闇に消えた「放送禁止歌」。部落、天皇批判、障害者差別、あるいはわいせつ。タブーに触れるという理由で「放送できない」と思われてきた放送禁止歌は、実は報道側の思考停止から生まれた、「実態のない自己規制」だった!
これまでテレビでは放送できなかった放送禁止歌を取り上げ、体当たりの取材調査を踏まえてテレビ放送するまでの経緯を、小気味良い文章で追っていく。前半は、爆笑まちがいなし。「キュッキュキュ」という合いの手が、ベッドの音を連想させるという理由で放送禁止になった北島三郎の「ブンガチャ節」、「天皇さまがオナラをしたら・・・」の部分で規制を受けた「ヘライデ」(これを天皇批判と感じる神経が笑える)。だが実は黒幕と思われていた「要注意歌謡曲指定制度」は、全く拘束力のないガイドラインに過ぎず、なんとそのガイドラインすら、現在は消滅してしまっていたのである。誰もが信じていた、放送を規制する巨大な権力とは何だったのか?それは「問題がおきそうだから」「クレームが来そうだから」という思い込みの集積に過ぎなかったのだ。ありもしない規制に対して「なぜ」と異議を唱える発想すらもたない、「物分りの良すぎる」メディアと報道の無自覚性。解放同盟の西島氏への取材では、考えることを放棄したメディアへ危機感が語られる。気骨と誇りはもう取り戻せないのか。
この特集番組のラストシーンには、超Aランクの放送禁止歌とされる「手紙」がフルコーラスで流れた。しかも、画面は黒一色。本来なら「放送事故とみなされる規定」に引っかかる。だが、タイムコードのみを画面に映し出して「手紙」は流された。放送数日後、反響の大きさはテレビへの電話、新聞の投書欄などに多くの人々の「賛同の声」として反映された。
番組の再放送を望む声はあっても、抗議や苦情は、今のところ一つもない。
『手紙』
わたしの好きなみつるさんは
おじいさんからお店をもらい
二人一緒に暮らすんだと
うれしそうに話してたけど
私と一緒になるのだったら
お店をゆずらないといわれたの
お店をゆずらないといわれたの
私は彼の幸せのため
身を引こうと思ってます
二人一緒になれないのなら
死のうとまで彼は言った
だから全てをあげたこと
くやんではいない 別れても
くやんではいない 別れても
もしも差別がなかったら
好きな人とお店が持てた
部落に生まれたそのことの
どこが悪い なにがちがう
暗い手紙になりました
だけど私は書きたかった
だけど私は書きたかった
(作詞作曲 岡林信康)
本書pp.12-13. から引用