ブラック&ホワイト (バレンタインのお話)
町の小さな洋菓子店からセーラー服の少女が二人が出てくる。
それぞれ抱えているのは洋菓子店の包み。店名が入った包装紙にリボンの飾り。ついでにハート型のシールも貼られている。
「試食の生チョコおいしかったー。トリュフも甘かったし……。これも食べちゃいそう」
ポニーテールの少女が包みを見下ろして言うと、ショートカットの少女のツッコミが入る。
「彼のために買うからついて来てって言ったのあなたじゃない」
「うーん。まあそうなんだけど……。そういやあんたもトリュフの詰め合わせ買ったよね。とうとう告白?」
からかうように肘でこづかれ、少女は苦笑する。
「これは義理用」
「ぎりー? ずいぶん上等な義理ねぇ」
疑わしげな友人の態度にずいっと詰め合わせの箱を見せる。
「一つずつラッピングし直せば、立派な義理! 百均で包装紙も買ったし……」
確かに彼女が買ったトリュフの詰め合わせは中身が多かった。ばらせば単価は安くなる。
「けっこう、せこい! ……で、本命はあげないの? 教えてくれないけど、いるんでしょ? ねえ? ねえ、ねえ?」
友人のしつこい問いに少し考え込む少女。
「……本命……ってさあ。手作りだと重いかな……」
ポツリとつぶやくと当然友人が騒ぎ出す。
「手作り! 気合い入ってるぅ! やれっ、やっちゃえ!」
「そんな無責任な……。重いと思われたらイヤなんだけど……」
「大丈夫! あんたかわいいんだから! うまくいったらダブルデートしようね」
あくまで脳天気な友人の答えに彼女の気は軽くなる。
「じゃあ、若さで乗り切るか」
「そうそう、青春は一回限りだって。……ところでお相手は誰なの?」
友人の問いに彼女は恥じらうようにうつむく。
「……ないしょ」
「もう、いつもごまかすんだから。まあ、いいわ。うまくいったら教えて……あれ、何か音がする」
――チリチリ、チリ……
彼女が言うように小さな鈴の音が聞こえてきた。しかも近寄ってくるようだ。
二人は音の発生源を探そうと辺りを見回す。どうやら店と民家の境界にある植え込みの向こうから聞こえるようだ。
植え込みの一部がガサガサと動いたと思ったら、ブチの子猫が姿を見せる。
「ミャア」
「あっ。かわいいー。こっちおいで」
言葉がわかるかのように子猫が鈴の音を振りまきながら近寄ってくる。しかもその後ろにもう一匹続く。
同じようなブチ模様の子猫だが、そちらは鈴なしの首輪だ。
鈴をつけた子猫は彼女たちの前まで来るとコロンとひっくり返ってお腹を見せる。
そしてかわいらしい声で鳴く。
「ミャア」
「かわいいー!」
二人は思わずしゃがみ込み、子猫のお腹をなでる。
もう一匹の子猫もそばまでやって来て、彼女らを上目遣いで見上げる。
「ミャア」
「やーん。かわいいー! すっごくかわいいー!」
ポニーテールの少女は転がらない方の子猫を抱き上げる。すると子猫はチョコの包みに興味を示したようだ。
「ミア? ミャア?」
ちょいちょいと前足でラッピングのリボンをつつく子猫。
その愛らしさに少女の心はとろけそうだ。
「いやーん。ホントにかわいいー。彼よりかわいいー。チョコこの子にあげちゃおっかな」
その言葉にセーラー服のスカーフで子猫をじゃらしていた少女が顔を上げる。
「ダメだよ! 猫にチョコあげちゃ! 猫にチョコは毒なんだから」
「えっ、そうなの?」
友人の忠告にきょとんとする少女。友人は神妙な顔でうなずいてみせる。
「猫だけじゃなく犬もダメ。チョコレート中毒っていうのがあるから、へたしたら死んじゃうよ」
「そうなんだ……。ごめんね、子猫ちゃん」
子猫をさらに上に上げ、頬ずりする。
子猫は少し迷惑そうにミャアと鳴いた。
セーラー服の少女たちは子猫に手を振りながら立ち去っていく。
子猫たちは彼女らが立ち去っていくのを座って見ていた。
『ちえっ。せっかくじょしこーせーってのにあいそふりまいたのに……』
不機嫌そうにブチの子猫が言う。
『なんにもくれなかったねー。おにーちゃん』
もう一方の子猫もつまらなそうに言った。
そんな弟に向かって、兄は毛を逆立てる。
『ポチ。おまえがわるいんだぞ。「コロン」しなかったから』
兄の怒りにポチと呼ばれた弟は縮こまる。ついでに言い訳も言ってみる。
『で、でもボク、「コロン」するまえにだっこされちゃったもの』
コロン……それはこの辺りの長老猫から兄弟が教わった悩殺技だ。
長老は『これをすれば人間はイチコロじゃ』と言っていた。ただ、転がって腹を見せるだけの技なのだが、かなりの人間に効果が期待できるそうだ。
怯えるポチを見て、兄猫は溜息をつく。
『まったく……。じゃあ、つぎはおーえるってのをねらって……』
『何やってるんだい! あんたたち』
突然、目の前にブチの成猫が現れる。
『あ、おかーちゃん』
『かーちゃんだ。どーしたんだ?』
子猫たちは母猫に近寄り鼻先を付き合わせて挨拶する。
そして、その後この場所にいる理由を教えた。長老に教わった悩殺技で人間におねだりをしていたと……。
それを聞いた母猫は長老宅の方を見て、心でぼやく。
(もう。長老ったら余計なことを教えて……。教育に悪いったら……)
『けど、にんげん、なにもくれなかったんだ』
『うん。くれなかったの。チョコくれるってゆったのに』
ポチの言い分に母猫の肝が一気に冷えた。
彼女は子猫たちに向き直り、慌てて言った。
『ちょ、ちょっと待ちなさい。チョコ? ダメダメ! あれは食べちゃダメ!』
母の様子に子猫たちは目を見合わせる。あれは食べ物だったはずだ。
『シロクロ、ポチ、よく聞きなさい。昔、わたしがチョコ食べたとき……』
母猫は自分の体験を織り交ぜて説明を始める。
子猫たちは目を丸くして話を聞く。話が佳境に入る頃には小さな尻尾がふくれあがってしまっていた。
『そ、そんなおそろしーんだ。びょーいんいきなんて』
『チョコにはきをつけるの。ちゅーしゃはヤダの』
兄シロクロも弟ポチもチョコレートの恐ろしさをしっかり認識したらしい。
そう思い母猫は満足する。
かわいい我が子はもう一緒には住んでいない。それぞれ近所の家に里子に出されたからだ。
だから、自分が四六時中守ることができない。ならばきっちり独り立ちしてほしい。
危険探知も猫の心得の一つだ。だからチョコレート中毒について教えた。
『わかったね。二匹とも。チョコは毒だから食べるんじゃないよ』
母として子猫たちに教育する。
そう、チョコレートは毒なのだ。
「あぁーっ、もう! シロクロ、いい加減にしろ!」
十歳くらいの男の子が足下の子猫を怒鳴りつける。
怒鳴り声に驚いた子猫は一瞬ビクッと体を震わす。しかし、すぐに立ち直り、男の子の足をよじ登り始めた。
「コラ! 登ってくるな!」
彼は慌てて子猫を左手でつかんでジーンズから離す。
「お前さあ……。なんで今日はしつこいの?」
子猫を顔の前まで持ち上げて聞いてみる。男の子の問いにブチの子猫はうなるだけだ。
「フーって言われてもわかんねえよ!」
一人と一匹はそのまましばらく睨み合う。
「……さっきから何やってるの?」
「あっ、母さん。それがさ……」
男の子はシロクロを持ったまま、母に説明する。
「なんかさー。シロクロがおやつ食べるの邪魔するんだ」
男の子の右手にはお皿がある。その上に載っているのは母特製のチョコレートケーキだ。
母親は子猫の様子に首をひねる。
「……食べたいのかな? でも食べさすわけにはいかないし……。それにおねだりするときの声じゃないし」
お向かいの家から里子にもらった子猫シロクロ。
彼はおねだりするときは甘ーい鳴き声をあげる。甘い甘ーい声を上げ、子猫特有のつぶらな瞳でじーっと人の顔を見上げるのだ。
が、今のシロクロの様子は明らかに違う。
のどの奥からでるうなり声は紛れもない威嚇の声。そして睨んでいるのは男の子の右手の先。
つまりチョコレートケーキだ。
「まあ、とりあえず。シロクロをこっちに渡して」
「はい」
母親は男の子からシロクロを受け取ると、リビングの外にだし、扉を閉めた。
「ミャア! ミミャ!」
曇りガラスの向こうで子猫が扉を引っかいているのが分かる。
「今のうちに食べちゃっ……立ったまま食べない! 座って食べなさい!」
男の子は口をもぐもぐさせながら返事をした。
「ふぁい」
リビングから追い出されたシロクロはすりガラスがはまった扉と格闘している。
「ミャア! ミャアミャア!」
かわいい前足で引っかいても、小さな頭で頭突きしても、重い扉はびくともしない。
「ミィ……」
扉の前に座り込み耳を垂れる。そのとき玄関の方から物音がした。
耳をピクリと動かし、そちらを見る。
ちょうど高校生の長男が帰ってきたのだ。
「ミャア!」
玄関からやったきた長男に向かってシロクロが鳴き声をあげる。まるで「開けろ」と命令するような堂々とした鳴き方だった。しかし、彼はシロクロを素通りし、二階の自室へ向かう。
「ミャ……。ミャ、ミャア?」
シロクロは彼が去っていくのを首をかしげて見送った。
「はあ……。そりゃ期待はしてなかったよ……。してなかったんだけどさ」
勉強机に座った長男が頬杖を付いて何かを見ている。
視線の先にあるのは小さな丸いチョコレート。ほとんど黒に近い茶色のそれは、トリュフというお菓子だろう。
彼は高校でバスケット部に所属していた。今日は土曜日だが練習試合があったのだ。
(あー。やっぱり俺の独り相撲か……)
チョコレートを見つめたまま溜息をつく。
今日は受験生である元マネージャーが応援にやってきた。彼女は引退してからも時々応援にやってきたが、今回は久しぶりだった。
何せ受験シーズン真っ只中なのだ。受験生は忙しいのでそうそう顔を出さない。
それでも彼女はやってきた。そして部員たちにチョコレートを配っていった。
きれいな薄紙に包まれたトリュフを一粒ずつ。
「……どうみても、義理だし……」
そう、もらったのはたった一粒。他の部員も同じ物をもらっていたので義理だろう。
ほのかに憧れを抱いていた先輩の笑顔が脳裏に浮かぶ。天使のような微笑が今日は悪魔の嘲笑に見えた。
「はあーあ……」
声に出るほど大きな溜息を漏らし、トリュフをつまむ。
目をつぶり、それを口に運ぼうとするがなかなか手が進まない。心がブレーキをかけているようだ。
「なさけねえ……」
つぶやきうつむいたとき、突然肩に何かが落ちてきた。
「うわっ! ……ってシロクロ、いつ入ってきたんだ?」
自分の左肩の上にブチの子猫が乗っている。
子猫をなでながら、後ろを向くと扉がわずかに開いていた。やんちゃな子猫はドアノブを回すというわざを覚えたらしい。
肩の上のシロクロは耳を伏せて机の上をじーっと見ている。その視線をたどるとトリュフに行き着いた。
彼はシロクロののどをくすぐりながら言う。
「何だ? 食いたいのか? でもこれは駄目……駄目だって!」
シロクロがトリュフに飛び掛ったので慌てて止める。
猫を飼うことになったとき、家族全員で猫の飼い方を勉強した。猫にチョコレートは食べさせてはいけないとどの本にも載っていた。
押さえた手の隙間から子猫が必死にチョコへと前足を伸ばす。届かないのがもどかしいのか机をバシバシたたいている。
「ミャ、ミャ!」
「お前のじゃない! ああ、まったく。さっさと食うか……」
彼はシロクロを押さえつけたまま、黒いトリュフをかじる。
ほろ苦いチョコレートの味が舌先から口全体に広がっていく。彼にはそれが自分の心を表しているように思えた。
「ミャア、ミャア! ミャ!」
うるさい子猫の声を聞きながら、歯型のついたトリュフを見つめる。
「……今日は止めとこう」
シロクロを机から降ろし、トリュフを包みなおす。
小さな巾着包みを作り、赤いリボンで口を縛る。机の引き出しを開け、しまおうとしたときだった。
シロクロが飛び上がり、トリュフの包みを奪っていったのだ。
「えっ……? お、おい……」
一瞬迷った隙に子猫は部屋をダッシュで出て行く。
もちろん、トリュフの包みをくわえたまま……。
「ま、待てー! シロクロー!」
我に返った彼は慌ててシロクロを追いかけた。
夕暮れの町を一匹の子猫が散歩している。塀の上を器用に歩くその猫はシロクロの弟ポチである。
(もーすぐおうちだ。きょうのエサはなにかなあ? ボク、カツオのかんづめたべたいの)
夕食に思いを巡らしながら、角を曲がる。すると前方に猫影が見えた。家々に囲まれた塀の上に先客がいる。
(あっ、だれかいるの。おとなだったらみちをおりるの……)
ポチは知識欲が高い猫だった。色んな猫から色んな話を聞くのが大好きなのだ。
そして今日は母親に猫のルールについて教わってきたところなのだ。
今日教わったのは道の譲り合い。猫同士が塀の上でぶつかった場合、弱い方が譲る。
(すぐおりたほうがいいのかな? もうすこしあとで……あれ?)
彼は前方にいる猫が誰だか気が付く。
『おにーちゃん。どーしたの?』
呼びかけられたシロクロがポチの方を向く。
『おっ! ポチじゃないか。いいところにきた』
『いいところ?』
首をかしげるポチにシロクロは小さな巾着包みを見せる。
『なあに、これ?』
『チョコレートだ』
『チョコレート!』
ポチが目を見開き、大きな声を出す。
『バカ! 大声出すな!』
シロクロも大声を出す。すると人間の声が聞こえた。
『ソコカ!』
『あー、くそ。みつかった……』
見つかった、とシロクロはしょげるがここは家々の間にある塀の上。道路からは見えない位置なので完全に見つかったわけではない。まだ時間はある。
『おにーちゃんはみつかったらこまるの?』
ポチは声を出さずに身振り手振り尻尾振りでたずねる。
『オレじゃなくてにんげんがこまるんだ。ほらコレあるから』
シロクロはポチに巾着包みを再び見せる。
『チョコレートなんだよね』
ポチは恐る恐る巾着をつつく。シロクロも巾着を一緒につつく。
『そう、チョコレートだ。これくうとどうなるかしってるよな?』
ポチは母の言葉を思い出す。
『おなかいたくなって、くるしくなって、うごけなくなって、びょーいんでいたいハリさされるの』
二匹の母親はチョコレート中毒で入院したことがあるらしい。
とっても辛い思いをしたあげく、病院へ連れて行かれて再び辛い思いをしたそうだ。
『そーなんだよ。オレ、ずっとうちのにんげんにちゅういしてんだぜ! くうなって! なのにさ……』
シロクロは親切心からチョコを食べないよう忠告してきた。
が、彼の家の人間は聞こうとしない。人間には猫の言葉が分からないから仕方ないかもしれないが……。
『あいつらさ、よろこんでくっちゃうんだ。だからほっとこうっておもったけど……。けどな。うちのおにーちゃんってやつ、いやそうにチョコみてたから……まあ、あいつだけでもたすけてやろっかなって……』
『おにーちゃんはやさしーね』
ポチがニコニコ笑う。シロクロは弟の笑顔に少しホッとした。
彼は人間のチョコレートを盗ってきた。決して悪気があったわけではない。
なのに人間は必死になって取り戻そうと追いかけてくるのだ。だから悪いことをしている気分になってきたのだ。
ニコニコしたままの弟に彼は相談することにした。
『なあ、ポチ。これどうしたらいいんだろう?』
聞かれたポチは目を細めて考え込む。
『うーんと……うーんと……。すてちゃえば?』
それができるならとっくにやっている。拾われたら元も子もないのでずっと運んでいるのだ。
シロクロは前足の下を見下ろす。今まで引きずってきたためか、二匹の子猫につつかれたためか、足の下の巾着包みは微妙にひしゃげてしまっている。
『どこに……』
シロクロが顔をあげたとき、人間の声が聞こえてきた。
『スイマセン……ネコ……モウシワケ……ニワ……?』
それに答えるほかの人間の声も聞こえる。
『ハイ。……ネコ……? ドウゾ……』
そして近寄ってくる人間の気配。
どうやら、そばの家の庭経由でこちらに来ようとしているようだ。
シロクロは大慌てでポチに聞く。
『どこに……どこにすてりゃいいんだ!』
『えーっとゴミばこってとこかな。……あっ、にんげんきた』
ポチの言うとおりジャージ姿の男子高校生が近寄ってくるのが見える。
『よし、ゴミばこだな。サンキュ、ポチ』
シロクロはトリュフの包みをくわえると、人間とは逆方向の家の庭に飛び降りた。
夕焼けの中、子猫と男子高校生の追いかけっこが続く。
「待て、待てって言ってんだ! 待ちやがれ、シロクロ!」
息を切らしつつ、怒鳴りながら走る彼を、道行く人は「何事か」と言いたげに見送る。
対してリボンが付いた包みをくわえて走るブチの子猫。
こちらは携帯で写真を撮ろうと挑戦する人が後を絶たない。
「シロクロー! それはお前の食べ物じゃないー! オレのチョコだー!」
叫びながら角を曲がると子猫の姿が見えない。
「……またかよー!」
頭をかきむしりながら、その場にしゃがみ込む。
何せ相手は子猫である。体が小さく身が軽いためかくれんぼはお手の物だ。人には通れない裏道に行ったりするため何度も見失ったのだ。
(さっきは公園にいた。その前は魚屋のゴミバケツの上。……次はどこだ)
息を整えながら考える。
すると犬の散歩中の近所のおばさんが通りかかった。
「どうしたの? こんなところに座り込んで。具合でも悪いの?」
彼は慌てて立ち上がる。
「い、いえ。何でもありません。ウチの猫を探していただけで……」
「お宅の子猫ちゃんだったらあっちのコンビニ前で見たけど……」
おばさんは来た道を指さして言う。
「コンビニ前? ありがとうございます」
彼は礼を言いながら、おばさんの指さす方へ走り出す。
まっすぐ行って角を曲がればコンビニだ。
「シロクロー! 先輩からもらったチョコ返せー!」
彼は勢いよく角を曲がる。
が、目に入った光景にバランスを崩しずっこける。
おばさんの言ったようにコンビニ前にはシロクロがいた。しかしそこにいたのはシロクロだけではなかった。
シロクロを抱き上げ、ポカンと彼を見ているのはあこがれの先輩だった。
穴があったら入りたい、というのはこういう状態を指すのだろう。
アスファルトに横たわったまま彼は思う。
(……な、なんでよりによって……)
義理チョコを必死で追いかけるところを見られてしまった。鏡を見なくても顔が赤くなっていくのが分かる。
彼女に顔を見せないよう背を向けてゆっくりと立ち上がる。
「……え、えーっと……」
「この子、君の猫?」
穏やかな声の問いかけに彼は思いきって彼女の方を見る。
「は、はい。……シ、シロクロって名前で、ほら白と黒のブチだから。いや、白地に黒いブチ模様。単純な名前なのは家族会議で決めたからなんです。ああ、そうそう。そいつには弟がいて、ウチの猫じゃないんですけど、ポチって犬のような名前で……。えーっと、それから……それから……」
早口でよく分からないことをまくし立ててしまった。
顔がさらに熱くなるのを感じる。
(……な、何言ってんだ。ちゃんとした話題をだせ、オレ!)
あたふたしている彼をしばらくの間見つめ、先輩は言った。
「そう。シロクロちゃんって言うんだ。昨日もあったんだよ。一緒にいたのがポチちゃんだったのかな。二匹ともかわいいね」
「あ、ありがとうございます」
彼に先輩の言葉は半分しか届いていない。だが、次の言葉はハッキリと届いた。
「シロクロちゃんが持ってたチョコってわたしがあげたやつだよね。それ追いかけてきたの?」
――ギクリ
顔はイヤになるくらい熱くなっているのに背筋が一気に冷え込んだ。
一年生の時からの片思い。いかにも「義理」というチョコをもらってしまったので彼女に脈はないだろう。ならば、隠し通したい。
「……ええ。シロクロが食べたらまずいですから。猫にチョコレートは悪いって本に書いてありました」
バクバク跳ねる心臓を押さえて落ち着いた声で説明する。
「それ、シロクロちゃんわかってたみたいだよ。なにせ、チョコをゴミ箱に入れたから。というか、チョコもったままゴミ箱にダイブしたんだけど……」
(な……! ゴミ箱?)
彼は思わず先輩からシロクロを奪い取る。
「シロクロ! 何やってんだ!」
両手でつかんで揺さぶるように怒鳴りつける。
いきなり怒鳴られたことが気に障ったらしく、シロクロは指にがぶりと噛みつく。
「いてっ!」
噛まれた方の手を離し、宙で振る。
「まあ、落ち着いて。子猫のしたことじゃない。……ねえ、そんなに好きだったの?」
「ええ! す、好きって!」
「チョコレート」
「え? あ、ああ。うん。オレ、甘い物好きでさ。チョコレート大好きなんだ。冬限定チョコとか制覇するぐらい……」
気持ちがばれたのかと思いきやそうではないらしい。彼は少しホッとした反面、ちょっぴり残念な気持ちを抱く。
先輩は彼を見上げてうなずいた。
「そうなの……」
そして小声でつぶやく。
「……ビターを使う必要なかったな……」
「えっ?」
彼が聞き返すと先輩は何でもないと手を振る。
「……シロクロちゃんがチョコ捨てちゃったから、今から買い直すね」
「え……。先輩、気を使わないで……って」
止める前に先輩がコンビニに入っていってしまう。
(入って止めるか……。いや、こいつがいるから入れないよな)
コンビニの入り口には「ペットお断り」マークが貼ってある。
手の中の子猫はこのまま連れ帰るつもりだった。
駐車止めに腰をかけ、子猫を睨みつける。
「お前なあ……。帰ったら覚えてろよ」
「ミャア?」
シロクロは今更こびを売ろうというのか、彼の手をぺろぺろなめ始めた。
「くすぐったいぞ。シロクロ。今日は甘えても無駄だ。……おやつは当分抜きだからな!」
「ミャ? ウミャ!」
シロクロは身をよじって彼の手から抜け出そうとする。
「……コラ、暴れるな。いてっ!」
逃げないよう押さえようとしたら再び噛みつかれた。少し力を抜いた隙にシロクロはアスファルトに降り立つ。
そして……。
「ミャン」
「……かわいこぶるな」
コロンとひっくり返り、甘え声を上げる子猫を冷ややかに見下ろす。
「ミャア」
シロクロは再びコロンと転がる。転がりながら彼の足に自分の体をこすりつける。
「……おやつ抜きがそんなにイヤか……」
いつもより高度な甘え方に彼は溜息をついた。
「あっれー。あんたバスケ部の後輩じゃん」
突然の声に彼は振り返る。コンビニの入り口にはポニーテールの少女がいた。
(あっ、確か先輩の友達。……強引な人だったよな)
彼女は彼に近寄り、足下の猫を見る。
「あっ。この子、昨日の子だー。あんたのとこの子?」
「はい。シロクロっていいます」
「へえ。シロクロって名前なんだ。だっこしていい?」
彼が返事をする前に彼女はシロクロを抱き上げた。
(オレ、返事してねえけど。……あいかわらず強引な人だ)
シロクロはおとなしく抱き上げられ、ゴロゴロのどをならしている。もともと人見知りしない猫なのだ。
「かわいいー」
歓声を上げながらシロクロをなで回す少女。
ひとしきり子猫と戯れたあと、彼にさらに近づき、小声でたずねる。
「ねえ。ところであの子にチョコもらった?」
あの子というのは先輩のことだろう。そう察して返事をする。
「もらいましたよ。トリュフをひとつ」
「トリュフ? 義理チョコね。……ねえ、他のチョコもらった子いなかった? どうも本命には手作り渡したみたいなんだよね」
――本命には手作り……。
その言葉が彼の心に突き刺さる。
「……オレの知る限りいませんね。バスケ部は全員ビターのトリュフでした」
少し苛立った声で言う。
「ビター? ビターなの? あの店のチョコ、スイートチョコのトリュフだったのに……」
子猫を抱いたまま、不思議そうに言う先輩の友人。彼女は少し考え込んだのち、にやあっと笑う。
「なんだあ。そういうこと……。うんうん、そうかあ」
一人納得し、彼にシロクロを渡す。
「あたし帰るね。あの子にそう伝えといて」
「ええ。伝えろって……。先輩だってもうすぐ出てくるでしょ」
彼はコンビニの中をのぞき見る。先輩はレジのカウンターにいた。
「いいのいいの。じゃあねー」
軽く手を振りながら彼女は去っていく。
呆然とそれを見ていたら、先輩がコンビニから出てきた。
「おまたせー。……あれ?」
「先輩の友達だったら先に帰るって言ってましたよ」
キョロキョロ辺りを見回す先輩に彼は伝える。
「そうなんだ」
先輩は少し顔を曇らせる。その様子を見て彼は言う。
「今行ったばかりだから、走れば追いつけますよ。あっ、なんならオレがひとっ走りいって……」
「君がそこまでする必要ないって。置いてかれたの気にしてるわけじゃないから」
「そうですか?」
「うん。……たぶんメールで聞かれるだろうな……」
道路の方を見て、憂鬱そうに彼女はつぶやく。
そして、彼に向き直るとコンビニの袋からホワイトチョコレートを取り出す。
「はい。ハッピーバレンタイン!」
「ええと……。ありがとうございます」
ホワイトチョコレート。それはコンビニで売っている普通のチョコレートだった。そう、普通の……バレンタイン特設棚に置かれるようなものではなく、オーソドックスな板チョコである。
(……また、義理か……。わかってたけどさ……)
彼が落ち込む間もなく、またしてもシロクロの様子がおかしくなった。
「ミャ! ミャミャミャ!」
ホワイトチョコレートに向かってシロクロは爪を立てる。
「こらっ! お前なあ……」
慌ててチョコレートとシロクロを引き離す。
すると先輩が再びコンビニの袋を探り出す。
「シロクロちゃんはこっちね」
「ミャア!」
先輩がだしたにぼしの袋をみて、シロクロは嬉しそうに鳴く。どうやら自分のエサはわかるらしい。
「ペット用だから大丈夫だと思うけど……。よかったらあげて」
ニッコリ微笑む先輩に彼は複雑な心境で礼を言った。
先輩が立ち去ったあと、腕の中のシロクロに当てこすりを言う。
「よかったなあ。シロクロ。オレより良いのもらって……」
子猫に飼い主の胸の内はわからない。
彼がもっているにぼしの袋に手を伸ばすだけだ。
「ミャア。ミャアア」
手を伸ばしても届かないので、輝く瞳で持ち主を見上げる。
彼は少しの間シロクロを睨んでいたが、諦めたように首を振る。
「わかったよ。ちょっとだけやる。一応、お前に対する義理チョコみたいなもんだろうからな」
彼は駐車止めに腰を下ろし、にぼしの袋を開ける。
少しだけ中身を取り出し、子猫に差し出す。
――ボリボリ
シロクロの口から小気味よい音が響いてきた。
「オレも食うかな……」
手に持ったホワイトチョコを見てつぶやく。
シロクロはにぼしに夢中だ。また大騒ぎ始める前に食べてしまった方がいいだろう。
チョコの外包装から銀紙に包まれたチョコを抜き出す。
すると何かがヒラリと下に落ちた。
「ん? なんだこれ?」
落ちたのはルーズリーフの切れ端だ。
拾い上げると何かが書かれている。
――受験が終わったらどこかにつきあってくれない? できれば恋人同士がいくような場所がいいな。連絡待ってます。
そのあとに続くのは先輩の名前とメールアドレス。
彼は目をこすり、再び紙切れを見る。
書いてある文は何度見直しても変わらない。
「い、い、い……いやったあぁーー!」
拳を振り上げ奇声をあげる飼い主をシロクロは目をまん丸くして見上げる。
そして、少し後ろに下がり、フーッと威嚇した。
冬にしては気温の高い日。ブチの雌猫が家の縁側でまるまっている。
(いつもこれくらいあったかいと良いねえ……)
気持ちよくまどろんでいると騒がしい声が聞こえてきた。
『かーちゃん、かーちゃん、たいへんだー』
向かいの家に里子に出された長男の声だ。ブチ猫は立ち上がって伸びをする。
『なんだい。大騒ぎして……。それにあんた、なんで玄関から入ってくるんだい。もうここはお前の家じゃないんだよ』
『だってたいへんなんだ!』
『なにが?』
『うちのにんげんチョコたべたんだ!』
『はぁ?』
母猫にはどこが大変なのかわからない。
(この子、何を言い出したんだか……。人間がチョコを食べるのは当たり前のことで……あっ!)
彼女は思い出した。二匹の子猫たちにチョコレート中毒について教えたことを。そして教えなかったことを。
興奮してグルグル回るシロクロに母は追加授業を始める。
『あ、あのねえ。シロクロ。チョコレートは人間には毒じゃないから……』
その言葉にシロクロは動きを止める。
『え? ええー! うそだあ!』
『なんで嘘なんだい。人間は平気だったろう?』
母が呆れ果てた口調で言うがシロクロは尻尾の先を動かして否定する。
『うちのちっさいほうのにんげん、かぜってのになった。あれびょーきなんだろ。きっとチョコのせいだ』
『……人間はときどき風邪って病気になるんだよ。それとチョコは関係ないの』
母の説明に彼は不満そうな顔だ。
『じゃあ、おにーちゃんってにんげんは? あいつチョコくってからヘンだぞ』
『どんな風に?』
『いっつもにやけて、ときどきヘンなこえあげるし。けーたいってのよくみるようになったし』
『ふんふん』
『ときどきオレをだっこしてさけぶんだ。シロクロはキュウビトだって……』
(キュウビト……キュービト? ああ、キューピットっていいたいのかい。……この子、何やったんだろう?)
疑問に思いつつ母猫はシロクロに言い聞かせる。
『それは心配いらないから』
『そーなのか? びょーきじゃないのか?』
なおも言うシロクロの頭を安心させようと優しく舐める。
『病気じゃないから、放っておきなさい』
『……わかった。すこしうざいけどほっとく。……じゃあうちにかえる。ちいさいにんげん、げんきになったから、あそんでやるんだ』
来た時と同じように騒がしく去っていくシロクロ。
母はその様子を見送ったあと、シロクロの言葉について考える。
(人間の恋は不治の病っていうけどねえ。まあ、私には関係ないか……)
あくびをして再び丸くなる。
ポカポカ陽気が彼女を眠りへといざなった。
おしまい
猫はどうやって食べられるものと食べられないものを見分けてるのだろうか?
そんなことを考えながら書いた話。
登録日:2009/05/24
 | さいこー100もじまでだってさ |
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