高松宮宣仁親王殿下の若き日の思い③:「高松宮日記」第一巻からの抜粋  

中央公論社「高松宮日記」第一巻からの抜粋の第三弾、
これで第一巻からの引用はおしまいです。

誤字脱字は修正し、漢字の宛て方、送り仮名の送り方、仮名遣いは
現代の読者に読みやすいよう改変してあります。




※以下お日記からの抜粋引用



大正15年(1926年) ―前年末に少尉に任官―

1/6「4時すぎ萩麿王(注:山階宮)いらっしゃる。夕食をあげましょうと言ったが考えて、7時に金子(注:尺八の先生)が来るのでおことわりす。6時お帰り。7時金子来る。尺八の稽古。どうも音が出ぬ。ちっとも進まぬ。萩麿王様、堀井(注:海兵54期)とは親しくなさるる由結構なり。堀井は満蒙に活躍したき望みあるらし。探偵小説など好むとはさもあらん。萩麿王も同じ探偵小説を好読さるるとは模倣の然らしむるためか」

1/7「10時昨日の約束で萩麿王ご日記を持ちて来られ、読めと置いてゆかる。
…萩麿王の人に交わられ友と交われるにセックスの上に原因がありはしないか。そうだとそれに偏しすぎるのは面白からず思う。私についても誤解が大でないかとも考えられる。なぜならば、私の人格を礼賛して、私のために身をどうするとまで書いておありになるのはいかがかと思う。私もお力にはなろうが、それはsame levelにおいての事なり。その他略す」

1/9「萩麿王のことについて堀井に手紙を出そうと思う」

1/12「『純な心持ち』というものがあることに気付いた。性欲の研究でも始めようか。そしたら私の心持も純なものになることが出来るかもしれない。そして清い(私の気持ちが)友達が出来るかもしれない。まだ、羞恥心はあるのだから。…『純な心持ち』からそこに恋愛に近い感情のおこることも有り得るわけだ。これは萩麿王のお日記を見つめて苦しんだ産物としては大きなものだった。ほっと息をつく。何にせ萩麿王には、私を対象とせぬよう言ってやろう。理屈もなにもいうことはいらぬ。堀井に手紙できくことも要らなくなったわけだ。けれど私の不純な気持ちから出してみたいような気もする」

1/23「私はよし子が好きだ(注:皇后宮女官)」

1/29「Tに5円でもやろうと便所に連れ出してみたが、そこにも人がいて駄目だった。いやになっちまう。…萩麿王様にお日記を返す。手紙添えず」


昭和二年(1927年)―水雷学校→砲術学校、八月より『比叡』へ―

1/19「水校へ。七時半より一時間御伽。少し早く出かけて休憩室で賀陽宮様に拝島へいらっした(今日)お話を伺う。二十一と十八の運転手ぎりで同性愛に陥っていらっしゃるようだった」

3月末余白「皇族は自己の目的に精進しえない。結局は虻蜂とらずで終わるより仕方なし。予をして性欲に対する顧慮なからしめばすでに偉人たるべきのみ」

8/9「今朝、漆原兵曹に会う。…出港の時『古鷹』の近くへよればよいと思っていたのにやっぱり顔のわからぬ位はなれて通った。とうとう山浦君などわからなかった。佐世保で遊びに行くついでがあるかもしれぬ」

8/18「午後七時から水交社でクラス会。行かぬ行かぬと言ってたが、とうとう引き出さる。五分間というわけで。水交社へ行く前、町を少し行ったら、山浦君に出会わす。こっちは上田や猪口少尉と同行してたので、口もきかずにすれ違って残念だった」

8/29「平八(注:京都の料亭)で夕食をして帰る。平八、料理よりは一人美しいのがいた。飢えたる狼はすべての羊がうまそうに見える?」

10/6「敏子が女官をやめたと新聞に出ている。とうとう快癒に手間取るというのかしら。気の毒というより私が悲しい気がする。運命は彼女を幸福づけなかった。彼女の身辺にも恵まなかった。二人の妹はいかに、弟はいかに。女官の中で私がすきだった敏子、先には土御門がやめた。これは元気がよすぎたのだが、こうして私がすきだった人は一般的ではない。それはそうだろう。目のよるところへ玉だもの。健全ならざる私に健全なる人が近づけられるはずがない。今残っているよし子果たして健全なりや」

10/7「Y君に会いたし。今日は当直のはずだが、返事がこないと思うと手紙を書く気にもならず。いつか機会をねらってとうとう会えない。意気地なし?…何だか、飲めぬ酒を飲んでみたい気がする」

10/9「この頃の気持ち、ちっとも信念がない。その日暮らしである。落ち着いて確固たる目標をつけられない。深慮する余裕をもてない。艦務に多忙でないこと夥しい。ぶらぶらと夢中の毎日である。人生的に価値のない生活である。心に弾力のない生活である。出まかせな人生である。考えるだけの気力がない。弱っているのだろう。変態の生活である。理性も意志も働いていない。情欲の生活である。
 士官室の若い士官をくすぐったり、自分でだらりだらりと歩いたり、ふざけ散らしているだけだ。それを面白いとは自分でも考えていない。他にすることがないだけの話。皇族たるの威も誇りもあったものではない。自分で自分の面を汚している位は知っている。全く常軌を逸している。真剣な気持ちがどこにもない。言うことは出鱈目なことばかり。
 去年『古鷹』で親しくした人たちに会ってみたいだけだ。会わなければ、意志の疎通をなしえないから、会いたくてしかたがない。せめて手紙の交換でも出来れば、どんなに便宜であろうか。なにも『古鷹』に限ったことはない。今までに親しくした海軍の人とは艦に乗ってる時が、会うには一番便利だから。東京では海軍の人と会う機会はつくりにくくなるだけ、こうして航海してる間に会談したいのだ」

10/10 「二艦隊の武技競技、徳山中学に行わる。Y君も上陸日だし、『古鷹』で分隊にいた小室なんかも出るし、見に行きたかったが、佐世保の水泳で運用長につけられたり、今朝も行くならお案内しましょうなんて言われて、それでは知った人に会うため半分にゆく私の面目のぶちこわしだから、それに不愉快つづきで気分も引き立たずやめた」

10/13「二三日前からまた風邪をひいた。ほんとにこの頃弱ってるようだ。石井にあったりYさんに会ったりする夢を見たりする」

10/20「午後『古鷹』へ便があったので行った。久しぶりにY君にも会った。斎藤から約束の写真を送ってきていた。Y君来年こそは高信にもいって後々の便利になるように。ほんとに一緒に『八雲』にでも乗れたらよいけれども、それでは君のためならず。なにしろ会えてうれしかった。気持ちよし気持ちよし」

昭和4年(1929年)―徳川喜久子さまとのご結婚の前年―

9/1「淋しい。艦へ行って会って話してみたい。聞きたい。
 横須賀で艦にいてみたらば、どんなに面白いだろう。淋しい。物足らない生活がまた始まるのだ」

9/3「淋しい。 淋しい。 淋しい。 物足らぬ感。 横須賀へでも行ってみたい」

(別紙)「独りでこの広い部屋にいる。
 外では粉雪が降っていて時刻をきざむ机上の時計と自分の呼吸が静かな空気をつたって耳にきこえる。何とも物足らない淋しさ、やはり友達と肩をならべたい気持ちがヒシヒシと浮かんでくる。ノールウェーの連中に明日、シガレット・ケースをやる。ただしやめたほうがよいような気もする。もともと僕には今日明日だけの関係だもの。日本人の人の手前もある。お兄様との振合もある。浅沼さんに会ってみたくなった」


(以上で第一巻からの引用終)
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by bulbulesahar | 2011-09-17 19:14 |

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