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- 2014/10/10 20:38 更新
ミッキーの着ぐるみへのこだわりなど、いろいろなところに気を使っているディズニーランドですが、ここでは、「割れ窓理論」を適用して成功を収めている一つの例です。
日本ディズニーランドでは、従業員のマナーがとてもよいだけでなく、園内もとてもきれいで、いたずら書きや、ごみが落ちていて汚らしいという印象はありません。
それは、些細な傷をおろそかにせず、ペンキの塗りなおし等の修繕を惜しみなく夜間に頻繁に行うことで、従業員や来客のマナーが向上させているのです。
この「割れ窓理論」とは、アメリカの心理学者であるジョージ・ケリング博士が提唱した、建物の窓ガラスが割れたまま放置されていると、管理人がいないと思われ、凶悪な犯罪が増えるという理論です。
心理学者フィリップ・ジンバルドが1969年に行った行動特性の実験から検証した結論「人は匿名性が保証されている・責任が分散されているといった状態におかれると、自己規制意識が低下し、『没個性化』が生じる。
その結果、情緒的・衝動的・非合理的行動が現われ、また周囲の人の行動に感染しやすくなる。」という理論から考えたものです。
1枚目の窓を割るのは心理的抵抗が大きいが,割れている窓が1枚あると他の窓を割る時の心理的抵抗は非常に少ない。
すなわち、目に見える軽微な犯行を減少させることで他の犯行の誘発を防ぐという考え方で、ニューヨーク市では地下鉄の無賃乗車や落書きを「割れ窓」に見立て、これらを徹底的に取り締まった結果、劇的に犯罪が減ったといわれています。
この考え方をアメリカで教育方針に取り入れたのが「ゼロトレランス方式」といわれるものです。
トレランス(tolerance)というのは、寛容ということなので、それがゼロということは、寛容せず、細部まで罰則を定めそれに違反した場合は厳密に処分を行うという方式で、日本語では「不寛容方式」「毅然とした対応方式」などと意訳されています。
この考え方がアメリカで起きたのは、1970年代から学級崩壊が深刻化し、学校構内での銃の持込みや発砲事件、薬物汚染、飲酒、暴力、いじめ、性行為、学力低下や教師への反抗などの諸問題を生じたて目に、その対策を考えなければならなくなったからです。
そして、様々な方法を取ったところ、最も実効の上がった方法がゼロトレランス方式だったということです。
細部にわたり罰則を定め、違反した場合は速やかに例外なく厳密に罰を与えることで生徒自身の持つ責任を自覚させ、改善が見られない場合は、問題児を集める教育施設への転校や退学処分にし、善良な生徒の教育環境を保護しようとするやり方です。
アメリカではどの党の大統領でも標語として打ち出し、アメリカ連邦議会が各州に同方式の法案化を義務付け、一気に広まっています。
そして、この指導法を日本の教育に導入するかどうかの検討が文科省で始まったようです。
一説によれば、東京都の監視カメラの数はおよそ二○○万台。
新宿駅と池袋駅周辺だけでみても七○○台以上設置されていると言われています。
最近、渋谷センター街に設置されたドーム型監視カメラは、三六○度回転する全方位型で、撮影された画像は、渋谷警察署と警視庁本部の生活安全総務課に送信され、二四時間体制でモニター監視され、録画記録されているといいます。
地下鉄やJR駅構内、商店街やコンビニ、ファミリーレストランにも監視カメラの設置が進んでいます。私たちの生活は、今や、監視カメラによって包囲されているのです。
監視カメラ導入の理由の第一に挙げられるのは犯罪発生率の増加です。
犯罪やテロから市民を守るため、監視カメラは必要だというわけです。
実際、東京都が提出した「東京都安全・安心まちづくり条例案」では、「犯罪の防止に配慮した環境の整備」として、警察の指導にしたがって都内全域に、監視カメラの網の目を張りめぐらすことが定められています。
しかし、セキュリティ管理が目的とはいえ、「犯罪の未然防止」という考え方は、根本的な問題を孕んでいます。
「都市が無秩序である場合に、犯罪は起こるべくして起こる。
犯罪を未然に防ぐためには、犯罪を生む恐れのある芽をいち早く摘み取る必要がある」。
「近年の犯罪学の領野でもっとも影響力をもった論文」にジョージ・ケリングの「割れた窓」理論があります。
その趣旨は、犯罪の予防にあります。
そして、この論文を下敷きに実行に移したものが「ゼロ・トレランス政策」でした。
「ゼロ・トレランス政策」とは、警察による予防的取り締まりを徹底させることによって秩序を維持する都市政策であり、九○年代のニューヨークに導入され一定の成果を得ました。
大阪女子大学専任講師・酒井隆史氏は著書『自由論--現在性の系譜学』(青土社)でこの「ゼロ・トレランス政策」について、次のように報告しています。
「街路でのちょっとした秩序を乱す行為や粗暴な行為(incivilities)にたいして寛容であってはならない。
そんなささいな振る舞いを街路から一掃し、攻撃性のある〈物乞い(beggars)〉、ホームレス、〈売春婦〉、酔っぱらいなどに処罰を与えねばならないし、それが街の安全性に必須である。〈犯罪は無秩序の帰着点〉なのだから。(…)犯罪と無秩序はここでなだらかな連続線を描くのだが、この発想が〈ゼロ・トレランス政策〉に多大な影響を与えることになる」。
犯罪から身を守るためには、寛容であってはならない。
そのためには、監視の手をゆるめてはならない。
無秩序や混乱と犯罪が少しでも関係するのであれば、ただちに秩序を回復すること。
「ゼロ・トレランス政策」の思想は、言い換えれば、都市の秩序を乱す恐れのある匿名的なもの一切を払拭することだといえます。
わが国で急増する監視カメラが見ているものは、ほかならぬ匿名的な存在ではないでしょうか。
割れ窓理論
1983年3月、米国の犯罪学者ジェイムズ・Q・ウイルソンとジョージ・L・ケリングが紹介した理論である。
内容は、誰も住んでいないアパートで割れたままの窓を放置しておくと、その近所では犯罪が増加するという考え方である。
通りがかった不特定の人間の心に「その窓が割れていても、建物の所有者や地域住民など誰も気にしないようだから、他の窓も割ってもいい」と考える気持ちが芽生える。
そうしてどんどん窓が割られていくと、「ここは荒れた地域らしいから」という気持ちがさらに芽生えて、破壊行為や暴行などもっと深刻な犯罪をエスカレートさせてしまう可能性があるというものだ。
そこで、地域住民が力をあわせて空き家の割れた窓を直して歩くことで、逆にその地域の治安は向上するという。
元々、この割れ窓の理論は、「匿名状態では、人はより自己規制が働かず、無責任な行動をとる傾向がある」という心理学者フィリップ・ジンバルドの理論をベースにしているそうだ。
そう言われてみれば、公衆便所に落書きをする人も、匿名性の保たれない自分の会社のトイレではあまり落書きはしない。
もっとも割れ窓の理論では、匿名性に加えて「窓がたくさん割れている」という事実が、さらに自己規制をなくしてしまうということを提唱している。
簡単に言えば、「誰も見ていないから、落書きをしてもいいや」というのがジンバルドの理論の段階で、「そこらじゅうに落書きがしてあるから、他人が見ていても落書きをしてもいいや」と人々が思い出す段階がウィルソンとケリングの割れ窓理論のレベルに入るわけだ。
分かりやすい言葉で説明すれば、「腐ったミカンが1つあると、箱の中のミカンが次々に腐っていく」という金八先生に登場した隣の中学の教頭先生の理論も、壊れ窓理論にあたるわけである。
この割れ窓理論については、1994年にニューヨーク市長に当選したルドルフ・ジュリアーニ氏(前ニューヨーク市長)が、ケリング氏を顧問にしてニューヨーク市の犯罪抑止に活用したということで一躍有名になった。
割れ窓理論を犯罪防止に活用するとは、つまり軽微な犯罪を次々と取り締まることで、犯罪率を低下させるという方法論を指す。
結果として、ニューヨーク市の犯罪率はジュリアーノ市長の時代に激減したのだ。
防犯環境設計が区画性を高めることによって、標的への接近を防げる物理的なバリアを築こうとするのに対して、割れ窓理論は、縄張意識を高めることによって、心理的 なバリアを築こうとするものである。
また、防犯環境設計が、無死角性を高めることによって、犯行を抑止する物理的な視界を良好にしようとするのに対して、割れ窓理論は、当事者意識を高めることによって、心理的な視界を良好にしようとするものである。
要するに、割れ窓理論におけるブロークン・ウィンドウズ(割 れた窓ガラス)は 、縄 張意識 と当事者意識 が低い「場所」の象徴なのである。
割れた窓ガラスが放置されているような「場所」では、縄張意識が感じられないので、犯罪者といえども警戒心を抱くことなく気軽に立ち入ることができ、
さらに、当事者意識も感じられないので、犯罪者は 「犯罪を実行しても見つからないだろう」「見つかっても通報されないだろう」「犯行は制止されないだろう」と思い、安心して犯罪に着手するのである。
そこで、割れ窓理論は、地域における秩序違反行為への適切な対応を主張する。
縄張意識と当事者意識が高ければ、秩序違反行為が放置されるはずがないからであ る。
ここでいう秩序違反行為とは、不快や不安を与え、生活の質を低下させる振る舞いで ある。
例えば、
落書きすること
公園で酒を飲むこと
ゴミを投げ捨てること
公共の物を壊すこと
車内で騒ぎ立てること
街頭で乱暴な身振りをすること
強引に売り付けること
夜中に大きな音を出すこと
などが秩序違反行為である。
割れ窓理論 は、このような秩序違反行為が犯罪の呼び水になると主張する。
割れ窓理論が求めた秩序違反重視の姿勢は、欧米諸国の犯罪対策立案者の間に浸透していき、
イギリス では、「犯罪及び秩序違反法」 として、法律の名前に採用されるまでに至った。
インターネット上には膨大な数の掲示板が展開している。
その多くは匿名で書き込めるし、 掲示板の管理者さえも誰からのものか通常は特定しがたい。
匿名となると人間の隠された一面が出てくるということは、 これまでにもいろんな媒体に関して指摘されてきたことである。
匿名の手紙、 匿名の電話、 匿名のビラ等々。
しかし、 インターネットは匿名での行為を限りなく大衆化してしまったところに特徴がある。
若者の大半が知っている 「2ちゃんねる」 という掲示板では、 あきれるほどのスレッド (各掲示板のテーマの見出しのようなもの。 「スレ」 とも言う) が立てられ、 それぞれで実に勝手な意見が書き込まれている。
人前では決して言えないであろうような文言が、 そこここに見いだされる。
あるいはまた、 自分が気に入らないスレッドを使えなくするといった人間も出現する。
そのために各スレッドをいちいち操作していくと思われるから、 かなりの時間を使うのだろうが、 あるいはそれ用の簡単なソフトを開発しているのかもしれない。
いずれにせよ、 ただ他の人の邪魔をするためだけの目的で、 せっせとパソコンに向かっている人間がいるわけである。
駐輪場にとめてある数百台の自転車のタイヤを片っ端から穴をあけていくような行為といえば分かりやすいだろうか。
「2ちゃんねる」 は、 もともと気晴らしのためのようなものだから、 ユーザーにとって、 自転車がいたずらされたときのような切実さはなかろうが、 大なり小なり不快になるのは当然である。
そうした愉快犯のような人物も、 ネット上では簡単に生まれる。
小さな犯罪を放置することが大きな犯罪を生む土壌になるという考えがある。
ブロークン・ウインドー理論として知られる。
この理論は現実社会での対応を念頭において構築されたものであるが、 ネット社会でも、 小さないたずらの頻発は、 大きな犯罪的行為の温床になるということが成り立つかもしれない。
小さな犯罪を徹底的に取り締まるやり方が、 ブロークン・ウインドー理論では勧められる。
だが、 ネット社会ではそうした小さないたずら、 犯罪的行為を取り締まる適当な手段がまだ見いだされていない。
ネット人口が小さかったころは、 ネチケット (「ネット」 と 「エチケット」 の合成語) を守ろうという言い方で、 ある程度モラル順守を呼びかけることができたが、 人口の大半がネット社会にかかわるようになれば、 もはやそうした呼びかけは事実上意味をもたなくなっている。
掲示板に書き込まれた他人の誹謗中傷、 汚い言葉での罵り、 ストーカーのような特定個人の攻撃。
こうしたものを見ると、 むき出しにされた現代人の心の病を突きつけられた感じがする。
現代人が何にいらついているのか、 現代はどのような攻撃性を助長しやすいのか。 そうした問いへの答えをネット社会に垣間見ることができるのである。
気持ちが高揚してもっと快感を求めたくなったなら、
来ている服を脱ぎ捨てて、
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わたしも全裸で横になります。
さぁ皆さん、今日もenjoysexですよ♪
Tシャツに特徴的なべレー帽姿の武器を持たない若者のグループである。ニューヨークの地下鉄をパトロールすることで知られるようになったが、今ではアメリカの30都市に支部を持っている。犯罪に対するこのグループの効果は、残念ながらあまりないようである。しかしながら、彼らの存在が住民に安心感を与え、秩序を保つのに貢献していると思われるのである。
もう一つの慣例は、“自警団”である。東部の移住者が定住した開拓地で、政府が関与する以前に認められた、350以上の自警団があったとされ、その特徴は、警察官としてだけではく裁判官、陪審員、そしてしばしば執行人として、法を自らのものにしていたことである。今日では、古い街が“都市開拓地”とされていることに住民が恐怖感を表しているにも関わらず、自警団は珍しいものとして捉えられている。しかし、ある地域での監視人たちはその団体との境界線を近いものとし、近い将来その線を越えるものもでてくるであろう。ウォールストリートジャーナルで報告された両方ととれるケースは、ニュージャージー州シルバーレイク地域での市民によるパトロールである。リーダーは、“外部者に気を付けている”と言う。地域外からの若者数人がやってきた場合、どんなようか尋ね、若者が「ジョーンズさんに会いに着ました」と言えば通す。しかし本当にジョーンズさんに会いに行くのかを確かめるために後をつける、といった具合である。
住民の力も大きいが、秩序維持の鍵になるのはやはり警察である。まず、ロバートテイラーホームズのような住宅地域の多くは、自らの力だけでは秩序を守りきれない。また、たとえ落ち着いた地域の住民でも、バッヂをつけているような責任感は感じないと言う。心理学者は、人々はなぜ他人が襲われて助けを求めている時に何もできないのか、ということに関して多くの研究をし、その原因は“無関心”や“自己中心”にあるのではなく、それぞれが持つべき基本的な責任感の欠如にあるとした。皮肉なことに、責任からの回避は周りに大勢の人がいる時の方がし易い。秩序が必要とされる街の通りや公共の場所では、多くの人が“傍観者”になりやすく、その地域を守る人として行動する機会を少なくしている。警察官の制服が、必要とされた時に責任を果たすべき人とするのである。それに加え、住民に比べて警察官には、何が街の安全を守るために必要とされるのか、また何が単に人種の統一のためのことなのかの判断をまかせられるのである。
しかしながらアメリカ警察の人員は増えることなく、むしろ減っているのが現状である。いくつかの都市では、稼働可能な警察官の数の削減を余儀なくされた。今後もこのような状況はしばらく続くと思われる。そのため、どの部署でも元警察官に対しての配慮が必要とされる。いくつかの地域は徒歩パトロールが役に立たない程犯罪が多く荒廃している。限られた数の警察官でできることは、必要とされる多くの要求に応えることである。落ち着いていて安全な、徒歩パトロールが不要な地域もあるのである。秩序は崩壊しているがまだ改善の余地がある地域、人出はあるが恐れている人が多い通り、いつでも窓ガラスが割られているが全てが割られているのではなくすぐに修繕が必要な地域、などまだ改善するのに間に合う地域を見極めることが大切なのである。
ほとんどの警察署では、システム的にそのような地域を認識して警察官を配置するような体制ができていない。警察官は、犯罪率によって配置され(そのため治安が乱れてきているような場所は対象外とされ、改善不可能と思われるような地域での犯罪調査にあたることになる)、また出動要請の電話の数によって配置されるのである。(多少怖い思いをしたぐらいでは電話をしないものなのだが)。
公共の場での恐怖心を最小限のものにするために、警察はどのように地域のインフォーマルな社会統制のメカニズムを強化することができるであろうか。
法執行自体が答えにならない。ギャングは威嚇するような服装で乱暴な話し方をすることで、法に触れることなく地域を破壊することができるのであるから。
このような問題を考えるのは困難なことである。倫理的、また法律上の争点が複雑だからというだけではなく、私たちが法律を本質的に個人主義のものとして捉えるようになったためである。法律はワタシの権利に定義を下し、コノ危害のためにアノ警察官がソノ人物の行動を罰する。この考え方から、個人にとってよいことは地域にとっても同様であり、個人にとって対して問題ではないことは多くの人に対して起こってもまた同様であると思われる。通常、これはもっともらしい仮設である。しかし、ある一人の人にとってなんでもないことが他の多くの人にとっては我慢できないような場合、その多数の人の恐れ、撤退、脱出などの反応が、最初になんでもないと思っていた人も含む全ての人にとって、状況を悪い方向に向かわせる。それは個人の必要性に反するあり方のコミュニティへ示す敏感な反応であり、なぜ小さな地域社会の住民の方が大都市に似たような地域の住民よりも警察に満足しているのかを表すものである。インディアナ大学のエリノア・オストロムらは、警察の職務に対する理解度を、イリノイ州にある黒人の住む二つの街、フィニックスとイーストシカゴハイツそしてシカゴにあるやはり黒人の住む三つの街とを比較してみた。犯罪による被害のレベルや警察と地域住民との関係の質はどの街でも同じようなものであった。しかし、シカゴ市内の住民よりもフィニックスとイーストシカゴハイツの住民の方が、犯罪を恐れて家に閉じこもることが少ないと言い、警察には問題解決のために、‘必要な行為’をとる権利があると考え、警察は一般住民が必要とする助けに注意を払うべきだと考えていることが分かった。小さな地域の住民と警察は、そのコミュニティの一定のレベルを保つために共に努力するように努めているのに対し、大都市の住民と警察は、個人主義を基本にやり取りしているのではないかと考えられるのではないだろうか。
もしこれが本当であれば、警察は、どのように不十分な部隊を容量よく展開していけばいいのだろうか。誰にもその答えははっきりと分からないのだが、とるべき最も賢明な行為としては、ニューアークでの実験結果を活かして、どのような地域にどのような対応が必要かを正確に判断していくことが挙げられると思われる。また、地域の秩序を維持するのに、可能な限り警察が関与しないで済む防護手段をとることである。いずれにしても、善良な住民の方が評判の悪い人物よりも多ければ、インフォーマルな社会統制の効果を上げることができるであろう。
たとえ荒廃しきった危険な地域でも、警察が関与しない住民による活動は効果的であろう。街角にたむろするのが好きな若者などと話し合うことによって、集まってよい場所や時間、人数などのルールをお互いの同意の元に設定することもできる。
ルールの設定に同意が得られない場合には、住民によるパトロールも効果的であろう。秩序維持に対する地域の関与には、二つの慣例がある。一つは、“コミュニティの見張り人”であり、これは新世界の開拓の頃からのものである。19世紀頃まで、警察官ではなくボランティアの監視人が秩序を保つために巡回していた。それは、法を行使せずに、罰を与えたり暴力を振るったりすることなく行われた。彼らの存在は秩序破壊を思いとどまらせ、また住民に対しての警鐘となった。現在では、国中の多くの都市でこのような努力がなされている。最もよく知られているのはガーディアン・エンジェルスではないだろうか。
パトロール警察官を的確に配置するには、地域の状態をよく見て、どこにより多くの警察官を置けば安全の向上に貢献できるかを、直に得た情報をもとに判断することが必要なのである。
限られた数の警察官の勤務枠を拡大する一つの方法が、いくつかの公営住宅プロジェクとで試されている。管理組合が、敷地内のパトロール役に勤務時間外の警察官を雇う方法である。住民一人あたりにかかる費用は大した額ではなく、警察官は収入が増えることに満足し、住民はより安全に感じる。このような方法は民間の警備員を雇うよりも良いのではないか、というふうにニューアークでの試みの結果が私たちに思わせる。民間の警備員は、その存在によって犯罪や違法行為をやめさせ、助けを必要としている人のところに援助には向かうであろうが、秩序を乱す者に干渉することはないであろう。一方忠誠を誓った“本物”の警察官は、仕事に対する責任感、自信、またこの難しい仕事をするのに必要な権力のオーラのようなものを持っている。
パトロール警察官は、勤務先への移動中、バスや地下鉄など公共の乗り物の中でも、喫煙や飲酒、また他の治安を乱すような行為を取り締まることを期待されているであろう。取り締まりといっても、秩序破壊行為者を追い払う程度のものである。(裁判官が必要とされるような犯罪が起こっている訳ではないのである)無作為ではあるけれども厳しいバスでの水準維持は、バス内の状況を現在飛行機内で当然とされているレベルの秩序に近づけることがおそらく出来るのではないだろうか。
しかしながら、最も要求されているのは、不安定な状況の中で治安を維持していくことはきわめて重大な仕事であるということをよく考えることである。警察はこれが職務の一つであることを理解し、また、犯罪捜査や出動要請に応えることを除外しては正しくなされないと信じている。深刻で暴力的な犯罪に対する私たちの度重なる懸念によって、犯罪に対処する力量によって評価されるという考え方を警察官に与えてしまったと思われる。このことから今後も警察幹部は、犯罪率の高い地域に多くの警察官を配置し(今後犯罪の被害を受けやすいと思われる場所にではなく)、法律や犯罪者逮捕のトレーニングに重点を置き(街の治安を保つためのトレーニングではなく)、そして“無害”と思われる行為を減らすキャンペーンに参加していく(どのプロの窃盗犯グループよりも早く、公共の場での酔っ払いや通りにいる売春婦やいかがわしい広告などの方が地域を破壊するにもかかわらず)のであろう。
とにかく、私たちは、警察は個人それぞれを守るのと同様にコミュニティも守るべきであるという長い間忘れ去られていた観点に戻らなくてはならない。私たちが出す犯罪の統計や被害化調査は、個人の損失を表しても地域の損失は表さない。医者がただ病気を治療するよりも健康維持の重要性に気がついたように、警察そして私たちも割れている窓ガラスのない治安の保たれたコミュニティの重要性に気が付かなければならない。
パトロール警察官を的確に配置するには、地域の状態をよく見て、どこにより多くの警察官を置けば安全の向上に貢献できるかを、直に得た情報をもとに判断することが必要なのである。
限られた数の警察官の勤務枠を拡大する一つの方法が、いくつかの公営住宅プロジェクとで試されている。管理組合が、敷地内のパトロール役に勤務時間外の警察官を雇う方法である。住民一人あたりにかかる費用は大した額ではなく、警察官は収入が増えることに満足し、住民はより安全に感じる。このような方法は民間の警備員を雇うよりも良いのではないか、というふうにニューアークでの試みの結果が私たちに思わせる。民間の警備員は、その存在によって犯罪や違法行為をやめさせ、助けを必要としている人のところに援助には向かうであろうが、秩序を乱す者に干渉することはないであろう。一方忠誠を誓った“本物”の警察官は、仕事に対する責任感、自信、またこの難しい仕事をするのに必要な権力のオーラのようなものを持っている。
パトロール警察官は、勤務先への移動中、バスや地下鉄など公共の乗り物の中でも、喫煙や飲酒、また他の治安を乱すような行為を取り締まることを期待されているであろう。取り締まりといっても、秩序破壊行為者を追い払う程度のものである。(裁判官が必要とされるような犯罪が起こっている訳ではないのである)無作為ではあるけれども厳しいバスでの水準維持は、バス内の状況を現在飛行機内で当然とされているレベルの秩序に近づけることがおそらく出来るのではないだろうか。
しかしながら、最も要求されているのは、不安定な状況の中で治安を維持していくことはきわめて重大な仕事であるということをよく考えることである。警察はこれが職務の一つであることを理解し、また、犯罪捜査や出動要請に応えることを除外しては正しくなされないと信じている。深刻で暴力的な犯罪に対する私たちの度重なる懸念によって、犯罪に対処する力量によって評価されるという考え方を警察官に与えてしまったと思われる。このことから今後も警察幹部は、犯罪率の高い地域に多くの警察官を配置し(今後犯罪の被害を受けやすいと思われる場所にではなく)、法律や犯罪者逮捕のトレーニングに重点を置き(街の治安を保つためのトレーニングではなく)、そして“無害”と思われる行為を減らすキャンペーンに参加していく(どのプロの窃盗犯グループよりも早く、公共の場での酔っ払いや通りにいる売春婦やいかがわしい広告などの方が地域を破壊するにもかかわらず)のであろう。
とにかく、私たちは、警察は個人それぞれを守るのと同様にコミュニティも守るべきであるという長い間忘れ去られていた観点に戻らなくてはならない。私たちが出す犯罪の統計や被害化調査は、個人の損失を表しても地域の損失は表さない。医者がただ病気を治療するよりも健康維持の重要性に気がついたように、警察そして私たちも割れている窓ガラスのない治安の保たれたコミュニティの重要性に気が付かなければならない。
Tシャツに特徴的なべレー帽姿の武器を持たない若者のグループである。ニューヨークの地下鉄をパトロールすることで知られるようになったが、今ではアメリカの30都市に支部を持っている。犯罪に対するこのグループの効果は、残念ながらあまりないようである。しかしながら、彼らの存在が住民に安心感を与え、秩序を保つのに貢献していると思われるのである。
もう一つの慣例は、“自警団”である。東部の移住者が定住した開拓地で、政府が関与する以前に認められた、350以上の自警団があったとされ、その特徴は、警察官としてだけではく裁判官、陪審員、そしてしばしば執行人として、法を自らのものにしていたことである。今日では、古い街が“都市開拓地”とされていることに住民が恐怖感を表しているにも関わらず、自警団は珍しいものとして捉えられている。しかし、ある地域での監視人たちはその団体との境界線を近いものとし、近い将来その線を越えるものもでてくるであろう。ウォールストリートジャーナルで報告された両方ととれるケースは、ニュージャージー州シルバーレイク地域での市民によるパトロールである。リーダーは、“外部者に気を付けている”と言う。地域外からの若者数人がやってきた場合、どんなようか尋ね、若者が「ジョーンズさんに会いに着ました」と言えば通す。しかし本当にジョーンズさんに会いに行くのかを確かめるために後をつける、といった具合である。
住民の力も大きいが、秩序維持の鍵になるのはやはり警察である。まず、ロバートテイラーホームズのような住宅地域の多くは、自らの力だけでは秩序を守りきれない。また、たとえ落ち着いた地域の住民でも、バッヂをつけているような責任感は感じないと言う。心理学者は、人々はなぜ他人が襲われて助けを求めている時に何もできないのか、ということに関して多くの研究をし、その原因は“無関心”や“自己中心”にあるのではなく、それぞれが持つべき基本的な責任感の欠如にあるとした。皮肉なことに、責任からの回避は周りに大勢の人がいる時の方がし易い。秩序が必要とされる街の通りや公共の場所では、多くの人が“傍観者”になりやすく、その地域を守る人として行動する機会を少なくしている。警察官の制服が、必要とされた時に責任を果たすべき人とするのである。それに加え、住民に比べて警察官には、何が街の安全を守るために必要とされるのか、また何が単に人種の統一のためのことなのかの判断をまかせられるのである。
しかしながらアメリカ警察の人員は増えることなく、むしろ減っているのが現状である。いくつかの都市では、稼働可能な警察官の数の削減を余儀なくされた。今後もこのような状況はしばらく続くと思われる。そのため、どの部署でも元警察官に対しての配慮が必要とされる。いくつかの地域は徒歩パトロールが役に立たない程犯罪が多く荒廃している。限られた数の警察官でできることは、必要とされる多くの要求に応えることである。落ち着いていて安全な、徒歩パトロールが不要な地域もあるのである。秩序は崩壊しているがまだ改善の余地がある地域、人出はあるが恐れている人が多い通り、いつでも窓ガラスが割られているが全てが割られているのではなくすぐに修繕が必要な地域、などまだ改善するのに間に合う地域を見極めることが大切なのである。
ほとんどの警察署では、システム的にそのような地域を認識して警察官を配置するような体制ができていない。警察官は、犯罪率によって配置され(そのため治安が乱れてきているような場所は対象外とされ、改善不可能と思われるような地域での犯罪調査にあたることになる)、また出動要請の電話の数によって配置されるのである。(多少怖い思いをしたぐらいでは電話をしないものなのだが)。
公共の場での恐怖心を最小限のものにするために、警察はどのように地域のインフォーマルな社会統制のメカニズムを強化することができるであろうか。
法執行自体が答えにならない。ギャングは威嚇するような服装で乱暴な話し方をすることで、法に触れることなく地域を破壊することができるのであるから。
このような問題を考えるのは困難なことである。倫理的、また法律上の争点が複雑だからというだけではなく、私たちが法律を本質的に個人主義のものとして捉えるようになったためである。法律はワタシの権利に定義を下し、コノ危害のためにアノ警察官がソノ人物の行動を罰する。この考え方から、個人にとってよいことは地域にとっても同様であり、個人にとって対して問題ではないことは多くの人に対して起こってもまた同様であると思われる。通常、これはもっともらしい仮設である。しかし、ある一人の人にとってなんでもないことが他の多くの人にとっては我慢できないような場合、その多数の人の恐れ、撤退、脱出などの反応が、最初になんでもないと思っていた人も含む全ての人にとって、状況を悪い方向に向かわせる。それは個人の必要性に反するあり方のコミュニティへ示す敏感な反応であり、なぜ小さな地域社会の住民の方が大都市に似たような地域の住民よりも警察に満足しているのかを表すものである。インディアナ大学のエリノア・オストロムらは、警察の職務に対する理解度を、イリノイ州にある黒人の住む二つの街、フィニックスとイーストシカゴハイツそしてシカゴにあるやはり黒人の住む三つの街とを比較してみた。犯罪による被害のレベルや警察と地域住民との関係の質はどの街でも同じようなものであった。しかし、シカゴ市内の住民よりもフィニックスとイーストシカゴハイツの住民の方が、犯罪を恐れて家に閉じこもることが少ないと言い、警察には問題解決のために、‘必要な行為’をとる権利があると考え、警察は一般住民が必要とする助けに注意を払うべきだと考えていることが分かった。小さな地域の住民と警察は、そのコミュニティの一定のレベルを保つために共に努力するように努めているのに対し、大都市の住民と警察は、個人主義を基本にやり取りしているのではないかと考えられるのではないだろうか。
もしこれが本当であれば、警察は、どのように不十分な部隊を容量よく展開していけばいいのだろうか。誰にもその答えははっきりと分からないのだが、とるべき最も賢明な行為としては、ニューアークでの実験結果を活かして、どのような地域にどのような対応が必要かを正確に判断していくことが挙げられると思われる。また、地域の秩序を維持するのに、可能な限り警察が関与しないで済む防護手段をとることである。いずれにしても、善良な住民の方が評判の悪い人物よりも多ければ、インフォーマルな社会統制の効果を上げることができるであろう。
たとえ荒廃しきった危険な地域でも、警察が関与しない住民による活動は効果的であろう。街角にたむろするのが好きな若者などと話し合うことによって、集まってよい場所や時間、人数などのルールをお互いの同意の元に設定することもできる。
ルールの設定に同意が得られない場合には、住民によるパトロールも効果的であろう。秩序維持に対する地域の関与には、二つの慣例がある。一つは、“コミュニティの見張り人”であり、これは新世界の開拓の頃からのものである。19世紀頃まで、警察官ではなくボランティアの監視人が秩序を保つために巡回していた。それは、法を行使せずに、罰を与えたり暴力を振るったりすることなく行われた。彼らの存在は秩序破壊を思いとどまらせ、また住民に対しての警鐘となった。現在では、国中の多くの都市でこのような努力がなされている。最もよく知られているのはガーディアン・エンジェルスではないだろうか。
まさにぴったりですね。
満足なsexを体験せずに年老いていく女性には話しても理解していただけません。
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もちろんsexもこれからなのですよ
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