南○氏の『無道哲学抗議』には次のような記載がある。
「読者の方々は、有名な、あまりにも有名な「ゼノンの詭弁」という言葉くらいは知っているはずである。弁証法なるものの誕生の大本は、そのゼノンと彼の師であるパルメニデスの凄まじい、やがて哲学となっていく彼等の学問力のお蔭なのである。
私は、「ゼノンの詭弁」なる文言には、気分が悪くなるくらいの嫌悪感がある。これは学問的レベル、弁証法的レベル、論理学的レベル、認識論的レベルのどれからも、詭弁などといわゆる詭弁を弄すべきではない。学的には正しくは「ゼノンの絶対矛盾」と正当に訂正すべきである。
ここで、この「ゼノンの詭弁」なる言葉は、ゼノンの提示した問題を理論的すなわち弁証法的に説く実力がなかった学者(と称する御仁)がくやしまぎれに言い放った迷言だと、読者の方々は思ってよい。理由は簡単である。ヘーゲル曰く「カントの二律背反は彼の独創ではない。これはゼノンがとっくに成しとげていたことの復元である」との内容の文言を『哲学史』で、はっきり述べているように!だからである。」(第1巻、p40)
「ソクラテスが自分の学問としての実力が大してない若い時代に、ゼノンは嘘つきだといいふらした(田中美知太郎訳『プラトン全集4 パルメニデス』岩波書店)だけに、その後の人はゼノンを詭弁者として評価しがちであるが、これも大きな誤謬である。私は「ゼノンの詭弁」ではなく「ゼノンの絶対矛盾」と概念化していることを念のため付記しておく。
ゼノンの問答を検討すればすぐに分かる通り、彼は実に見事な弁証(の方)法の大家であった。それが証拠に、学問をしっかりと確立できた、たった二人の大哲学者であるアリストテレスとヘーゲルは、このゼノンをまともに凄いと評価しているからである。
では、どうしてもう一人の凄い実力を持ったはずのカントは、ゼノンの実力をそれほどに評価していないのか、との疑問が諸氏に浮かんでくるはずである。ちなみにカントのゼノンに関する評価は、以下だけである。
「偉大な悟性と明察の人として、また精緻な弁証論者として卓越していた。」(湯浅正彦訳『カント全集17』「論理学」の項)
これには、しっかりとした理由があるのである。『哲学史』にヘーゲルがきちんと説いているにもかかわらず、他の学者がなぜそれを論じないのか理由はわからないのであるが、カントの二律背反(『純粋理性批判』)の論理の最初の論者は、びっくりすることに、このゼノンその人なのである。
そこに関して、ヘーゲルの説いている言葉に聞き入ることにしよう。ゼノンに関して、ヘーゲルはその著書である『哲学史』(上巻)で次のように説いている。
ゼノンの特性は、弁証法にある。弁証法は実にゼノンに始まる。
ゼノンの物質の弁証法は、今日に至るまで反駁されていない。我々はまだ、それを超克しておらず、問題は未決のままに残されている。
以上がゼノンの弁証法である。彼は空間と時間についての我々の観念が持つ諸規定について意識を持ち、それらの矛盾を指摘した。カントの二律背反は、ゼノンがここですでにやったもの以上の何ものでもない。」(第2巻、p234〜236)
私が思うに、この○郷氏は錯覚ないし誤解をしている。確かにゼノンのパラドックスとカントの二律背反とは類似のものだろう。だが、その類似の論証を、より大きな全体で如何なる論旨で語ったかが丸で違う。違うというより寧ろ対立関係だ。
ゼノンはパルメニデスの「現実世界よりも理性が正しい」とした思想を継承して「飛ぶ矢は止まる」とか「アキレスは亀に追いつけない」といったイワユル論証をした。その背後には「理性の尊重と感覚・知覚の蔑視」があった。それがプラトンのイデアと二世界説に繋がった。
それに対してカントが『純粋理性批判』で述べたのは、つまり二律背反の論証で示したのは、純粋理性じゃ駄目だよ、感覚・知覚からの情報を使わないと誤謬に陥るよ、ということ。端的にそれを示すのが、『純粋理性批判』の最初のページに提示されたフランシス・ベーコンの『大革新』の文句だ。カントも『純粋理性批判』で感覚・知覚からの帰納法を強く主張したのであって、それは「目の前の現象は嘘だ」としたゼノンとは全くの逆なのだ。その意味では、ゼノンが追っていたのは「信仰」で、カントが追っていたのは「真理」だったとも言えるのだろう。
だから端的に説くならば、カントは『純粋理性批判』で「ゼノンは駄目だよ」と述べているのだ。
だが、そんなことは「カントにとっての二律背反とは?」と問うならば、遅かれ早かれ到達しそうなものだけれど、南○氏は『無道哲学抗議』第2巻、p178で「カントの「二律背反」と「物自体論」とは何か」と見出しをつけながら、それに関して何も論じてはいない。
それもそのはず、○郷氏の「事実は嘘をつく」との発想はパルメニデスやゼノンの理性の絶対視と同類なのだから。