弁証法と哲学

思索を綴ってまいります・・・・

ヘーゲル学会

2014-08-29 16:42:26 | 日記
年末のヘーゲル学会は静岡大学だそうだ。

東京駅から静岡駅まで新幹線なら1時間だが、東海道本線を使うと3時間かかる。だが学会の発表は通常は午後からだ。早起きして鈍行で行ったほうが運賃も安いし読書も出来るだろう。

今回の大会長は山崎純(旧姓・松田純)さんということで、専門はヘーゲル哲学でも最先端の医療倫理やエンハンスメント倫理などをやってるようだ。

確かに○郷氏についていく物にはその道もあるにはある。ヘーゲルが正しい正しくないではなく、ヘーゲルを研究することで学位をとり哲学研究者の職につくならば、それから先端的な哲学の研究をすることも可能なのだし、それは否定の否定というか、騙されて東京に連れて来られた千代の富士のようなものかも知れない。

だが、ま、私は南○氏のヘーゲル論の誤りを徹底的に突いて行きたい。それが真理を求める学術の世界だから・・・・。
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「黒子のバスケ」事件

2014-08-29 14:14:02 | 日記
「黒子のバスケ」脅迫事件の犯人の意見陳述書が興味深いという話を耳にしました。私は昨日、この話を耳にするまで事件の存在どころか「黒子のバスケ」という漫画すら知りませんでしたので早速ネットで検索しました。

まずは話題の意見陳述書に目を通したのですが今一つピンと来ません。犯人自身が綴った自分史というか何というか・・・・物語としては上手く出来ているのでしょうが本当に真実に迫るものなのか疑わしく思いました。色々な人が「文才がありすぎる」だの「ロジカルでドラマチックな文章」だの「狂った供述内容」だのと意見を出しているようですが。

それで事件の全容を語る資料を探したのですが余り見つかりません。せいぜいがWikipediaの「黒子のバスケ脅迫事件」くらいでした。それで正直、私はこの事件に余り興味が湧かず、有体の「世の中、悪いことするバカなやつがいるな〜」くらいの感想で、渡邊博史という犯人のプロファイルにも興味はありませんでしたが・・・・。

事件の発端は「2012年10月12日午後7時15分ごろ、作者の藤巻が在籍していた上智大学東京キャンパスの体育館で、硫黄臭のする液体の入った容器が発見された。」ということのようで渡邊本人は上智大学に入学したかったのに叶わなかったと述べてるようですが、漫画の作者の藤巻さんは上智中退ですから学歴を妬まれる筋合いは丸でないでしょうに。大学中退後に漫画家のアシスタントになり、その後は漫画がヒットしアニメにもなった。32歳の若さで経済的な大成功者ですね。けれど、若くして成功者になったというだけの理由で会ったことも言葉を交わしたこともない人間に嫉妬して犯罪に及ぶなんてことは普通の正常な人間ならば有り得ないでしょう。

>東京地裁は「作者に対する強いねたみから犯行に及んだもので、動機はまさに八つ当たり」と指摘しました。そのうえで、「自己顕示欲を満たす行動に終始し、『反省する気はない』と豪語している。犯行は重大で悪質」として、求刑通り懲役4年6カ月を言い渡しました。

渡邊本人の意見陳述書は途中で読むのが嫌になってしまいましたが、それは私が本職の心理学者ではないせいでしょう。しかし、一言でいえば東京地裁の指摘が的を得た判断だと思います。

彼・渡邊は認識力に欠けていますね。もっとも認識力に欠けていても生きる力を備えている人間はありますが、どちらも持ち合わせてはいなかった。ただ、彼の心の思いはあったのでしょう。そうした個人の心理・思いと行動との関連性を問うのが心理学という学問でしょう。彼の場合は特に犯罪心理学の対象となり、今後の類似事件の抑止に活用されるのでしょう。

私は社会的成功者の成功譚には興味がありますが、渡邊のような犯罪者のヒストリーに興味が湧かないのです。野球選手やサッカー選手、歌手や俳優、芸術家などの成功譚には聞く者を幸福感に満たす力があります。その意味で身体運動をしている人間の到達地点は「国民栄誉賞」のように他者に夢と希望と勇気を与えることだと思っています。街頭での喧嘩の強さなんて小さい小さい。だから私はごく普通の人間なのです。



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発達障害児について

2014-08-28 22:00:05 | 日記
別府哲さんという京都大学を出て岐阜大学の教授をされている方の本を読んでいました。別府さんは発達障害児の教育について研究している発達心理学者です。

発達障害児についての本を読もうなどと思ったのも小さなキッカケからですが、私自身はこれまでの現実生活の中で発達障害児と関わりをもつことは殆どありませんでした。小・中学校の頃に養護学級とか特別学級と呼ばれるクラスに知的障害児が数人いましたが、話したことも一緒に遊んだこともありません。

ただ、大人になってから働いていた職場の中に発達障害児ではありませんが、事故で後天的な知的障害者になってしまった友人がいて、その彼が知的障害のためにヨリ劣悪で単純な部署に移動することになったと最後の別れを告げながら涙をポロポロこぼした物悲しさは深く胸に刻みつけられています。

それで別府さんの本を読んでいると発達障害児の内的世界は何となく自分が子供の頃の照れ屋で内向的で、あるいは反抗期や思春期の世界と似ているような気もしないでもないのですね。もちろんそれは実際の発達障害を知らない、素人の生兵法的な想像であることは、遠目から眺めていた養護学級の生徒たちの表情からさえ想像することができます。きっと私は発達障害児の内的世界を行動観察から「こういったものだろう」と推察することは出来ても、観念的二重化というか役者のように成り切ることは出来ないでしょう。何事かがあるたびに不安な心理状態になって異常行動をとるような内的世界を自分の中に積極的に作り出すことは、麻薬に手を出すのと同じくらいの危機感を感じで「自分」がNO!と言うのです。

私の年齢になってしまえば自分が出来ることと出来ないことの分別はつけることが可能です。私は教育者にはなれないタイプの人間ですし、ましてや発達障害児の教育など能力外のことでしょう。けれど書籍で彼らの苦しく辛い日常を垣間見るならば、少しは優しい眼差しを向けることも出来そうです。

発達障害児の決して「認識」とは呼べない心身の反応は、未知の学術領域に私を誘ってくれそうです。


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言語についての覚書

2014-08-28 12:38:45 | 日記
某所で言語表現についてのコメントをしました。「思い切る」と「諦める」との区別を説いたものなのですが、思い付きで書いた割には良い着眼だったと自分でも思うので、この機会に日本語や言語にも関心を寄せておこうと考えました。

それで、日本語の文法に弱いものですから、そのコメントでは日本語を英語の文法的に解釈しておいたのですが、やはり真っ当な日本語文法だとどうなるのかを知りたいと思いました。調べはじめると、小学校だか中学校で学んだ記憶が甦ってきましたが、日本語は「主語と述語、そして修飾語」などで構成されており、それらを「文の要素」というようです。それに対して英語の「S+V」は主語+動詞。動詞というのは名詞、形容詞、副詞、助詞といったものと合わせて「品詞」というカテゴリー。英語の構文というのは日本語の文法からすると「文の要素」と「品詞」とが入り乱れて構成されているということになるようです。

今回のコメントで私は「叶わぬ恋を思い切る」という文で「思い切る」という他動詞に「恋を」という目的語が付随してくると英語の文法のように解釈してみましたが、本来の日本語文法だと「思い切る」という用言(動詞)に「恋を」と連用修飾していることになるようです。だから、「他動詞+目的語」として説いた部分を「用言+連用修飾語」として説き直せば、

>「思い切る」という述語・用言には「何を」という連用修飾語が不可欠ですが、その連用修飾語として用いられる単語は例えば「恋を」というような強い感情・執着心を伴った事柄に限定されていて、それを限定しているのは「思い切る」という述語・用言の持つ意味によってです。同じく「諦める」という述語・用言にはそれに応じた連用修飾語が不可欠ですが、それは「思い切る」にかかってくる連用修飾語とは一致しません。その不一致は「思い切る」と「諦める」の意味の違いから生じるものです。


それで日本語の文法書を買ってみようと調べてみたら、田近洵一さんの『くわしい国文法』という中学生用のものがありました。面白いところでは高橋太郎さんという人の『日本語の文法』という本が名詞と動詞だけで目次が構成されています。ご専門は外国語なのでしょうか?ちょっと読んでみたい気にさせられました。

この機会に時枝誠記さんの『国語学原論』をパラパラとめくってみたら昔懐かしい「言語の追体験」という言葉が載っていました。おそらく私は10代の頃に三浦つとむの本あたりで「言語の追体験」という言葉を学んだように思います。それで、時枝さんの「言語の追体験」という言葉がどんな文脈で書かれているかというと、「言語の研究法」なんですね。これは専門の言語学者の言語研究方法として「他者が発した言語を再経験し追体験する必要がある」と述べています。これは言わば、自然科学者が再現実験をしたり、歴史学者が史料に基づいて史実を構成したりすることと同じく学者の方法として説いているわけです。

それに対して三浦つとむは言語を芸術とともに表現一般と捉えて、「会話をするとは一般的に作者、発信者の認識を追体験するものであり、鑑賞という認識も追体験である」と説いていなかったか?これは明らかに逸脱であり誤謬でしょう。ここからも三浦の認識能力が窺えるように思います。私は「名探偵になりたかった」という三浦の言葉に今でも深く同意しますし、「モンテクリスト伯」や「スカラムーシュ」を薦めてくれた「無道抗議」にも感謝していますけれど、三浦つとむという人は、やはり経歴通りの人だったのだと思います。





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ヘーゲルについての覚書

2014-08-25 18:02:12 | 日記
愚○亭○氏が絶対的真理だとか絶対的弁証法だとかという言葉を用いている。これまでは、その内実に関わることを説かずに論評していたが、今回は実体に迫る発言をした。それは「ヘーゲルが絶対的真理を説いている」というのだ。

これは改めて調査してみないと断定は出来ないが、南○氏の「学一般」といった範囲を支持しての発言ろう。亭○氏は○郷学派は相対的真理を発展させたなどと説いていて、恰も○郷氏と学派の専門家とに乖離があるかを連想させる説き方だが、分野を問わず「作ると使う」などというカテゴリーで説いていたりして。その形而上学的な発想は明らかだ。

因みにアリストテレスの形而上学は存在を一般的に扱ったものだという噂だが、それに対してプラトンのイデアは世界の根源に理念をみた。ヘーゲルが当時の最新の知見を貪欲に吸収しながらもギリシャ哲学の研究に力を入れていたというのは有名なようだが、そのはプラトンとアリストテレスの、ら理念と存在との弁証法的な統一がヘーゲルなの説いた絶対的真理ただというのだろうか?

加藤先生ほか、専門のヘーゲル研究者の探究によりヘーゲルの体系は総論と各論とで整合性が取れていないという。加藤先生はそれを「ネズミの体に象の内臓」と評したが、そのことが「哲学はヘーゲルで終わった」とも「専門科学の上に立つ形而上学は要らない」とも言われるのだろうし、「実存は本質に先立つ」という実存主義にも繋がったのだろう。



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