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2013年3月25日 (月)

小松城の埋蔵金!! 前田利常の軍用金が…

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↑「こまつ・のみホームニュース」に掲載

 (1993年1月8日発行)


 大正2年(1913)89日、熊本市の本田寿太郎という人が、小松城の埋蔵金発掘願いを、当時の石川県知事・坂仲輔に出しています。その内容は次のようなもの。

   官有地内に埋金あるを採掘願

今般私儀、石川県能美郡小松町旧城址地内において、元前田中納言様(注:加賀3代藩主・前田利常)居城の折、軍用金として数多くの金塊を、殿のお側付きを勤めておりました私の祖先・小西正由ほか五名に密かに命じて、他人に知らさず、深夜、居室の畳を起こし、床下に穴を掘り続けること数ヵ月。ようやく埋め終わり、酒宴を賜りましたが、正由は身に危険を感じ、大便にことよせ宴席を退去し、すぐに帰宅しました。そして虚無僧の装束を着て夫婦連れで亡命し、熊本に至り、今日まで子孫連綿として続いております。ほかの五名は酒宴後毒殺されたと伝え聞きます。

 正由は臨終の際、相続者を枕元へ呼び、人払いをして遺言しました。軍用金が埋まっている場所を詳細に述べ、兄弟や他人に話してはいけないと戒め、代々相続者に伝言し、時機が来たら採掘を出願せよ、と。

 私の父源太郎は、城跡は民有地になっているものと考え、買い求めるための予備金として少なくとも五百円は必要と思いつきました。財産もない父にとっては至難中の至難だったでしょうが、明治元年から同二十一年七月までに百八十五円を貯蓄して亡くなりました。

 「なにとぞ兼ねての本望を達するように」との父の遺志を継ぎ、私は大正二年六月までに、寒暑をいとわず昼夜の別なく働き三百三十五円を貯蓄しました。

 小松町に来て調べたところ、官有地になっていました。つきましては採掘をして埋蔵金の有無を確かめたく思います。建築物には関係ない箇所なので、お許しください。なお、

掘り起こした所は原形の通り、自費で復旧工事をしますので、なにとぞお願い致します。

 以上の意味のことが書かれ、最後に「滞在所、金沢市柿ノ木畠旅人宿、蛭川方にて」と記されています。しかしこの発掘願いは、石川県内務部によって「詮議不相成候也」と一蹴されました。

 小松市の郷土史家・白江勉さんが、小松市立図書館勤務の折にこの文書を見つけ再調査。平成3年発行の「小松文芸」や、平成4年発行の自著「名字のふるさと」に発表しています。

 白江さんによると「大正2年は政情不穏な年で、まず坂県知事が茨城から転任してくる。そして県首脳部の人事異動と続き、中央では桂内閣が自滅し山本権兵衛に代わる。犬養、尾崎を金沢に迎えての憲政擁護大会、北陸線全線開通などテンヤワンヤだった。そんな時だったから、金塊発掘などという夢物語には貸す耳を持たなかったのでは」とのこと。

 失意の本田寿太郎さんは、小松市八幡町の茶屋を訪れ一服した後、風呂敷包みを置いたまま立ち去りました。その中味が、請願書等一式の書類だったのです。

 その後、八幡の茶屋は食料品店になり、店主・地島幸次郎さんは、文書一式を小松新聞社に持ち込みます。そして昭和43年に、小松新聞社から私立図書館へと渡りました。

 白江さんは、熊本市役所や熊本の新聞社に照会し、本田寿太郎さんの遺族を探しましたが、結果は「転居先不明」。

 小松城の跡地には、今も金塊が眠っているのでしょうか。そしていつの日か、日の光を浴びることが……。

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