日本のロック&フォーク(J.K.暖簾)

「一番良く回ったお皿はこれだ!」日本のロック&フォーク編

70年代、日本のロック&フォークも良く聞きました。今も聴き続けている究極の10枚です。


 日本のロックのアルバムを初めて手に入れたのは、7248日の『はっぴいえんど/はっぴいえんど』だった。このアルバムで、洋楽に負けない日本のロックがあることを知った。しかし、当時は、まだまだ英米のロックが魅力を放っていた時代だったので、はっぴいえんどもそれらのうちの1枚にすぎなかった。その後、73年には、あがた森魚やジャックスに魅せられ、75年には、カルメン・マキ、ユーミン、シュガー・ベイブ、雪村いづみと、この年には、英米ロックよりも日本のロックがターン・テーブルに乗る機会が多くなった。この75年~77年当たりが一番日本のロックを聴いた時期だ。20代前半の多感な年代でもあった。

 今回の日本のロック&フォーク編は、目をつぶったまま迷わずこの10枚を選ぶことができた。それほど、愛着のある10枚だ。本誌でも何度か取り上げてきたお気に入りのお皿たちで、新鮮味に欠ける選盤になってしまったかもしれない。本来なら、この10枚に入るべきアルバムとして、『乙女の儚夢/あがた森魚』(72年9月リリース)と『ひこうき雲/荒井由実』(73年リリース)が挙げられるが、1アーティスト1枚の原則を守るため、涙をのんでリストから外すことにした。

他にも涙をのんで外したのは、小坂一也、ゴールデン・カップス、小坂忠、赤い鳥、友部正人、シュガーベイブ、りんけんバンド、ネーネーズ、喜納昌吉とチャンプルーズ、チカ・ブーン、ビギンetc

 カルメン・マキは、69年に「時には母のない子のように」でデヴューし、いきなりオリコン・チャートで第2位の大ヒットを記録する。一躍、時代のヒロインとなるが、ジャニス・ジョプリンの歌に出逢い、スターの座を捨ててロック・シンガーを目指す。当時は、ロック・バンドで食っていけるような状況ではなかったが、マキは自ら苦難の道を選択し、5年の下積みを経て、75年2月に『カルメン・マキ&OZ/カルメン・マキ&OZ』をリリース、当時の日本のロック・アルバムとしては前例のない10万枚のセールスを記録、日本のロックの草分け的存在となった。因みに、はちみつぱいもアルバム1枚つくっただけで、生活のために解散している。ジャックスの早川義夫は、引退して本屋になっている。

 ここに選んだアルバムのほとんどが、70年代前・中期にリリースされたものであり、日本のロックのパイオニア的存在といえる。これらのアルバムにリアルタイムに接することができたことは、至上の喜びである。

 

『はっぴいえんど/はっぴいえんど』(70年8月リリース、72年4月8日購入) 

P9060013.JPGのサムネール画像70年代のはじめ、洋楽一辺倒だった僕は、邦楽を1ランク下に見ており、聴くに値しないと思っていた。そんな僕の横っ面をひっぱたいたのが、はっぴいえんどだった。はじめて『ゆでめん』(『はっぴいえんど/はっぴいえんど』の通称)を聴いた時、その演奏力の高さに驚いた。これは、洋楽に負けていないと思った。ただ、とても暗いアルバムだなとも感じた。それは、サウンドもさることながら、松本隆が描く英語的な発音のいびつな詩世界によるところが大きかった。『ゆでめん』は、僕が初めて手に入れた日本のロック・アルバムだった。

アルバムの完成度では、『風街ろまん』に譲るかもしれないが、この『ゆでめん』はよくターンテーブルに乗った。先ほども書いたように、洋楽ロックとはじめて肩を並べた日本のロックという意味で、僕にとっては重要なアルバムである。アルバムのベスト・トラックは、「12月の雨の日」鈴木茂のギターが最高にカッコイイ。

ちなみに、本誌のタイトル"はっぴいびぎにんぐ"は、このアルバムの中の「はっぴいえんど」の歌詞♪でも しあわせなんて どう終わるかじゃない どう始めるかだぜ...♪というフレーズから、引用させていただいた。2番の歌詞もカッコイイ♪でも しあわせなんて 何を持ってるかじゃない 何を欲しがるかだぜ...♪松本隆のディラン的な詩である。

 

『ジャックスの世界/ジャックス』(68年9月リリース、73年4月15日購入) 

P9060011.JPG 『ゆでめん』より数10倍も暗かったのが、ジャックスだ。ジャックスとの出逢いの記憶は不鮮明だが、はじめて「からっぽの世界」を聴いた時の衝撃は、今でも忘れられない。まるで底なしの井戸に突き落とされたような恐怖感を煽るナンバーだ。当時、放送禁止になったかどうかはわからないが、今、聴いてもとても差別的で不道徳な歌詞で、間違いなく放送禁止になるだろう危険なナンバーだ。早川義夫が18歳の時に書いた作品だ。「ラブ・ジェネレーション」は、岡林信康がカヴァーし、アルバム『見る前に跳べ』のテーマ・ソング的存在となっている。

ジャックスは、アマチュアのようなサウンドと音のずれたヴォーカル、そして、心に突き刺さる鋭い歌詞が、当時のGSにはない独特の存在感を持っており、彼らを唯一無二の存在にしていた。

 早川義夫が描く暗い情念の世界と「時計をとめて」(水橋春夫作品)などの大甘のラブ・ソングとのコントラストも魅力だった。

 

『噫無情/あがた森魚』(74年3月リリース、74年9月8日購入)

P9060012.JPG はっぴいえんどと共に、最も初期に惹かれた日本のロックは、あがた森魚だった。もっともあがたのデヴューは、「赤色エレジー」の大ヒットによるフォーク・シンガーとしての登場だった。僕は、73年の4月に『乙女の儚夢』を購入し、その大正ロマンティシズムに魅せられた。

1年後にリリースされた『噫無情』が、その完成型だ。プロデュースは、はっぴいえんど解散後の松本隆。このアルバムは、緑魔子をヒロインにしたキネマを模したコンセプト・アルバムであり、1本のキネマのように物語が進行していく。

このアルバムには、キラ星のように素敵な作品がちりばめられている。ヴァイオリンの切ない音色に導かれて登場する「星のふる郷」は、星言葉(花言葉のような)が、ちりばめられたロマンティックは作品だ。

緑魔子のセリフからスタートする「最后のダンス・ステップ」は、日本が戦争に突入していく時代に"贅沢は敵"とパーマネントが禁止され、ダンスホールは閉鎖される。もうすぐ外地へ出征する恋人と最后のダンスを踊る18歳の少女の切ない心情が描かれている。

そして、アルバムのベスト・トラックは、ムーンライダースの鈴木博文が作詞作曲した「大寒町」。♪Oh、some March in...♪。涙なしには聴けない永遠の名曲で、アルバムは幕を閉じる。

 

『センチメンタル通り/はちみつぱい』(73年11月リリース、74年10月20日購入) 

P9060017.JPG ♪空はまだ群青色の朝...♪このフレーズが聴こえてくると、切なさがこみ上げてくる。傷口をえぐるような行為に身を震わせた日々、「自傷行為」以外の何ものでもなかった。同時に「自慰行為」でもあった。僕は、あがたの酔いどれ巡査のように、このアルバムに心酔し、そして溺れた。

 日本のロック史上、最強のワンツーパンチは、「塀の上で」「土手の向こうに」で決まりだ。これを超えるものはあり得ないと断言しよう。日本版ザ・バンド・サウンドに乗せて歌われる切ないロスト・ラヴは、土手の向こうに打ち捨ててしまおう。

 タイトル・ナンバーの「センチメンタル通り」も、煌びやかで魅力的な作品だ。しかし、慶一の作品に混じって登場する渡辺勝作品のラブ・ソングやかしぶち哲郎のほのぼのとした作品がアルバムにアクセントを添えている。バンドのカラーといえる音は、武川雅寛のセンチメンタル・フィドルだが、「夜は静か 通り静か」での、駒沢裕城のペダル・スティール・ギターもとても素敵だ。

 

『カルメン・マキ&OZ/カルメン・マキ&OZ』(75年2月リリース、75年2月20日購入) 

P9060015.JPG 日本でロック・シンガーと呼べる女性は何人いるだろう。ここに紹介するカルメン・マキこそ本物中の本物のロック・シンガーだ。

 しかし、一般的には、「時には母のない子のように」や「山羊にひかれて」のヒットにより、フォーク・シンガーとしてイメージが強い。だから、このアルバムを初めて聴いた時には、本当にぶっ飛んだものだ。日本にもこんな凄いシンガーがいるのか、まるでジャニス・ジョプリンのようだと。春日博文のギターを中心とするハードなバンド・サウンドとのアンサブルも抜群で、日本のロック史上に輝く名盤の1枚といえる出来栄えだ。圧巻は、「私は風」、静と動のコントラストが見事な組曲風の作品で、まるでマキを体現するようなナンバーだ。小学6年の寺田恵子(SHOW_YA)の人生を変えた曲でもある。♪アー 私を抱いて 気のすむように♪なんて歌ってたんだって、小学6年生が。

 

『MISSLIM/YUMI ARAI』(74年リリース、75年3月3日購入) 

P9060019.JPG イントロの軽やかなギターの音色と♪いつものあいさつなら どうぞしないで...♪という出だしのフレーズで、ヴァージン・ボーイはイチコロだった。ゴキブリホイホイに捕まったゴキブリのように、この少女の魅力に囚われて身動きできなくなってしまった。ボーイは、グランド・ピアノに寄り添ってアンニュイな表情を浮かべる少女に恋してしまった。キャラメル・ママによる完成度の高いサウンド、シュガー・ベイブ・吉田美奈子の珠玉のバック・ヴォーカルはもちろんだが、それ以上にナイーブな少女の心情を綴った詩世界の虜になってしまった。この軽やかなサウンドと突き放すような歌詩は、それまでの邦楽になかったものだ。まさに天才少女ユーミン登場、そして、当時の才能あるミュージシャンが全面バック・アップしたエポック・メイキングなアルバムだった。このころのユーミンは、作り物でなく本物だった。同級生というのにも親近感を感じたが、同時に同級生なのにピアノを弾くシンガー・ソングライターということで、畏敬の念を抱いた記憶がある。そして、僕とユーミン日々がはじまった。

後追いのデヴュー・アルバム『ひこうき雲』も『ミスリム』に匹敵するユーミンの瑞々しい私小説的名作だった。そして、75年の紀伊国屋ホールでのハイ・ファイ・セットとのジョイント・コンサートに連日上京し、初めて実物を拝顔することになるが、ここまでが絶頂期だった。

『コバルト・アワー』は、「雨のスティション」などの魅了的なナンバーもあるがまあまあの出来、『14番目の月』に至っては、全く魅力を感じなかった。それでも、ユーミンが結婚した時には、ショックを受けた。しかし、松任谷と姓を変えた時には、正直ガッカリした。そして、松任谷になってからのアルバムはほとんど聴かなくなってしまった。

けれども、『ミスリム』の魅力は、少しも色褪せない。このアルバムを開く度に、少年が恋した少女が現れて歌う♪たぶんあなたはむかえに来ない...♪でも♪たそがれどき ひとりかけるレコード♪でもいい、金太郎飴じゃないけれども、どこをきっても美味しいのだ。アルバムの全てのトラックが、ベスト・トラックなんて、古今東西『ミスリム』以外に見当たらない。

 

『スーパー・ジェネレーション/雪村いづみ』(74年リリース、75年5月25日購入) 

P9060016.JPG 70年代の半ばに入ると英米のロックのパワーが薄れてきて、日本のロックの魅力に惹かれるようになってくる。なかでも、はっぴいえんど→キャラメル・ママ→ティン・パン・アレイと変化していくバンドが関わった音楽に魅力を感じていた。このアルバムもキャラメル・ママが加わっていることから興味を持った。

アルバムに収められた作品は、主に1940年代にヒットした作品だが、60年も経った今聴いても全然古さを感じさせない、それどころか、とてもモダンに聴こえてくるから不思議だ。まさに服部マジックというべきか、世紀を超えた名曲群だ。

「雪村いづみ+服部良一+キャラメル・ママ」三者のコラボレイションが、素敵な作品集を僕たちにプレゼントしてくれた。このアルバムは、昭和の初期から活躍してきた服部のモダンなセンスと昭和20年代から三人娘のひとりとして活躍しているいづみのバタ臭い唱法による珠玉のラヴソング集でもある。「胸の振子」などは、今でも通用する素敵なナンバーだ。ディランの「コーヒーのもう一杯」に匹敵する名曲「一杯のコーヒーから」は、何と戦前(38年)の作品、オリジナルは、霧島昇とミス・コロンビア。そして、超名曲の「蘇州夜曲」は、永い間、中国の曲と思っていた蘇州の風景が目に浮ぶような作品だ。

 

『火の玉ボーイ/鈴木慶一とムーンライダース』(76年4月リリース、76年2月22日購入) 

P9060018.JPG このアルバムの第一印象は、あまり芳しくなかった。その要因は、『センチメンタル通り/はちみつぱい』の路線を期待していたのを見事に裏切られたからだ。ザ・バンドのような重く気だるいサウンドを期待していたのに、妙に垢抜けておしゃれになっていたのに馴染めなかったのだ。でも「あの娘のラブレター」や「スカンピン」などの素敵なナンバーをお目当てに聴いているうちに、アルバム全体に愛着を感じるようになったというのが実情だ。

 このアルバムは、当初、慶一のソロ・アルバムとして企画されただけあって、慶一色が濃厚なアルバムに仕上がっている。バックは、ムーンライダースだけでなく、ラスト・ショーやティン・パン・アレイなどの腕利きのバンドがバック・アップしている。それにしても「スカンピン」は、ムーンライダース一世一代の名演といえるナンバーで、彼らのベスト・トラックのひとつに挙げられるだろう。このナンバーに限っては、はちみつぱいを彷彿とさせる。ティン・パン・アレイをバックに歌う「火の玉ボーイ」でのいかすギターは、徳武弘文(ラスト・ショー)だ。アナログでは、次の「午後のレディ」までがA面でCity Boy Sideとなっていた。当時はB面のHarbour Boy Sideのオシャレさに違和感を持っていた。今、改めて、B面を聴いてみると、当時は気づかなかった魅力を発見できる。「地中海地方の天気予報」なんて、とてもオシャレでカッコいい。矢野顕子のピアノ、コーラスもとても素敵だ。武川のフィドルをフューチャーした「ウエディング・ソング」は、岡田徹作のラブ・ソングだが、「あの娘のラブレター」も岡田作品であり、このアルバムでの岡田の貢献度は高い。

このアルバムは、大人の鑑賞に堪えうる作品といえるのではないだろうか。

 ムーンライダースというバンドは、捉えどころのないバンドだ。アルバムごとにころころとサウンドを変えるし、出来不出来も激しい。(好き嫌いと言った方が正しいかも)このアルバムと同じくらいに良く聴いたのが『イスタンブール・マンボ』だ。実は、どちらにしようか最期まで迷った。こちらも魅了的なアルバムで一聴をお勧めする。

 

『わたしを断罪せよ/岡林信康』(69年8月リリース) 

P9060010.JPG最初に魅力を感じた邦楽は、GSだったが、次にはフォークの洗礼も若干受けている。高石友也や岡林、五つの赤い風船などが、いやでも耳に入ってくる時代だった。なかでも、岡林のカッコ良さは格別だった。体制や権力に対する反抗姿勢には、共感を禁じ得なかった。岡林はアルバムよりもシングルで聴く機会が多かった。日本のディランと呼ばれていたように、プロテスト・シンガーとしてイメージが強かった。しかし、このイメージに押し潰された時期もあったようだ。このデヴュー・アルバムは、フォークからロックへの移行期を捉えた岡林版『アナザー・サイド・オブ・岡林信康』だ。それは、表ジャケでアコースティック・ギターを裏ジャケでエレクトリック・ギターを抱えた岡林の絵が如実に物語っている。

 アルバムのトップを飾る「今日をこえて」は、岡林版「マイ・バック・ページ」といったところだろうか。そして、「それで自由になったのかい」は、「ライク・ア・ローリング・ストーン」か。それにしても、岡林の存在は刺激的だった。「くそくらえ節」や「ガイコツの歌」などの痛烈な社会批判や「手紙」や「チューリップのアップリケ」での被差別部落問題への姿勢、出稼ぎ労働を歌った「お父帰れや」、日雇い労働を歌った「山谷ブルース」「流れ者」、反戦歌の「モズが枯れ木で」など、少年の正義感に火を点けるような作品の宝庫だった。もっとも感情移入した作品のひとつが「お父帰れや」だった。この曲で、人生の虚しさを学んだし、反抗的な精神を育んだのかもしれない。岡林って罪な奴だ。70年安保のテーマ・ソングとなった「友よ」は、今となっては労働運動への鎮魂歌に聴こえてしまう。

 このアルバムは、デヴュー・アルバムにして、そんな岡林の魅力が詰まったアルバムといえるだろう。翌年には、"ニュー・ミュージック・マガジン"選出の日本のロック・アルバムのベスト・アルバム賞を受賞している。(その翌年には、『はっぴいえんど/はっぴいえんど』が受賞)

 余談だが、高校2年の文化祭でクラスの出し物として、「百姓一揆」をテーマにした仮装行列を行い、岡林の「私たちの望むものは」をBGMに使ったことを思い出した。胸が痛む思い出だ。珍しくクラスに貢献する予定だったが、見事に不発だった。

 

MERCYSANDII』(90年12月リリース) 

P9060014.JPG 70年代後半から魅力を失った英米のロックは、長期低迷期に入っていた。80年代の音楽を聴かずに過ごした僕は、90年代のワールド・ミュージックの台頭に狂喜した。日本のロックにも喜納昌吉やりんけんバンドなどの沖縄勢やサンディーのカラフルな魅力に惹かれた。91年から92年にかけて、中村とうようが実行委員長を務めた'WOMAD YOKOHAMA'が開催され、ワールド・ミュージックが最も華やかな時期だった。当時、世界中から凄いミュージシャンが参加していた。91年には、ポーグス(アイルランド)、マルタ・セベスティエーンとムジカス(ルーマニア)、フラーコ・ヒメネス(アメリカ)、ユッスー・ンドゥール(セネガル)、シェブ・ハレド(アルジェリア)、デティ・クルニア(インドネシア)といった具合だ。日本からは、りんけんバンド、上々颱風、桜川唯丸、都はるみらと共にサンディーも参加している。92年には、ヌスラット・ファテ・アリ・ハーン(パキスタン)、パパ・ウェンバ(ザイール)、ディ・ダナン(アイルランド)、ロマ・イラマ(インドネシア)、ザイナル・アビディン(マレイシア)、日本からは、河内家菊水丸、都はるみと共にサンディーも2年連続参加している。そして、並み居る強豪を押しのけて、サンディーが、メイン・ステージ最終日のトリをとったのだ。そして、椰子の実ブラに腰蓑で登場したサンディーおねいさん(年齢不詳)に圧倒され、そして目が離せませんでした。あんなに素敵だったWOWMADYOKOHAMAは、もう1年やったかどうかでなくなってしまいました。相当、赤字だったんだろうな。残念。

 さて、横道に逸れてしまいました。僕は、サンディーの少女のおもちゃ箱をひっくり返したような『マーシー』を良く聴いた。一番の驚きは、「さくら」のラップによるリメイクやインドネシア・ポップ風の「スキヤキ」がとっても新鮮で魅力的だった。もちろん、これらのリメイク作品だけでなく、インドネシアやマレイシアの上質なポップがちりばめられていればこその完成度だ。サンディーの歌唱力そしてディック・リーのメロディー・メーカーぶりには目を見張るものがある。夫の久保田真琴のプロデュースの元、ディック・リーとのコラボレイトが見事に成功している。そして、サンディーは、90年代の僕のアイドルとなった。

 

次点

『SONGS/SUGER BABE』(75年リリース、75年5月2日購入) 

P9060020.JPG このアルバムを初めて聴いた時は、山下達郎のポップなセンスに脱帽したものだ。「SHOW」や「DOWN TOWN」には、本当に舌を巻いたものだ。しかし、アルバムを聴きこんでいくと、大貫妙子のイノセントなヴォーカルに惹かれるようになった。