オニばらい (節分のお話)

 ――フギャーオ! ギャーオ! ギャ!
 一月末の寒い夜、騒がしい叫びが辺りに響き渡る。
 とある家の中、茶の間で談笑していた夫婦にもそれは聞こえた。
「うるさいわねえ。どこの猫かしら?」
 妻の声にそばにいた夫は新聞から顔を上げる。
 そして、こたつ布団をめくり、中をのぞき込む。中では茶トラ模様の猫が丸まっていた。
「とりあえず、うちの太郎兵衛じゃないことはたしかだな」
 主人の言葉が届いたのか、太郎兵衛と呼ばれた猫は男の方に顔を向ける。
「そりゃ、うちのタロちゃんのわけないじゃない。もう、ケンカするような歳でもなし」
「そうだな。太郎兵衛はもうろくジジイだからな」
 言いながら、こたつ内に手を伸ばして、飼い猫をなでようとする男。
 その男の手に猫パンチがとぶ。何度も何度もベシベシとぶ。
「こら。太郎兵衛! 何するんだ」
 憤慨する夫を見て妻がクスクス笑う。
「もうろくジジイにもうろくジジイと言われて怒ったんじゃない?」
「おいおい、俺はまだもうろくジジイじゃないぞ」
「あら。じゃあ、そのうちもうろくジジイになるの?」
「そうじゃなくて……」
 夫婦が軽く言い争っている間も外の声は途切れなかった。


 木枯らしが吹く小さな公園。寒さのためかそこに人影はない。
 だが、猫影はいくつもあった。
 思い思いの場所を陣取り丸まっている猫たち。寒いからか猫団子状態になっている者たちもいる。その猫団子のひとつから小さなかわいい声が響く。
『かーちゃん。ボスまだぁ?』
『まだぁ? さむいよう』
 ブチの子猫たちを交互に舐め、ブチの母猫は優しく言う。
『もう少し待ちなさい。きっともうすぐ……』
『待たせたな』
 母の言葉が終わる前に真っ黒な猫が公園に現れた。金色に光る瞳をした彼はこの近辺一帯のボス猫だ。
 彼は堂々と猫団子の間を通り、そばのベンチに上がって香箱を組む。
『では、猫集会を開催する。今日の欠席者は?』
 ボスの問いに茶色のブチ猫が答える。
『長老がいません』
『そうか……。では次の集会は長老の家の近くにしよう。なるべく参加していただきたいからな。では次、新入り情報はあるか?』
 この問いには真っ白な猫が答える。
『うちの隣、血統書付きが来たわ。一気に二匹も』
『……そいつらは外に出るのか?』
『完全家猫みたい』
 となると縄張りは家の中のみ。猫集会に出る必要はないだろう。
『じゃあ、あまり関係ないな。他には?』
 ボスは辺りを見渡す。他に発言しようとする猫はいないようだ。
『では、俺からだ。よそものが来てる。しかも、強い猫だ』
 ボスの言葉に猫たちの間に緊張が走る。
 この近辺で一番強い猫。それがボスだ。そのボスの言うことに間違いはない。特に猫の強さに関しては彼がもっとも詳しいのだ。
 サビ模様の雄猫が恐る恐るたずねる。
『ボス。そいつはどの位の強さなんですか?』
 ボスは近所の猫たちと昨夜の喧嘩相手を思い比べる。
(あいつは……歴戦のとみた。この中で勝てるのは……)
 目を閉じ、少し思案したのち彼は答える。
『……多分、俺より少し弱いくらいだ』
 ――ボスより少し弱いくらい。
 それはボス以外のなわばりが荒らされる可能性があることを示す。
『た、大変じゃないですか!』
 雄猫たちが慌てる。
『じゃあ、いい雄なんだね!』
 雌猫たちが沸き立つ。
 猫は強いほどいいなのだ。つまり縄張りどころかさえとられかねない。
『……去勢されてるみたいだがな』
 雌猫たちはガックリし、雄猫たちはホッとした。
『あの、ボス。去勢されてるのにボスに決闘を挑んだのですか? そいつは』
 猫の決闘は縄張り争いか雌の取り合いにより行われる。
 去勢された雄は縄張りへの執着が薄くなる。に対する執着は全くなくなる。
 わざわざよその猫の縄張りまで喧嘩を売りに来ることは滅多にない。
 ボスはベンチを尻尾で強く打ち付ける。
『……メシ目当てだったようだ。勝手にうちに入ってきて俺のメシ食っていきやがった』
 エサの時間になり、エサ置き場に行った彼が見たのは恰幅のいいの黒猫だった。
 彼はボスのエサをあっという間に平らげると窓から出て行ってしまったのだ。
 彼の家の人間はエサを食べたのはボスだと思っている。必死で自分は食べてないことを訴えてみたが「もう食べたでしょ」と怒られるだけだった。
 さらにボスはベンチを強くたたく。かなり苛立っているようだ。
『追いかけて引っ掻いてやったが……意外と強かった。やたら図体がでかいし……。あいつ、まだこの辺に居るみたいだからな、みんな気をつけるように!』
 ボスが周りの仲間たちに注意を促す。それは滅多にない異例事態だ。
 本来、猫は野生動物だ。弱肉強食の中で生きなければならない。だから縄張り争いにボスが口出しすることはない。
 しかし今回現れた猫に関しては文句がたっぷりある。
 ボスの留守中に勝手に家に上がり込み、エサの食い逃げをやったのだ。それは猫のルールに違反している。
 なにせ人間の用意するエサは用意された猫の物だ。人間と遊んでやったりした報酬なのだ。
 卑怯な猫に食べさせるエサはない。


 ――フギャーオ! ギャーオ!
 コタツでお茶を飲んでいた男は騒音元と思われる方へ顔を向ける。
「……最近、毎日騒がしいな……」
「本当に……。あら? なんだか声がいつもより近いような……」
 妻の言葉に男は耳を澄ます。
 ――ギャー! フシャー!
 確かに声が近い場所で聞こえてくる。
「確かに近いが、うちの太郎兵衛はここに……」
 コタツ布団をめくり上げ、男は中を覗き込む。いつも中で丸まっている彼らの飼い猫がいない。
「あれ? 太郎兵衛? どこいった?」
 彼がキョロキョロ辺りを見回すと、茶の間の扉が勢いよく開いた。そして勢いそのままに愛猫太郎兵衛が姿を現す。
「まあ、タロちゃん。どうしたの?」
 妻の問いの答えようというのか、年寄りのトラ猫は大騒ぎを始める。
「フニャー! ニャー! ニャニャ! フーニャ!」
 妻の膝に乗って訴えかけたと思ったら、夫の腰に体をこすり付けてやはりニャーニャーと騒がしい。
 夫婦は顔を見合わせる。
「さっきの声……太郎兵衛か?」
「昨日までは違いましたよ。何かあったのかしら?」
 彼らが言い合う間に太郎兵衛は入ってきた扉の前に移動する。
 そして顔だけ彼らに向け、もう一声あげる。
「ニャー!」
 ――どうやら、呼んでいるらしい。
 そう判断した夫婦は太郎兵衛について台所へと向かう。
 そこで彼らが見たものは……はじめて見る猫。黒い巨猫だった。
「な、なんだ。この猫!」
「まあ! うちのタロちゃんのご飯を……」
 大きな猫は妻の用意した太郎兵衛のエサ皿に顔を突っ込んでいる。
 彼らに気づかないのか、それとも無視を決め込んでいるのか、ガツガツむさぼり食っている。
「フーッ! フニャ!」
 太郎兵衛が黒猫に近づき、体を大きく見せて威嚇を開始する。が、黒猫は気にしない。エサに夢中のようである。
 太郎兵衛はさらに近づき、黒猫に猫パンチをお見舞いする。
 すると黒猫は顔を上げた。ふてぶてしい顔をした猫に睨まれ、太郎兵衛は後退する。ピョンピョン後ろ跳びで逃げ、安全地帯でさらに威嚇を続ける。
「フーッ! フーッ!」
 自身の足に隠れながら、必死にうなる愛猫を見下ろし、男はつぶやく。
「あれを追い払って欲しいんだな? よく分かった……」
 妻が持ってきたホウキを手に男は黒猫に立ち向かう。
「こらっ! どこの猫か知らんが出てけ!」
 ホウキではたかれた黒猫は迷惑そうな顔をして、エサ皿から離れていく。
 そして勝手口にある猫扉から外に出て行った。……微妙に巨体が引っかかって時間がかかったが……。
 黒い巨猫が出て行くと、太郎兵衛は猫扉の前で勝利の叫びを上げる。
「ニャ! ニャニャニャウ!」
「お前……。あの猫追い払ったのは俺だぞ」
 男は威張っているトラ猫にあきれ果てた声で言い聞かせた。


 神社の境内で中年女性がキャリーバックを片手に叫んでいる。
「玄夜くーん。どこにいるの? さあ、いい加減、出てらっしゃい!」
 そこに猫を抱きかかえた初老の女性がやって来た。神社の参拝を日課としている彼女は太郎兵衛の飼い主だ。もちろん連れている猫は太郎兵衛である。
「あら、奥さん。玄夜君がどうしたの?」
 玄夜。それはこの神社で飼われている黒い猫の名前だ。
「それがね。喧嘩したみたいで怪我してるの。なのに病院に連れて行こうとしたら逃げちゃって……」
「分かるわあ。うちのタロちゃんも病院って聞くと……。ちょ、ちょっとタロちゃん?」
 突然、彼女の腕の中でトラ猫が暴れ出す。彼は身をよじって地面へ下りると女性が止める間もなく、社の下へと逃げ去っていく。
「とまあ、こんな感じで逃げていくわけ」
「どこの猫も同じね」
 女性たちは顔を見合わせて苦笑いをした。


 社の下に入った太郎兵衛はすぐに仲間がいることに気がついた。
(……やはりここに逃げておったか……)
 丸まりうつらうつらしている近所のボス猫。同じ黒猫でも昨夜の猫とは違いスラッとした猫らしい体の持ち主だ。彼をポスポスたたいてみる。それでも起きないので耳元で名前も呼んでみる。
『おい。玄夜』
 黒猫は目をしばたたかせ、薄目でトラ猫を見上げた。
『長老……。どうかなさったのですか?』
 長老と呼ばれた太郎兵衛は彼の顔をマジマジ見つめる。玄夜の顔にはひっかき傷が数カ所あった。
『……負けたのか?』
『勝ちました。あなたには及びませんが今のボスですよ。俺は』
 太郎兵衛は昔は隣り町にまで名を轟かせる大ボスだったのだ。「猫又町の猛虎」という通り名まであったほどである。……一応、昔は強かったのだ。
『ふむ。ならいいが……。……オニックスとかいうやつ一体何しに来たのじゃ?』
『オニックス?』
『ん? 喧嘩相手はあやつじゃないのか? 黒いタスポ猫のオニックス』
『タ、タスポ猫?』
 玄夜の頭に道ばたのしゃべる機械が思い浮かぶ。
(あの機械がたしかタスポがどうのこうの言ってたなあ。けどあいつ猫だっけ?)
 思い悩む玄夜に長老は解説をする。
『ほら、太ったやつをタスポと言うじゃろう』
 自信満々の長老に玄夜は恐る恐る進言する。
『え……。あの、長老……。それはメタボでは……』
 二匹の間に沈黙が落ちる。
 長老はごまかすように顔を洗いだし、それが終わるとふと遠い目をする。
『ナウい言葉は難しいのう』
(ナ、ナウい……?)
 かしこい玄夜は今度は口には出さなかった。
『まあともかく、あの百貫デブのことじゃ』
『はあ。確かに俺の喧嘩相手は図体のでかい黒いやつでしたが……。あいつオニックスという名前なのですか? 首輪もないし、野良猫だと思ってました』
 野良猫には名前がない。いや、ないわけではないが単純な名前がつく。クロだのトラだのブチだのミケだの……。ちょっとこった名前の主はほぼ家猫なのだ。
『お主、名前を聞かなんだのか? わしが聞いたらさすらい猫のオニックスと名乗っとったぞ』
 長老は少し呆れぎみの表情だ。
『そうなのですか。俺の場合、追いついた瞬間喧嘩になるもので……』
 玄夜は最近の出来事を思い返す。
 数日前から現れる肥えた黒猫。彼は毎晩、玄夜のエサを奪っていく。玄夜の姿を見た瞬間逃げ出すのでそれを追いかけてすぐに決闘となる。名乗っている暇などない。勝手にエサの横取りする無礼者に名乗る名前などないのだ。
 で、一応毎晩勝っていたわけだが……その前にエサは食べられてしまってるわけで……。
 ――ぐぅぅー
 玄夜のお腹が情けない悲鳴を上げる。
『腹、減っとるのか?』
『……あいつのせいで俺のエサが減ってるんです』
 玄夜はテリトリーの見回り後、エサを食べる習慣がある。そして彼の家の人間は彼が出かけている間にエサの準備をする。
 今まではそれでよかった。帰ったらすぐにエサが食べられるからだ。
 しかし飢えたならず者が現れるようになったら、そうも言っていられない。
 悲しげな玄夜を見て長老は少し思案する。
『わしがお前のとこの人間にエサ要求してみようか?』
 長老はおねだりが得意なのだ。長年生きているだけあって人間が猫のどんな所に弱いか知り尽くしている。
 だが、玄夜は力なく頭を垂れる。
『今見つかったら病院行きです。それだけは避けなければ……』
『ふむ。確かに病院はまずいのう。あやつ、お主以外では太刀打ちできないじゃろうし……』
 長老は再び考える。
『よし。ではわしの家に来い。わしのエサ分けてやる。まあ、シニア用とかいう味が薄いやつじゃがな』
『長老……。恩に着ます』
 二匹は社の前の井戸端会議が終わるのを待つ。
 彼女らに見つかったら病院へ直行だからだ。


 女の話は長い。それは一つの話題から次々別の話題へ飛んでいくからだ。
 社の前の井戸端会議も例外ではなく、彼女らは次々噂を交換しあっていく。
 話の終演が見えた頃にはすでに一時間が経過していた。
「玄夜君が早く見つかるといいわね」
「ええ。あの子が行きそうな所を探しに行きますね。では」
 玄夜の飼い主が社から離れていく。キャリーバックを持ったまま飼い猫を捜しに出るようだ。
 残された女性はポケットから小銭を取り出すと賽銭箱に投げ入れる。
 柏手を打ち、目を閉じて願い事を口にする。
「うちのタロちゃんが長生きしますように。あと玄夜君が見つかりますように」
 彼女は少しの間祈りをささげたのち、社をあとにした。


『よーし、うちの人間もいったぞ』
 社の下から、遠ざかる女性を見届け、長老は外へと出る。
 ぐぃーっと前足を伸ばし、ぐぃーっと後ろ足を伸ばし、後ろに向かって言う。
『では、わしの家に行こうではないか玄夜』
 周りの様子をうかがいながら、玄夜も外へやってくる。
『ええ、行きましょう。でも長老の家の人間、俺をつかまえたりしないでしょうか?』
 先ほどの祈りは彼らに聞こえていた。
『それは大丈夫じゃ。うちの人間、今日はカルチャーなんとかに行くはずじゃ。お父さんというやつも魚を捕りに出かけたぞ』
 二匹は連れだって歩き出す。
 もちろん通る道は人の少ない裏道、それも塀の上だ。お節介な人間に病院に連れて行かれては困るのだ。
 前を行く長老に玄夜は報告があったことを思い出す。
『そういえば、長老。次の集会は長老の家の庭になりました』
『そうか。……だったら参加するかのう。冬の夜に出歩くのは……』
 塀の上で長老が急に立ち止まる。当然後ろを歩く玄夜も止まることになる。
 長老は尻尾をくねらせて鼻を引くつかせている。
 そのことに気がついた玄夜も周りの空気を嗅ぎまわりだした。
『な、なんじゃ。このうまそうな匂いは!』
『こ、これは。俺が一度だけ食べたことのある超高級猫缶の匂い!』
 玄夜は塀から飛び降りる。
 腹を空かせたボス猫は長老猫より匂いに敏感だ。
 あっという間に発生源を嗅ぎ当て、そちらに向かって駆けだしていく。
『お、おい。玄夜……。まったく、年寄りを走らせおるか』
 長老も塀から下りて駆けだした。


 人影のない小さな公園。その隅には狭い竹藪が存在した。
 そしてその中に奇妙な物が置いてある。
 格子状の金属の棒を組み合わせた箱。つまりは檻だ。
 側面の一つがスライド式の扉となっていて、現在は開いている。そして、中には蓋を開けた猫缶が置かれていた。
 さて、その猫缶の匂いにつられて一匹の黒い猫が現れた。だが奇妙な檻を見て一気に警戒態勢となる。
 ヒゲを前に出し、目を大きく見開いて檻を見る黒猫。そろそろ近づいて猫缶近くの格子の外から猫缶目がけて前足を出す。だが、格子の目が細かくて中にある猫缶へは届かない。
「ナー……」
 悲しげな鳴き声を上げたあと、もう一度挑戦する。……やはり前足は届かない。
 猫缶に目を釘付けにしたまま、檻の周りを回り出す。
 一周、二周、三周、四周、五周……。
 数周回った後、開かれた扉の前で立ち止まる。
 ヒゲをピクピク、耳もピクピク、尻尾をフリフリしながら、中にある猫缶を見つめ続ける。
 そして意を決したように勢いよく檻の中に跳び込んだ。
 ――ガシャン
 檻の扉が無情にも閉まる。
「ナ、ナー? ナーオ、ナーオー!」
 閉じこめられた黒猫は猫缶のことも忘れて、その場でグルグル回りだす。
 すると竹藪の外から若い男がやって来た。
「よーし。黒猫、黒猫。ここをはってて正解だったな」
 どうやら檻は彼が設置した物だったようだ。
「フーッ!」
 必死の形相で威嚇を始めた黒猫を男は見下ろして言った。
「金網越しに威嚇しても怖くないよ。とりあえず、少しおとなしくしててくれよ。ちょっと調べたいだけだからさ。……ん? あれ? その首輪……」
 黒猫は少しくたびれた青い首輪をしていた。男は首輪をよく見ようとかがみ込む。
 その瞬間、女性の声が響き渡った。
「玄夜君!」
 彼女は呆然とする男に近づき、つかみかからんばかりの様子で怒鳴りつける。
「ちょっとあなた、ウチの玄夜君に何するのよ!」
「えっ? ウチの……。あっ! も、申し訳ございません」
 若い男は女性にぺこぺこ謝りだす。
 その様子を竹藪の影で見ていたトラ猫は、肩を落としてため息をもらした。


 寒風吹きすさぶ民家の庭に近所の猫たちが大集合している。
 思い思いの場所を陣取り丸まっている猫たち。相変わらず猫団子が数個できている。
『かーちゃん。ボスまだぁ?』
『まだぁ? さむいよう』
 ブチの子猫たちを交互に舐め、ブチの母猫は優しく言う。
『もう少し待ちなさい。きっともうすぐ……』
『ボスなら来んぞ』
 母の言葉が終わる前に長老猫が民家の窓から姿を見せる。
『あっ、ちょーろー』
 長老は庭に降り立つと猫たちの中心へとやって来て座る。すると彼の周りに他の猫たちが集まって来た。
『ボスが来ないってどういうことです?』
『ボスはどこかにいかれたのですか?』
 周りの猫たちの問いに長老は顔を曇らせる。
 その様子をみて、茶ブチの猫が不安げに耳を動かす。
『もしや……。あの噂のよそものに負けた?』
『いやー。それがのう……』
 長老はボスの身に起こった出来事を皆に伝える。
『三味線屋がこの町に来ておってのう。玄夜……ボスはつかまってしまったのじゃ』
『三味線屋……。あの伝説に聞く怖い怖い人間のことですか?』
 猫たちが代々伝え聞く恐ろしい物語に三味線屋の話がある。猫を捕まえて、三味線という楽器に変えてしまうらしい。
『うむ』
 長老の短い返事に皆が立ち騒ぐ。
『大変じゃないですか! すぐにボスを助けないと……』
『いやいや、話はまだ終わっておらんぞ。三味線屋はのう。ボスのとこの人間に怒られてボスを解放したのじゃ。しかし……』
 長老は言葉を止め、猫たちから少し離れる。
『しかし……。長老、ボスは一体どうなさったのですか?』
 長老は少しの間のあと、辛そうにつぶやく。
『……襟巻をつけられおった』
『襟巻……』
 猫たちはその単語に押し黙る。
 その様子を見て、子猫の一匹が不思議そうにたずねる。
『ねえ。えりまきってなあに?』
 するともう一匹の子猫が偉そうに説明を始める。
『なんだよ。おまえしらないのか? えりまきってのはなー。えーっとホントはエリなんとかっていってなー。えーっと……えーっと?』
 しょせんは子猫である。生後三ヶ月の身では説明がおぼつかない。
 言葉につまってしまった上の息子に代わり、母猫が下の息子の問いに答える。
『病院にいる人間が猫や犬につける変な首輪のことさ。でかくて邪魔でね。あれがあると後ろは見えないし、動きにくいから喧嘩が弱くなるんだよ』
 母猫の説明に周りの猫たちは同意するように尻尾を振る。
 襟巻……人間が言うエリザベスカラーをつけられると戦闘力が減るのだ。約二〇〜五〇パーセントは軽減する。
 しかもあれはかっこ悪い。人間もかっこ悪いと思っているらしく、指をさして笑う者までいる。
 ボスが来ないのも当然だろう。彼は強さとかっこよさを誇るなのだから。
『ということはボスの襟巻がとれるまで我らでよそものと戦うしかないわけですか……』
 気が重そうに一匹の雄が言う。
『あのよそもの。強いよな』
『だよな。あの大きさは反則だ』
『くそっ。ボスだけが頼りだったのに……』
 何匹かは「さすらいのオニックス」に遭遇しているのだ。
 そして全員に共通しているのは……。
『あの野郎。オレのエサ横取りしやがって……』
『僕のジャーキーも盗られた』
『あたしは被害に遭わなかったけど、うちのペスのエサが食われたよ。ほら、庭の犬って繋がれてるからさ。あいつわざわざ届かないところにエサ皿移動させて、目の前で食ってた。ペスは悔しがってたわ』
 口々に被害の報告をしあう猫たち。
 彼らの様子を見回し、長老は話をまとめる。
『……皆、エサだけか。あのタスポ猫に縄張りよこせとか言われなんだのか?』
 猫たちの返事はYESである。
『ということはエサだけ死守すればよいのじゃな。ならば簡単じゃ』
 長老に注目が集まる。
『人間がエサを出したらすぐに食べればよい。できれば人間がいる間に食うのじゃ。やつも人間の目の前までは出てこんじゃろう』


 長老の見込み通りだった。
 黒い巨猫オニックスは人間がいればエサ場には近寄ってこない。
 猫たちは腹を空かすことなくすごすことができた。
 空腹というのはとても辛い。その辛さから逃れることができて猫たちは幸せだった。
 しかし、空腹でたまらない猫が一匹いた。
 空腹というのはとても辛い。それはその猫も同じだった。


 台所の片隅にあるエサ皿の前にはペット用のホットカーペットが敷かれている。
 暖かな小さい絨毯の上には茶トラの猫が丸まっている。
 台所にエプロンを着けた女性が入ってきて、その猫に問いかける。
「タロちゃん。最近ずっとそこにいるわね」
「ニャーン」
 太郎兵衛は飼い主を見上げて返事をする。
「でもねえ。ここは寒いでしょ? 風邪引くといけないからコタツにいきましょうね」
 ホットカーペットがあるとはいえ、台所の空気は冷たい。猫は毛皮をまとっているが、太郎兵衛はもう若くない。長寿で表彰されるほど長生きしているのだ。
 彼女は太郎兵衛を抱き上げ、茶の間へと移動を始める。
「ニャ? ニャ!」
 太郎兵衛は抗議の声を上げ、飼い主の顔をペチペチたたく。
 彼女は腕の中のトラ猫を見下ろして溜息をついた。
「そんなにここがいいの?」
「ニャ!」
 太郎兵衛をホットカーペットの上にそっと降ろす。彼はすぐにエサ皿の方を向いて丸くなる。
(……盗られないように見張っているのかしら?)
 太郎兵衛の様子が変わったのはこの前のエサ強奪猫が現れてからだ。
 ご近所の噂によるとその猫は色んな所に現れて、犬猫のエサを奪っていったのだそうだ。
 そしてそのあと、猫たちが警戒態勢になっているらしい。太郎兵衛のようにエサ皿の前に張り付いていたり、エサをやる家族のあとをついて回っている猫がいると聞いている。
 かわいい愛猫ののどをなでると、ゴロゴロという返事が返ってくる。
 とりあえず、今のところは元気なようだ。そう思い彼女は太郎兵衛に言い聞かせる。
「いーい。寒かったらコタツの部屋に戻るのよ。あったかいコタツもストーブもあるからね」
「ニャー」
 太郎兵衛の相づちを聞き、彼女は立ち上がる。
「じゃあ、夕食作らなきゃ。今日はタロちゃんにササミを買ってきたんだよ」
 ササミと聞いて太郎兵衛は目の色を変える。すぐさま立ち上がり、女性の足に自分の体をこすりつける。
「ニャーン。ニャーン」
 甘えた声で愛想を振りまく太郎兵衛を見下ろして女性は笑う。
 太郎兵衛はレンジでチンした鳥のササミが大好物なのだ。
「もう。げんきんねえ。ちょっと待ってなさい。すぐにチンするから……」
 冷蔵庫をあけ、ササミが入ったパックを取り出すと調理台の上に置く。ガサガサとパックを剥がす音に合わせるよう太郎兵衛が体をくねらせる。
「まだダメよ。チンしてからね」
 ササミをレンジ用の器に入れ替えたときだった。不信な物音が聞こえてきたのは。
 ――ドタドタドタドタ
「あら、お父さんが帰ってきたのかしら?」
 近づいてくる足音に彼女は振り返る。
 ちょうど台所の扉からデブっとした黒猫が駆け込んでくるのが目に移った。
「え? ちょ、ちょっと!」
 人の声など聞きもせず、黒猫は調理台へと跳び登る。
「こら! やめなさ……キャア!」
 止めようとした女性の手に猫の爪が襲いかかる。
 そして彼女がひるんだ隙にササミを咥えて回れ右、やはりドタドタと駆け去っていく。
 引っかき傷のできた手を押さえて、女性は呆然とする。
「な、なんなの。あの猫……。あっ、タロちゃん! 待ちなさい!」
 太郎兵衛は不審な猫を追いかけて玄関まで走る。
 が、体の割にはすばやい猫だったらしい。すでにこの家の中にはいなかった。
「ニャ! ウニャ!」
 玄関先でトラ猫は悔しそうに叫ぶ。
「な、何があったんだ。太郎兵衛?」
 タイミングよく帰ってきた家主は、飼い猫に怒鳴られ、驚くしかなかった。


 晴天の冬の午後、長老宅の庭に猫たちが再び集まった。とはいえ、先日の猫集会の半分ほどの猫しかいない。
 その少ない猫たちの前には長老猫が鎮座している。
『まだ集まらんのか!』
 尻尾を振りながら長老が踏み石をたたく。彼の様子に他の猫たちは一瞬毛を逆立てる。
『なあ。長老怒ってないか?』
『聞かなくてもわかるだろ。怒ってるぞ、あれは。……虎が目覚めたようだな』
 長老の死角にいる猫たちが身振りでこっそり相談する。
 食い物の恨みは恐ろしい。好物ならばなおさらだ。その昔「猫又町の猛虎」と呼ばれた長老が怒り狂っている。
 そこへ茶ブチの猫が飛び込んできた。彼は長老に近寄ると鼻をつき合わせて挨拶をする。
『長老。緊急招集の伝令が終わりました』
『うむ。どれくらい来る?』
『あと五匹です』
『ふむ。では集まったら緊急集会を開催する』
 茶ブチの猫は長老から離れ、他の猫たちの輪に加わる。
 ハタから見ると猫たちが日向ぼっこしているのどかな風景。だが、猫たちはさっさとこのときが終わるのを祈っていた。
『長老……。すっげぇ、すっげぇこえぇよ』
『あんな猫だったのか。オレ知らなかった』
 若い猫たちがこそこそ言うと、古参の猫たちが苦笑いする。
『……まあ。猛虎の名は伊達じゃないんだよ』
 さて、そんな緊張感が漂う中、遅れた猫たちがやってくる。
 長老と同じような茶トラの猫、少し年を召した三毛猫、近所に住み着いているサビ色の野良、冬毛ですっかりもっさもさの白い長毛種。
 しかしあともう一匹がやってこない。
『遅い……。遅いぞ。おい、もう一匹は誰だ!』
 長老は茶ブチの猫に問いただす。彼は一瞬ビクつき、恐る恐る答える。
『ス、スモモです。おそらく子猫を連れてこようとしているのでは?』
 黒いブチの雌猫スモモ。彼女は二匹の兄弟猫を集会の度に連れてくる。子猫の社会性を養うためだ。
 といっても子猫たちはすでに里子に出されたあとだ。同じ家に住んでいないため呼びにいくのに時間がかかっているのだろう。
 長老は溜息をひとつ漏らす。
『時間がかかりそうじゃな。ではスモモ親子は遅刻ということで緊急猫集会を開催する』


『本日の議題は当然分かっておろうな?』
 長老の問いかけに猫たちはうなずく。
『あのよそ者のことですね』
『ふむ。あのタスポ猫のことじゃ! あやつはわしのササミを盗っていきおった』
 思い出し怒りで長老の毛がぶわっと広がる。
『そうですよ。あいつひどいです。昨日はせっかくマグロがもらえそうだったのに……』
 サバトラの雄が悔しそうに耳を動かす。
 体に悪いからといって滅多にもらえないマグロの刺身。それにパクつこうとした瞬間、やつにタックルされ、そして残さず食われてしまった。
『あたしも昨日は危なかったね。……また、ペスのエサが喰われちゃったけど』
『僕もカリカリ半分位盗られた。あいつ食い過ぎだよ』
 自分も……こっちだって……。
 エサ強奪被害者たちの怒りの声が次々上がる。長老と同じように毛を逆立てて怒り心頭といった様子だ。
 そんな猫たちを見回し、長老が言う。
『誰か、あのタスポ猫に決闘を挑む者はおらんか!』
 とたんに猫たちは及び腰となる。
 身を縮め耳を垂らして「自分は弱いです」とアピールを開始する。
『臆病者どもめ! こうなったらわし自ら……』
 長老が勢いよく立ち上がる。
『む、無茶ですよ。長老』
『もうお年なんですから。ボスの襟巻がとれるのを待ちましょう』
 即止めに入った二匹に長老は猫パンチを浴びせる。
『腰抜けは黙っとれ!』
 いや、黙ってなどいられない。「猫又町の猛虎」……彼は今では弱いのだ。
 その事を知っている他の猫たちも長老を止めに入る。
『長老はもう牙がないじゃないですか!』
『まだ、爪がある!』
 彼は自分の手を高く上げる。その先端にある猫の武器は非常に短い。
『切ったばかりの爪で勝負を挑むなんて無理です!』
 そう。長老は先日爪を切られたばかりだった。
 彼は自分の爪先を険しい顔で見つめる。
『それでもあやつは許せん! タスポ猫のやつエサ盗ったばかりか、うちの人間を引っ掻いたのじゃぞ!』
 一対多でも引こうしない長老猫。彼の煮えたぎった怒りはちょっとやそっとで冷えそうにない。
 彼らが押し問答をしていると脳天気な声が近づいてきた。
『おにはーそと! ふくはーうち!』
『おにわーそと! ふくわーうち!』
 猫たちは争うのを止め、声の方を見る。
 玄関口の方から二匹のブチ子猫がはしゃぎながらやってくる。
『これ、あんたたち。静かにしなさい。集会なんだよ集会!』
 彼らを追いかけながら母猫がたしなめるが、子猫たちは新しく覚えた遊びに夢中だ。
『ねえ、おにーちゃん。これゆうとどーなるの?』
『おまえしらないのか? これはなー。おにを……えーっと、なんとかするためのじゅもんなんだぜ』
『へー。おにーちゃんものしりー』
 弟猫は兄猫に尊敬の眼差しを送る。そして再度質問する。
『おにーちゃん。おにってなあに?』
『え、えーっと。おにってのは……。えーっと、えーっと……』
 兄猫は「おに」について考える。
(おに、おに……おにーちゃん。オレのこと? ちがうな、オレはなんとかされないし……。うちのにんげんにもおにーちゃんがいるな。けど、あいついいやつだよな。エサくれるから、きっとなんとかされないな。……おに、おに、おに……あっ!)
 彼は考えた末にいい結論を思いついた。
『あれだよ。エサどろぼーのタスポネコ! あいつオニなんとかってなまえなんだろ』
『あんたたち! みんなに挨拶しなさい!』
 スモモにつつかれて子猫たちはようやく周りを見た。何かを言いたげな成猫たちが自分たちを見つめている。
『こんにちはー』
 兄猫が少しバツが悪そうに挨拶をする。
『こんにちわー。ねえねえ、あのじゅもんでタスポネコどっかゆかないかな?』
 弟猫は挨拶と同時に提案を出した。
 成猫たちはやはり何か言いたげにスモモを見つめる。
『な、なんだい! しょうがないだろ。この子たちはもうよその家に住んでるんだからさ』
 子猫の教育について何か言われる前に彼女は開き直る。
 兄弟猫は成猫たちの視線の意味が分からない。
『それ、いいかんがえだな』
 兄猫が肯定すると弟猫は長老に向かっていき頭をすり寄せる。
『ねえ。ちょーろー。いーかんがえでしょ』
 長老は目の前の子猫、得意そうな兄猫、気まずそうな母猫の順に視線を移し、再び目の前の子猫を見る。
 そして、呆れた口調で言い聞かす。
『その呪文はのう。節分とかいう日だけのものじゃ』
『せつぶんってなあに? きょうじゃないの?』
 長老の前にちょこんと座って子猫は問う。それで彼は思い出した。
(そういえば、今日だったかのう。うちの人間たちが言ってたような……)
 今朝方「おい。そういや今日は節分だな」と新聞を見ながらお父さんが母さんに伝えていた。
『確かに今日が節分じゃな。人間が鬼払いという儀式をする日じゃ』
 長老が答えると子猫は尻尾をピンと立てて嬉しそうに笑う。
『オニばらい? それ、オニってやつやっつけるの? だったら、じゅもんつかおーよ』
『そうだ。つかおーぜ』
 兄猫も長老の前にやって来て言う。
 二匹の子猫たちに成猫たちは困惑ぎみだ。無邪気でかわいらしい考えと思うが、今は非常事態である。子猫たちのたわごとに付き合っている暇などない。
『……その呪文は豆を投げながら言わなきゃならないのじゃ。わしらは豆をもてんじゃろ』
 微妙にずれた諭し方をする長老。子猫たちは自分の手をジッと見る。かわいらしいピンクの肉球では豆をつかむことはできないだろう。投げるなんて論外だ。
『じゃあ、ほかにほーほーないの? オニばらいのほーほー』
『じゃから、今それを話し合っていた所じゃ。チビどもは隅で遊んで……ん?』
 人の気配に長老は言葉を止める。
 他の猫たちもそれを察し、玄関口の方を一斉に見る。
『マア。……たろチャン……オトモダチ……』
 長老の所の人間で奥さんとか母さんとか呼ばれている人だ。布の手提げ袋を持っている。
 彼女は庭の様子に興味津々らしい。キョロキョロ見回し、何だか嬉しそうだ。
『長老。どうしましょうか?』
『どうもこうも。会議を続け……』
 長老の言葉は他の猫たちの歓声にかき消える。人間が袋から猫用ジャーキーを取り出したのだ。
『やった。食い物!』
『食べていい。食べていいの?』
『僕もー。僕もほしい』
『こっちによこせー!』
 集会の目的もすっかり忘れジャーキーへ群がる猫たち。人間は少し困ったように、だが笑顔でジャーキーを次から次へと取り出す。
『お、お主等……』
 取り残された長老は怒りに毛を逆立てる。会議放棄はもちろんのこと、彼らが喜んで食べているのが長老のおやつだからだ。
 そんな彼を尻目に猫たちは勝手に袋まであさり出す。
『あっ、いい物見っけ!』
『魚だ、魚だ!』
 それを見た人間は慌てて袋を取り上げる。もちろん魚のパックも没収だ。
『コラッ! ……サカナ……バンゴハン。……セツブン……オニ……』
 お母さんの言葉に長老はあることを思い出した。
(そういえば、豆まきの他にも鬼払いの方法があったのう……)
 そして、最近あった出来事を思い返し、組み合わせてみる。
『……正攻法よりうまくいくかもしれんのう』
 長老はニヤリと笑う。
「猫又町の猛虎」は賢いことでも有名だったのだ。


 公園そばの自販機で二十代くらい男がタバコを購入している。
 ――タスポをタッチしてください……
「あー、そうか。そういや、今はタスポがいるんだっけ……」
 ため息をつき、お金の返却レバーを下げる。
 戻ってきた小銭を隣のジュースの自販機に入れ、缶コーヒーを買った。
「まあ、禁煙を破らずにすんだからいいか……」
 つぶやきながら、すぐ後ろのワンボックスカーに乗り込む。
 運転席で缶コーヒーをチビチビ飲みつつ再びつぶやく。
「まずいなあ……」
 助手席には首輪と猫じゃらしやボール、後部座席には高級猫缶が十数個と捕獲器。
 彼はペット探偵だった。
 数日前、旅行中にいなくなったという猫を探しているのだ。
 黒いデブ猫の写真を手がかりに聞き込みを行った結果、この近所にいるのは間違いないらしい。
 目撃証言は山と言うほどある。ついでに苦情も山ほど聞いた。
 おかげで何年かぶりにタバコをすいたくなるほどストレスがたまった。
 写真を手にとり、画の猫相手に文句を言ってみる。
「普通、家出猫は痩せるんだが、お前エサ強盗で全然痩せてないんだって?」
 猫や犬のエサが次々盗られているようだ。喧嘩して怪我をした猫もいる。
 完全家猫だったというのにものすごい暴れっぷりである。
 被害が増えないうちにさっさととっ捕まえ……ではなく保護しなくてはならない。
 行方不明の猫は時間が経つほど見つかる確率が低くなるのだ。
(でも、オレの前には出てこないんだよなあ……。公園で首輪だけ見つけたけど……)
 助手席の首輪をチラ見してハンドルに突っ伏する。口から出るのは溜息だ。でも落ち込んでばかりもいられない。
 気を取り直して頭を上げる。目の前の道路を横断しようとしている猫と視線がぶつかった。
(白猫か……。何か咥えてるな。……魚の頭?)
 魚の頭らしき物を咥えた白い猫は視線をそらして立ち去っていく。
 スタスタ迷いなく進む姿は目的地がはっきりしているのだろう。
 猫が見えなくなってから、男は車を降りた。
「あっ、猫のおもちゃと猫缶もってかないと……」
 再び扉を開き、助手席の猫じゃらしを手に取る。扉を閉め、後部座席の扉に手をかけたとき、怒鳴り声が聞こえてきた。
「こらっ! それはあんたの食べ物じゃないの!」
 声の方を見ると三毛猫が何かを咥えて猛スピードで駆けていくのが見える。
(今度は三毛か……)
 彼は民家前で猫が去った方を睨んでいる中年女性に近づいた。
「あの。すみません」
「あら。探偵さん。探してる猫は見つかった?」
 この近辺ではさんざん聞き込みをしたため、顔見知りなのだ。
「それが、まだなんです。今からまた捜しに出ようかと……」
「そう。早く捕まえてよ。凶暴な猫なんだから」
「努力します。ところで猫と言えば今のかわいい猫はあなたの飼い猫ですか?」
 飼い猫を褒められて悪い気はしないらしい。仏頂面だった女性が笑顔を見せる。
「そうよ。うちの姫ちゃん」
「何か盗られたんですか?」
「節分の柊鰯を盗っていったの」
「柊鰯?」
 女性は手に持った柊の枝を男に見せる。
「柊の枝に鰯の頭をさした飾りのこと。鬼よけのため玄関に飾るでしょ。いつもはイタズラなんてしない良い子なんだけど、鰯だけ盗られ……ってあら?」
 女性は何かに気をとられたようだ。彼女の視線を追って男は後ろを向く。
 サバトラの猫がやはり何かを咥えて歩いていた。それはまたしても鰯の頭。しかも枝付きだ。
 ずるずると柊の枝を引きずりながら遠ざかる猫を、二人は呆気にとられて見送った。


 公園の小さな竹藪にはボスが捕らえられた檻があった。
『うまそーだな……』
『ホント、おいしそーだね。おにーちゃん』
 ブチの兄弟猫が檻の外から中にある猫缶に羨望の眼差しを送る。先日ボスがしたように檻の外から手を伸ばしてみるが子猫の手では届かない。
『食ってはならんぞ。それは三味線屋の罠じゃ』
 すぐそばにいる長老が子猫たちをたしなめる。
『ちえっ、わかってるよ』
 兄猫は未練がましそうに猫缶を一瞥する。
『でだ。お前たち。作戦は分かっておろうな?』
 長老の意味深な問いに子猫たちは元気よく返事をする。
『うん!』
『まかしとけ!』
 長老は二匹を交互に毛繕いしてやりながら、優しく言う。
『危なかったら、すぐに逃げるんじゃぞ。成猫たちが集まったら作戦開始じゃ』


 ある情報を成猫から得て、子猫たちは神社へやってきた。
 鳥居の前で一度立ち止まり目配せし合う。
 そして鳥居をくぐり、社へ向かう。小さな足を進めながら、彼らは談笑する。
『ボス、よろこぶね。エサいっぱいなの』
『とーぜん。みんなでエサあつめたからな』
『エサはこーえんなの』
『エサはこーえんだな』
『ブランコってのがあるの』
『すべりだいってのもあるな』
『それがこーえんなの』
『それがこーえんだ』
 彼らが賽銭箱の前につく寸前、他の声が割り込んできた。
『ふーん。公園にエサがあるんだ』
 社の下から、太った黒猫が姿を現した。
 兄弟猫は足を止め、小さな体を大きく見せようと背を曲げる。
『でたな! タスポネコ!』
『オニのタスポネコ!』
『ええい! オレの名はオニックスだ! 何でここの連中はタスポタスポと……』
 長老の言い方は他の猫たちにすっかり移ってしまっていた。
『まあ、いい。エサのありかさえ分かればこっちのもんだ。ちょうど腹も減ってきたしな。ありがとよ。チビども』
 オニックスはそう言い残して神社の鳥居をくぐっていく。
 それを見送った子猫たちは顔を見合わせてニッコリ笑った。


 オニックスが公園に着くと、この辺の猫たちがサークルを作っているのが見えた。
 中心にいる爺さん猫が彼らに促す声も聞こえる。
『よし。では皆が持ってきた鰯を分け合おうではないか』
 どうやら、エサをわざわざ集めてきたらしい。オニックスはにんまりしながら彼らに近づく。
『分ける必要なんてない! ぜーんぶオレのもんだからな』
 突然現れた彼を見て、猫たちが一斉に言う。
『タスポ猫!』
 ――なぜ、こいつらは変なあだ名をつけたのだろうか?
 ただでさえ大きな体をさらに膨らませ、オニックスは叫ぶ。
『タスポ猫じゃねえ! エサをよこせー!』
 サークルに向かって突進する。当然ながら、猫たちは逃げる。
 いまいましいことにそれぞれ鰯の頭を咥えて逃げる。
 そこで彼は一匹ずつ追いかけ回すことにする。
 まず目に入ったのはブチの雌猫。先の黒い尻尾を巻くようにして逃げる彼女を追いかけてタックル攻撃を仕掛ける。
 雌猫はそれを避けた。しかし驚いたのか、咥えていた鰯の頭を落としてしまう。
『ああ。鰯が』
『もらったー!』
 オニックスはすかさず鰯の頭にパク付き、あっという間に間食する。
 その間に雌猫は彼から遠ざかっていく。
 オニックスはペロリと口の周りを綺麗にし、次のターゲットを探す。
 彼の食欲は半端ない。とてもじゃないが、鰯の頭一つで腹は満たせない。
 だから彼は他の猫を追いかける。
 公園内を駆け回って逃げる猫たち。彼らは追い詰めると鰯の頭を落としていく。
『大漁、大漁!』
 上機嫌で鰯の頭を食べて回るオニックス。
 彼はまだ気がついていなかった。
 猫たちが鰯の頭をわざと落としていることに……。
 だんだんとある場所に誘導されていることに……。


 竹藪の影で仲間の様子を長老が見守っている。
(この調子じゃ!)
 これまでは作戦通りだ。オニックスを竹藪内までうまくさそいこむことができた。
 ただし問題はこれからだ。
 長老は難しい顔でオニックスの様子をうかがう。
 オニックスは竹藪に落ちた鰯の頭を次々と平らげていく。彼に追い詰められた猫たちが落とした物ではなく、最初から落ちている鰯の頭だ。
 転々と落ちているそれはある場所へと続いている。
 ある場所とはもちろんボスが捕らえられた場所である。三味線屋が仕掛けた檻。あの中に閉じ込めれば、オニックスがこの町を荒らすことはなくなるだろう。
(よーし。そのままじゃ。そのまま檻に入るのじゃ)
 オニックスはすでに檻の前までやって来ている。
 肉球に汗を握った長老はジッとその時を待つ。
 だが、オニックスは檻の前で立ち止まってしまった。
『……なんだ、これ?』
(なんで立ち止まるのじゃ! そのまま中に入れ! 中にはうまい缶詰があるのじゃぞ)
 オニックスは疑わしげに檻の周りを歩き回る。
 猫缶にはひかれるようだが、決して中に入ろうとはしない。
 彼は檻の外から猫缶を見つめてつぶやく。
『まあ、鰯食ったし。腹も結構ふくれたし……』
(腹が破れるまで食え! 食うのじゃ! タスポ猫!)
 このままでは鰯の盗られ損だ。人間たちに怒られながら鰯を集めてきたのに……。
 長老は大きく尻尾を振る。すると尻尾が何かに当たった。
 振り返ると襟巻をつけた黒猫がいる。
『ん。おや、玄夜じゃないか。襟巻姿で出てくるとは珍しいのう』
『チビどもに聞いてきたんです。あいつを捕まえるそうで……』
『そうじゃ。……けど失敗かのう。あやつなかなか檻に入ろうとせん』
 玄夜は自分を病院送りにした檻と猫を見比べる。
 猫の方は退屈そうにあくびまでしている。そして……。
『ああ、いかん。あやつ帰ってしまう』
 長老が言うとおり、オニックスは檻から離れつつあった。
 あたふたする長老を玄夜は静かな声で制する。
『……俺がなんとかしましょう』
 玄夜は檻へと向かう。
 こっそりではなく堂々と。わざと枯れ草を踏み、襟巻を竹にぶつけるように進む。
 ――ガサガサコンッ、コンッ、コンッ、ガサッ
 そんな派手に音を立てれば、人間だって気がつくだろう。
 いぶかしげに振り返ったオニックスには目もくれず、玄夜は檻の入り口を目指す。
 入り口から猫缶を見据える玄夜。
『うまそうだな!』
 ヒゲをピクピク、耳もピクピク、尻尾をフリフリさせ狩りの体勢に入る。
『いただき……』
『それはオレのだー!』
 玄夜が猫缶に飛びかかろうとした瞬間、横っ腹にオニックスのデブ猫タックルが飛ぶ。
 倒れながら玄夜はオニックスを睨みつける。そんな彼をオニックスがせせら笑う。
『うまいもんは全部オレのだ!』
 そして彼は檻に足を踏み入れた。
 ――ガシャン
 無情にも檻の扉が閉まる。
『な、なんだこれ! なんだこれ!』
 閉じこめられたオニックスは大慌てだ。そんな彼を見て今度は玄夜がせせら笑う。
『欲の皮突っ張った結果だ。あばよ。オニックス』
『おい。なんだよこれ! おい、ここのボス猫ー! なんなんだよー、これは!』
 唯一自分の正確な名を呼んだ猫に懸命に問いかけるオニックス。
 彼の問いに答える様子もなく玄夜は竹藪より去っていく。
 そして代わりに人間の男が現れる。
『なんだ! なんだよ! あっちいけ!』
 狭い檻の中で巨体を膨らませ、必死で人間に威嚇する。
 人間は彼を見て、何故か溜息をつく。
『……マチノ……ワナ……。ネコマタ……ホントウ……?』
 何やらぶつぶつつぶやき、オニックスを檻ごと持ち上げ、公園の外に向かって歩き出した。
『オレをどこに連れて行く気だー!』
 オニックスの文句がどんどん遠ざかっていく。
 そして公園に静寂が訪れた。


 静かになってしばらくのち、この町の猫たちがそっと姿を現す。
 玄夜以外が出そろったところで、長老も姿を現す。
 嬉しそうな仲間たちを見回し、彼は満足げに目を細める。
『うまくいったのう。皆、ご苦労であった。では解散!』
 長老は言葉に彼らは歓声を上げ、それぞれの家へ帰っていく。
『やったー! これでエサ盗られないぞー!』
『慌てて食べなくてすむー』
 にこやかに立ち去る仲間たちを見送る長老猫。彼らが去ったあと、竹藪の方に声を投げかける。
『玄夜……。お主は帰らんのか?』
 竹藪から玄夜の声が響く。
『まだです。あのチビたち、俺を見て襟巻襟巻って五月蠅いんです。だから、ほとぼりが冷めてから……って、やばっ! 俺、帰ります』
 ――カンッ、コンッ……
 襟巻を竹にぶつけながら大急ぎで玄夜が去っていく気配がする。
『お、おい。玄夜……。そっちじゃ遠回りじゃろうに……』
 帰らないと言ったそばから帰って行ったボス猫に長老は首をかしげる。
 だが、原因はすぐに分かった。
 公園の入り口から子猫が二匹駆け込んできたのだ。
『ちょーろー!』
『ちょーろー。タスポネコはー?』
(なるほど、チビどもが来たからか……)
 長老は一匹納得し、子猫たちを懐に迎え入れる。
『あやつは三味線屋に捕まったぞ。二匹ともよくやったのう』
 褒められた二匹は照れ笑いをする。
『おう。とーぜんだ。オレはやればできるオスだからな』
『えへ。えへへ。ボクがんばったの。……あっ、そーだ。ちょーろー、ボクききたいことあるのー』
 弟猫は長老にすり寄りながら言うと、兄猫も長老にすり寄る。
 長老は二匹の頭を優しく舐める。
『どんな質問じゃ』
 胸を張る長老に弟猫はキラキラした目でたずねる。
『ペットたんていってなあに?』
『ぺ、ペット探偵……。うーん。探偵って言うのは殺人事件とかそういうのを調べる仕事のことじゃ。人間はわしら猫のことをペットと呼んでおる。じゃから、殺猫事件を調べるやつのことじゃろう』
 長老が微妙に間違った知識を子猫たちに教える。
『へー。そーなんだー』
『さっすが、ちょーろー。じゃあ、さつねこじけんがおきたのかな? で、そのはんにんがタスポネコだったんだ』
『きっとそーなの。だからペットたんていにつかまったの。おにーちゃんもさっすがー』
 子猫たちの会話に長老は思う。
(もしやあの人間、三味線屋じゃなくてペット探偵じゃったのか。見張っとったらドラマが見れたかもしれんのう)
 長老の頭に「母さん」と一緒に見るテレビ番組が思い浮かんだ。


 公園から少し離れたワンボックスカーの運転席で男が電話をかけている。
「もしもし。私ペット探て……はい。そうです。オニックスちゃんが見つかりました。お時間いただけたら……はい。すぐですね。では三時間後にお宅に伺い……はあ。申し訳ございません。ですが、この町からですとそのぐらいの時間をいただきませんと……。はい。はい。そうです。もちろん大至急向かいます。それでは、失礼します」
 ――ピッ
 携帯電話を切った男は後部座席に身を乗り出す。
「ぶにゅー、ぶにゅー」
 丸々太った黒猫が大いびきをかいでいる。
 捕まえた当初は散々威嚇されたが、いつも使っていたというおもちゃを与えたら安心したらしい。
 猫缶を平らげ、無防備に眠ってしまった。
 大きな腹を見せて眠る猫に、呆れ果てた声で男は言い聞かせる。
「お前、よっぽどこの町の猫の恨みを買ったんだな。猫が捕獲器を使うなんてまるでドラマだぞ」
 男は猫たちの作戦を一部始終見ていた。
 うまいことオニックスをおびき寄せる猫たちは、事前に作戦を立てたようにしか見えなかった。特に竹藪の影にいたトラ猫。白髪交じりのあの猫は……。
(この町、猫又伝説があるから猫又町っていうんだよな。あれが猫又か? まさかな……)
 あの猫の尻尾は一本だった。彼は苦笑をこぼしながら、オニックスを見下ろす。
「伝説といえば、柊鰯って匂いで鬼をおびき寄せて柊で目をさすんだっけ。ここの猫たちにとっちゃ、鬼だったんだろうな。こいつは……」
 いびきをかき、のんきに眠るオニックス。男は彼をしばらく見ていたが、頭を掻いて前へ向き直る。
 依頼主は早く愛猫に合いたがっているのだ。
 お節介かもしれないが、依頼主にはオニックスのダイエットを勧めよう。この猫は胃袋がでかすぎる。
「さて、いくか」
 キーを回しハンドルを握る。
 重量級の迷い猫をのせた車は猫又町から遠ざかっていった。


 この日以来、猫又町にタスポ猫が現れることはなかった。
 猫たちは腹を空かすことなくすごすことができたという。

おしまい
節分なので鬼を出したかった。
思いつかなかったので、猫に鬼になってもらった。
登録日:2009/05/01  最終更新日:2009/05/24
太郎兵衛
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