あの子のことも嫌いです

元サークラ、サブカルメンヘラクソビッチ女、現在しょぼいOLの備忘録。

あなたの理想になれなくて、ごめんなさい

 サークラ*1を辞めた理由はいくつかあるのだが、その1つが「誰かの理想の存在でいることに限界を感じた」ことだった。

以前の記事でも書いたが、わたしの場合「ターゲットの理想通りに振る舞って、告白されるものの付き合わない」を繰り返した結果がサークルクラッシュに繋がっていた。黙って存在しているだけでもモテる、真性の “イイ女” なら良かったのだが、所詮は作りもの、紛いもののモテである。

 

サークラになる以前から、わたしの母はわたしに多大なる期待と、理想を抱いていた。というより、未だに抱いている。彼女の理想を挙げればきりがないが、彼女の娘たるもの、痩せていて人当たりが良く、当然美しくて黒髪ストレート、知的でクリエイティブな仕事に就いており、高学歴高収入かつイケメンの彼氏がいる必要があるのだが、わたしは今のところ黒髪ストレートくらいしか叶えられていない。

先日思わず気になって「お母さんとしてはわたしの結婚相手はどんな人だったら良いの?」と聞いてみた。銀行員か大学教授かはたまた医者か、どんなハードルを課してくるんだ、と身構えたら「うーん、NASAの人とか?」という返答だった。何だよNASAの人って。どこで出会うんだよ。わたしに結婚させるつもりがないだろう。

母の理想通りに振る舞うのに比べれば、ターゲットとなるクラッシャられ(クラッシャーの毒牙に掛かるひとたち)の理想通りに振る舞うことは何倍も容易かった。彼らが臨むのは常に自分に優しく、認めてくれる女神の如き存在であり、好き好きアピールをわざとらしいほどにすれば良かった。さすれば彼らは簡単に「好きだ」「可愛い」「愛してる」と甘い言葉を紡いでくれるので、わたしは奇妙な万能感を手に入れていた。

 

サークラをしている真っ只中のときに、わたしは恋をした。

同じラジオを聴いていたことがきっかけで知り合った彼は、彼女いない暦=年齢の大人しい青年だったが、なにより一緒にいるのが楽しかった。

彼のリュックにはいつも愛読している本が入っていて、喫茶店で開いてはわたしにその難しい本の良さを丁寧に解りやすく教えてくれた。建築に関心があり、六本木や汐留に連れて行って、見たこともない建物の良さを語ってくれた。美術館や映画館に訪れては、わたしの感想に真剣に耳を傾けてくれ、良くおしゃべりをした。アンリ・ルルーというびっくりするほど美味しいキャラメルのお店を教えてくれたのも、表参道を一望できるカフェを教えてくれたもの、彼だった。共に過ごす世界は新鮮で、楽しかった。

そしてわたしは自然とサークラを辞めた。彼とどこかに行く方が、ずっと楽しかったからし、本や小説、podcast、ラジオ、舞台、ほかにもたくさんの関心ごとが湧いていたからだ。

このまま彼と付き合う、というキラキラした未来を思い描いていた。東京湾の花火大会の帰り道に初めて手を繋いだときには、心臓が破裂して目の前が真っ白になるんじゃないか、と思った。心から好きだと伝えて、とても幸せだった。

彼に難点があったとすれば、悩める青年だったことだ。時折深く考え込むことがあった。人生だったり、生き方だったり、自分自身についてだったり、考え込んでしまうと、いつも暗い表情をしていた。そんなときはわたしが何を言っても無駄で、そっと離れるほかなかった。

しかしある時から、彼の表情が生き生きし始めたのだ。それと平行して、わたしに連絡が来る頻度がどんどん減っていった。毎晩のようにskypeで話していたのに、彼のステータスがオンラインになることはなくなり、メールも3通に1度返ってくれば良いようになった。

何かわたしがしてしまったのか、はたまた彼女でも出来たのか。思い悩んだ結果、わたしは、すこし話したい、と彼にメールをした。彼から指定されたのは上野にある、ケーキが有名で女の子に人気のあるカフェだった。

「実は、すごく好きなひとができたんだ」

久しぶりに話す彼の顔は、あまりにもとろけて幸せそうだった。

「とっても可愛くて、努力家で、笑顔が素敵なんだ。彼女がときどき僕ににっこり笑って手を振ってくれると、それだけですごく幸せな気持ちになる。悩んでいたことから、全部救ってくれたんだ」

そして彼がスマートフォンに表示してわたしに見せた写真には、たしかにとても可愛い黒髪の女の子が微笑んでいた。頭を何発もガンガン殴られたようなショックが全身を襲うなか、彼は目の前のケーキよりも甘ったるい声で続けた。

「今度また握手会があるんだ」

その一言で、一息に現実に引き戻された。

彼が好きだというのは、アイドルだった。当時有名になりかけていて、テレビなどでも目にすることはあったが、メンバーのなかではあまり有名ではなくて、ぱっと写真を見ただけでは解らなかったのだ。AKB48で有名になった握手会を彼女たちもやっているとは知らなかったが、どうやらファンとの接点を設けているようだった。

彼が指定したこのカフェは、彼女がブログで行ったよ!と報告していた場所らしく、男ひとりじゃなかなか来れないからさ、ありがとう、それを聞いたら美味しいはずのケーキも全然味がしなくなって、飲み込むようにして食べた。

「ようやく、顔を覚えてもらったんだ。顔を覚えてもらった瞬間に、彼女と僕の物語が始まったんだよ。だから今すごく幸せなんだよ」

そして彼は延々と、彼女が如何に素晴しく女神のような存在であるのか、ライブのパフォーマンスがいかに可愛らしいか、そして自分の顔と名前を覚えてくれて、最近では名前を呼んでくれることについての喜びを語った。

あ、これ駄目だ、とわたしは思った。

アイドルは、いくらでも理想を投影できる存在だ。舞台上で、あるいはSNSの上で、その私生活を垣間見るくらいが関の山で、思考や言動について、全てを知る由もないからいくらでも理想を押し付けられる。そんな彼女に、わたしが如何に彼の理想になろうと努力したところで太刀打ちなんて出来ない。だって、彼女が存在しているのは、彼の頭のなかなのだから。彼の頭のなかでは、彼女とのラブラブなストーリーが出来上がっているのに違いなかった。

桜の散りかけた上野公園をとぼとぼと歩きながら、わたしは結局彼の理想の彼女になれなかったことを悔やんだ。

そしてその週の週末に、わたしはオフ会にいた。そして、一瞬にしてサークラに戻って、あれほど彼から欲しかった「好きだ」という言葉を初対面の人から引き出していた。

わたしは理想に添うように努力しなくては、大好きなひとに好きと言って貰えないくらい、駄目な、魅力のない、みっともない存在なのだ。母がそうであったように、わたしが自ら面白いと感じたり、楽しいと思ったりすることを実行しているままでは、常に天涯孤独でいなければならないのだ。だとしたら、決して実にならないのであっても、サークラをやりながら見知らぬ誰かに「好きだよ」と言われている方がましだと思った。

 

母のもとでもがいた10年と、サークラだった2年弱を経て、わたしは誰かの理想になるのは苦しいというごく当たり前の結論に落ち着いた。嫌でも、このダメな自分と付き合って行かなければ成らないのだという当たり前の現実と、やはり誰かの理想になりたいという幻想の間で、今もたゆたっている。

 

 

 

 

*1:本文中のサークラとは、全てサークルクラッシャーのことです