ?』
彼には身に覚えがない……とは言い切れないが断言はできないはずだ。
猫の恋は自由恋愛。恋の季節に二股どころか五、六股かけるのが常識だ。
恋の三角形どころか四角形、五角形、六角形は当たり前。一匹につき、一匹と決まっているわけではないので五芒星か六芒星になるのかもしれない。
猫の恋は縦横無尽に複雑な図形を描いているのだ。
なのに、ポチは胸を張って答える。
『あのね。おかーちゃんがね。おとーちゃんはこのまちでいちばんかっこいいネコってゆったの。だから、ボスがおとーちゃん』
ボスは少しの間、ぼーっとポチを見つめる。
我に返ったと思ったら、念入りに毛繕いを始めた。
『ボス?』
小首をかしげて見上げるポチもついでに毛繕いしてやり、どっしりと座る。
そして、ポチに向かって偉そうに問いかけた。
『この国でいちばんかっこいい父ちゃんに何のようだ? 我が息子よ』
猫はナルシストが多いのだ。
『うーん。俺の父親ねえ……』
ポチから改めて話を聞き、ボスは考え込む。
猫は自由恋愛が基本だ。母親は分かっても父親なんて見たことがない。いや、見たことも話したこともあるかもしれないが自分には分からない。
(父親って乳くれるわけでもないしな……。俺の母ちゃんも真っ黒だったから分からん。大体、父親を捜して……)
そこまで考え、ふと思う。
『なあ、ポチ。何で父ちゃんの父ちゃんを捜してるんだ?』
『あのね。ごせんぞってのさがしてるの。ボク、ウマとウシをみたいの』
子猫特有のつぶらな瞳をキラキラさせ、ポチは懸命に説明する。
『ごせんぞはね、ウマとウシにのるの。きゅーりとなすがへんしんするの』
(……何言ってるか、さっぱり分からん)
彼は心の声を飲み込み、理解した情報についてたずねる。
『先祖を捜してるんだな』
『うん。そーなの』
『だったら、父ちゃんの母ちゃんでもいいんだぞ』
『えっ、そーなの? けど、うちのにんげん、おとーちゃんのおとーちゃんのおとーちゃんの、そのまたおとーちゃんってゆってたよ』
『先祖ってのはな。自分の源流のことだ。それは父親でも母親でもいい。……俺らは人間じゃないからな。父親側にこだわることはない』
ボスの説明にポチは小さな頭を悩ませる。
『うーんっと、えーっと……えーっとぉ。……よくわかんないけど、ごせんぞはいっぱいいるんだね』
『まっ、そう言うことだ』
『じゃあ、ボスのおかーちゃんはどこにいるの?』
ボスは再び固まった。
実は彼はこの町出身ではない。遠い所から里子に出されてきたのだ。
『……遠い、遠いところにいるんだよ。お前が会うのは無理だ』
『とおい? てんごくってとこ?』
『勝手に殺すな! まだ、生きとるわ!』
牙をむいたボスにポチはビックリして尾をふくらませる。
それを見たボスは慌てて声を和らげる。
『あー……あのな。俺はお前ぐらい小さい頃に新幹線ってやつでこの町に来たんだよ。うちの人間の実家ってとこからな。でな。新幹線ってのはな。人間を運ぶ大きい……いや、長い車でものすごく速いんだ。猫の足じゃ俺の母ちゃんのとこへ行くのは無理だな』
『そーなんだ……』
しょんぼりする子猫の頭をボスは優しく舐める。
『そこで役に立つのがさっきの知識だ。お前は先祖をさがしてるんだよな』
『うん』
『お前の母ちゃんはこの町出身だ。多分、母ちゃんの母ちゃんか父ちゃんはこの町にいる』
『ほんと?』
『ああ。おそらく、確率が高いのは……』
ボスの言葉を聞いて、ポチは目をまん丸にした。
――クーラーという風はいただけない。
古い日本家屋の縁側、ペット用の冷却シートの上で年寄りのトラ猫がまどろみながら思う。
(なんで、人間は変な風に当たりたがるのじゃろう?)
さっきまで彼を追いかけ回していた小さな人間もクーラーがある部屋へ行ってしまった。
目を薄く開くと、すだれから明るい日差しが透けて見える。
今日もカンカン照りなのだろう。テレビから聞こえる猛暑日ってやつなのだろう。
(もうそろそろ、なわばりの見回る時間じゃが……今日はやめとくかのう)
幸い、風は吹いている。すだれから入り込む風と冷却シート。それがあれば人工の風がなくても涼しいのだ。
彼は寝そべったまま、体をめいいっぱい伸ばす。
冷却シートからひんやりとした感触が伝わってくる。
目を閉じ、背中も冷やそうとゴロンとひっくり返る。
何かに乗り上げた感触と温もりが伝わってくる。
(……何じゃ?)
目をしばたたかせて起き上がる。
自分専用の冷却シートの上に小さな客がのさばっていた。彼がのしかかったことにも気づかず、ぐっすりと寝入っている。
『……これっ、ポチ、起きんか! これはわしのひんやり座布団じゃ!』
教育的指導とばかりに老猫はブチの子猫をベシベシたたいた。
『……とゆーわけなの。ちょーろーがおじーちゃんなの。もしかしたら、ひいじーちゃんかひいひいじーちゃんか、もっとまえのじーちゃんかもしれないの』
ポチの話を聞いて、長老と呼ばれた猫は溜息をもらす。
ポチの言い分によると、彼は自分の先祖を捜しているらしい。そして、ポチが集めたガセネタによると、自分が彼の祖父か曾祖父か高祖父かそれ以前に当たるそうだ。
(誰か知らんが、妙なこと教えおって……)
長老はつい最近の出来事を思い返す。
この家の主はちょっと髪の薄い男の人間だ。どうやら彼は自分と同じくらい偉いらしい。
人間はもう一人いて家の主に「母さん」と呼ばれている。そっちの人間は家の主のことを「お父さん」と呼んでいる。といっても親子ではなく、夫婦という人間の群れの単位らしい。
そしてだ。ごくたまに彼らの子供がやってくる。とうの昔に親離れしたにもかかわらず、数日泊まっていく。
――孫と呼ばれる大怪獣を連れてだ。
家の主である「お父さん」はあの大怪獣にめっぽう弱い。
障子を破ろうが、畳に落書きをしようが、「じぃじ、ごめんちゃい」の一言でゆるしてしまう。
長老の尻尾を思いっきり引っ張った時も、むりやり手を取られ、へんな踊りを強制された時も、彼はちょっぴりたしなめただけだ。
(ああ、腹が立つ。何が「猫ちゃんいたがってましゅよー。やめなちゃい」じゃ。そんなだから、なめられるのじゃ。頭にのせた毛の塊をとられたりするのじゃ)
孫息子にカツラを剥がされて涙目になった「お父さん」を思い出す。
それでも彼は孫をゆるした。「ごめんちゃい」の一言で、力なく微笑んでゆるしてしまった。
――腹いせにカツラを隠した長老はこっぴどく怒られたというのに。
(わし、孫はいらん。あんな暴君がいるなんてまっぴらじゃ! この家のアイドルはわしだけで充分じゃ!)
香箱を組んだ長老の顔はどんどん険しくなっていく。
『ちょーろーは、ボクのおじーちゃん……』
『わしはお主のお祖父ちゃんじゃない! 勝手なことをいうでない!』
思い出し怒りの真っ最中だった長老は、すかさずポチを怒鳴りつける。
驚いたポチは後ろに跳び退き、体勢を低くする。
『ち、ちがうの?』
恐る恐る、上目遣いで問いかけるポチに長老は冷たい眼差しを向ける。立ち上がり、床板を強くたたいてキッパリとした口調で言う。
『違う!』
『そっかー……』
長老の言葉にポチはすっかりしょげかえる。ぺたんと座り、耳を伏せ、頭も尻尾も力なく垂らす。
その様子を見た長老はわずかに罪悪感を覚え、彼に背を向ける。
が、ポチはすぐに立ち直った。長老の背にすり寄りながら、かわいらしく質問する。
『じゃあねぇ……。おとしよりのネコでいちばんもててたオスネコはだあれ?』
『モテてた……雄猫?』
ピクリと長老の耳が動いた。
それには気づかず、ポチは無邪気に言い連ねる。
『うん。もてもてのネコ。ボスがね、ゆったの。じーちゃんか、ひいじーちゃんか、ひいひいじーちゃんか、もっとまえのじーちゃんはもってもてのオスネコだって』
ボスは確かにそう説明した。
猫の恋は複雑だ。だから、猫の血筋も複雑だ。
母親伝いにたどれば、正しい軌跡を追えるだろうがそれはとても難しい。野良猫の場合、どこにいるか分からないことが多く、家猫の場合は引っ越されたらアウトだ。
ならば、子孫を多く残したであろう猫をさがすのが一番だ。
――そう、モテモテの雄猫を!
長老はにこやかに振り返り、あっさり前言を撤回した。
『やはり、わしがお主のお祖父ちゃんか、ひい祖父ちゃんか、ひいひい祖父ちゃんか、もっと前の祖父ちゃんじゃ』
猫は見栄っ張りが多いのだ。
しかし、目を輝かすポチを見て、長老は少し後悔してきた。
――孫というのを切り札に遊び相手にされてはかなわない。
だから、彼は少し付け足す。
『もっとも、わしはかなりの年じゃ。だから、お祖父ちゃんではない。ひいひい祖父ちゃんか、もっと前の……』
『ほんと! ひいひいじーちゃんなの! おとーちゃんのおとーちゃんのおとーちゃんの、そのまたおとーちゃんなの!』
ポチは興奮して縁側を駆け回る。
『ポ、ポチ……。どうしたんじゃ?』
長老が恐る恐る声をかけるが、ポチは止まらない。
『ごせんぞみっけー! ごせんぞだー!』
はしゃぎまくるポチを見て、長老は自身の失言を悟った。
古い日本家屋の仏間の隅に小さなテーブルが置かれていた。
その上には丸められたござとかごに入ったキュウリとナスがあった。
そのかごをはさんで長老とポチが言い争う。
『無茶を言うでない! そのようなこと、できるわけなかろう』
『けど、うちのにんげんゆったの。ごせんぞはきゅーりとなすを……』
『だから、無理じゃ。キュウリもナスも変身なぞしない。わしはそんな術は使えんのじゃ』
長老はかごのなかのキュウリを肉球でたたく。
『ほれ、さわってもなーんも起こらん』
ポチもかごのなかのキュウリとナスを引っかき回す。精霊馬になる予定のキュウリとナスに化ける気配はまったくない。
『……なんでかな? うちのにんげんは……あっ!』
ポチは大事なことを思い出した。キュウリをつつくのをやめ、長老を見上げて問う。
『そーだ。おぼんってやつじゃないからだ。ちょーろー、おぼんってなあに?』
長老は平然と答える。
『皿とか湯飲みとかを乗せる平らな板のことじゃ』
『じゃあ、そのいたにきゅーりとなすのっけるのかな?』
ナスをつつき始めたポチを横目に長老は付け加える。
『毎年、暑い時期に人間がお盆と呼んでる日がある。お主の問いはそちらについてじゃろうな。おそらく、あと四、五日後くらいじゃ』
ポチは振り返ると、興奮したように尻尾を立てる。
『じゃあ、にさんにちたったら、きゅーりとなす、へんしんする?』
長老はしばしの間、天井を見上げる。
この家の縁の下で生まれて、もう二十年経つ。仏間にキュウリとナスが並ぶのも毎年見てきた。
しかし……。
『……わし、そんなの見たことないのう』
『ええー! ちがうのー!』
ポチの失望が耳に届くがしかたがない。
見たことないものは見たことないのだ。
キュウリとナスはあくまで胡瓜と茄子なのである。家庭菜園で夏に山ほど実る野菜なのである。断じて馬と牛ではない。
『じゃあ、おぼんってなあに? へんしん、みるひじゃないの?』
ポチは完全に勘違いしている。
長老は彼に自分の持つ知識をひけらかす……ではなく、教えることにした。
『お盆というのは死者を迎える日じゃ』
『ししゃ?』
ナスに手を置いた状態でポチは小首をかしげた。
『死んだもののことじゃ。そうじゃな、人間が幽霊とかお化けとか呼んでるあれじゃ』
『おばけ? うちのちっちゃいにんげん、おばけこわいってゆってるよ。なのによぶの?』
自分と同居している女の子の顔をポチは思い浮かべた。「おばけこわいから、ポチついてきて」と夜中のトイレに付き合わされているのだ。
『そうじゃ。物好き以外は幽霊を怖がる。しかし、今の時期は別なのじゃ』
『どーして?』
『……暑いからじゃろう。幽霊ってやつはいるだけで少し涼しくなるらしいしのう。テレビでも幽霊の話をよくやるし、肝試しという幽霊を探す行事も夏にやるしのう』
長老はうろ覚えの知識を適当につなげて説明した。
キュウリとナスをなで回しながらポチはつぶやく。
『いっつも、こわがるのに……。にんげんはふしぎだね』
『人間は矛盾だらけじゃ。……大体、わしらとは違って、ほとんどのやつが見えておらんではないか。キャーキャー騒ぐだけのくせに、何を考えておるのやら』
テーブルを降りた長老はあくびをひとつもらす。つられてポチもあくびをする。
『眠いのう。もうひと眠りするか……。ポチ、お主も一緒に昼寝するか? ひんやり座布団、端っこなら使わせてやるぞ』
『うん。おひるねする』
二匹は縁側へ戻り、冷却シートの上で丸くなる。
目を閉じ、ウトウトしだした長老の鼻にチビ猫パンチが炸裂した。
『何をするのじゃ!』
突然、暴挙に出たポチに、長老がうなり声を上げる。
『ご、ごめんさい、ちょーろー。あのね……ボク、しりたいことあったのわすれてた』
申し訳なさそうにポチは言うが、長老はふくれたままだ。
『わしは知りたいことなぞない。昼寝の邪魔するなら出ていくのじゃ!』
『ボクのしりたいこと、ちょーろーだったらしってるの』
ポチはめげずに長老へとすり寄る。そんな彼に向かって、長老は連続猫パンチを浴びせる。
しかし、ポチは全くめげない。猫パンチも猫キックも自身の手足でガードしながら、長老の自尊心をあおった。
『ちょーろーはものしりなの。あたまいいの。きっと、なんでもしってるの』
長老の攻撃が止まった所にポチはとどめの言葉を言う。
『ねえ、ちょーろー。そーなんでしょう?』
信頼しきった子猫の瞳。その輝きは長老に否定をゆるさなかった。
おもちゃの車を握り締めた男の子が、絨毯の上で眠っている。
「あー。ようやく眠ったか……。さすがにこの年で子供の相手をするのはきついな」
髪の薄い男性が腰をたたきながら言う。
「まあ、そんなことを言って。孫の相手は任せろって、あの子たちに太鼓判押したのはあなたじゃないですか」
そう、息子に子守を頼まれたとき、二つ返事を返したのは夫の方なのだ。
「確かにそうだが……」
彼は孫をソファーへ運び、タオルケットを掛ける。
「ところであいつら、いつ帰ってくるんだ?」
「夕食後でしょ。あの子、プロポーズしたフランス料理店に予約とってるんですって。……いいわねえ。結婚記念日に二人っきりでデートだなんて。本当にロマンチックよねえ」
どんどん語気が強まる妻のセリフに男の顔色は青くなっていく。
「か、母さん……」
「私の夫は毎年忘れていたというのに……。ああ、どうして親子でこんなに違うのか……」
妻にギロリとにらまれた男はこの状況から逃げるきっかけをさがす。
ぐっすり寝入った孫息子を起こすことなど論外だろう。さんざんさまよった視線は時計で止まる。
「……も、もうこんな時間か。テレビ、テレビ……」
テーブルの上にあるリモコンを手に取り、テレビの電源を入れる。
――ゲートが開きました。各馬、一斉にスタート。先行するのは12番……
「お、おお。あ、あの馬、スタートダッシュがいいな」
背に妻の冷たい視線を感じつつ、テレビに向かって集中しようとする。
「まったく……」
妻は首を振り、競馬中継を見る夫を眺める。
(仕方ないわね。もともと、そういう人って分かってて結婚したんだから……)
「お茶でも出しましょうか? あの子たちが持ってきた水羊羹も冷えたころでしょうし」
「あ、ああ。頼むよ」
水羊羹とお茶を手に妻が戻ってきたとき、夫は競馬新聞をテーブルに広げ赤ペンを握っていた。
「あらっ。今日は賭けるの?」
彼は競馬中継を見るのは趣味だ。走っている馬を見るのが好きらしい。
「ああ。たまにはいいだろ。……勝ったら、お前が欲しがってた食器洗い機買ってやる。負けたら寿司で勘弁してくれ」
彼なりの反省を見て妻は口をほころばす。
「まあ。じゃあ、今日の夕食はお寿司なのね」
「いや、だから勝ったら寿司じゃないんだが……」
夫婦で話し合ってると、レバー式のドアノブが動く音がした。小さなきしみ音をたて、ドアが少し開かれる。
「おっ、珍しいな。冷房が効いてる部屋に入ってくるなんて」
「本当。タロちゃん、何かあったの?」
ドアから入ってきたのは彼らの愛猫、太郎兵衛だ。クーラーが苦手な爺さん猫でキレイな茶トラ模様をしている。
太郎兵衛は部屋の入り口で辺りをキョロキョロ見回す。
飼い主の夫婦、ソファで眠る男の子、競馬中継中のテレビ……部屋中を確認すると後ろを向いて鳴き声を上げる。
「ニャー」
すると、ドアの隙間からブチの子猫が入ってきた。近所で飼われている顔見知りの猫だ。
子猫も興味深そうに部屋の様子を見回している。
「……太郎兵衛。お前も子守を頼まれたのか?」
飼い主の問いかけを無視し、太郎兵衛はテレビに向かって歩いていく。その後ろをブチの子猫が跳ねるように追いかけていく。
「一体どうしたのかしら?」
夫婦が怪訝な顔で見守る中、太郎兵衛は前足を上げ、テレビを指した。
「ニャー」
子猫はちょこんと座ってテレビを見上げる。
――7番アグリエ−ツ461キロ、プラス12キロ。8番バクラジャーン……
テレビは約二十分後に発走する馬たちが、パドックを回る様子を映し出している。
「ミャア」
子猫が甲高い声をだすと太郎兵衛はテレビを支えに後ろ足で立ち上がる。
そして、液晶画面に映る鹿毛の馬を前足で示す。
「ニャー」
「ミ、ミミャ?」
太郎兵衛は子猫の出した声が気に入らなかったらしい。
「ウニャ!」
大きな声をあげ、液晶画面をパシパシたたく。たたかれているのはやはり馬。先ほどとは別の馬だ。
そんな様子を夫婦は呆気にとられて見ていた。
「何してるのでしょうね」
「……分からん」
その間にテレビが映すのは別の光景になっていた。
――……杯は15時35分発走予定です。解説の……
太郎兵衛はアナウンサーと解説者のやりとりには興味がなかったらしい。
さっさとテレビから離れ、次はテーブルの方へやってくる。
テーブルからはみ出た競馬新聞をちょいちょいつついたかと思うと、くわえて引っ張り落とす。
「こ、こら! 太郎兵衛! いきなり、何をするんだ!」
「タロちゃん、本当にどうしたの?」
飼い主夫婦の言葉を聞き流し、老猫は紙面を眺め回す。それから、子猫の方を見て尻尾を振った。
「ミャーン」
子猫が太郎兵衛へと駆け寄り、ぴったり並んで座る。
太郎兵衛は子猫を一瞥し、新聞に載った馬の写真を前足で指す。
「ニャ!」
「ミャア。ミャ?」
「ニャ、ニャニャニャ!」
「ミャウ……」
猫同士、何やら会話をしているようだ。
「何か教えてるみたいですね」
妻がつぶやくと、太郎兵衛は彼女を見上げて一声鳴いた。
「ニャー」
そして、開いたままだったドアから悠々と出て行く。
残された子猫は戸惑ったようで、その場をクルクル回りだす。
「……あの、子猫ちゃん?」
妻の声に子猫は驚き跳び上がる。夫婦の顔を交互に見つめた後、太郎兵衛を追って出て行った。
「何だったのでしょうね……」
「ああ。初めて見たな。あんなの……」
男は新聞を拾い上げ、猫たちが見ていた馬の名と出走レースを調べる。
どうやら、テレビに映った馬たちと同じレースに出るらしい。
「あのレース、まだ受け付けてるよな……」
「何に賭けるか決めたの?」
ドアを閉めた妻が問いかける。
「せっかくだから太郎兵衛の予想に賭けてみる。三頭指したから三連複だ!」
彼はそう言い、電話の子機を手に取った。
縁側の冷却シートの上に長老が座り込む。彼に向かい合うようにポチも座る。
『ほら、あれが馬じゃ。分かったじゃろう』
『うん。わかった。でも、ウシは?』
ポチの問いに長老はいらただしげに尻尾を振る。
『だから、テレビで牛がでるのは滅多にないのじゃ。さっきも言ったろうに……』
『でも……。ボク、ウシみたいの』
耳を伏せ、元気のない声でポチが言う。
(困ったのう……)
長老の家の人間は馬が走る番組を定期的に見ている。だから、さっきポチに見せることができたのだ。
しかし、牛がでる番組は定期的には見ない。ごくたまーに映ってるところを見たことがあるが、いつ映るか分からない。
(仕方ない。嘘を教えるのは気が引けるが……)
『ポチよ。お盆には人間が幽霊を呼ぶというのは教えたな』
『……うん』
『幽霊というのは不思議な力を持っているらしいのじゃ。だから、人間の幽霊だったらナスを牛にすることができるかもしれぬ』
『ほんと? ほんとに?』
ポチは立ち上がり、長老に詰め寄る。
『多分……。多分の話じゃ。……やって来たら、頼んでみてはどうじゃ? ナスを牛にしてくださいってな』
(おそらく、無理じゃろうがな)
長老の心を知らず、ポチは嬉しそうにピョンピョン跳びはねる。
『わかった。たのんでみる。ちょーろー、ありがとー』
彼は跳びはねたまま、外に出ようとすだれに向かっていく。
が、すだれの前で足を止め、振り返った。
『……まだ、何かあるのか?』
『ちょーろー。ウシってどんなかたちしてるの?』
長老はテレビで見た牛を思い浮かべる。まっさきに頭に浮かんだのはホルスタインだった。
『うーん。でかいけど、馬より小さかった気がするのう。お主のような模様をしておる』
『へー。ボク、ウシとおそろいなのかー』
ポチは自身の背中にある黒ブチを見る。
『あと、黒いのもおる。真っ黒のやつ』
『まっくろ? ボスみたいなやつ?』
『そうじゃ』
『ふーん。ウシってネコみたいだね』
(なんじゃとー!)
ポチの言葉は長老には許しがたいことだった。
彼はふくれあがり、うなりながら否定する。
『違う! まったく違うのじゃ! あれはわしらのようにプリティではない。ごつくて角ばっとるのじゃ!』
ポチは勢いに押されたかのように後ずさる。
『そっかー。プリティじゃないのがウシかー。……やっぱり、ちょーろーはものしりだね。ありがとー』
礼を言い残し、ポチは今度こそ出て行った。
『……物知り……。やっぱり、嘘言わない方がよかったかのう』
ポチがくぐり抜けていったすだれを見つめて長老はつぶやく。
(まあ、言ってしまったものは今更取り消せまい。あの子の小さなおつむじゃ、すぐ忘れるじゃろうし……)
少々、失礼なことを考えながら長老は丸くなった。
赤い屋根の一軒家のリビングルーム。
フローリングの床であぐらをかき、男はテーブルの上を見つめる。
視線の先にいるのは小さな馬。ミニキュウリとマッチ棒でできたお盆用の精霊馬だ。
そして、男の手にはミニナスが握られていた。
「まねして作ればいいんだな?」
「うん。そうよ。きれいに足をつけてあげてね」
娘のうなずきを見て、彼は笑いを堪えながらマッチ棒を手にした。そして、ミニナスに向かって突き立てる。
「右前足! 左前足! 右後足! 左後足!」
男が気合いを入れて作ったのはミニナスの牛。
その牛をミニキュウリの馬の横に立たせて、娘に向かって微笑みかける。
「ほら、できたぞ。パパも上手だろう」
笑いながら自慢する父親を娘は偉ぶって褒める。
「はいっ、じょーずにできました!」
「ははは。そうか。じゃあ、早速、飾ろうな」
彼はミニ馬とミニ牛を手に取り、立ち上がる。そしてタンスの上の先住民の隣りにそっと置いた。
「ここでいいか?」
「うん。それでいいわ」
そう言ったかと思うと、彼女は部屋の隅へと歩いていく。そこに置かれた段ボールの中身に語りかけた。
「ポチ。こっちおいで」
「ミャ」
ポチは段ボールから出ようとしない。
「ポチ、おいで!」
彼女はポチを強引に抱き上げ、父親の元へと戻る。
「こらこら。ポチが迷惑そうな顔してるぞ」
彼の言うとおり、子猫は迷惑そうだ。何するんだ、とでも言いたげな顔で女の子を見上げている。
「だって。早く見せたかったんだもん」
彼女はポチを持ち上げてタンスの上を見せる。
「ほら。ポチのごせんぞさま用だよ」
タンスの上を見たポチは突然暴れ、女の子の手を逃れる。
「あっ!」
ポチが落ちたのはタンスの上だ。朝のようにナスに襲いかかるかも、と思った女の子はポチに向かって手を伸ばす。しかし、ポチは彼女の届かない奥の方へと逃げていく。
女の子は背伸びしてタンスの上を見る。
ポチが奥で行儀よく座っているのが見えた。じっと精霊馬を見る彼の目に獲物を狙う光はない。
「……気に入ったのかな?」
「……うーん、どうだろうな」
娘の問いに父親は首をひねる。
その時、女性の声が響いた。
「二人とも、晩ごはんがさめるわよ。ってあら、ポチの精霊馬できたのね」
彼女はエプロンを外しながら、精霊馬たちを見比べる。
「ミニ野菜は小さくてかわいいわー」
すると娘は何度もうなずく。
「でしょ、でしょ。かわいいでしょ。きっとプリティなウマになると思うんだ」
「だったら、パパが作ったやつはプリティな牛になるのか?」
父親が笑いながら言うと、娘は再び何度もうなずく。
「そうよ。だって、こんなにかわいいもん。ねー、ポチー」
「ミャ!」
タンスの上の子猫は同意するように尻尾を振り上げた。
草木も眠る丑三つ時。
しかし、通りに人が途切れることはない。
今日は八月十三日。迎え盆の日だ。本来、朝になってから子孫が迎えに行くのだが、待ちきれず、勝手に帰ってくる者もいる。
道行く者たちはそのような霊である。
そして、赤い屋根の一軒家では早くに集まった霊たちが緊急親族会議を開いていた。
その議題は「子猫の変な頼みについて」である。
着物を着た女性の霊がタンスの上に載った精霊馬たちに手をかざす。
目を閉じ、適当な呪文をつぶやいてみる。
『ナスウシナスウシ、牛になれ!』
――特に何も起こらない。
目を開いた女性は、床にいる子猫に向かって優しく言った。
『ごめんなさいね、猫ちゃん。私も無理なようですよ』
『ううー。なんでー。なんでウシにならないの?』
子猫は戸惑い歩き回る。
そして、片っ端から部屋にいる霊たちに問いかける。
『にんげんのおじちゃんおばけ。ウシにできないの?』
『……さっき、やってみせただろう。無理無理』
『にんげんのおにーちゃんおばけ。なすのウシ……』
『無理!』
『にんげんのおじーちゃんおばけ。へんしんのじゅつ、つかえないの?』
『使えないよ』
霊たちは子猫の頼みをあっさり切り捨てる。
大体、この子猫の言うことが無茶なのだ。ナスを牛に変える術なんて使えるはずがない。
精霊馬はあくまで馬と牛をなぞらえた物。実際に霊が乗るわけではないのだ。
そう言い聞かせても、子猫は納得してくれなかった。仕方ないので、変な呪文を代わる代わるナスにかけてみせた。
だが、子猫はまだ納得がいかないようだ。彼らに何度もたずねて回る。
同じことを聞いては否定され、だんだん子猫の頭は垂れてくる。そして、ついに腰を下ろした。
『なんでー、なんでウシにならないの? プリティなウシになるってゆったのにーー!』
ミャンミャン鳴く子猫を見て、おにーちゃんおばけと呼ばれた霊が言った。
『どうやら、妙なことを誰かが教えたようだな』
『そのようですね。お父さん』
答えたのはおじーちゃんおばけと呼ばれた霊である。どうやら彼らは親子らしい。
おにーちゃんおばけは息子の方を向く。
『ところで、ぷりていな牛ってなんだ? 牛は分かるがぷりていは分からん』
『ぷりてい? ああ、プリティですか。西洋の言葉でかわいいという意味ですよ』
息子が答えると、彼は再び子猫を見る。
『ほう。猫もはいから言葉を使うのか……。じゃあ、ぷりていな牛というのは昔飼ってたおとみのことだな。あれはぷりていで働き者だった』
うんうんうなずきながら、男は納得する。その独り言に子猫は反応する。
『おにーちゃんおばけ。プリティなウシしってるの? ねえ、おしえて! おしえて!』
子猫は霊にスリスリしようとする。が、霊の体には触れることができない。すり抜けベタンとひっくり返ってしまった。
『あら、まあ』
『おいおい。大丈夫か?』
霊たちが気遣うよう子猫を囲い込んだときだった。突然、リビングの扉が開いたのだ。
みんな、いっせいにそちらを見る。現世に帰ってきた理由のひとつは子孫の顔を見ることにあるからだ。
しかし、入ってきたのは彼らの子孫ではなかった。
入ってきた者を見て、子猫が霊たちの中心から飛び出す。嬉しげに尻尾をピンと立たせてだ。
『プリティなウシだー!』
彼は目を輝かせ、「プリティな牛」へと駆け寄っていった。
古い日本家屋の台所で二人の女性がおはぎを作っている。
その台所の片隅には、食事に夢中になっているトラ猫がいた。
「ウニャ、ウニャウニャウニャ……」
声を出しながら、がっつく猫を見て、女性たちは笑い合う。
「タロちゃん、夢中になって食べてますね」
若い女性が言うと、年配の女性も言う。
「あんな高級缶めったにあげないから。慣れたら安いフードを食べなくなるかもしれないのにお父さんときたら、あんなに買ってきて……」
食器棚の横に積まれた猫缶の山を見て、彼女は溜息をつく。
「でも、お義父さまの気持ちもわかりますよ。タロちゃんが馬券を当てたんでしょう」
「そうそう、本当にビックリしたわ。まさか、大当たりするなんて……」
そう、太郎兵衛の競馬予想は当たっていた。
おかげで三千円が二百万円以上に大化けした。税金を差し引いても大金である。
その日の夕食は特上寿司。次の日は高級猫缶シニア用が大量購入され、台所には新品の食器洗い機がやってきた。
「タロちゃんは招き猫ですね。もう、二十才でしょう? そろそろ尻尾が割れるかもしれませんよ、お義母さま」
「えっ? 猫又になるには百年かかるでしょ? あと、八十年もあるけど……」
「えっ、そうなんですか? 私の聞いた話によると、三十年でしたよ」
「まあ、いろんな説があるのかしら。後で……」
女性たちが猫又談義に花を咲かせていると、舌っ足らずな騒ぎ声がした。
「にゃんにゃー。にゃんにゃー」
「ミィー!」
猫の声、というか悲鳴も同時に聞こえる。
「あっ、コラ! 離しなさい! 猫がつぶれる」
「やー。にゃんにゃー」
女性たちは顔を見合わせる。それと同時にブチ模様の子猫が台所に飛び込んできた。
そして、女性たちを見て、大ジャンプ。降り立ったかと思うと、必死に威嚇を開始する。
「フー、フシャー!」
「あ、あら。あなたはこの前の……」
「もしかして、タロちゃんに競馬指南を受けてたって子ですか? って、あの子泣き出しちゃった」
離れた部屋から幼児の泣き声が聞こえる。それをなだめる男性たちの声も聞こえるが、泣き声はやみそうにない。それどころか、大きくなっていく。
「ちょっと、見てきます」
息子の様子を見るため、若い女性は台所を出て行った。
残った女性は目の前の子猫を見つめる。
子猫は相変わらずだ。小さな体をふくらませ、小さなツメを出し、大きなうなり声をあげている。
「シャー!」
(……どうしたものかしら?)
悩んでいると、彼女の愛猫が子猫に近寄って腰をおろした。
彼は呆れたような目で子猫を見据える。そして、前足で子猫の頭をベシッとたたいた。
子猫は太郎兵衛の方を見て、抗議の鳴き声をあげる。
「ミャ!」
太郎兵衛は負けじと鳴き声をあげ返す。
「ニャ!」
「ミャ……ミャゥ……」
とたんに子猫は縮こまる。
その様子をみて、女性は言う。
「……タロちゃん。その子をよろしく。私もあっち見てくるからね」
「ニャア!」
まるで『わかった』と言うように太郎兵衛は尻尾を振る。
それを見届けた後、彼女も孫息子の様子を見るべく、台所を出て行った。
人のいなくなった台所で老猫が子猫に説教する。
『不用意に他の家に入るではない! あぶない人間もいるのじゃぞ!』
『ごめんなさい』
ポチは耳をたらして、素直に謝る。
『第一、ここはわしのなわばりじゃぞ! まったく……』
長老はぶつぶつ言いながら、エサ皿の方へ戻っていく。
皿を覗くが中身はない。
(……うまい缶詰は中身が少ないのう。けど、味がまだ残っとるのじゃ)
長老は皿をザリザリとなめる。そんな長老に向かってポチが言う。
『そうだ、ちょーろー。ウシきたよ! おしえてくれてありがとー』
『来たのか!』
長老は舌を出したまま顔を上げる。その表情は驚きでいっぱいだ。
彼は二十年も生きる長老猫だ。彼でさえ、見たことないお盆の牛を、生まれて間もない子猫が見たという。
『ポチ……どんな牛だったのじゃ?』
ちょっぴり嫉妬心の入り交じった好奇心で長老はたずねる。
『ボクとおんなしもようしてた。けど、あんまりおおきくなかったの』
『……どのくらいじゃ?』
『ちょーろーぐらいのおおきさ』
それを聞き、長老は思った。
――それ、牛じゃない。
『ポチ、わしくらいの大きさでは牛とは言えぬぞ』
『うちのにんげん、ちっちゃいなすでウシつくったの。だから、プリティなウシきたの』
『プ、プリティな牛……』
長老の脳内でかわいらしく着飾ったホルスタインがダンスを踊る。
(……いくら綺麗にしても、わしのほうがプリティじゃ。牛には負けぬぞ!)
彼が妙な対抗心を燃やしていると、ポチが不思議そうな声で言った。
『けど、ウシ、へんなことゆったの。ボクのこと、ぶれーなしそんだって』
そこまで聞いて、長老はようやく理解した。
ポチが見たのは牛ではない。彼の先祖だ。自分が牛はポチと同じ模様と伝えたため、変に混乱したのだろう。
しかし、いくら子猫とはいえ、同種族ぐらい見分けられないのだろうか?
『ポチ……。言いにくいが、それ猫じゃ』
呆れ果てた口調の長老にポチは激しく抗議する。
『ちがうよー。あれ、ウシだよー。プリティなウシだよー。だって、ネコじゃなかったもん』
『……どこで猫じゃないと判断したのじゃ?』
長老はあくまで疑わしげな様子。
だが、ポチには自信があった。やってきた牛には猫にない特徴があったからだ。
『シッポがふたつあったの。だから、ネコじゃないの』
ポチの爆弾発言に長老は驚きを隠せない。
全身の毛を逆立てた長老をポチはいぶかしげに見つめる。
『あれっ? ちょーろー、どーしたの?』
固まった長老の周りをポチがうろうろ歩き回る。
その時、髪の薄い人間の男が台所へやって来た。手に持っているのは猫用ササミジャーキー。
『あっ、にんげん。それボクの? ボクの?』
ジャーキーに気づいたポチは、人間に向かって一直線に駆けていく。
上機嫌でササミジャーキーを食べるポチを眺めているうちに長老の硬直は溶けてきた。
『……わしも死んだら、尻尾が裂けるのかのう。それとも……』
未だふくらんだままのしましま尻尾を見つめ、長老はつぶやいた。
おしまい
キュウリは馬でナスは牛。けど名前は精霊馬。
好奇心旺盛なポチは主人公にしやすいです。
登録日:2009/08/02
 | さいこー100もじまでなの |
一言メッセージ(管理人に一言送ります。感想、誤字脱字のご報告など)
|