弁証法と哲学

思索を綴ってまいります・・・・

徳倫理学

2014-10-03 21:09:41 | 日記
国立の一橋大学で行われる倫理学会に来た。

今帰りの電車。

加藤先生の「徳倫理学の総覧」を検討しよう。

それにしても私が適当に書いているものが専門家の先生に読まれてしまっているのはドキっとした。

古牧先生からは専門職養成大学における隣接分野連携教育ということを教わった。土橋先生のようにギリシャ哲学を専攻してから現代倫理をやるのも魅力的だ。児玉先生の話を聞いてピーター・シンガーを読んでみたくなった。立花先生の話からはニコマコス倫理学も興味を惹かれた。
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マルクスの専門家否定論

2014-10-02 05:06:59 | 日記
看護論と直接は関係ないのだが、ちょっと思いついたので滝村隆一の『世紀末「時代」を読む』を再読した。

その「専門家否定」の件はp145〜の「2 思想・理論としてのマルクス主義について」に説かれていた。

「滝村 だから、やっぱり思弁ですよ、頭でつくっている。」(p153)

「芹沢 ところが、逆にこんどは個人がスーパーマンになっちゃう。社会的本質が個人に投与される。なにが欠けているんだろう、やはり制度論?
滝村 ええ、そうおもいます。これをみると、その実体的な制度的構成の枠組みが最初からはっきりしない。…」(p154)
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生活科学

2014-09-30 22:02:47 | 日記
S先生に教えてもらったナイチンゲール研究学会に参加すべくK先生に言われたとおりの手続きをしたらW先生から案内が送られてきた。

とても興味深い講演ばかりだが、特にOさんの講演に注目した。キーワードは「生活科学」。だが、私はこの「生活科学」という分野を良く知らない。それでも何とか予習しておこうと調べたら、朝倉書店から「朝倉生活科学シリーズ」というのが出版されているそうだ。

「朝倉生活科学シリーズ」は何冊も出ているが、大きく分けると「食物学」「衣服学」「住居学」「児童学」そして全体を取り纏める?「生活管理学」となるようだ。

この「生活科学」というのは大学ナビを見ると「家政学・生活科学」とセットにして扱われており、また世の中には「家政婦・看護師紹介所」なるものがあって家政婦と看護師とが同一に扱われているようだ。

歴史的にも看護というのは主婦や家政婦の仕事として生じてきたのだし、なんらかの必然性があると言えるのだろうか?大学の生活科学部を卒業して管理栄養士になるなんてのは「生活科学」の中でも「食物学」を特に専門的に学習したということになるのだろうが、実際に病院で病院食の管理をしている管理栄養士は患者と接する看護師とは実存的に違う個人であるし、違った分業、違った専門職だ。

それで想起したが滝村隆一の『世紀末「時代」を読む』という本に「専門家の否定」なる発言があった。どんな文脈だったか再読してみないと思い出せないが、感覚・知覚情報を廃した「人間」なる抽象概念で考えたマルクスの誤謬といった文脈だったのではなかろうか?正に純粋理性で考える●郷氏と同様の過ちだったのだろう。

これが行き過ぎると一者・一つの専門職の全能性に思考が向かい、異なる専門職によるチーム医療の否定、ないしは社会全体の分業化の否定までも発展する発想なのかどうか…?

とすると、やはり看護大学における生活科学教育というのは、英語や体育と同じく「教養科目」ということになり、異なる専門性のカリキュラムと言えるのだろうか?当日まで少し考察してみる。

【追記】
聞くところによると、滝村隆一の『世紀末「時代」を読む』を●郷氏は「ズッコケた!」と評したらしいのだが、果たしてズッコケたのは誰だったのか…?関ジャニ∞の少し昔の歌に「ズッコケ男道」というのがあったが、ズッコケることこそが男たるものとの境地に南●氏も到達していたかは定かではない。
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月の使者

2014-09-30 12:51:45 | 日記
月の使者とやらの過ちは、組織的活動というものを一切関知していないところ。

自○●とという輩が愚●亭○に一端は入門したものの、事実上破門になったということは、その団体・組織では受け入れがたい性質があったということだ。

それは組織の最高責任者の下した判断であるのだから、たとえ自●○とが一般社会的には問題ない人間であろうとも、その団体にとっては不利益を被らせるのだと組織的判断が下ったものを「話せば解る」との個人的判断で勇み足を踏むことが結果として組織に損害を与える危険性を想定できなかった。

「話せば解る」・・・・善意ではあってもこれほど盲目の判断はなく、現に相手は想定した通りの「誠実な人間」などではなく、軽口ばかりが得意な不誠実な対応に終始したではないか。

それもこれも、相手の人間性云々の問題ではなく、ネットにおける文字の羅列で解決できるかに錯覚した現代社会のインスタントな発想の帰結でしかなかった・・・・。
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キツネとタヌキの化かし合い

2014-09-30 06:46:29 | 日記
実際の相手を知らず、ネット上で言葉のやりとりだけをしていると相手の実年齢が疑わしく思えるときも少なくはない。

たとえば談●サロンと銘打った掲示板があるとして、そこへの投稿を拒否されたからといって「談●という名前がついているなら対話させろ」とか「本当にオープンな掲示板なら」などと屁理屈をこねて相手が自分の意図どおりに行動せねばならぬ何らかの外的な規範があるやに思っている人間だ。通常、公共機関でもないかぎり運営上の判断は運営者自身に委ねられているのが自律した人間の組織であるし、ましてや「サロン」ともなれば「ホストが招いた客をもてなす場」だ。そこで入場を拒否されて退場を命じられたなら自分が「招かれざる客」であることを普通の大人ならば悟るものだ。それでもそこに投稿して掲載されることを望むならば「招かれざる客」から「望まれた客」に自分が変わらねばならない。

大体、それらの集団は最近とくにネット上で他者への非難を連発しはじめた。聞くところによると御大である南●氏から「ケンカしなくちゃ駄目だ」と指令が出されたのだという。マザコン集団である彼らにとって、統括者からのケンカ指令が出されたことは安心して誹謗中傷できるから嬉々として中傷しているようだが、実に愚かなことだ。

月の使者なる人物も分けの判らぬ論陣を張っているが、そもそも愚●亭●氏は玄●の5〜6段なのだろうから、●郷氏の携帯ナンバーくらい知っていて用があるなら直接連絡とっているだろう。道場や大会に出かけていかねば師と会えぬなど初、弐段クラスならまだしも高段者なら有り得ない。もちろん普通の武道団体であるなら、ばだが…。

第一、愚●亭●氏は●郷氏を批判しているかに見せかけながら、彼が言ってる「絶対真理」とは間違いなく南●氏の見解のことだ。「弁証法は運動の法則」だとか「学問というものは、現実の世界の歴史性、体系性を観念的な論理性として体系化すること」だとかの発言には具体性、個別性が丸でない。「学問って一体何だい?物理学かい?経済学かい?それとも心理学?」と普通は考える。だが南●氏の見解にはそれが無い。専門とする対象・事象と正面から向き合って追究していく姿勢は微塵もなく、すべてには「普遍性と特殊性があり、私はその普遍性を語るから、個別科学は特殊性を語りなさい」とでもいった「正に純粋理性に近い思考」、それが愚●亭●氏の言う「絶対真理」だ。

では何故に亭●氏は●郷氏を批判しているかの発言をしているかと言えば、南●氏に批判的な人間を取り込むためだろう。ニンジン嫌いの子供にニンジンを食べさせるためにハンバーグに姿を変えて食卓に出すように、南●氏に批判的な人間に●郷理論を食わせるためだろう。しかし、その南●学派批判の実体は●郷氏の学一般とやらへの賛歌でしかない。
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