弁証法と哲学

思索を綴ってまいります・・・・

学校教育雑感

2014-09-04 06:21:40 | 日記
道脇氏の件に絡んで様々なことを想起していた。  

私は道脇氏のネジの開発に余り魅力を感じなかったのだが、この仕事の核心は何だろう?と考えたら「多業種を跨がった汎用性」だろうか?と考えた。

ネジのような連結部品は建築業、造船業、家具、文具、自動車メーカーetc.と利用範囲が極めて広い。黒川紀章のような建築設計者や自動車産業のような単価が高値のものとは対照的に、薄利多売で利益を上げるのがミュージシャンではないか?レディーガガのCDなど1枚2〜3千円だろうけれど、世界中で沢山の人が買うから莫大なる収入になる。「どんな建築物を設計したい」「どんな車を作りたい」といった夢とは対照的に、利益を上げるには如何いった領域を攻めて行くかという戦略的な発想が「連結部品としてのネジ」に結びついたのだろうか?

おそらく、それは広範囲で利用されるという可能性から賛同してくるビジネスマンも多いのだろう。

汎用性…それは原田泳幸氏のような、専門は教育出版でもファーストフードでもなく、ビジネスのプロ、どんな商品かに関わらずに利益を上げるプロフェッショナルの世界に通じるのかも知れない。


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回顧録2

2014-09-03 19:14:32 | 日記
道脇裕氏のNejiLawの緩まないネジ「L/R」が話題だと耳にした。もとよりコロンブスの卵だが、完成品を知ってしまえば逆方向のネジ山を切ってそれぞれの方向のナットを連結させるという発想は、一方向のネジ山にダブルナットを締めるのが如何して緩みにくいかという原理よりも義務教育的・基礎応用的な発想だ。

どんな分野であれイノベーションは重要なことだし、現代を生き抜く最有力の力だろう。ただ、私個人は「緩まないネジ」ということに拘った開発者の気持ちが分からなかった。現代において社会生活をしているならば、ネジというのは緩むものだし、そのために緩んだネジを増し締めするメンテナンス請負業者というものも職業として成立している。もしもネジの緩みによって事故に繋がるような事例があるならば、メンテナンスの徹底を奨励するだろう。それは「ネジの緩み」に限定されない定期点検を促すだろう。そんな諸々をも含め、建物にしろ電車にしろ、ネジ=ビスは裏方中の裏方だ。ネジメーカーの方々というのが如何いうものか知らないが、思春期・青春期を通して「ネジの仕事をしたい」と思うかと言えば疑問だ。

ましてや私が聞いたのは、10歳で「学校教育システム」を否定した、祖父と母が大学教授で父がえ大手化学系企業の所長だという人物。確かに建築現場でバイトしていたような人間ならば「ネジ」というものに対する拘りも生まれるかも。だが、10歳=小学校4年生で自分の意志で教育システムを否定など常識的にはかんがえられない。確かに親が大学教授で小学校に行かない教育をしたことは考え得る。しかし、それがネジのイノベーションに繫がるだろうか?エジソンの発明は電球だ。世界を明るくしたいとの欲求があったのは理解できる。しかし、大学教授を親にもつ人間の指向性が「緩まないネジ」。私はちょっと理解できない。

NejiLawは「L/R」を主力とするネジメーカーらしい。とにかくネジ。経歴も何とでも言える。小学校中退?は本当でも、それに替わる明確なビジョンなど無かった可能性は高い。でなければ、大学教授の息子が鳶職や漁師を経験する意味がない。グレて?不登校だったのが、結果として帳尻合ったなんて好い加減だと部下にも格好つかないし、取引先への信用もない。計画的な中退だったとしたい背景がリアルにあるのだろう。仲間がイメージ戦略してるに違いない。


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江戸の隠居

2014-08-31 21:31:36 | 日記
江戸時代の隠居は家に引きこもるのではなく、家督を譲って自分は好きに活動したそうだ。

むしろ、組織的な束縛から解放されて自由に生き生きと活動したのだろう。それに較べると70歳や80歳になっても組織の頭を退かずに、付き合う相手も組織を介して対話するご老体は現代日本に特有だと思っていいのだろうか…
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言語道具説というもの

2014-08-31 05:21:56 | 日記
「言語道具説批判」なるブログを拝読しました。

私も昔、三浦つとむの本あたりで「言語道具説」なる言葉を読んだ憶えがあります。ただ、「「言語は道具だ。道具のようなものだ。」と言われれば、確かにそんな面もありますから別に違和感は感じません。それで、そのブログでは名古屋大学の町田健さんを「言語道具説批判」」として批判しているのですが、その町田さんの見解が正しいか否かはともかくも、どうしてそれが「言語道具説」なのか不明でした。

そんなわけで、あらためて「言語道具説」というものを調べてみましたら、立命館大学元教授(現在は名誉教授でしょうか?)の山口幸二さんの「分裂する「言語観」」という論文を見つけました。それによると、言語道具説というのは言語を単に思想を伝えるだけの道具だと考えるもののようです。その言語道具説に対立するのが「言語と思想とが一体となった言語観」だといいます。

つまり、言語というのは思想を伝える道具ではあるが、思想を形成する道具では無いのだよ、というのが「言語道具説」だというわけです。そういえば、前にいましたね。「俺は見事な認識を有しているけれど、それを伝える言葉を知らない」なんて言う人が。ま、そういう人は形の上では「言語道具主義者」ということになるのでしょう。もっとも、人間の言語表現は複雑ですから、「俺は言葉を知らない」というのが「お前の力を借りたい」という意志表示である場合もありますが、「中身は充実してるのだけど」という前置きを許すか否かは相手次第でしょう。

そんなわけで、「言語道具説」が批判される身近な事例は「外国語の早期教育」なのでしょう。幼少期から英語を学ぶ、英語を使って考えることは、日本文化でない英米の思想を身に付けることなのでしょうから。二人称が「キミ」「お前」「あなた(貴方、貴女)」「貴様」「テメエ」「貴殿」「お宅」「其方(そち)」etc.と多様にある身分制?階級社会?の多様な人間関係を表現する文化と、すべて「You」で構わない?文化とでは結構ちがうでしょうから。

「言語道具説」というのが問題になりやすいのは「ナショナリズムか国際化か?」というあたりのようです。

そう見てみると、町田さんの見解は正否はともかくも「言語道具説」とは反対の「日本語で思想形成したなら、こうなるはずだ」という言語と思想の一体化説だと思いました。

そういえば三浦つとむには『現代言語学批判』という編著がありましたっけ。このブログ主はそれを模倣して声高に批判してみたかったのかも知れません。それで「言語道具説批判」という既製のパッケージと、何か批判し得るように感じた町田さんの本を不整合に連結してみたのかも知れません。けれど、どちらかと言えば町田さんの見解は「絶対化された「言語と思想の一体化説」」であって、言語の伝達道具としての使用からくる意味の拡張という現実を上手に扱えていないということかも知れません。それは「言語と思想の一体化説」からの「言語道具説」批判とは反対の、「言語道具説」からの「言語と思想の一体化説」批判という「広義の言語過程説」における弁証法的な論理展開ではないかと見取図化してみたりしますけれども。
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ベートーヴェンの難聴

2014-08-30 10:14:02 | 日記
昔の知り合いがブログでベートーヴェンの難聴について取り上げていた。そこからは色々なことが読み取れるのだが、ベートーヴェンの難聴について私も調べてみた。

もとより人間が書く文章は様々な意図を伝えるものであるから、知人がベートーヴェンについて書いたとて何ら科学的な根拠に基づいたものとは限らぬし、むしろ何らかの寓意・象徴・比喩などを語った場合も少なくない。それが人間というものであるし、人間の書いた文章だからだ。

それを承知で敢えてベートーヴェンの難聴に対する科学的な推察を調べてみると、関西医科大学法医学講座のサイトに「ベートーヴェンの遺体鑑定」という記事があった。ベートーヴェン自身が自分の遺体を解剖して難聴の原因を明らかにすることを望んでいたという話しだが、近年の研究でベートーヴェンが鉛中毒であったことが明らかになっているらしい。そして当時のワインの添加物として鉛が含まれていたそうだ。だが、鉛中毒と難聴とが結びつく事例は少ないらしく、それが原因だとは断定されていないようだ。

また、「耳硬化症」であったという話もあるが、それは症状・発症年齢・民族性などを総合的に判断して「耳硬化症」と診断したものだろう。耳硬化症というのは30歳前に発症し、遺伝的要因が高いというから、ベートーヴェンの発症年齢とは一致するが、果たして彼が耳硬化症の遺伝子を持っていたかどうかは今後の研究課題だという。

いずれにしても、ベートーヴェンの難聴の原因は残された遺体の科学的研究に依っているということで、その科学的な方法による知見が妥当なものかを論じるのが「認識論」だろう。

逆に「病気というのは食生活から生じる」との命題(一般論)から答えを導こうとするならば、それはアリストテレスの形而上学に基づいて思考する中世僧侶の如きだという意味で「形而上学的」と呼ばれるべきものであり、認識論の対象となるガリレオなどの近世科学的認識とは区別されるものだろう。

人が神の存在を信じているとか誰かを尊敬しているということは、当人にとっての心的事実であり行動原理になっている。それを問い論じるのが心理学だ。
そして、科学的認識というものは「親父の遺言」だとか「家訓」だとか「殉じる」といったそれ自体は大切な人間の心・心理を尊ぶ気持ちとは分別されるところの、人間生活を豊かにしてきた原動力なのである。

従って、認識学と心理学の区別もつかずに「頭の中の像として同一」などとしている理論は学術的には後退であり偽物であり、認識学の心理学への解消であり、無価値である。歴史の歯車に押しつぶされた徒花というものだろう。

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