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長野御嶽、再び牙むき困惑 35年前の噴火、山小屋廃業
噴火による死者が戦後最悪の五十四人に達した御嶽山は、一九七九(昭和五十四)年に同規模の水蒸気爆発があった。当時、大正時代から三代続く山頂の山小屋を家族で経営していた木曽町の栩山(とちやま)和敏さん(61)は、噴火で廃業に追い込まれた。生活の糧であり、「ずっと一緒に生きてきた」という御嶽山。再び牙をむいた山に困惑を隠せない。 今回の噴火で、多くの犠牲者が発見された山頂付近にある「御嶽頂上山荘」。その場所にかつて、栩山さんの父要さん(故人)が営む「頂上栩山小屋」があった。三十五年前の十月二十八日早朝、御嶽山は有史以来、初めての噴火。栩山さんは慌てて玄関から飛び出し、噴き上がる白い煙を写真に収めた。噴煙は一カ月以上、上がり続け、火山灰は関東地方まで飛散したとされる。 栩山さんは発生十日後から三回ほど、麓の旧三岳村(現木曽町)の調査や小屋の補修で山頂へ登った。屋根には六十センチほど灰が積もり、噴石で無数の穴が開いている。灰は雨が乾いて固くなり、ツルハシで砕いた。「二、三回振り下ろすと、息が切れてしまって」。空気の薄さと火山ガスで体力を奪われた。 当時はシーズンオフで死者は出なかったが、今回の噴火は折からの登山ブームに紅葉シーズンの土曜日、登山者が山頂に集まる昼時と、不運が重なった。行方不明者の捜索をテレビで見た栩山さんは「噴火後の様子は似ているが、あまりにも状況が違いすぎる」。 三十五年前、八合目以上の入山規制が解除されたのは一年八カ月後だった。「改修してもお客さんが戻って来るか、父は相当悩んだと思う」。栩山さんにとっても、幼いころに宿題を持って山小屋に登り、夏休みをそこで過ごした御嶽山は「庭みたいなもの」。跡を継ぐつもりだったが、曽祖父から三代続いた山小屋は廃業を余儀なくされた。 そして今、麓から七合目まで登山者を運ぶ「御岳ロープウェイ」の運営会社役員を務める栩山さんもまた、当時の父と同じように苦境に立たされている。行方不明者の捜索が続く中、山頂から四キロの警戒区域内にあるロープウエーは運転を休止し、降り続く灰の洗浄作業を続けるが、再開の見通しは立たない。 火山灰はいずれ、雨や雪で流されるだろう。だが、多くの犠牲者をのみ込んだ山に登山者が戻ってくるのか。「今はまだ想像ができない。何万年に一度と思っていた噴火が、三十五年に一度になってしまった」。当時の写真をとじたアルバムを手に、目を伏せた。 (斎藤雄介) PR情報
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