難民・移住労働者問題キリスト教連絡会 本文へジャンプ
難キ連  〜nankiren〜
     

事務局だより       事務局デスクから
★「難キ連、って何ですか?」とはよく聞かれる質問です。

難民・移住労働者問題キリスト教連絡会難キ連とは…?
 <難民・移住労働者問題キリスト教連絡会>難民・移住労働者問題に取り組むキリスト教関係者のネットワーク。1989年 難民船の西日本への漂着をめぐる排外キャンペーンのさなかに、この問題との取り組みを、市民レベルだけでなく、教会に広げ深めたいと願って発足しました。

 当時の移住労働者問題市民運動の情報ネットだった「アジア人労働者問題懇談会」の事務局を引き受け、移住労働者と連帯する全国ネットワークの結成後は、その事務所を担当するなど、全国の運動のネット作りに貢献して参りました。

日本に庇護を求めてくる難民や日本で働く移住労働者の様々な問題を教会の宣教課題として取り上げたい、という願いと、クリスチャンだけではなく一般市民の難民問題への意識の喚起、難民を難民=不法滞在者=犯罪者という負のイメージで捉えるのではなく将来、日本と故国の架け橋となるべく人材、という認識を持つ社会を推進する教派を超えた団体として、設立以来在日外国人の人権のために活動を続け、現在は面会支援を通して入管処遇問題まで活動範囲を広げ、在日難民・移住労働者とその家族の生活を守るべく、真の多民族多文化共生社会を目指して活動しております。活動についてのご質問等は 難キ連事務局までお問い合わせください。
また、難キ連ニュースレター「となりびと」 37号を無料で配布いたします。お気軽に事務局へお申し込みください。
難キ連事務局  【TEL】 (03)3207−7801 【FAX】 (03)3204−9495
           【携帯電話】 090−6012−8252   
           【E-m@il】 nankirensato@jcom.home.ne.jp

<事務局長ブログ>
2014年9月19日 金曜日

難民女性Eさんが一昨日、無事に再定住先カナダ向けてに出国いたしました。
関係各位の皆様に心から感謝申し上げます。
Eさんが日本に庇護を求めてやってきたのは4年前です。
母国から庇護を求めて日本に逃れてきたものの成田空港で難民申請却下(パスポートの不備)となり
2週間の成田空港収容施設での拘束後牛久に移送され収容、11ヶ月後に仮放免となりました。
2012年、仮放免後の住居支援に関わり、住居探しに同行、契約、入居、今春の契約更新、そして現在に至りました。
E さんからの度々の報告(カナダ領事館との折衝、進捗状況)を受けたものの、
これまでカナダ、ノルウェーなど第3国再定住を実現するまでには少なくとも3年は必要としており
つい先月、2014年8月に、カナダ政府の受け入れが報告された時には信じられませんでした。
本来、カナダ政府は日本にいる難民申請者から直接の難民申請は受け付けません。日本は難民条約に加入しており先進国でもあり、
難民申請者を受け入れないはずがない、と東京にあるカナダ大使館ではフィリピンマニラにあるカナダ領事館に取次をするだけと聞いておりました。
そのため、...申請をしても、インタビューはマニラから担当領事の来日が必要で、受け入れが決まっても健康診断などがあり、
また、難民としてではなく移民としても、カナダの国内に5人のスポンサーと1年間の生活費、渡航費の準備を必要とされ、
申請受領書を受け取ってから、受け入れ結果は3〜4年の期間待たされるのが当たり前となっております。
今回のEさんケースは、親族がカナダにいる事、難民性も認められた結果、カナダ在住弁護士の働きも功を奏し異例の速さで入国が実現いたしました。

パスポート、航空券の持参により入管は速やかに1カ月の出国準備のビザを発給、出国に至りました。
この数日、引っ越しなどめまぐるしく過ぎ、また出国日は朝から、水道局、ガス会社、東京電力の解約清算に立会い、
大家さんとの清算金支払い後、成田空港まで見送りいたしました。
成田まで運転する道すがら、助手席のEさんが何度も口にする感謝の言葉を聴きながら、
安堵とともに、難民申請者に門戸を開けない日本、Eさんを受け入れられなかった日本に言いようのない寂しさ、悲しみを覚えました。


11か月の収容生活は、女性棟内でいじめのような状況もあり、
プライドを傷つけられることも多く苦しい日々だったと、(いじめた人の事を)名指しで涙を目にいっぱいためて話す事もありましたが
4年の間、親切を受けた全ての方々に感謝し、たった一人の見送りの私に、輝くような笑顔で手を振り、日本を発ちました。
仮放免という働く事も出来ない、国民健康保険にも入れない、移動の自由もない生活から、
一人でも多く正規滞在化してほしいという願い、そして、それがかなわないのならば、
日本ではない再定住地に自由と自立する幸せを求めて旅立ってほしいとの切なる祈りが
第3国再定住を目指す人々への支援につながります。

9月に入って、いよいよ出国の日が決まってからは
秒読みの様な日々、賃貸アパートからの荷物の移動も頭の痛い事でしたが、
ただただ無事に出国をと祈り、弊団体関係者の皆様にもお祈りをお願いして参りました。
 Eさんを日本社会で受け入れられなかった事は大きな寂しさですが
これまで送りだした人々は皆、受け入れ国で自立、安定した生活を営んでおり、
多くの親族が待ち受けるカナダで、Eさんも活き活きと能力を生かし、仕事をすることでしょう。
Eさんの幸せを心から祈っております。



2014年7月23日 水曜日
昨日の難キ連チャリティコンサートへのご来場、
誠にありがとうございました。
皆様、
おかげさまで、今年も素晴らしい御演奏を頂き
また、ルリ子先生、ボーマン先生のメッセージと証しは
会場の皆様に深い感銘を与えてくださいました。
心から感謝です。
ボーマン・ルリ子先生には、また来年のコンサートのお約束までいただき、
しかも会場はお茶の水クリスチャンセンターを
ご予約下さるとの有難いお申し出を頂きました。
また、
難キ連の活動へのお祈りの輪の広がりに感謝申し上げます。
ご来場くださいました皆様も半数以上は諸教会の皆さまで、
難キ連の働きへのご関心が諸教会に広がりつつあることを
感謝いたしました。

マリップセンブさんのお話も、日本で地道に努力されている
認定難民のセンブさんの言葉にはとても重みがあり
ミャンマー民主化についても、皆様への意識喚起が行われたように思います。

お父上様のお具合が悪い中、ご一家でご来場くださった鷹巣様の
「憲法九条を守る日本国民にノーベル平和賞を」のお働きも
御紹介申し上げますとともに
ご自身から会場の皆様にお話しいただくことが出来ました。
また、昨年、今年、ボーマン先生へのコンサートが実現いたしましたのも
鷹巣様はじめ相模原の平和を作る会様との出会いがきっかけであったことも
お話しさせていただきました。

会場にはボーマン先生の妹様ご夫妻も、
日本での最後の夜、コンサートを共に拝聴され、
終了後、佐藤にも暖かいお励ましを頂きました。

昨日はパレスチナ問題の集会と重なってしまい、
来場者数は40名足らずでしたが
心豊かな素晴らしいコンサートに
3人のボランティア学生もとても感銘を受けたことを話しております。
デボラさんのお二人の息子さん、また私の長女も手伝い
アットホームなコンサートとなりました。
体調の優れないなか駆けつけてくださった佐々木様、
本当にありがとうございました。

なお、席上献金は43,200円頂戴いたしました。
とりいそぎ、チャリティコンサートが無事終了いたしましたこと、
ご来場へのお礼とともに
心からの感謝をこめて報告申し上げます。

2014年7月6日 日曜日
今朝、ヘイトデモが早稲田奉仕園へ、という情報を頂戴し、
ちょうど、早稲田奉仕園内の日本バプテスト同盟東京平和教会へ
アメリカ合同メソジスト教会から派遣された三人のボランティア学生と
礼拝出席するために出掛けるところでしたので、また、
彼ら(ヘイトスピーカー)の行動情報は私は全く知りませんでしたので、学生3人ももちろん外国人であり(スーダン人、台湾人、ブラジル人…ブラジル以外は国籍アメリカ)
彼らを伴うことに一抹の不安がよぎりましたが主の御旨によって派遣された、また東京平和教会に集う外国籍の方々に危険が及ぶことは、神様がお許しにならないと礼拝に出席いたしました。

東京平和教会の牧師、大矢直人先生は難キ連の運営委員でもあり、
今回の学生の宿舎探しに苦慮していた折に
日本バプテスト同盟神学校学生寮提供を交渉してくださいました。
彼らはメソジストですが、来日以後、日本バプテスト同盟横浜南教会、
そして我孫子市の宿舎へ移動後の今日は東京平和教会での礼拝出席となりました。

大矢先生からはヘイトデモが早稲田奉仕園をターゲットにしていることを
知らされましたが、大矢先生は何事もないように笑顔で「午後3時頃に予定されているというヘイトデモには多くの警官も警戒に入ってくることでしょうからこの奉仕園の中は混乱も予想されます彼らは聞くに堪えない暴言を吐きますが、暴言に対して暴言ではなにも生まれません。
彼らの暴言に私たちは愛を持って迎えたいものです」とお話しされました。
教会内は、私たち4人を含めて何カ国もの人々が集い、声を合わせて賛美し、
ルカ6:46〜49の聖書に基づいた力強いメッセージ、聖餐式、祝祷、と続く
礼拝終了後の愛餐では、和やかにビルマのカレーと牧師夫人の手作りチーズケーキまで頂きました。
私は、かつて難キ連日本語クラスで学んだミャンマー難民の方々とハグして再会を喜び合い、
また難民子女の英会話教室への学生の派遣依頼など、心豊かな充実したお交わりを頂きました。
同教会では、引き続きカチン語礼拝が始まり、私どもは教会を後にいたしましたが
奉仕園内のスコットホール、早稲田教会…( 7月21日にはボーマン先生のコンサートを開催致します。)キリスト教会館など敷地内を案内しながら次の訪問先、東京ユニオンチャーチに急ぎました。

今回のヘイトスピーカーの標的には弊団体難キ連も含まれていたことを帰宅後に知りました。
現在は、すでにお知らせしています通り、耐震改修工事のため、キリスト教会館からは、
長年外国人の人権や福祉のために働いた多くのキリスト教団体が都内各所に移転しており
何故今頃?と疑問が残りましたが、
平和に満ちた礼拝のひと時をもし彼らが共有したらどの様に感じるのでしょう。

先々週土曜日から、学生たちと、品川、茨城県牛久に収容されている
様々な国からやってきて、様々な理由で収容されている人々に面会をしながら
日本人外国人に限らず、私たちは共に手を取り協力し合って生きる方法を
どの様に探ればよいのか課題としましたが、興味深く学生たちのレポート提出を待っております。

本日の聖書の箇所はまさに私たち日本人に投げかけられた生きる姿勢を
神様に問われたような気がしてなりません。

2014年6月29日 日曜日
 昨日午後、難キ連のボランティアとしてアメリカ合同メソジスト教会(GBGM)からの派遣で3名の学生が来日。フィリピンで研修を受けた後、これから1ヵ月半彼らは主に首都圏の難民、難民申請者、仮放免者の問題を牛久、品川両入管被収容者面会支援を通して学び、奉仕活動を行います。早速、空港内カフェで第一週のスケジュール表を渡し、今回のボランティアのメインプログラムである難民支援、仮放免者支援のまえに、日本の全件収容ということを例を交えて簡単に説明。「たとえば…あなたたちもover stayになったら、入管に収容されるということ」「期限は?」「無期限なの…。1カ月なのか1年なのか…、3年、5年の人もいる」に、
しばし絶句。各々心理学、薬学、史学、専攻の若い学生である彼らがどのように日本の非正規滞在にある人々の問題をとらえるでしょうか。羽田から、横浜と移動し、夕食を共にして今週の宿舎である戸塚にあるバプテスト同盟神学校まで彼らを送り、担当のW先生の柔和な笑顔に迎えられ、彼ら共々ほっといたしました。
帰宅は23時過ぎ。数ヶ月前から派遣は決まっていたものの、具体的な事は知らされないまま、フライトを知らされたのも一日前!という…状況で、迎えるこちら側も一抹どころかいっぱいの不安を抱えて迎えた弊団体のGBGMボランティア一期生、案ずるより…の一日でした。心地よい疲労は彼らのさわやかさのせいでしょうか?
彼らが日本の難民申請者、都合良く働かされてOSになった外国人労働者の問題、収容の問題、仮放免、「ありのままに」見て報告してほしいと願ったところです。

2014年6月25日 水曜日
6月24日、聖公会横浜教区の皆さんと東京入管面会支援の際、1階のコンビニエンスストアで偶然、弊団体日本語クラスの第1号の生徒でもあるアフガニスタン難民女性 Jさんと出会いました。ビザが出て一年更新とのこと。Jさんにつきましては、アフガニスタン難民Yさんの義妹で
姉夫婦を頼って日本に難を逃れ難民申請をしましたが、2004年、2009年、収容され、ラマダンの時期と重なり、あらゆる飲食を拒否、急激な体重減少から動けなくなりました。それでも品川から牛久に移送され、牛久では点滴治療を受けるに至り、その間ほとんど毎日面会をを行い、ハンガーストライキはラマダンによるもので政治的な意図のない事を入管側に説明する一方、受任弁護士渡辺典子先生、故今野東先生の貴いお働きにより、牛久移送後わずか2週間足らずで仮放免になり、
その後、食糧支援などを行っておりました。昨年7月、何度か電話が入っていたのですが、ちょうど、弊団体創設以来初めての難局ともいえるGさんの問題に忙殺されていた時期でかけなおすこともしないままに時間が経過、
昨日は「ビザが出た時何度も電話をかけたけれど出なかったから、もうやめたかと思った…」と何度も握手をしながら、 YさんとJさんから笑顔で責められ?ました。
 Jさんの正規滞在化も長年の祈りの課題でしたので、本当に本当にうれしい再会でした。Jさんの経過は本国の明らかな性差別問題でもあり、また日本では脆弱者の収容の問題として取り組んだケースでもありました。

改めて被収容者面会支援が弊団体のミッションであることを認識しました。

2014年6月23日 月曜日
 先週の金曜日、四ツ谷イエズス会の一室、難民当事者と支援者の会議ではまた出現した新たな問題で暗雲が立ち込めていました。先月は、裁判所の陳述書をめぐっての感情のもつれを何時間もかけて解きほぐす糸口を見しだしたばかり。ようやく裁判が進み安堵したところに思いがけなく、他国からの証言者招聘をめぐっての家庭内の温度差が。英語と日本語を交えて、当事者の気持ちに寄り沿いながら解決の方向を探ります。頑なな顔に少しずつ、笑顔が見え始めると、ほんの少しずつ歩み寄り始めるのです。当事者、支援者、凍てついたような表情に笑顔が見えるとき「なぜ難民支援の現場で働いているのか」の答えを私自身も見出すのです。笑顔の明日が見える毎日が彼らにも、非正規に置かれた彼らにも当たり前になってほしい、つくづく思います。

2014年6月22日 日曜日
6月20日世界難民の日のFRJ(なんみんフォーラム)主催の
シンポジウム、
前後に会議があり、ぎりぎりに出席、途中退席させていただきましたが、とても心打たれる内容でした。JAR事務局長石川えりさんの難民申請者の現状報告は、JARの皆さんの真摯なお働きに敬意を表するとともに頷きながら、改めて協働を願ったところでした。カトリック難民移住移動者委員会委員長の松浦悟郎司教様のご講演は、今、難民、移住労働者を受け入れる日本が、かつては移民を送っていたこと、からゆきさんなどの近代史を紐解かれ、近代史を学ぶ必要をお話しされました。
 私的には、シンガポール在住時代は多くのからゆきさんの御墓が並ぶ日本人墓地(余談ですが現地で客死した二葉亭四迷の御墓もありました)を何度か訪れており、当時「サンダカン八番娼館」(山崎朋子著)は熟読、南米生活では、移住当時の意識を持って生活している1世、2世の方々の生活史に耳を傾けるなど、送られた日本人の状況、故国を出なければならなかった日本人の状況と共に、送り出し国の状況、人々についての情報が少ない日本をもどかしく思うこともあり、松浦司教様のお話は、「本当に!!」と声を出しそうなほど(笑)共感を持って拝聴いたしました。宮内先生の丁寧な難民受け入れに関する法的ご説明の途中で退席という失礼をいたしましたがとても学び多い午後になりました。感謝!!
2014年6月22日
難キ連難民セミナーへのご出席、またご関心ありがとうございました。

出席者は20人未満でしたが、歴史から現在まで映像と共に丁寧なお話に
とても感銘を受けました。特に内乱の避難民キャンプの女性が被る被害に
涙と怒りを禁じ得ませんでした。手放しでミャンマー民主化を喜べない事情と
日本にいるミャンマー難民への帰還促進が、入管収容などの形で表れていること、
10万人という避難民キャンプへの支援がほとんど届かないこと、
私たちはまだまだ知るべき現実がたくさんあることに気付かされました。

バプテスト同盟東京平和教会様と難キ連の協働は、...
前牧師の丹野先生の時代から、急病人の搬送と医療費支援や、
カチン族の皆さんを迎えての日本語クラス、早稲田大学学生有志
「カチニーズ」の皆さんの学習支援と日本語支援など、2011年終わりまで
キリスト教会館で続けてまいりました。(2012年より閉講)
今後、現地の避難民支援や、日本にいるカチンの皆さんの支援についても、
また、ミャンマー少数民族の問題を
より深く理解するため、
昨日のセミナーは今後、第2回、第3回と継続していく所存です。

2014年5月30日 金曜日
昨日は事務局から都内某法律事務所に直行。5時から、難民不認定取り消しを求める裁判の陳述書作成の話し合いに同席。
当事者と弁護士との関係悪化で陳述書作成が進まず、一度延期している裁判の続行が危ぶまれていた(前回の話し合いでは当事者が泣き叫ぶような事態になり
その結果裁判の延期を余儀なくされていた)件について相談を受けており依頼がありましたので法律事務所にて当事者、支援者を交えた陳述書作成対策会議に同席いたしました。当初は感情的な発言が双方にありましたが、通訳氏を入れ、丁寧な話し合いを重ねた結果、4時間近くかかりましたが、本人も納得いく12ページの陳述書が完成!、署名に至りました。何よりも丹念な陳述書作成への弁護士の先生の努力が当事者(不信感を募らせていた)に伝わったことは本当にうれしい事でした。
本日、裁判所に提出され、来月予定通り裁判が行われます。
難民申請者の正規滞在化には、支援者、弁...護士、コーディネイトするNGOの三位一体の調和のとれた支援の働きが必要であることを以前から感じており、昨夜はあらためて再認識いたしました。何とか、当事者の裁判勝訴に至りますよう、祈りつつ帰途に就いたところでした。 今週は難民申請後収容と仮放免の繰り返しの後に、病を得てようやく特定活動のビザが与えられたFさんからこちらの健康を案じるメールも。こちらからの返信にまた返信、来週心臓検査入院とのこと。多くの特技、技能?を持ちながら、職業として活かせないまま、そして、病身のまま、孤独のうちに老齢期に入っています。生活保護を受給、何とか生活は維持できていますが、認定を受けた、在特が出た正規滞在化した難民の孤立への対策も、弊団体の使命、ととらえています。
2014年5月19日 月曜日
 この夏、難キ連宣教師デボラさんを派遣しているアメリカ合同メソジスト教会から3名のボランティア学生を受け入れます。3名のうち一人は国籍がアメリカではないため、ビザの申請書類が必要、何とか招聘理由書、活動予定表、団体概要を送って準備完了。主に、彼らには入管被収容者面会聞き取りをしてほしいと考えています。
コスモポリタンの国からやってくる彼らが入管被収容者の実態を見たら驚愕するのでは…。
2014年5月18日  日曜日
 1989年9月に創設以来25年、住み慣れたキリスト教会館の耐震改装工事のために、神楽坂駅近くの新事務局に引っ越し、ほぼ完了。四半世紀の活動の記録は歴代代表、諸先輩、運営委員の皆様方の地道なぶれない活動が積み上げられたもの、日本社会の底辺を支える多くの外国人労働者の人権のための真摯なお働きにただただ敬服しながら、この度の事務局の引っ越しに伴う膨大な量の貴重な書類の山!設立経緯から現在までの資料整理に追われた金曜日でした。土曜日は朝から、昨日不在着信の電話にかけなおし。胃カメラ検査を受けた病院で検査後に倒れたとの報告があり、すぐさま電話で安否を尋ねると、すでに回復自宅に戻っていることにホッとしました。特に機能には問題がなく、ストレスが原因とのこと。滞っている裁判について支援者代表の方からの相談を受け、次週の訪問を伝えながらも、長い非正規滞在の難民申請者はストレスをためるだけため込んでおり,頷きながらしばらく話を聞きました。本日到着しているはずの食糧の確認などをしている間に落ち着いて少し安堵いたしました。着信で残されたメッセージには聞き取れないものもあり、昨年のチャーター機送還の輸送機入札が行われたのがちょうど今頃、かけなおしができないメッセージに落ち着かない気持ちです。
 
2014年5月11日  日曜日
今日は母の日。朝、一番に携帯にはかつての日本語講座生Nさん(ミャンマーカチン民族)からの「Happy Mother's Day!」(感謝!!)諸事情から現在は難民日本語講座は休講しているが
2011年8月まで日曜日午前中は早稲田大学学生有志カチニーズの皆さんが、午後は難キ連ボランティア講師が日本語指導に当たり、前年度2010年の日本語検定では午後クラスの90%がN1からN5まで合格、休講後も各々日本語習得に励み、検定に挑戦していてNさんもその一人です。キリスト教会館のある早稲田奉仕園敷地内日本バプテスト同盟東京平和教会で、多くのカチン民族の方々が礼拝を守っていることから、午前、午後の日本語クラスはカチンの皆さんの拠り所となり、Nさんカチンのみなさんはじめビルマ民族、カレン民族、イラン、クルド…諸国からの難民講座生の皆さんにセカンドハーベスト様からの食糧提供、交通費の支給、日本語検定の指導、受験料全額支援を行いました。まだ時折の食糧支援(宅配)は続けておりますが、日本語講座は指導者もいないことから休講中で、再会が望まれております。
 
さて、今朝の朝日新聞の一文「ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で民族浄化の目的で公然とレイプが行われ…」が目にとまりました。世界を震撼とさせたあのニュース、実はミャンマーの民主化の陰では政府軍とカチン民族、カレン民族の紛争の中で、政府軍兵士は半ば公然とカチン民族女性をレイプするという事態が生じました。生まれた子供を女性の母親が育てている状況も含めて、映像とカチン民族の問題を彼らの魂に寄り添う大矢直人東京平和教会牧師が6月21日の難キ連セミナーでお話しいたします。今年1月25日の、「外国人住民基本法の制定を求める全国キリスト教連絡協議会(外キ協)」の第27回全国協議会最終日に大矢直人先生が発表、映像は見る人全てに衝撃を与え、また、現在、ミャンマー民主化に伴い、帰還促進のありカチン民族はじめ難民として日本に庇護を求めたミャンマー難民の方々のビザや仮放免期間の短縮、仮滞在から仮放免へなど問題は相変わらず深刻化していることもあり、6月21日土曜日の午後に、大矢先生を講師に迎えセミナーを開催することになりました。大矢直人先生は難キ連の運営委員、外キ協
役員も担っていらっしゃいます。過去の難キ連コンサート、セミナーではNさんはじめカチンの皆さんの手工芸品も販売し、好評を頂きました。6月21日のセミナーでも彼女たちの出店をお願いしています。

 なお、6月20日には世界難民の日に寄せて難民フォーラム主催のシンポジウムも開催されます。6月20日は世界難民の日でもあり、6月一カ月、日本、世界の難民の問題を有識者だけではなく研究者や支援活動者だけではなく、広く一般市民の方々が身近な問題として考え、何ができるか関心を寄せていただきたいと願っております。

 7月21日 海の日には午後6時〜「難キ連チャリティコンサート〜全ての難民、移住労働者のための祈りと音楽のゆうべ〜」を開催いたします。ボーマン・ベアンテ、ルリ子夫妻は昨年も、世界難民の日記念コンサートで演奏してくださいました。神の音と称されるボーマン氏のチェロ、ルリ子夫人のピアノが醸し出す調べの美しさは文字では再現できませんが、はるか以前、まだボーマン先生が東京交響楽団の首席チェリストとしてご活躍の頃、NHK番組「ちいさこべ」の録音収録の際ボーマン先生のソロ演奏が始まると、居合わせた放送関係技術者まで感動の涙を流したそうです。昨年、リハーサルの時間も必要とせず、ほとんど音合わせのみで演奏を開始されましたが、サンサーンスの白鳥はじめ1時間半にわたる演奏、体が震えるような感動を覚えました。
 私は30年前に教会コンサートでご夫妻の演奏を拝聴してからのファンで、サントリーホールのコンサートにも足を運んでおりましたが、ますます円熟の御演奏、気さくで温かいご夫妻の息の合ったトーク(先生の曲の解説、聖書のみことばからのお話しをルリ子夫人が通訳…これが非常に楽しいのです)、今年も演奏のご奉仕を頂けること、仕掛け人として本当に光栄で今から楽しみにしているところです。海の日は猛暑の頃でしょうが、夕方の涼しい、スコットホール(早稲田奉仕園内日本基督教団早稲田教会…歴史的建造物です)に多くの皆様にご来場いただきたいと願っております。当日は入場無料、難民の証言もあります。

世界中の母親が子や孫、愛する人を戦場に送ることのない、 戦争で失うことのない平和な社会でありますように!!

2014年5月3日 土曜日
これまで通いなれたキリスト教会館が耐震改修工事へ。先月末から事務局の移転作業。7月のチャリティコンサートを控え案内作り、アメリカからボランティア受け入れのためのビザなどなど手続きもあり、ようやくデスクを移動しました。夕方がらんとした事務局で書類の整理しているところへS夫人(難民申請者)から電話。「ありがとう、言いたかっただけ。網戸入ったよ。古い冷蔵庫も持って行ってくれた」声が弾んでいてうれしい。先週は引き込まれそうな沈んだ声でした。子供の声への近所からの苦情にすっかりふさぎこんで、それが引き金になったのか様々な降り積もった不満が次から次へ…「子供たちに近所のおじいちゃんがお年玉3000円くれた。それを言ったら2月はお金減らされたよ。」は本当に胸が痛いのです。難民事業本部RHQから支給される保護費は本当にありがたいのですが、お年玉でもクリスマスプレゼントでも何か現金収入があったことを申告すれ...ば、次月の支給からは確実に減額されるのです…。彼女のとつとつと話す声が、気になっていただけに、昨日はほんの少し生活が改善されることの報告でも弾んで話す声をうれしく聴きました。多くの仮放免の難民申請者にとって、シェルターに入居できる事、RHQの保護費が受給できることは、本当にありがたい事です。支援する団体にとっても。特に、弱小団体には。
 入管の中でも、仮放免になっても、就労許可がない、ビザがない、難民申請者は日本社会で即戦力になれる力を持て余しながら、無期限の失望感の中で暮らしています。飛び切りの料理の腕を持つS夫人が即戦力になれるように、就労許可のビザ(認定、…無理ならば人道配慮)がほしい!!まだまだ、けれどぼちぼち、倒れないように、今、関わっている非正規滞在の仮放免難民申請者の正規滞在化のために働かなければ…と思いを新たにしたところでした。

2014年4月2日 水曜日
2か月ぶりの東日本入国管理センター被収容者面会です。8分咲
きの桜並木を通り、車から降りると鶯の鳴き声が美しく響きました。この恵まれた自然環境の外国人収容施設で先週末、相次いで二人の被収容者―イラン出身男性とカメルーン出身男性が急逝いたしました。彼らは手が届きそうな場所に咲く桜の花を見ることなく、清々しい外気にも触れることなく母国から遠い日本の、何重にも鍵をかけられた部屋で(居室から面会室までは鍵のかかる扉が数か所あるそうです… 被収容者より)
季節の移ろいも知らずこの春を迎え、苦しみの中で息絶えたのです
 本日面会した被収容者Aさんの言葉によりますと亡くなったカメルーン出身男性は「成田から牛久に移送されて一年、一度も外に出ることがなかった」とのこと。一層悲しみを深くしました。かく云う収容36ヶ月のAさんも5回目の仮放免申請が却下されたと持病の高血圧で充血した眼に涙を浮かべて嘆きました。...保証人と連絡を取り対策を講じること、できるだけ早い再訪を約束して退室しましたが、予備軍は何人もいるのです。

 牛久の待ち時間が長いことは、面会支援活動を行う者にとって頭痛の種、しかし、その待合室が貴重な情報交換の場になることも否めません。「牛久収容所の問題を考える会」で地道な面会支援活動を続ける田中喜美子さんはじめ井上さん、細田さん、増田さん、みなさんの真摯な活動姿勢に接し、多くを学ばせていただきます。また、今日はコソボより帰国して活動再開された弁護士大川先生にもお目にかかることができました!!感謝!

被収容者面会支援を始めてすでに14年目、思わぬ再会の機会も与えられます。
待合室で声をかけられた女性、は本日、石鹸やシャンプー、歯ブラシ、はがきなどの差し入れ品を準備していったBさん!でした。彼女Bさんは昨年早春、一度に6本の抜歯!!、入れ歯装着費用の一部を届けたのは昨年のちょうど今頃でした。12月に仮放免になったとのこと。入れ歯も入り、すっかり若返った彼女は見違えるばかり!!差し入れ手続きの必要がなくなった日用品は彼女にお土産として手渡しました。 

アメリカ同時多発テロ後、多くのアフガニスタン難民に面会支援活動を始めたばかりの頃、
一日に23名に面会したこともありましたが、今は、面会制限あり、どんなに長く居ても一日1組しか面会できないことのほうが多く、支援者の面会を待っている被収容者の健康状態も本当に気がかりです。私どもは、面会者にも、時間がなく面会ができない被収容者にも差し入れの品を持参いたしますが、もっと多くの被収容者に面会支援ができれば…彼らの声に耳を傾けることができれば…と切に願っております。

待合室のドアには以下の報告が貼られていました。

「平成26年3月31日

 東日本入国管理センターに収容中の被退去強制者2名が,収容施設内で意識不
明の状態となったことから,直ちに救命措置を講じる一方,救急車の出動を要請
し,救急車で病院に搬送しました。
 救急搬送後,医師が救命に向けた措置を執りましたが,被収容者2名とも病
院で死亡が確認されました。その概要は,下記のとおりです。
 なお,死亡者の氏名等の身分事項,病院名などにつきましては,公表を控えさ
せていただきます。
 亡くなられたお2人の方に対しては心から哀悼の意を表します。
 また,ご遺族の方には,心からお悔やみ申し上げます。

                  記

1 本年3月28日19時50分ころ,被退去強制者(イラン人男性,30歳代)
 は,食事中に食物を喉に詰まらせ,意識不明となったことから,直ちに喉の異
 物の除去に努めるとともに,速やかに救急車の出動を要請した。
  救急車が到着するまでの間,AEDを起動し,心臓マッサージ等の救命措置
 を講じるなどして病院に救急搬送し,その後も医師による延命治療が続けられ
 たが,3月29日15時26分,病院で死亡した。

2 本年3月30日07時ころ,被退去強制者(カメルーン人男性,40歳代)
 が呼びかけに応じず,意識及び呼吸がない様子であったことから,直ちに救急
 車の出動を要請した。
  救急車が到着するまでの間,AEDを起動し,心臓マッサージ等の救命措置
 を講じるなどして病院に救急搬送し,医師による救命治療が施されたが,3月
 30日08時07分,病院で死亡した。」

むなしさと無力感、そして再会の喜び、明日するべきこと、入り混じった思いと空っぽになった差し入れの袋とともに牛久を後にしました。


2014年3月20日、
平成25年度の難民認定数、および庇護数が法務省により発表されました。
3000名あまりの難民申請者数に対し認定6名を含む庇護数は157名とまさに「難民鎖国」を表しているとしか言いようがありません。発表前日はシェルターに住む難民家族を訪問しておりました。彼らは難民申請から7年、シェルター入居6年目を迎え日本で生まれ育った子どもたちは5歳、2歳になります。
子供たちは無国籍のまま成長しています。澄んだ眼差しと笑顔の子供たちの父親は母国の迫害を逃れ日本に庇護を求めてやってきました。しかし、来日当初は自国への通報に恐怖を覚え難民申請ができませんでした。そのため、申請が遅れたことにより法務省はなかなか難民とは認めず、在留許可のない、就労許可もない、働くこともままならないまま、難民申請→不認定→異議申し立て→却下→難民不認定の取り消しを求める裁判...提訴と7年が経過しました。就労許可も与えられず、支援グループ、団体からの住居や細々とした生活支援により都内の片隅で親子4人命をつないできました。
最貧の暮らしの中、2Kのシェルターは清潔に磨きあげられ、信仰篤く心豊かな両親に育まれた子供たちは明るい笑顔の子に成長しており、母語はもはや日本語であり幼い彼らの話す声に耳だけを傾ければ日本人の子供としか思えません。しかし、彼らには在留資格がないことから、児童手当などの受けるべきサービスは与えられていません。それでも「私は日本に感謝しています。もし、母国にいたら、今頃は死んでいました。シェルターに入れていただかなければ二人の子供も育てることができませんでした。」私の訪問のために焼いてくれた質素なパンとコーヒーを振る舞い、丁寧な日本語で感謝の気持ちを伝えた彼らがいつも案じるのは無国籍の子供たちであり、難民として認定されず、「仮放免」という見えない鎖で繋がれた両親のもとに生まれ帰るべき祖国も、国籍も持たない子供たちの将来です。難民と認定されれば、あるいは人道配慮のビザでも在留資格が付与されれば、日本社会の即戦力となる父親、母親はもとより、無国籍のまま成長する子供たちもやがて母国と日本の懸け橋、人材となりえるのです。在留資格もないまま社会保障の枠組みの外に置かれた無国籍の難民の子供たちは彼らばかりではありません。25年度の認定数に愕然としながらも、せめて、全ての無国籍難民子女に道が開かれる様な難民受け入れをと心から祈ってやみません


2014年1月28日   火曜日 快晴
1月25日、バプテスト同盟東京平和教会で開催された「外国人住民基本法」の制定を求める第28回全国キリスト者集会 に参加いたしました。20年前から多くのビルマ カチン族難民の方々が礼拝を守っている同教会での集会にふさわしい内容で、カチンの文化に触れる心豊かなひと時を共有させて戴きました。同教会前任牧師の丹野先生の時代から難民の方の急病の病院同行や、難民子女英語教室、運営委員会の為の会場をお借りしたり、現牧師大矢直人先生ご夫妻にも何かと御世話になっております。2011年まで開講していた弊団体難民日本語教室は早稲田大学学生のグループカチニーズと協働でカチンの皆さんの日本語教育に携わりましたので、カチンの状況について彼ら彼女らが話す内容から、状況を知っているつもりでおりましたが、当日、大矢直人先生のメッセージの前に映し出された、
ミャンマー政府軍とカチン族の今なお続く内乱の状況についての映像は、本当に胸痛む内容...で、「ミャンマー民主化」の陰で、まだまだ多くの人々が傷つき、庇護を求めている事を知らせなければ…とつくづく思いました。
 日本で生まれた難民の子供たちの多くが無国籍のままで成長しており、カチンの子供たちにも無国籍は少なくとも50名と聞いており、本日のカチン女性の証言では、夫の入管収容時の苦しみ、成長する子供たちの教育問題と、日本語で育つ子供と母語で暮らす両親とのコミュニケーションギャップの心配も報告されました。「ミャンマー民主化」以来、日本にいるミャンマー難民のビザ延長期間が短縮されたり、これまで仮滞在だった人が、仮放免、といった状況になったり、…正規滞在化が難しい状況を憂慮しております。本日の集会主催の外キ協が提唱する「外国人が住みやすい街は日本人も住みやすい」多民族多文化共生社会の実現を、すべての子供たちの未来の為に求め続ける大切さを痛感、また、今年も小さな働きを続けようという元気を戴きました。


2014年1月14日  火曜日 晴れ 
 前回の記述から7カ月余り、業務のほとんどの時間と物心両面の支援力をもって難民申請者Aさんのシェルター占拠問題に
真正面から向き合い、支援団体の持てる力の限界まで持続的住居支援の提示など説得を試みましたが、頑として説得にも応ぜず動かず、苦渋の決断としてAさん支援撤退を決め、「建物明け渡しを求める裁判」を提訴いたしました。


2013年5月30日  木曜日 曇り
  晴れるにつけ、雨が降るにつけ、日本にいる難民申請者や難民、外国籍労働者とその家族の生活状況が気になって仕方がありません。
2013年2月19日 火曜日 雨
 厳しい寒さはいつまで続くのでしょう。今日も朝から一桁止まりの気温。牛久、品川からの電話が途切れることがありません。この寒さの中、仮放免の人々、ホームレスの難民申請者、どのように過ごしているのでしょうか。案じられてなりません。
 先週の木曜日は、相模大野バプテスト教会「平和をつくる会」の皆様からの冬物の男性衣類を抱え牛久に収容されているアフリカ難民申請者男性の方々に差し入れをいたしました。昨年4月に日本の難民申請者の状況をお話させていただいたご縁により、代表鷹巣様の貴い呼びかけのお働きで、L.LLサイズの冬物男性衣類、献金をお送りいただき、切手、封筒などとともに差し入れすることができました。また、日々次々に起こる問題についてはお祈りの会で、毎週皆様にお祈りいただき、私どもの支援活動を物心両面から支えてくださっています。心から感謝申し上げております。
 難キ連の入管被収容者面会支援が始まって12年目を迎えておりますが、度々変わる面会申請のシステムにより、面会出来る被収容者は要望の半分がやっとというところです。このところ、首都圏から3時間近くかかる東日本入管センターに面会に出向いても、「面会制限にご協力を」というはり札により、たった一人にしか面会することができずにスゴスゴと帰る道は、無力感を限りなく味わうことになります。コレクトコールでかかってくる電話が彼ら(被収容者)と外の社会をつなぐ縁であれば無碍に断ることはできず、彼らの状況を聞き取り、面会することを告げます。しかし、期待感を煽ることを避けるべく、このところは牛久に行っても必ずしも約束した日にちに面会できる保証はない事も告げます。入管被収容者面会支援活動は、彼らの言い分を聞くだけではなく、彼らにとって(将来にとって)帰国という選択肢を交えながら話し合い、日本人配偶者がいる場合は出来るだけ家族の統合という選択に近づくような手段を考える、そのための支援機能への連帯を含め、医療の問題があれば治癒に向けての対策を練り、また、日本社会への定住を希望しても、法的に無理なケースも多々あり、そのような場合は出来るだけ収容の疲弊を募らせないうちの帰国を促す、といったこともあるのです。ひとりひとり、顔と顔を合わせての面会が可能であれば…と、遠い道のりを面会に出向いても一人しか面会ができず、「貴方がたに会いに来ましたよ」と一言のメッセージを記した名刺を何枚も差し入れしての帰途はため息ばかりです。
 アメリカ合同メソジスト教会から難キ連に派遣され7年目になる宣教師のデボラさんとも交わす言葉が少なくなる帰り道です。
 
今年は、いまだ突発性難聴の回復が遅く、広い会場での聞き取りが困難な事も有り、難民裁判、
大きな会場での外部会議は失礼させていただき、狭い面会室で、余り聞き取りに不自由を感じない被収容者面会に仕事の比重をかけております。しかし、チャーター機での大量強制送還も現実味を帯びており、被収容者から丁寧な聞き取りを行い、ひとりでも多く、彼らの意にかなった、日本の内外を問わず、人間の尊厳が守られる社会復帰ができるよう、デボラさんいわく「直子さんへのミッション」を粛々と果たしていきたいと願っております。

2012年11月15日 木曜日
 また一年が過ぎ去ろうとしております。今年もあと1ヶ月半を残すのみとなりました。様々な物心両面からのご支援によって運営される難キ連は今年も費用対効果大の働きを残すこができました。ご支援くださいました皆様に心から御礼申し上げます。心から感謝です。

 難キ連活動をお支えくださった、NPO法人セカンドハーベスト佐久間ルビー様、そして、長い間「節子さんのジャム」をご提供献品くださった、カトリック高崎教会信徒 丸山節子様(丸山靖人様御母上)がご帰天されました。この世でのお別れは本当に寂しく、尊敬申し上げていたおふたりのご冥福を心からお祈り申し上げますとともに、ご遺族の皆様に神様のお慰めありますように心からお祈り申し上げます。

私事ながら事務局長自身の体調不良により、10月から思うような支援活動は停止しております。突発性難聴に加え、不整脈により心不全を起こしかけるという状況を呈し、外部会議への出席、様々な相談対応に支障をきたしていることに心からお詫び申し上げます。

良いお年をお迎えください。

2012年3月23日 金曜日
 冷たい雨の一日となりました。難民申請中の女性Aさんに住居がほぼ決まり嬉しい一日となりました。駅からも徒歩10分というところにリーズナブルな住居を借りることができそうです。難民事業本部からの保護費受給でほぼ家賃をまかなうことは可能となり、日本に庇護を求めてやってきたAさんの謙虚な姿勢はこれまでの苦しさを微塵も感じさせず、住居探しに同行したことへの感謝をこちらが恐縮するほど表してくれました。Aさんのこれからの日本での生活が少しでも居心地のよいものとなるように祈りつつ別れました。ディズホームのTさん(担当)にも感謝です。

 前日は事務局で数件の難民家庭、支援グループにNPO法人セカンドハーベストからの食料品
を分配いたしました。今月2日、セカンドハーベストパントリーのルビー佐久間さんが天に召されました。2006年から共に汗を流して食料の箱詰をし、ボランティアの難キ連日本語講座の生徒達を暖かく迎え励ましてくださいました。毎週の食料提供、また財政難で苦しい弊団体にも少なくない献金を捧げてくださるなど、いつも変わらぬ笑顔と暖かい励ましで物心両面からお支え頂きました。私たちは彼女の尊いお働きと愛に満ちたすべての行いを忘れることはありません。ルビー佐久間さんのご冥福を心からお祈りいたします。

 このところ、様々な相談が相次ぎ、残してくださった留守電にもまだ返信できない状況です。順次返信させていただきます。ご容赦下さい。

2012年2月26日 日曜日
 昨日は日本キリスト教婦人矯風会において難民学習会が開催され、日本の難民、難民申請者の現状をお話させていただきました。ビルマ難民として認定されたKさん、Sさんも証言、おりからの悪天候で出席者は少なかったものの質疑応答では非常に活発に論議、有意義な時間を共
有させていただきました。23年度の難民認定数が公表されましたが、23年度は1867人の申請で、過去最も多い申請に対し、21人というのはあまりにも少なく、特に一時申請は7人しか認められていません。早速、大阪の支援活動をなさっている方からは、認定数が少ないのは、非国家主体による迫害を認定しない方針を入管がとっているから…とのご指摘もありました。昨日も論議されましたが、国連の難民条約の難民の定義に合致しないケースは認めないという方針を頑として変えようとしない、入管の姿勢が強く現れている数字と見ています。特にアフリカからの難民申請者の多くが部族間の抗争で親族を殺され、命からがら逃げてきたり、難民を証明する書類の準備が困難といったケースもままあります。
 一昨日は仮放免になったばかりのアフリカ出身の難民申請者A氏からコレクトコール。公衆電話から、当初、様々な怒りを露わに話していましたが、弊団体はケースワークをする団体ではなく、生活資金や住居の支援等は到底できない旨話し、難民支援協会さん、CTICさんなど他の団体に、と伝えると「食べ物もお金も必要ないから話を聞いて欲しい」と。45分間、耳を傾けているうちに、次第に落ち着き、「話を聞いてくれてありがとう」と穏やかに礼を述べて受話器を置きました。一昨年、人権上無視できないケースとして、当時3度目の収容中だった難民女性の仮放免と生活支援に力を注ぎましたが、自らの状況改善への努力は一切見られず、「支援者や支援団体は難民の自分を支援して当然。」とばかりに、傲慢な態度を増長させるにいたり、支援協働を担い医療費の負担や入管出頭同行をしてくださった「難民を支援し連帯する会」の有志の皆さんには大変ご迷惑をおかけしてしまいました。非正規滞在で就労権のないままに住居(シェルター)が与えられ、光熱費を支払うことなくいつのまにか、お金も食べ物も「誰かがくれる」支援慣れをしてしまい、難民と認めない日本政府が悪い、支援してくれないNGOが役たたず…などと、あちこちで声高に喚くばかりになってしまうのかもしれません。彼女の場合は他団体に涙ながらに「難キ連が支援をしてくれると言ったのに嘘をついた…支援をしてくれないから自分は病院にも行けない」と泣きつくことでこちらを苦しめました。実際は、セカンドハーベストからの食料提供、医療費は全額支援者カンパで支払われており、彼女は一円の支払いも必要としないで治療を受けることができます.
ゲストハウスの家賃や生活費の貸付(名ばかりの貸付)交通費の援助などが費やされたこと、精神科でPTSDの治療を受けるために自立支援法適用申請に猛暑のさなか走り、震災をはさんで何度もの引越しの手助け、物心両面からの弊団体の限界までのこの1年半の支援に対する彼女の仕打ちとも言える苦い経験は、ケースワークを持たないはずの連絡会というネットワーク事務局としての働きを担う難キ連が行なってしまった(受け手のすべての要求には答えられなかった)支援の結果として多くの教訓を事務局長、宣教師、運営委員スタッフに与えております。
以来、被収容者面会においても、相談対応においても「難キ連は、ケースワークはしません。生活資金の援助や住居など生活支援はできません。あなたの話を聞きながら問題をどのように改善するか、どのようなサービスにつなげるか一緒に考えます」とまず、伝えることにしています。
 前述のA氏との電話はまさに今後の難キ連の難民支援の方向を明確に示してくれたと、穏やかに礼を述べてくれたA氏に「Thank you for caling,」と受話器を置きました。
 難民申請者の支援は、収容されていた場合は、仮放免保証金(1円〜300万円)、保証人住居、生活費、医療費、同行費…個人があるいは小さなNGOが抱えるには途方もない資金を要することになります。なんとか公的な支援につなげるためにも、就労権のある、難民申請者の正規滞在化が強く望まれます。
2012年2月20日 月曜日
 2年ぶりにニュースレター37号を編集発行致しました。
すでに2月はじめ全国のNCC(日本キリスト教協議会)加盟の諸教会ならびに関係諸団体に送付されております。
 7月15日のブログ直後、私事ながら夫が急性肺炎で入院中脳梗塞を発症、左半身麻痺となり3つの病院の転院、4ヶ月の入院に次ぐ自宅介護のため休ませていただきました。ようやく仕事復帰しております。
夫の急性期病院入院中に同じ脳卒中集中治療室には中国語しか話せない女性が運ばれて来ました。意思疎通もままならないまま治療、看護を受けていました。こちらはリハビリテーション病院への転院を余儀なくされ、気がかりながら彼女のその後はわかりません。難キ連事務局への相談はほとんど非正規滞在にある難民申請者や収容と仮放免の繰り返しの中にある移住労働者からです。医療費の100%自己負担という、就労権もないままに社会保障の枠組みから阻害されている彼らの彼女らの置かれている状況はあまりにも厳しく、一日も早い、ひとりでも多くの正規滞在化が望まれます。
2011年7月15日 金曜日
 7月9日のコンサートは7年間続けて開催してまいりましたが、今年はJELAホールをお借りして、例年よりは少人数定員の会場で開催させていただきました。しかし、ほぼ満席の状態で、演奏者と来場者が一体となって音楽を楽しむ、まさに音楽の本来あるべき使命が活かされたコンサートとなりました。また、今年は4年間のうちに3度もの収容を経験した難民申請者が日本語で体験を話しました。今週は、月曜日、火曜日と品川入管、議員会館と走り回っているうちに、疲れか、夏風邪か、焼けるような喉の痛みと咳でダウンしてしまいました。宣教師のデボラさんの英語教室が今日はバプテスト同盟様の会議室をお借りして開かれています。
 難キ連の活動は多くの方々、団体のお支えによって続けられてきました。このたびのコンサートは日本福音ルーテル社団事務局長森川氏が自ら土曜日の出勤をなさってホールを開けてくださいました。本来は土日はお休みです。尊いご支援に心から感謝申し上げます。

2011年7月7日 木曜日
 このところの忙しさはたとえようがありません。いよいよ明日は難キ連チャリティコンサートです。
ルシア塩満さんのアルパ演奏は卓越して人の心を揺さぶります。また高橋マサヒロさん、菱本さんとのトリオでのフォルクローレも、もっと多くの方々に聞いていただきたいと思いながら集客はなかなか思うように出来ません。このたびは日本福音ルーテル社団様の特別なお計らいで、本来はお休みの土曜日の午後にJELAホールをお借りしました。ステンドグラスが美しい、室内楽にはうってつけのホールです。出来るだけ多くの方々にご来場いただけますように、ただただ祈りつつ準備をしています。
2011年3月14日 月曜日
 朝から余震が絶えません。本日は難民申請者Aさんのシェルター同行を予定しており、電車で向かうつもりでしたが電車の運行状況から支援に携わる人が誰も都内に入れないことが判明、一人、宣教師デボラさんの自宅が23区内で比較的、現在の居場所から近いので一時保護をお願いしたところ、快く了承していただきました。しかし、本人は、シェルター、以外への移動を好まず現在の居場所にとどまることとしました。ガソリンが供給されない限り、車は何台あっても鉄の塊でしかなく、先日の震災の深夜まで臨時バスが北千住駅に次々入ってくる様子を思い出し、
電車やバスの公共交通機関の整備と充実の必要を今回ほど強く思ったことはありません。もし、
電車のすべての運行が不可能と理解した時点で、バスの増発と情報伝達の工夫がなされていたら、帰宅難民は半分に減ったと思います。地震発生時から北千住駅到着の11時まで、都内各所で宿泊場所の都立高校などの解放先の情報が速やかに伝わっていたら、あるいは都内から自宅に向かう人々のために臨時にバスが出ていたら(例えば、北千住→常磐線沿線行き、など)
と思います。世界各地から、今回の震災時に暴動もなく略奪もなく、整然と電車を待った、あるいは帰宅の途についた日本人への評価が著しく上がったそうです。
 週明けの月曜日、仮放免許可延長出頭に出かける必要のある難民申請者やオーバースティなどの外国人労働者の人々へ入管の方から、出頭延長も認められると転送メールがあり、ほっといたしました。
以下、全難連MLへ投稿転記します。

全難連の皆様
以下転送いたします。
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
仮放免出頭だけども電車が動かなくていけない、というビルマ人がおり、入管に連絡したところ、自分で電車の運行状態等確認し、出頭できる状態になったら速やかに出頭してくださいとのこと。今日中にいけない場合(行っても帰れそうに無い場合)は、後日になっても大丈夫だそうです。
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
事務局 杉本


2011年3月13日 日曜日
金曜日午後1時から2時まで民主党難民WTのNGO〜現状聞き取りの会議に出ておりました。
会議終了後、議員会館を出たのは2時半を過ぎたころだったと思います。
3時には亀戸のひまわり診療所で難民申請者女性Aと会う約束をしておりましたので
すぐ携帯で診療所に先に行き、私を待つように連絡しました。
国会議事堂前から千代田線我孫子行きに乗り、大手町駅に入ろうとした瞬間
揺れとブザーとともに急停車、宮城県地方でかなり大きな地震があったとのアナウンスで
車内にとどまるよう指示がでました。
一番気がかりだったのは、亀戸で待つAさんのことでまず、携帯は通話が不能になっていましたので支援者の方々にメールで手短に状況説明安否確認をお願いいたしました。そのうちに、
車内からホームに出るよう、ホームから改札口の外に出るようにとの指示があり、
地上に上がると、「東京湾に津波警報が出ましたので皇居前広場に非難してください」とのこと。
歩いて皇居前広場に行きましたが、人がいっぱいでまた、大手町駅に戻りました。
その頃になって、車内で「怖い」を連発しながらしがみついていた隣席の女子大生と、
ホームで待機中に言葉を交わすようになった女性と3人で行動するようになっていましたので
携帯で得られるニュースを学生のお嬢さんが伝えてくれ、おぼろげながらとにかく、交通機関は完全麻痺、ということが理解できました。私自身は早稲田の事務局にも戻れない、自宅へ帰ろうと決め、運命共同体?となった3人で協議の結果、千代田線に沿って北千住方面に向かって歩こうということになり長男からは「こちらは全員無事、自身の安全確保を」、との連絡が入り安心したものの、Aさんの安否確認を何度もメールで送信しながら大手町→新お茶の水→湯島→根津→…と歩きました。夕方になって、彼女は難民を支援し連帯する会の山崎さんと一緒にひまわり診療所でお世話になっているとのメールが入り、本当にホッといたしました。
地下鉄の駅に到着するごとにいったん降りて、運行状況を見ましたが
運転再開見込み未定の張り紙ばかり。携帯は不能で(メールは何とか、時々可)
何が起こって、どのような状況なのか、まったくわからず、もうかなり歩いた後、
私用携帯をなくしていることが判明。皇居前広場に行く途中、小雨が降り、
傘を出したときに落としたのかも知れません。根津駅につく頃に女子学生と別れ、
日も暮れ、風は冷たく寒くなってまいりました。
ほとんど休みなく歩き、千駄木→西日暮里→町屋まで来て、
もうお一人とも別れ、時間も午後9時近くになり疲れて寒さはいっそう厳しくなりました。
あと少し歩けば北千住、しかし、町屋ー北千住間は結構距離があることを思い出し、
町屋駅で駅構内(かなり狭い)に降りると20名近い人がやはり待っていました。
電車の運転再開見込みも立ちませんがすでに午後9時近くになっており、
途中何度も家族への携帯通話を試みたのですが不能、
公衆電話はどこも長蛇の列で、その時間まで、通話での確認が出来ていませんでしたので
比較的、人が少ない町屋駅でようやく公衆電話にならび自宅と夫の職場に電話。結局通話が出来たのは午後9時、ようやく夫とも連絡がつき、お互いに無事であることを確認しました。
(すでにメールは何度も送っていたのですが、後にこれもかなり送信されていないことも判明しました。携帯は留守電が次々にたまることがわかっても聞くことも出来ません)
夫が職場でタクシーを呼んでいるが、首都高速が封鎖されたために、都内はどこもかなりの渋滞、何時に来るかはわからない、とにかく、待っているようにとの事もし移動可能であれば北千住で待つようにと。
地震発生以来、ほとんど歩く以外は立ちっぱなし。ようやく11時近くになって、表参道ー北千住の運転再開、北千住行きの車両の中で待ってもよいとのアナウンスで、ようやく腰を下ろしました。
車内で隣り合わせた高校生の男の子から、地震の後の津波の惨状を聞きました。
車内で待つこと1時間近く、ようやく電車が動き、何とか北千住までたどり着くことが出来ました。
しかし、電車を降りるともう駅構内は人でいっぱい。
公衆電話はまたも長蛇の列。しかし、何とか、夫には北千住についたこと、待ち合わせ場所を告げ、駅前で待つこと、2時間あまり。地震発生からもうすでに10時間、駅前の電光掲示板が絶え間なく地震の惨状の映像を放映しており、何が起こったのか現実をようやく把握できたのでした。
職場の方々とタクシーに乗った夫が北千住に到着したのはもう深夜2時近く。
「帰宅難民」となった12時間の中で、実は一番大変だったのは、
北千住駅前で寒風の中、立って待っていた2時間あまりでした。寒さが身にしみ、
足はもうすでに感覚がなくなるような気がしました。時折、意識も遠のくのではないかと。
そのとき、私は日本に庇護を求めてやってきた難民申請者の人々の苦しみを思いました。
タクシーを今か今かと寒さに震えながら、立ちっぱなしで待っていたあの時間こそ、
今の難民申請者の人々の苦しみではないのか。今日の一日は、どの時点でも
程度の差はあれ、難民にいたる人々の辿った経緯ではなかったかと…。
そして一番辛い、と感じたあの時間は
難民認定を待っている国内にいる難民申請者の人々の現実の苦しみではないかと。
 
深夜3時、ようやく自宅に到着いたしました。
昨日から、様々な難民、支援者、身内の安否を確認しながら、
ボランティアの先生方と協議の結果、日本語クラスの臨時休講を決め、
連絡しました。
日本語クラスの方々はほぼ何事もなく週末を迎えている様子、
安心いたしました。Yさんは、何か自分たちに出来ることはないかたずねてきました。
 
明日、弊団体運営委員大津恵子先生のご尽力で、確保できたシェルターまでAさんの移動に同行いたしますが、事務局のあるNCCの内部も心配です。セカンドハーベストも土曜日の配達も不能となり連絡が入りました。ただ、ガソリンスタンドはもう給油できるガソリンもなく車は出せません。スーパーマーケットはどこも棚はガラガラ、特に、パンやお米、主食になるものは全くと言って良いほどありません!運営委員佐々木さんと二人で電車で向かうことにしましたが、輪番停電がすでに発表されており、電車の運行が心配です。明日のAさんの移動が無事に済みますようにとひたすら祈っております。
 被災地の皆様のご無事、ご健康、とともに一日も早い復興に私たちみんなが力と心を合わせることが出来ますように、心からお祈りいたします。

2011年3月9日 水曜日
まぶしいほどの春の太陽が輝いています。
糖尿病とPTSDに悩む難民申請者は珍しくはありません。ビルマ、スリランカ…そしてアフリカ、多くの難民、難民申請者がこれらの疾病に苦しんでいます。生活習慣病と呼ぶには、彼らの場合、栄養不良と栄養失調がなせる業、胸が痛みます。弊団体が取り組んでいる被収容面会を通して、仮放免中の難民申請者の多くにみられるこの疾病には規則正しい食事を取ることが先ず大切です。現在、人道上見過ごすことは出来ず、被収容者面会、そして、仮放免支援、仮放免後の生活支援に関わっている難民女性もしかりです。何とか食事つきのシェルターに1週間でも…と願っておりましたが、弊団体運営委員の大津恵子先生のご尽力で願いはかないそうです。感謝!!昨日8日は午後大切な会議が入っておりましたが急遽キャンセル、事務局で連絡を待つ一方、様々な用件の電話対応、その合間に事務局に届いている食料の箱をあけ、食料のサービスを待っている仮放免難民のお世話に奔走される教会、シェルターのお世話人、PTSDの治療で睡眠薬の投与が効きすぎてフラフラする内に怪我をしてしまった日本語クラスの難民申請者…に食料を入れた段ボール箱を作り宅配便で送る手はずを整え、5件に送りました。
 昨年まではNPO法人セカンドハーベストでの難民家庭への発送のお手伝いをしておりましたが、現在は毎週届けられる食料を、日本語クラス生10数名、上記のような個別配送に分け、弊団体から、手渡し、発送しております。
さて、シェルター入居に関しての、門限や注意事項を件の難民申請者Aが守れるかどうか意思確認を行ったところ、快く受け入れました。何よりも先ず、心身の健康を取り戻さなければならない、と説得する此方の言葉が届いたのでしょう。
 収容と疾病、特に上述したPTSDは難民申請者にあまりに多く、仮放免中の精神科治療が支援者にとっては、治療費捻出に頭の痛い支援です。
 何はともあれ、かえるに帰れない難民申請者は、国保にも入れず、職にも就けず移動の自由も無く社会保障の枠組みの外に追いやられるのです。

2011年3月7日 月曜日
首都圏は予報どおり、午前中は雪になりました。週明けは、朝から電話の応対。先週末まで頭を抱えながら支援に取り組んでいた難民女性Aの件、週末には、血液検査の結果が報告され、かなりの悪化を示す数値を呈しております。彼女は自分が難民であることを声高に主張するものの
なかなか支援者初め話し手には耳を傾けない。そのため、多くの支援者を失い、孤立する状況を招いています。難民と認定されない、いわゆる不法滞在と見做されており、もちろん国民健康保険に入ることも出来ず、安定した住む場所もありません。
 難民申請者への支援機能の連帯と連携のパイプ役である弊団体にとってはもっとも、コーディネーションがやりにくいタイプの難民申請者です。

弊団体はサービスコーディネイトが主な働きであり、先週、生活保護の受給が決まった難民家族は、上記女性とは正反対のケースでした。ビザの取得後、疾病と加齢による困窮生活から自立のために生保受給につなげるべく、つい先日、品川入管にて午後ビザ(難民不認定・人道配慮のビザ)を貰って、居住地区役所まで走り、当日のうちに(時間ぎりぎり)生保申請いたしました。必要な書類もそろえ、申請→審査→決定まで2週間。初回は現金で支給されており、当事者ともども安堵いたしました。しかし、そのような働きも、難民当事者が日本社会における自分の状況を理解していて、自立する意志がしっかりしている事、言葉が完全ではなくとも、此方に耳を傾け相手のリクエストに(質問にも)応じられる本人の姿勢が、早期のサービスにつながることを痛感しております。

弊団体のこの様な支援活動はすべて無料です。当事者本人、支援教会や支援者からも一切の費用を頂いておりません。活動はすべて献金や助成金によってまかなわれていますが、今年はランティアの交通費もままならない状況の中で、上述の難民女性の支援はほとんど支援者個人の立替になっております。弊団体のように難民支援、弱者支援の団体は潤沢な資金などあるはずもなく、最小の資金で最大の効果を生み出していることを考えれば、費用対効果大、の活動と言っても良いかもしれません。幸いなことに、事務局は、宣教師デボラさん、運営委員佐々木さん、日本語講師ボランティアの皆さんに支えられ、人件費の心配がない(職員がいれば給与支払いに窮するところですが)事は感謝かもしれません。
 これまで何度も経済危機に見舞われた弊団体ですが、2011年はかなり厳しい一年になりそうです。今は直近の問題として上述の難民女性の心身の健康を取り戻すべく支援が出来るようにと祈っているところです。

2011年2月10日 木曜日
1月23日の東高円寺ベリスメルセス会宣教修道女会礼拝堂において難キ連ファミリアコンサート開催後に風邪をこじらせて思いがけず寝込むことになり、報告が遅れましたが、コンサートには約100名の皆様にご来場いただきました。心から感謝です。このコンサートの口火を切ってくださったのは同会シスターの真神シゲさんです。いつもお優しい笑顔で明るく接してくださる真神シスターにはこれまで長い間、入管被収容者面会支援においても、適切なご助言を頂き、困難なときにも励ましていただきました。コンサート当日の準備にも心を砕いてくださいました。真神さん、本当にありがとうございました。このコンサートでは難民の方々の証言、そして、ビルマカチン族の手芸品やヒラソルの会の皆さんによるミニバザールもお楽しみいただきましたが、「節子さんのジャム」も完売いたしました。売り上げは全て難民支援活動に用いられます。席上献金およびカンパは日本語クラスに通う難民の方々の交通費に当てられます。演奏者の皆様、全ての皆様のご協力に感謝申し上げます。ありがとうございました。

2011年1月10日 日曜日
 昨日は難民日本語クラスの第1回目の授業。ボランティア講師の芦田あけ美先生、高井敬子先生の明るい声と元気な受講生の声が響くなか、受講者の交通費を今年は一律600円としました。
今年はまったく助成金のない厳しいスタート、生徒の皆さんにも理解していただくほかありません。過去に10円が足りなくて難キ連事務局まで来れなかった、といった難民申請者がいたことから、出来るだけ、たとえどんなに遠くても交通費を全額支給してきましたが、生徒数も多くなった今、苦渋の決断ながら、細く長く交通費補助、食料無料提供の日本語講座を存続させるには…と相成った次第です。昨日もつくば市からの希望、とても交通費全額支給は難しく、近くに日本語講座を探すことで西早稲田の弊団体日本語クラスへの参加は断念いただきました。
 日本語クラス生の食料持ち帰りの袋を作り、教会、シェルター、個人への食料送付のダンボールを作るともう外は真っ暗です。難民、難民申請者の一人ひとりが言葉によるトラブルを招きませんように、と祈りつつ日本語クラスの運営に当たっております。

2011年1月8日 土曜日
 昨日午後から、何とか事務局デスクに復帰。デスク上には嬉しい賀状の数々が。日本語クラスの生徒の皆さん、また、昨年末、ビザが出たアルヴァレス一家の名前も。これから賀状にファミリアコンサートの案内を添えて送ります。デスクの前には嬉しいプレゼントが!!カトリック高崎教会 丸山節子さんからの献品、無添加ジャムがいっぱい!詰まった箱に思わず笑顔になりました。感謝!!。すごく美味しいんです。説明は要らないほどに。節子さんはアルヴァレス一家支援のために献身的なお働きを下さった丸山靖人さんのお母様です。一昨年、高崎にアルヴァレス一家支援お願いのご挨拶に教会に伺った際にとってもあったかい笑顔で手作りの素敵なバッグに入れて、飛び切り美味しい手作り無添加ジャムをお土産に下さいました。甘すぎず、美味しくて大ファンになりました。朝食パン党には欠かせません。昨年の夏には事務局にたくさん頂戴し、10月の横浜国際フェスタでは即日完売いたしました。今回のお年玉プレゼントのジャムは23日のファミリアコンサートで「節子さんの無添加ジャム」と銘打って販売させていただきたいと思います。
 早速、私も予約です。数に限りがありますのでお早めにどうぞ。

2011年1月6日 木曜日
 昨日は、朝、東京入管に出頭する難民申請者の同行。彼は昨年、わずか2ヶ月の仮放免後に4度目の収容。日本人の奥さんからの要請で支援開始まもなく入管内で自殺を図りました。幸い発見が早く大事に至らなかったものの、その際の精神科の治療による投薬が原因で、仮放免後も筋硬直などの副作用が現れ長い入院生活を余儀なくされました。3度目の仮放免の保証金30万円をまだ受け取らないうちに4度目の収容、そして自殺未遂の後に仮放免許可が出たものの100万円の保証金!です。結婚して2年余りのあいだに2度も収容され、二人の生活を必死で支えてきた健気な奥さんは毎回の仮放免出頭日も仕事の日程を調節して同行していますが、今回はどうしても都合がつかず同行を引き受けました。先月は日本語クラスにも奥さんと出席、少しずつ元気を取り戻し笑顔が戻っていますが、再収容の不安がなくなったわけではありません。入管の待合室で同じ状況にあるNさんとバッタリ出会いました。日本人配偶者と健全な温かい家庭を築いていようと入管は彼らの結婚を認めようとしません。就労権の無い彼らを支えているのは日本人の妻たちです。先月会った日本人の奥さんは「仮放免と収容の繰り返しでもよいから夫に私たちのいる日本にいてほしい」二人の子供を育て、自身は仕事を持ちながらの言葉でした。難民申請者でなければ、偽装結婚でも配偶者ビザがたくさん出ている状況の中、難民支援活動の中で出会い愛をはぐくんだカップルも、一昨年は収容で離れ離れになり日本人の妻は「私も中に入りたい。二人ならば何とかがんばれる」と夫の身を案じて心情を吐露しました。温かな家庭を
壊す権利は入管にない、と思うのですが、法の名の下に引き裂かれようとした、昨年はガーナ人夫が無念の最後をとげました。妻の両親や親族からも祝福されて結ばれた夫婦に、一日も早く
夫の正規滞在化という平和が訪れてほしいと願ってやみません。

 東京入管から出る頃から寒気がし、胃の痛みが激しく午後の会議欠席を連絡して急ぎ帰宅しました。体温を測ったら38度9分、元日から家族が熱を出して救急病院に連れて行ったり、このお正月は家族の体調不良が続いたのですが、どうやらうつってしまった模様。今回の風邪の特徴は発熱と胃痛らしい。薬も飲めず眠ること眠ること、ひたすら眠り、今朝はようやく37度台に。なんとか明日は仕事に戻れそうです。
 
 昨年末に住居探しで苦労した難民申請者も酷い風邪で寝込んでいたとのこと、こちらも具合が悪く休んでいた時期、難民を支援し連帯する会のMさんが仕事の合間を縫って駆けつけてくださり薬と当座の食料を差し入れしてくださったとのこと。Mさんにただただ感謝しました。多くの仮放免難民申請者を支えているのは、ほとんどがこのような善意による支援に他なりません。夕方、ようやく体調が戻り、仕事用の携帯の留守電を聞くと茨城の面会支援をなさっている方から。早速着信履歴に残っている番号にかけると、なんと、昨年、何度か面会したアフリカ系難民申請者を仮放免の日から自宅で預かっているとの由。寒さに耐えられず体調を崩しているのを見かねて…ということで、感謝の意を伝えると共に明日仕事に戻ったら食料品を送る旨告げました。難民支援協会の皆さんも、増え続ける申請者の住居探しには悪戦苦闘していらっしゃるのですが、仮放免の難民申請者の住居探しは並大抵の苦労ではありません。仮放免難民申請者の「入管の中のほうがまだましだ」という言葉はいやみでも冗談でもないのかもしれないとつくづく考えてしまいます。家賃光熱、全て無料の上に、3度の食事も出てくるのですから。

 熱が下がったものの胃の痛みが治まりません。皆さんもくれぐれも風邪など召しませんように。
風邪を引いても100%医療費自己負担の非正規滞在者の健康が守られますように切に祈ります。

2011年1月1日 土曜日
あけましておめでとうございます。
2010年末から2011年明け、カレンダーの架け替えさえ忘れて英文報告書を何とかし上げました。今年も仕事に追われる一年になりそう…。
 昨年末、長年支援してきた移住労働者Aさん一家にビザが出ました。ご存知の方もいらっしゃると思うのですが、カルデロンのりこさんと同時期支援し、かなりバッシングを受けたケースです。父親の1回目入管収容から面会支援をはじめ、そのとき子供たちはまだ小学生と2歳でした。現在、高校生と小学生になりました。家族にビザが出た日、日本語クラスで勉強していた難民申請者が不認定となって収容されました。熱心に日本語を学んでいた彼女の姿をクリスマス会に見ることが出来ず、収容の知らせに担当の日本語の先生は涙をポロポロこぼしました。日本語もまだままならない彼女がどのような思いで、入管の中で新年を迎えているのでしょうか。胸が痛んでなりません。折りしも、3度目の収容から必死の思いで仮放免にこぎつけた難民申請者、シェルターから出なければならず(様々な経過があるのですが、ここには書けません)こちらが準備したゲストハウスは気に入らず、予算もあり、12月27日は住まいを求めて、運営委員のSさん運転の車で都内を走り回りました。このところ連日仕事に追われている身には心身ともに堪えます。不機嫌をあらわにし、うそつきとののしりへとへとになっている耳に「入管のほうが良かった。」…何をかいわんやです。新約聖書マタイ伝の「獄にいるとき尋ねてくれた」の箇所を思い出し、イエス様はどのような形で現れるのか…。

 財政難にマンパワー不足、自身の信仰を問われる、今年も試練の年になりそうです…。

2010年11月6日 土曜日
ひさびさの更新です。
2009年12月20日 日曜日
 昨夜は難民支援に取り組む若い皆さんのグループASPネットワークのクリスマスパーティでした。今年は年明けから忙しく、特に7月から難民申請者、あるいはオーバースティ家族の父親のみの収容など、面会支援も忙しく、疲れが出たのか朝から悪寒と頭痛で寝込んでしまい、午後になって何とか起きたものの、恵比寿のJELAホールまで出かけることが出来ずに欠席させていただきました。ASPの皆さん、ごめんなさいね。

代表の大山さん初め、北村さん、梅澤君、…若い彼らが一生懸命難民問題の意識喚起、関心拡大の啓発活動に取り組む姿には、彼らが担う次代も捨てたものではない、と頼もしく思います。

少子高齢化が否応なく進み、多民族多文化共生社会は確実に訪れようとしています。難民鎖国に逆戻りしつつある現状を憂い、差別の無い、誰もが居心地良く共生する、共に生きる社会の実現を願ってやみません。
 


2009年12月15日 火曜日
 まもなく2009年も終わろうとしております。
今年の後半の忙しさはこれまでに無いほど、この事務局だよりも、伝えたい事が、いつも頭の中で回っているにも拘らず、難キ連HPの編集さえ儘ならない有様でした。

9月3日に暗澹たる思いで、状況を綴っていた、アフガニスタン難民女性Jさんは9月 16日に、そして、日本人の新妻と離れ離れの苦しい収容で、25kgも体重が減少してしまったクルド難民Eさんは12月10日の国際人権デーの日に、痩せ細った体で仮放免となりました。

 11月5日現在で牛久のセンターには450名余りが収容されており、その3分の1は難民申請者です。帰国したくとも自費出国が出来ない被収容者、送還に怯えながら何ヶ月も収容されている難民申請者、未曾有の不況の日本社会で、入管の内も外も、外国籍住民に対して厳しく冷たい風が容赦なく吹き荒れています。

難キ連では、難民や難民申請者のみならず、正規非正規滞在に関わらず、日本に住む外国籍の皆さんの相談に対応しています。最近は日系ブラジル人や、滞在資格のある外国籍住民の失職、解雇と、生活の道が閉ざされている人々の相談が増えています。どの人々も、生活保護受給を潔しとしない、何とか働く事で自分の生活を維持したい、という姿勢が目立ちます。しかし、仕事を探してもなかなか見つかりません。区役所、ハローワーク、日本人も外国人も吹き荒れる不況の嵐の中で生きる事さえ、遮られ道が閉ざされているのがているのが現状です。

 12月13日には難キ連日本語クラスの講義納めとクリスマス会を行いました。
ささやかな会ではありましたが、学習意欲は高く、2010年度は日本語能力検定を各々のレベルに応じて受検いたします。

難キ連日本語講座の開講は、韓国女性人権センターの韓国語講座の運営に倣っており、自宅まで行っての講義は行えませんが、交通費の支給と食糧援助は開講以来続いております。日本語能力検定試験の受験料も講座が負担いたします。この日本語講座は財団法人庭野平和財団の助成金により運営、2010年は3年目を迎えます。テキストは(株)アルクより100部戴き、講座生だけではなく、日本語についての相談者には全て無料で、テキストとテープを進呈して参りました。来年は3級、4級の合格者のスピーチを聞く機会を是非設けたいと願っております。

品川→高田馬場→四谷→新宿→御茶ノ水 … ある日の事務局の行動です。

今年後半はまさに連日このような業務、因みに品川では仮放免の出頭者同行、あるいは嘆願書提出、高田馬場で事務局に戻り、四谷には法テラス相談の地方から出てきた難民申請者のスペイン語通訳(汗)新宿ではアフリカ系難民女性の相談、そして御茶ノ水の集会へ。といった具合です。茨城県牛久市→高田馬場、午前中は牛久面会や会議、午後は東京で仕事や会議。昼食を取る時間が無い…。

ただただ健康が支えられたことに感謝し、難民申請者、難民を含む外国籍の皆さんの生活改善のために少しでも役に立てたならば嬉しい限りです。残り少ない2009 年、まだまだ忙しい日が続きます。

全ての皆さんの健康が守られることを祈りつつ、クリスマスを喜びのうちに迎えられますようお祈りいたします。


2009年9月3日 木曜日
 アフガニスタン難民女性J さんが8月17日月曜日の仮放免出頭日に再収容されて今日で18日目。彼女は2005年10月17日〜26日にも収容されています。

2005年のその収容時も、今回も奇しくもラマダンの時期(イスラム教徒の信仰上守るべき義務の一つで日の出から日没まで断食)
です。

彼女は敬虔なイスラム教徒であり、入管で提供される食事に不信感を抱き一切の飲食を.絶っています。久しぶりに会った彼女の顔は、収容のショックと心労に加え、断食で一回り小さくなっていました。「(日没後は)食べなきゃ駄目、飲み物も飲まなければ駄目よ」と諭しても首を振るばかりです。(入管ではラマダンの時期の食事の配慮が行われています)前回の収容ではわずか1週間の間に体重が激減、衰弱がひどく仮放免になりました。彼女は学校教育を受けた事がありません。前回収容時の面会で日本語教育の必要性を痛感、2005年11月に開講した難キ連日本語講座生徒第一号になりました。駅や電車の案内はローマ字表記でも読めませんから彼女の送り迎えも日本語指導に含まれました。イエズス会社会司牧センターをお借りし約半年間行われたこの講座を今回の収容時の面会をした時に彼女は非常に懐かしみました。

何を話しても涙の彼女が「日本語の勉強楽しかった。勉強大好き」と笑顔を見せ、私がメモ用紙に「にほんごよめる」と即興に書いた平仮名をガラス板を通して見せたら指差して読み、二人で笑い合いました。たった10分間の面会でしたが、彼女は、同室の女性(ともだち)が送還された時、時計を持っていなかったから自分の腕時計をあげたとの事。3時のお祈りの時間がわからないから安くてもよいから時計が欲しいと私に伝える事ができました。前回の収容の時には義兄のYさんに通訳してもらっての面会でした。あの当時の日本語クラスは資金難と講師のリタイヤでわずか半年しか行えませんでした。現在、庭野平和財団の助成金により日本語講座は、難民申請者への通学費支給と食料支給もあわせ1ヶ月に2回ですが、二人のボランティア講師の熱心なご指導により2年目を迎え、受講生が定着、平仮名カタカナ、漢字まで日本語能力を身に着けつつあります。そして何より受講生である仮放免を含む難民申請者や正規滞在化している難民の心の拠り所となっているのです。Jさんの面会は、難民の為の日本語講座開講が正しい選択であったことをも確信させてくれました。

 それにしても、Jさんの再収容に心から憤りと悲しみを覚えております。収容経費の試算では被収容者一人当たり 9万円/月とされています。
彼女には逃亡の恐れもありません。国民の税金の無駄遣いでもある不必要な収容がなぜ行われるのでしょうか。東京入管では常時700名もの難民を含むいわゆる不法滞在者が収容されており、茨城県牛久市の東日本入管センターへの移送後1年以上時には2年以上の長期収容も多く見受けられます。

一切の食事を絶ち、点滴すら拒んでいるJ さんの健康状態が本当に案じられます。収容が心身を蝕んでいる事は否めません。一日も早い解放を、そして正規滞在化を心から祈ります。
 このところJさんだけではなく、難民再申請者や新ガイドラインの運用緩和を求めるオーバースティ家族の父親にも再収容が次々に行われています。7月には Aさん、ビルマ難民Rさん、イラン難民Aさん、そして8月22日はまだ労災事故が完治していない難民申請者 E さんまで!!。Eさんは、まもなく日本人支援者である素敵なお嬢さんとの結婚を控えての収容です。温厚で理知的な彼と聡明な彼女との結婚を私たち難民支援活動に共に従事している仲間達の誰もが心から祝福し晴れの日を待ち望んでいた矢先の収容でした。彼女のご両親も現在、未来の息子である彼の仮放免に向けて懸命に努力され、面会を繰り返しています。何よりも婚約者である彼女の健気さが私の胸を打ちます。周囲に居るものの心をあたたかくしてしまうカップルのEさんと彼女です。突然の収容がどんなに二人を痛めつけ傷つけているか、胸が痛んでなりません。一日も早いEさんの仮放免と、明るく、いつもと変らぬ笑顔でただひたすら、忙しい仕事の合間を縫って結婚の手続きに走り回っている彼女Hさんの健康が守られるよう祈るばかりです。
 
30日の日本語講座の後、入管に再収容されている間に紛失してしまった所持品についての相談を受けました。収容は摘発や仮放免延長許可申請の出頭の際に突然申し渡され、即日収容となります。当然帰宅できるものと出頭する多くの外国籍の人々への財産の保全がなされていないのです。相談者は難民申請に必要な書類と衣類や身の回りの品、幾許かの現金も入ったかばんをシェルターに残しての出頭で、そのまま収容。仮放免で解放されたのは10ヵ月後。かばんは棄てられていたそうです。私たちは人間として扱われていない、文化的にはまだまだ未熟な、危険極まりない自分の国でさえ、罪に問われて逮捕されたら、警官が付き添って、自宅に貴重品や必要なものを取りに帰れるのに、…。と涙ながらに訴えました。2度の収容でその度にそれまで蓄えたパソコンなどの調度品すべてを入管に盗られた、だから自分は絶対に必要最小限で暮らしている、とカーテンさえ取り付けない仮放免の難民申請者も居ます。

 このように収容は多くの問題を孕んでいます。5月17日に行われた外務省のシンポジウムで、国連高等弁務官補のエリカ・フェラー氏は難民の不必要な収容は国家予算の無駄遣いであることを指摘しています。難民に限らず日本経済を末端で支えてきた超過滞在の外国人労働者もしかり、不必要な収容が行われている全件収容主義はなんとしても見直されなければなりません。
 政権が変わりました。民主党には誰でも―日本人も外国人も―安心して住める人権国家を築いて欲しいと切に願っております。


2009年7月9日 木曜日
 5月の連休明けから土日返上です。
特に6月20日の世界難民の日、UNHCR主催の国連大学前イベントにバザーを出店、6月28日はチャリティコンサート、7月5日は世界難民の日東京集会にいたるまで土日の大きな行事の間には、難民や移住労働者の方々の相談、転居、出産、裁判、病院動向、と休む暇がなく、そのほかに会議出席が入ると昼食をとる時間がありません。7月5日世界難民の日東京集会が終わり一区切り、という事で今週はお休みを頂いています。


2009年6月24日 水曜日
まもなく午前3時。難キ連チャリティコンサートが近付くといつもこのような生活になります。

今年は特に広報が常識では考えられないほど遅れてしまい、チケット=賛同券の販売に苦戦しております。ルシア塩満さんは「アルパ道場」の先生でもあり、卓越した指導力で後進を育てています。

2月に演奏したラス・アウロラスも生徒で一員ですが、セミプロとしてコンサート活動をしているのがラス・カンパーナスです。今年は東京ユニオンチャーチで開催させていただきます。素敵な教会でアクセスは抜群、しかも2000円という首都圏のルシアさんのコンサートでは破格の値段なのですが…。コンサートの収益は、全て難民の支援活動に用いられます。庭野平和財団様の助成金によって開講した難民日本語講座は受講生が定着し、毎回、熱心な受講風景が繰り広げられています。交通費支給というのも続けられる一因と思っています。難民の様々なトラブルが日本語能力が起因している事が少なくありません。彼ら(彼女ら)が日本語によって不利益を被らないために継続して続けるためには難キ連の現在の資力ではとても賄いきれません。何とか運営資金をと願っているのですが…。今年のチャリティコンサートの収益はこの日本語クラスの継続運営と茨城県牛久市にある入管の被収容者面会支援に用いられます。東京から遠く、またJR牛久駅からセンターまでのバスが1日5本しかない!辺鄙な場所にあり、また、外部との接触は面会しかない被収容者のためにテレフォンカードを差し入れます。1 枚1000円でたった7分しか話せないカードを売店で購入して差し入れします。一人でも多くの人に面会してもらい、テレフォンカードでせめて故国への電話、日本の支援者や友人知人への連絡、彼らにとって面会以外1枚のテレフォンカードが外部の社会とつながる数分を与えてくれるのです。しかしKDDIのカードしか使えません。真夜中まで、コンサートの案内を再送し、一人でも多く、コンサートに賛同してくれますように、1枚でも多くテレフォンカードが替えますようにと、また、日本語講座を続けられますようにと祈りつつキーを叩いています。


2009年5月13日 水曜日
昨日は5月度の難キ連運営委員会が行われました。現在、難キ連は極端な財政難に陥っており、私的な話ですが事務局の給与も3月から支払われておりません。今月始めに支給された定額給付金、嬉しく戴いてしまいました…。貧しさに於いて、生きる事の困難においては、日本人も難民を含む外国籍労働者も差異はないような現状です。外務省は、5月に入り、国内の難民申請者への保護費審査の厳格化と打ち切りを始めました。現在、一日1500円の生活補助、月40,000円の家賃補助、同じく40,000円の医療費補助を打ち切られる難民は100名を超えると言われています。支給基準の優先順位は1、重篤な病気 2、妊娠中であること 3、短期滞在、観光ビザなど正規滞在資格がありながら失職中の難民となっています。これまでも、相談の為に難キ連事務局のある早稲田まで来る交通費がない難民もいました。日本語講座の受講生には最寄り駅から早稲田までの交通費を支払っておりますが、現在審議されている入管法改定により、在留カードの導入が認められれば、保護費打ち切りに追い討ちを掛けて、就労権のない難民個々の命の存続さえ危ぶまれる事になります。運営委員会では入管法改定に抗議する院内集会、キリスト教教会声明、難民支援協会が中心となって展開する緊急カンパについて次々に報告、協議いたしました。
2010年から3年間、タイ国境のミャンマー難民を90名、第3国定住難民として受け容れようとしておりますが、現在何万人もいる、難民と認められていない難民申請者の生活は…?社会保障の枠組みからも排除され、彼らは風邪をひいても、歯が痛くても、治療を受ける事をためらいます。100パーセントの自己負担だからです。1昨年、心筋梗塞で倒れた難民男性への治療費に320万円を請求されました。しかし、国民健康保険に入っていれば、自己負担は9万8千円ですむのです。平和に慣れた日本人には命の危険にさらされながら他国に逃れた難民の心情を理解する事はなかなか難しいのですが、せめて、母国の平和が戻るまで束の間の安住の場所を提供できる日本であって欲しいと思います。
提供する安住の場所が入管収容所というのでは難民条約加入国として余りにお粗末ではありませんか。
 母国では弁護士として活躍した、医学を志していた、優秀なエンジニアだった、通訳だった、…今、日本で彼らは各々の故国にも帰れず、収容と送還に怯え、時折の単発的な3Kの仕事で日々の糧を得ています。
 明日は宣教師、デボラさんと東日本入国管理センターに被収容者面会に行きます。一昨日は、遠くスリランカから、収容されている青年に面会してほしいと母親と思われる女性から電話がありました。事務局の携帯には、その様な電話や、送還された人々からの電話も入ります。
私はかつて移住労働者の送り出し国に住んだことがあります。日本という夢の国に思いを馳せる言葉も異口同音に聴きました。彼等の何年分もの年収と等しい金額の借金をしても日本に行けば働いてすぐ返済して家も建てられると…。日本の出入国管理の現実、真実を彼らに伝える術がないか、外国人の就労など容易に許さない、国連の難民条約に加入していてもけして難民を認定しない、難民と認めない、と言う前提から始まる難民審査、日本という国の実情を知らせたいともつくづく思います。
 今、難キ連に出来る事は、彼らが少しでも社会保障の恩恵が受けられるよう安定した滞在資格の付与と言う救済を求めていく事、彼らの痛みや苦しみを共に担いつつ歩む事、彼らが言葉による不利益を被らないように彼等の個々の能力に応じた日本語習得の教育を行うこと、などなど…です。冒頭に書きましたように難キ連自体も未曾有の不況?の中にあり、活動も制限されています。昨年は、仕事のない難民にニュースレターの発送のアルバイトをしていただき、幾許かの謝礼も渡せました。しかし、事務局や宣教師の交通費の捻出さえ厳しい現状の中で今年は仕事を依頼する事はできません。しかし、庭野平和財団様の助成金によって運営をかろうじて続けている日本語クラスに集う難民の人たちの元気な声に励まされます。彼らは日本語の授業が終わると、交通費の実費とセカンドハーベスト・ジャパンの食糧提供(難キ連では協力団体として毎週箱詰めのボランティアを行っております)のお米や缶詰などを嬉々として受け取って帰ります。回を追うごとに確実に彼等の日本語は改善されていて、もう少し、授業数を多く出来ないかと、予算、ボランティア講師の先生方のご都合を考えながら願っているこのごろです。
 衆議院議員会館では、本日、午後1時45分から入管法改定に抗議するキリスト教会各教派教団代表により声明と記者会見が行われています。難キ連では明日、茨城県の牛久にある入管センターの面会支援に一日がかりで出かけるために院内集会は欠席し、溜まった書類の整理と、ひたすらデスクワークに取り組んでいます。ホームページの編集も久しぶりに出来ました。
チャリティコンサートに向けての案内作りが今日の午後の仕事です。遅い昼食をとり、またがんばらねば…。
この拙い難キ連のホームページ、事務局ブログに目を通してくださる方々のご健康を祈念しつつ。


2009年4月19日 日曜日
 3月下旬から4月上旬に掛けてはまさに試練の時でした。難キ連の存続が危ぶまれるほどの事態が発生。
難キ連はキリスト教各教派教団の外国籍住民支援におけるネットワークです。2001年のアメリカ同時多発テロ以来、国内アフガニスタン難民支援に始まり、現在の支援相談は国内難民支援に関わる相談、また難民申請者からの直接の相談が増えています。
特にこの数ヶ月、オーバースティの子供達の人権救済に関わる相談を上回る難民に関する相談は、難民申請者の増加と共に日毎に増えています。国内難民の生活状況は未曾有の大不況の中で厳しい状況にあります。
 6月にはUNHCRの呼びかけで在京の難民支援にか携わる団体が、NPO法人FRJ(なんみんフォーラムジャパン)を発足させますが、難民、特に仮放免状態にある難民申請者の正規滞在化が強く望まれます。

2009年3月20日 金曜日
昨日は難キ連の世話人会、3月度運営委員会が開催されました。世話人会というのは、20年前に難キ連の前進であるアジア労働者問題懇談会(通称;アジ懇)が立ち上がり、そのときの呼びかけ団体で教派を超えたキリスト教関係団体によって構成されています。
その席上に於いても難キ連の位置づけについて話が及びました。
サポーターズサイトでも、支援をめぐって論議されていますが難キ連の活動趣旨が良く理解されていない事を懸念しております。

上述の通り、在日難民・移住労働者とその家族の生活を守るべく、
真の多民族多文化共生社会を目指して活動しております。

今回のカルデロンさんと同じケースと紹介し、署名活動の展開をお願いしたアルバレスさんご一家への支援の始まりは入管被収容者面会からです。家族分離収容(父親だけが収容、妻子は仮放免)で私がバプテスト連盟つくば教会牧師E先生からの要請で父親の面会をした時には
すでに収容1年2ヶ月が経過していました。高崎から牛久の収容所までは4時間近くかかります。往復8時間、たった30分間の面会に母子3人で猛暑の中やってきました。時として、収容は取り返しのつかない家族の中の温度差を生みますがアルバレス一家の家族の絆、信頼感の強さは長期の家族分離収容でも壊れませんでした。
今回の論議は難キ連活動(難キ連の活動は難民支援、入管被収容者面会支援により大きな使命を感じております)がオーバースティの家族支援に留まっているような誤解も見られ、いささか戸惑いもあります。
難キ連では入管被収容者面会に於いても難民の生活相談に於いてもいつも「帰国」という選択肢を入れております。
帰国して消息がわからなくなっている難民など明らかに非人道的な送還もある一方、母国でしっかり生活を取り戻した難民申請者、滞日30年帰国を拒み続け3 年の収容を経て、送還され、会社を興した学者など、多くの送還後の生活報告も受けており、母国に帰るという選択をしている被収容者には帰国支援を行うことも致します。父親の収容時〜仮放免支援、そして現在に至るまで私どもはアルバレス一家とも、どこに家族の幸福を見出せるか、模索しながら共に歩んでいる事を御理解いただきたいと願っております。
難キ連の支援は、難民、オーバースティの移住労働者とそれぞれの背景が違っても入管被収容者面会の現場から派生しています。
全件収容主義は収容の必要のないのない難民申請者をも「オーバースティ」という罪のゆえに収容するのです。一人1ヵ月の収容経費が9万円とも試算されており、なんとも大きな税金の無駄遣いを止めさせるためにも不必要な収容をしないと言う事を働きかけ仮放免許可が出ることを支援し、国民健康保険も加入できない(医療費全額負担)、就労権もない(貧困)、移動の制限(隣県へも旅行届け)仮放免という見えない鎖に繋がれている生活は支援者にも苦悩を与えその支援実情が非正規滞在者の正規滞在化への働きかけへと繋がっています。
私どもはキリスト教NGO団体ですから、
「旅人を迎える」
「獄にいる時訪ねてくれた」
と聖書のみ言葉が支援活動の原点にあります。支援に至るまでのプロセスを上述しましたが、神の前に平等な同じ人間として、共に歩みたいと、少しでも足場の良い状態を彼らに、と願うところです。

カルデロンさん家族のケースも、子どもの権利条約と自由権規約の、「子どもの最善の利益」と「家族保護」が主なテーマだったと思うのですが、
マスコミ報道が過熱する中で、いつの間にか、「法の公平か人道措置か」という、論拠のない感情論になってしまいました。

ただ、今回の様々な論議は確かに外国人受け容れのあり方、法の運用への関心を引き出してくれました。
昨日の世話人会、その後の運営委員会でも一致した感想でもあります。難キ連の活動につきましては
これからも随時支援活動の情報報告をさせていただきます。


2009年3月13日 金曜日
このところインフルエンザを罹患して以来、どうも体調が優れず、本日も、セカンドハーベスト・ジャパンの箱詰めボランティアを
休み、事務局勤務も休んでおります。難キ連専従のスタッフは事務局1名、昨年年初から夏休みもなく走りづめの結果がどうも老体に
現れて、黄色信号を発しているようです。さて、本日、法務省とカルデロンさん一家の判断が示されました。
4月13日に両親は帰国、のり子さんは在留許可が与えられ、親戚に身を寄せて学業を続けるとのこと。4月8日の2年生の始業式を見届けて両親が帰国すると言う事です。法的には、両親の再上陸拒否期間は5年ですが、柔軟に運用、1年以内の再上陸、あるいはそれより短期間に再上陸が認められる、という含みを持たせた判断でした。国内の賛否様々な議論を戦わせ、外国籍住民の問題に対してこれ程関心が高まった事はなかったかもしれません。各メディアの真剣な取り組みも見られました。
私どもが支援するアルバレス家の裁判はまだ終わってはいません。ラニエルちゃんは中学3年に進級します。父親は失職、母親も病を抱え、
会えば「なおこさん、なおこさん」とまとわりついてくれる、長男のルク君5歳も保育園にも入る事ができません。入管の担当官に再審情願を提出した際に「不法滞在の上に構築された年月は何の意味もない」と言われましたが、子供の成長は何よりの再審査を願う新しい状況証拠ではないでしょうか。3月11日附け朝日新聞「天声人語」の「法は法として貴い。だが運用の妙があっても良い」とつくづく思います。
*以下、カルデロン家に寄り添い、共に闘ってきた渡辺彰吾弁護士のコメントを貼り付けました。

皆様  、 カルデロンの件でご報告いたします。
この間皆様にはさまざまご心配をいただきこころから感謝いたします。
本日3月13日入管に行き,9時過ぎから親子と約45分話をして,最終的な方針を決めました。
その面会のときまで方針は決まっていませんでした。3人で残りたいという気持ちは本当に強かったこと,そして何よりも両親は自分達の意思で子どもを残すという選択ができませんでした。
しかし,13日の回答の時点で,入管の提示したオプションの選択がなければ16日の母と子の収容,17日の全員国費送還の案は彼らに重く圧し掛かりました。
ぎりぎりまで(16日の朝まで)粘って,その朝に変化がなければ両親が帰国の意思を表明するという選択もありえました。その案も実際検討しました。しかし,のり子ちゃんの収容という事態は絶対に避けたいという親の決断がありました。
最終的なこちらからの提案は,

「@ノリコの在留を認めるという判断を法務大臣から示してほしい。
 Aその判断が示されれば,両親は納得して帰国の意思を表明する」
ほかにもありますが,これが基本です。

しかし,入管はこれすらも拒否しました。
入管はあくまでも親の帰国意思の表明を条件にノリコへの在留特別許可を出すことにこだわりました。そして,親は最終的にそれを飲みました。これが経過です。
とても残念です。入管・法務大臣を私は許すことができません。子どもを人質にして親の承諾をとったのです。これが脅しでなくて何なのかと思います。とりあえず以上です。
また詳細は報告します。

渡辺彰悟

 なお、難キ連サポーターズhttp://nankiren.squares.net/、のサイトにはフィリピン外務省コメントが掲載されています。
此の度の一連の動きに真摯に対応してくださった管理人様に心から御礼申し上げます。
<以下 難キ連サポーターズ 3・13より>
カルデロンさん一家の国外退去処分決定について、フィリピン側の反応も掲載しておきます。
フィリピンの外務省は、不法滞在により国外退去処分の通告を受けたフィリピン人家族に対し、人道的支援を提供する準備があると公表しています。

以下「Manila Bulletin Websites and Publications」からの引用です。
http://www.mb.com.ph/node/198570

DFA to extend “humanitarian assistance” to Pinoy couple, daughter in Japan immigration row

The DFA and other concerned agencies are ready to extend humanitarian and other (forms of) assistance to the Calderon family, including their re-integration into Philippine society, contingent on the results of the proceedings under way in Japan with respect to that country’s implementation of its laws,” said DFA undersecretary for migrant workers affairs Esteban Conejos Jr. in a statement on Thursday.

【抄訳】(フィリピン)外務省および関係各省庁は、日本の法執行により国外退去となるカルデロン一家に対して、人道的支援そのほかフィリピン社会に再び適応できるための援助を提供するつもりである。

The source said the Philippine government couldn’t give in to the couple’s request to remain in Japan because it would only send the wrong signal to the international community.

【抄訳】関係筋は 「フィリピン政府としてはカルデロン夫妻の、日本に在留したいという希望を容認することはできない。それは国際社会に誤った認識を与えることになるだけだ」 と述べた。

The United Nations has asked for the records of the Calderons to be reviewed, while the Amnesty International called on Tokyo authorities to stop deportation procedures for the couple to remain with their daughter in Japan.

他方、アムネスティ・インターナショナルによる、このケースの執行は国連「子どもの権利条約」に違反しているとの声明を受けて、国連はカルデロンさんの記録を再調査するように求めた、とも書かれており、フィリピン政府も慎重な姿勢を崩していないようです。 ⇒ アムネスティインターナショナルの声明 「退去強制は人権侵害」


2009年3月12日 木曜日
朝日新聞社説です。
http://www.asahi.com/paper/editorial.html

フィリピン家族―森法相はここで英断を
 一家は埼玉県蕨市で暮らしている。36歳の夫は、内装解体会社で後輩に仕事を教える立場になった。38歳の妻は専業主婦。13歳の娘は、音楽の部活動に打ち込む中学1年生だ。 どこにでもいそうな3人家族。フィリピン人のカルデロン一家である。一家は17日に強制送還されるかもしれない。両親が90年代前半に、それぞれ偽造旅券を使って入国したからだ。
妻は06年に不法在留で逮捕され、執行猶予付きの有罪となった。昨年9月には一家の国外退去処分が確定した。退去処分になっても、家族の事情や人道的配慮から法相が滞在を認める制度がある。この在留特別許可を一家は求めたが、認められなかった。
法務省の姿勢はこうだ。極めて悪質な不正入国だ。十数年滞在した事実はあるが、ほかの不法滞在者への影響を考えると厳格な処分で臨むべきだ。裁判所も退去処分を認めている。法律論はその通りだ。だが、だからといって子どもの幸福をないがしろにしていいわけはない。

 彼女は日本で生まれ育ち、日本語しか分からない。「母国は日本。家族とも友だちとも離れたくない」という。思春期のごく普通の女の子だ。
 同じようなケースで、子どもが中学生以上だった場合には在留が認められたことがある。「処分が出た時に長女は小学生。中学生になったのは訴訟で争ったからで、すぐに帰国した人との公平を欠く」という法務省の説明に、説得力はあるだろうか。法務省も、近所の親類に預けることを前提に長女だけに在留許可を出し、両親が会いに来るときは再入国を認めるとの案も示した。そこまで配慮できるのなら、森法相はいっそ一家全員に在留特別許可は出せないものか。 彼女の望みをかなえることが、日本社会に不利益を及ぼすとは思えない。

 長女の学校の友人や地域住民らからは、一家の残留を求める嘆願書が約2万人分も集まっているという。蕨市議会は「長女の成長と学習を保障する見地から一家の在留特別許可を求める」との意見書を採択した。一家はすでに地域社会を構成する隣人として認められ、職場や地域に十分貢献している。一人娘は将来、日本を支える一人になってくれるはずだ。日本に不法に残留する外国人は約11万人とされる。日本社会に溶け込み、いまさら帰国しても生計が立たない人々は多いだろう。在留特別許可も年1万件前後認められている。

 日本社会ではすでに外国人が大きな担い手になっている。今回のようなケースはこれからも起きるだろう。いまの入管行政でそれに対応できるのか。社会の一員として認めるべき外国人は速やかに救済する。そんな審査システムをつくることが検討されていい。


2009年3月11日水曜日
鹿児島市の方から全難連ML(全国難民弁護団連盟メーリングリスト)に寄せられた南日本新聞社説です。
 本日付の南日本新聞(鹿児島県内では75%のシェアを誇る地方紙です)でも、本日付社説でカルデロン一家の件が
取り上げられていました。参考までにお送りいたします。
*****
[比人一家送還] 「法は非情」で済むのか ( 3/11 付 )
http://373news.com/_column/syasetu.php?ym=200903&storyid=15716
 両親とフィリピンへ帰国するか、さもなければ1人で日本に残りなさい−。埼玉県に住む中学1年のカルデロン・のり子さんに、法務省東京入国管理局が出した最後通告である。

 のり子さんは日本で生まれた。だが、両親は16、7年前にフィリピンから出稼ぎにきた。ともに他人名義のパスポートで来日した不法入国者である。家族3人の在留特別許可を求めた一家だったが、父はすでに入管施設に収容され、のり子さんと母親は厳しい選択を迫られている。拒否しても来週早々には一家そろって強制送還される予定だ。
 のり子さんには何の罪もない。しかし、両親が違法滞在者であることは事実である。どうしたら家族の幸せを壊さず、同時に法による処分を実行できるか、難問ではある。
 在留特別許可は法相の裁量に任されている。今回のケースでは、一家全員の帰国が原則だが、のり子さんだけには在留を認めるという判断だった。一家は最高裁まで争ったものの昨年9月に敗訴が確定した。

 非情とも思える入管当局の最後通告は判決に後押しされている。しかし、罪もない未成年者に家族との別れを強いることが妥当なのか、やはり問わなければならない。
 在留特別許可の判断には生活状況や素行のほか、人道的配慮が求められる。実際、のり子さんの両親のような違法滞在者であっても、日本人と結婚した場合や、日本人との間に子どもがいた場合は、家族関係などを考慮して許可する例が最近は増えた。このことは評価できる。

 今回は両親ともフィリピン人である。日本人が介在しないケースの前例を作りたくない、という判断が働いたとしか思えない。
7年以上の違法滞在者で子どもがいたら永住権を与える英国のように、欧米では不法滞在をめぐる問題を現実的に解決してきた。法の運用にあたって、日本も人権を重視する余地がまだあるだろう。
 日本も批准した「児童の権利に関する条約」からも問題はある。条約では教育を受ける権利、親からの分離禁止などを定めている。のり子さんは日本語しか話せない。フィリピンに送還されれば直ちに教育困難となるのは自明の理であり、国連人権理事会も調査に乗り出した。

 20年近く日本で働き地域にとけ込んできた一家を、違法滞在というだけで強制処分する。法は非情とはいえ、やはり疑問が残る。

*****
今朝3月11日の朝日新聞東京版「天声人語」です。
天声人語
 埼玉に住む不法滞在のフィリピン人一家が国外退去を命じられている問題に、蕪村の句を思い起こす。
<斧入れて 香に驚くや 冬木立> 倒そうと入れた気から生々しい香が立ち上った。
生命力に打たれて詠んだ一句とされている。一家の件では、親子と言う「生木」に入管当局の斧が入った。在留許可は認められず、父親は身柄を拘束された。一人娘のカルデロン・のり子さん(13)を両親と帰国するか、日本に残るかの辛い選択が待つ。立ちのぼるのは悲しみの香だろうか。
 のり子さんは父母の国に行ったことはない。日本語しか話せない。「母国は日本、心も日本人」と言う中学一年生だ。両親は真面目に働いて職場や地域になじみ、偽造旅券での入国ではあったがこの国に根を下ろしてきた。
 13歳という年齢は、なかなか難しい。異国で市から出直すには日本に根を張りすぎている。だが、親と離れて暮らすには、その根も幹もまだ弱い。いわば人生の早春である。
両親と日本、どちらを選ぶにせよ、生木を裂かれる思いだろう。 いつも一定の基準にものごとを当てはめる、杓子定規という言い方は江戸の昔からあった。
庶民が大岡裁きの政談に喝采したのには、そうした背景もあっただろう。法は法として貴い。だが運用の妙があってもよい。
 13日までに両親が帰国の意思を示さなければ、強制送還されるという。「家族3人で日本にいたい」とのり子さんは涙ぐむ。何とか手はないものか。
彼女以外にも、同じ境遇で育ち、学ぶ子等が、日本には大勢いる。
(原文を転記)

以上が今朝の朝日新聞「天声人語」です。
難キ連では、カルデロン・のり子さんとほぼ同じ状況にあるアルバレス一家を支援しております。
>彼女以外にも、同じ境遇で育ち、学ぶ子等が、日本には大勢いる。
賛同とバッシングのなかにいる、カルデロン・のり子さんと同じ状況にあるアルバレス・ラニエルさんはじめ多くの子供達にあたたかな春が来ますように祈って止みません。


2009年3月6日 金曜日
アムネスティから、カルデロンさん一家について公式声明が出されました。
アムネスティ発表国際ニュース
2009年3月5日

アムネスティ日本 <info@amnesty.or.jp>http://www.amnesty.or.jp/

--------------------------------------------------------
日本:フィリピン人夫妻の退去強制は人権侵害
--------------------------------------------------------

アムネスティは本日、日本政府に対して、アラン・カルデロンとサラ・カルデロンの夫妻が、13歳になる娘ノリコ・カルデロンと共に日本に残れるよう、2人に対する退去強制手続きを停止するよう求めた。
ノリコ・カルデロンは、日本で生まれ日本語しか話せない。彼女は法務省から、両親と共にフィリピンに帰るか、日本に残るために在留特別許可を申請するかのどちらかを選択しなければならない、と命じられた。しかし、政府は両親に対して、彼らが非正規滞在であることを理由に退去制を行おうとしている。ノリコは、日本に残りたいという意思を公式に表明している。「日本は、あらゆる政策において、子どもの利益を最優先に考慮する国際的な義務を遵守しなければならない。ノリコの両親に対する退去強制は、明らかに彼女の最善の利益に反するものである」と、
アムネスティのアジア太平洋部副部長ロジーン・ライフは述べた。
日本も締約国である子どもの権利条約では、第9条において「締約国は、子どもがその父母の意思に反してその父母から分離されないことを保する。ただし、権限のある当局が司法の審査に従うことを条件として適用のある法律及び手続に従いその分離が子どもの最善の利益のために必要であると決定する場合は、この限りでない」と規定している。
日本は、同規定について、出入国管理法に基づく退去強制の結果として子どもが父母から分離される場合に適用されるものではない、との解釈宣言を行い、この義務を免れようとしている。
アムネスティは、この解釈は受け入れられないものであると考える。「子どもの利益を最優先とする原則は、子どもの権利条約の中核
であり、絶対に拒否できないものである。私たちは日本に対し、国際的な義務に従い、人間としての良識と基本的な人道の観点に基づき、この家族が一緒に日本で暮らすことを認めるよう要求する」と、ロジーン・ライフは述べた。

背景:
子どもの権利委員会は、2004年に発表した日本に対する最終所見の中で、「国内法制度が条約の原則及び規定を十分に反映していな
いこと」について懸念を表明し、日本の法制度が移住労働者の子どもを差別していると指摘した。
*この件に関するアムネスティ日本支部の声明(2009年2月27日付)は以下からご覧いただけます。
http://www.amnesty.or.jp/modules/news/article.php?storyid=613


2009年3月4日 月曜日
 春を目前にして異常なまでの寒さ、2月はじめインフルエンザを患って以来、頻脈で救急点滴を受けたり、今朝から寒気と喉の痛み、なんとも心細い健康状態の身には堪える寒さです。雪が降りしきる昨日夕刻、カトリックオープンハウスのKシスターより留守電が入っている事に気が付きました。早速、聞いてみると、難キ連で相談を受け、居住地域が群馬県と言う事でお願いした難民のケースの事でした。スリランカ難民の女性が、東京のとある警察で任意で取調べを受けていると言う事、場合によっては収容もありうる、との担当刑事の話になす術もなく、とにかく本人の携帯に電話をしてみてください、と言った内容でした。K シスターに早速電話をして詳細を確認、本人の携帯電話に掛けてみたところ、すぐ本人が出て、入管出頭の帰途職務質問で提示したパスポートの在留期限が切れていた事でつかまった、家には病気で寝ている子供がいる、早く返すように頼んでくれ、と涙交じりの声で訴える。担当刑事の方に代わってもらって、本人は難民申請をしている事、しかし不認定になり異議申し立てを行おうとしていることを話し、なぜ捕らえられたのか聞きましたところ、パスポートのビザの期限が切れている事からオーバースティの疑いで任意の取り調べであり、入管と今連絡を取っているところ、との事。
「彼女に関しては難キ連も相談を受けた上でカトリックオーオープンセンターが現在相談対応をしています。仮滞在許可と言う制度もあり、本人がそれを受けていないか確認してほしい。とにかく人道的に善処してほしい」旨お願いいたしました。担当刑事も丁寧な対応でシンハラ語の通訳も頼んで、今からインタビューをするところで、入管とも連絡を取り、今、どのような状況にあるかを確認した上で人道的に対処を心がけています、しかし、収容もないとは言い切れません。との回答を得ました。とにかく、病気の子供が言葉もわからず自宅で待っている事を考慮してくれるよう再三お願いして電話を置きました。11時半過ぎ、Kシスターよりまた留守電が入っており「無事に開放されて自宅に戻ったと連絡を受けました。同行の同国人男性は留め置かれているとの事です」。ホット致しました。迫害から逃れ日本に庇護を求めてやってきた難民も、日本の難民認定は極端に少なく、第3国へ出国したリ人道配慮の在留特別許可が出る難民はまだ幸運で、多くはなかなか人道的配慮を認められず、不認定によりオーバースティとひとくくりにされ収容されるのです。入管収容,被収容者面会は多くの難民申請者も収容されているところから正確な聞き取りが必要と始められ、10年になります。しかし、このところ、余りに忙しく、牛久市にある入管センターには、多くの難民からの面会要請があるにもかかわらず、なかなか面会にいけない状態にあります。急増する難民の状況も楽観できない状況にあるのです。
 さて、3月1日の事務局便りに早速ご意見を頂戴しました。多くの方々がオーバースティの子供達の救済支援に対し、賛否は別にして関心を持ってくださることをありがたいと思っております。早速、返信のメールを差し上げておりますが、下記に貼り付け致しました。

(メール返信内容を皆さんに共有いただきたく貼り付けるのですが技術的な問題と思うのですがアップできませんでした。次号のニュースレター等で紹介させていただきます)

叫びを聞く

                                         渡辺 英俊
「寄留者を虐待したり、圧迫してはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。」 
(レビ 22章20)
 私の伝道所で、10数年にわたって礼拝を共にしてきた外国籍のメンバー一家が、
入管の「摘発」を受け、退去強制されました。上の子どもが小学校6年、
卒業寸前という時期になってのことです。下の子は生後3週間で父親が収容され、
送還されたときには生後2ヶ月でした。まじめに働いて、いくつもの技術の認定を受けており、
住民税も自分から申告して払ってきました。子どもが中学生になったら在留特別許可の申請をして、
安心して暮らせるようにしてあげようと準備を重ねていたのが、無になりました。
子どもの権利条約は、締約国のすべての公的・私的機関の活動は、
「児童の最善の利益をはかることが第1義的に考慮されなければならない」と規定しています。
また、子どもの教育を受ける権利を認めています。もし「違法」を咎められるのなら、
国際条約を法として守っていない政府の違法が咎められなければならないでしょう。
また、入管法上の在留資格がないまま日本に住んでいたことが違法と咎められるのなら、

 海外からの労働力に依存して成り立ってきた日本の経済の現実に合わない「法」を放置してきた、
政府の不作為の罪こそ問われるべきでしょう。この国は、政府の怠慢や政策の誤りのしわ寄せを、
最も弱い立場の当事者に負わせて苦しめ、咎めなくてもだれにも迷惑をかけていない
「違法」を咎めるために、税金と労力を無駄遣いしているのです。
今、アメリカ発の世界不況のあおりで、派遣労働者の首切りが大きな社会問題になっています。
日本人の労働者の失業が大きくなってメディアが騒ぎ始めましたが、外国籍の労働者、
とくに1989〜90年に一挙に導入されて以後年々増えてきた日系ラテンアメリカ人労働者は、
来日の初めから「派遣労働者」として雇用されてきたのです。
日本の自動車産業が輸出の主力として日本経済の「繁栄」を引っぱってきた陰には、
不安定な雇用条件の下で懸命に働いてきた、外国籍労働者の力があったのです。
ところが、ひとたび「不況」の声がかかると、真っ先に切り捨てられる派遣労働者の、

 その最先端で外国籍の派遣労働者が大量首切りを受けているのです。
解雇されると家族で住んでいた社宅から追い出されるために、野宿に追いやられ、
幼児が凍死したというニュースさえ伝わってきます。
この国の社会の冷たさは、真っ先に最も弱い立場の人びとの上に降りかかります。
この人びとの叫びが、教会の耳に届いているでしょうか。
「知りません。わたしが彼らの番人でしょうか」(創世記4:9)というカインのせりふを、
教会は愛用してきたのではないでしょうか。
「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」(マタイ25:45)
というのは、今、教会に語りかけられている神の言葉ではないでしょうか。
(わたなべ・ひでとし :  日本キリスト教団なか伝道所牧師・移住労働者と連帯する全国ネットワーク共同代表・難キ連運営委員)


2009年3月1日 日曜日
日本基督教団代々木上原教会の皆さんによって立ち上げられた難キ連サポーターズのウェブサイトに、昨年12月にお願いいたしましたオーバースティのフィリピン人家族の署名依頼につきまして、2000筆のご署名を頂戴する一方で、多くのご批判も拝受いたしました。
難キ連サポーターズの皆さんには、コンサートの散らし作成、またニュースレターの発送のお手伝いを戴き、毎年春のマーマレード作り販売売り上げの教会学校の皆さんからの献金など、物心両面からご支援いただいております。しかし、様々なご批判に苦慮されていると御知らせ戴き、早速、難キ連のスタンスをお送りいたしました。以下は、難キ連サポーターズウェブサイト管理人M様へお送りしたメール全文です。
M様、
いつもご支援、お働きに心から感謝いたしております。ニュースレターの発送、コンサートへのご来場誠に有難うございました。
さて、アルバレスさんご一家への署名のご協力へのお願いが、Mさんやサポーターズの皆さんにも、ご心痛と対応へのご苦労をおかけしております事をメール拝読し、大変申し訳なく思って心を痛めております。
12月に、署名をお願いいたしまして、12月21日には同じような状況にある子供達のために支援団体が情報を交換と言う事でキリスト教会館に集まりましたが、その折にカルデロンさん一家、そして私どもが支援しているアルバレス一家が顔を合わせました。また、大阪、神奈川、と予想以上の家族が集まりました。(この集会につきましてはTBSニュースでも報道)
しかし、彼らへの支援につきましては難キ連のメールにもご批判を頂戴しましたし、またカルデロンさんの弁護士、渡辺彰吾先生のところへも
批判のメールが殺到しているそうです。

> 批判の要旨はこういう事です。
> 1.不法就労者は犯罪者なのだから、法に従って処分されるのは当然。
> 2.「かわいそうな子ども」を前面に出して同情を買おうとするやり方は問題のすり替えだ。
> 3. 不法入国した人々を日本に在留させることが、なぜ人権を守ることになるのか、背景の説明がない。
>
Tさんにも大変お世話になりまして発送いたしました難キ連ニュースレター35号をメール添付させていただきましたが、ご寄稿いただきました
日本基督教団なか伝道所牧師で移住労働者と連帯する全国ネットワーク「移住連」共同代表の渡辺英俊先生の「叫びを聞く」が、御批判の要旨の1〜3への難キ連としてのスタンスを一番如実に著してくださっていると考えております。
編集後記では字数の関係で多くは掲載できなかったのですが掲載できなかった難キ連の考えを以下にまとめました。また長くなりますがその下に渡辺先生のご寄稿を貼り付けました。サポーターズのサイトにご掲載頂ければ幸いです。私どもは現行の「出入国管理法ならびに難民認定法」の改正を求めております。今回のカルデロンさん一家に発した子供の問題は現在の日本の外国人を受け容れる法律が如何にあるべきかを国民全てが考える機会になってほしいと願っております。

<以下難キ連の回答>
1月14日、カルデロン一家に、2月13日までの再度の仮放免許可が出された入管の判定について報道されました。
@ フィリピンで親子三人暮らすか
A ノリコちゃんを残して両親が帰国するか
どちらにしても、日本で生まれ、日本語しか話せない13歳の少女と家族に対して厳しい選択肢が示唆されました。
2月27日には、上記のどちらかを選び、帰国日を決めた上で3月9日に出頭しなければ家族全員を強制収容すると入管は言い渡しました。
難キ連では、カルデロン一家と殆ど同じ経緯と状況の中、ノリコちゃんと全く同じ境遇にある二人の子供を持つAさん一家の署名依頼を各MLに送信して2週間で240通(1200筆)の協力を戴きましたが
「親の不法行為を見て育つのは子供にとって最大の不幸です。 人の子の親として良心があるのなら、
一日も早くこのような不法滞在をやめて帰国して、子供を立派なフィリピン人として育てるべきです。
こんな不法行為でまんまと日本に滞在できるようになれば、子供はこれからも犯罪はやったもん勝ちと言う恐ろしい倫理観を身に付けてしまいます。この両親は成人してから日本へ来ても、日本語を身に付けたのです。 子供が帰国してタガログ語を覚えるのは簡単ですね。
早く違法行為をやめるように忠告するのが、善良な市民の務めです。」
といったご意見も戴きました。しかし、多くの送還された母国語が儘ならない子供達が母国で、家族離散や学業の中断、授業についていけない、など過酷な試練に耐えていることを神奈川県「信愛塾」の追跡調査報告で著し、昨年朝日新聞に5回にわたって特集記事で掲載されていますが、子供に「仮の住まい」と言う事はないと研究者からの指摘もあります。
生まれ育ったところ(日本)が親にとっては仮の住まいであっても子供にとっては仮の住まいではありません。

「罪を憎んで人を憎まず」といった言葉がありますが私達がノリコちゃんの両親、そしてAさん一家はじめ、同様のケースの子供達の両親の「超過滞在」という入管法違反という罪に思いを馳せると、彼等の罪で傷ついた人も損害を被った人もいないのです。むしろ、低賃金で黙々と働く彼らは不法といわれようと、企業の貴重な労働力であり、実際このような労働力が日本の企業から完全に失われてしまえば成り立たなくなる企業が出るとの見方もあります。また、彼らも低い賃金の中から税金を納めている納税者でもあり、彼らを(人を)憎みようも無く、彼等には(人として)憎むべき罪が見当たらないのです。
日本の法律「出入国管理法及び難民認定法」の書類上の罪でしかありません。むしろ、真面目に働きながら十数年にわたり日本に住んでも居住権が認められず、いつも送還と収容に怯えながら暮らさなければなりません。現在、移民法について政界経済界で論議されておりますが
今回のノリコちゃん初め、多くのオーバースティの子供達の教育を受ける権利と、やがて否応無くやってくる多民族多文化共生社会が誰にとっても居心地の良い社会になるよう、日本の、外国人受け容れの法律がどうあるべきかについて、私達日本人がもっと深く考える機会になってほしいと思います。多くの子供達の未来をつぶさない結論を入管が出してくださる事を強く望んでおります。


2009年2月14日 土曜日
インフルエンザの蔓延の波をもろにかぶってしまって2週間、思いがけず、快復が遅くようやく事務局デスクに復帰いたしました。
さて、2月8日日曜日、日本基督教団王子教会で開催いたしました難キ連ファミリアコンサートへの御協力誠に有難うございました。
おかげさまで、約60名余りのご参加を戴き、恵み多いひと時を共有させていただきました事を心から感謝申し上げご報告させていただきます。
充実した設備の王子教会を会場としてご提供くださいました大久保正禎先生はじめ王子教会の皆様、誠に有難うございました。
素晴らしい音響に演奏奉仕の出演者の皆さんも気持ちよく演奏させていただいた事を感謝しておりました。
素敵な演奏で会場を魅了してくださった出演者の皆様、長谷川さん、星野尾さん、米原さん、石山さん、佐藤さん、
本当に有難うございました。

コンサート仕掛け人佐藤が10日ほど前から自分も含めて一家がインフルエンザにかかるなど、この季節に危惧されたことが
現実に起こってしまい、コンサート前10日は全く大久保先生はじめ、関係各位への連絡も差し上げず、また各MLへのメールでの再度の広報も行わずに迎えたコンサートですが素晴らしい音響に恵まれた心地よい教会の席はほぼ埋め尽くされ
音楽を楽しみ、アートワークの作品に感嘆し、また難民の方々の証言に耳を傾けました。
道家さん、大久保先生の弛まぬ真摯なご支援の姿勢、「安心出来る場所で、安心できない現状を語ることによる癒し効果」、
「アートワークは難民の方々ばかりではなく私達も多くの恵を与えられている」との道家さんのお言葉がとても印象に残りました。
Fさんの証言にも心打たれました。ただ、特別活動とはいえ正規滞在化した
Fさんの表情が見違えるほど明るくなったと、Fさんの以前を知る方々が驚きました。

CTIC目黒のシスター真神様、ヒラソルの会の松丸様、御協力誠に有難うございました。
また、
急遽司会の労をとり、楽器や資料運搬のため都内の運転を引き受けてくださった
難キ連運営委員の佐々木紀久江さん、前日から佐藤に代わり、セカンドハーベストの作業ほか
様々な手配をしてくださり早くから会場で準備作業を黙々とこなしてくださった難キ連日本語講師ボランティアの高井敬子さん、
受付の労をとってくださったNCCボランティアの藤野さん、本当に有難うございました。

ご参集いただきました皆様お一人お一人に
心から御礼申し上げます。暦の上では春とはいえ、まだまだ寒い日が続きますが
どうぞ皆様くれぐれもご自愛下さいますよう。

皆様のご健康とご活躍をお祈り申し上げます。



   Copyright (C) 2010  NANKIREN All Rights Reserved