AD1873年に大院君政権に代わり「閔氏政権」はようやく鎖国攘夷政策を改め、ともかくも日本の明治維新政府と外交交渉を行うようになりました。これは「清国」から強い示唆を受けたものであり日本との武力衝突を避け交渉に臨むことが得策と判断した為と考えられます。外交交渉が始まったものの「朝鮮王朝」は「小中華主義」に依然として固執し、煮え切らない朝鮮王朝の対応についに日本は1875年砲艦を釜山に派遣し発砲演習を行う示威行動を行ったのでした。



写真左 明成皇后(ミンピ)1851から96年。最高の皇后・性は閔、本貴は驢興、閔到緑の娘。665年王妃になった。日本勢力を牽制するために親露策を練りました。95年10月、日清戦争で覇権を握った日本公使三浦悟楼らに殺害されました。
写真右 金玉均。金玉均は福沢諭吉とも親交のあった開化派の中心人物で1884年12月、守旧派に対するクーデター(甲申事変)を起こしたが日清関係はまだ清国側優位状況にあったため、失敗して日本へ亡命。日本政府は対清関係から彼を小笠原に流すなど事実上幽門の身においてた。94年3月上海で暗殺されました。


1876年日本側の条約案を双方協議し国号を「大日本国」・「大朝鮮国」とすることで合意し、明治9年・「日朝修好条約」が締結されましたが「朝鮮王朝」政府の近代的国際関係の無知・無理解によるところもあり、この条約が実質は不平等条約である由も分からなっかたかも知れません。兎にも角にもこの条約は日本が世界列強に対し朝鮮国を「独立国家」として認めたと言う意思表示でした。しかしながら朝鮮半島の情勢は相変わらず朝鮮内部での開国派・儒学思想による反対派の衝突に加へ日本の干渉がある中、清国は朝鮮に対し古代的な宗属支配から近代的な帝国主義支配への一歩を踏み出したのです。




写真左 英親(ヨンチン)王と李完用内閣(1910)李根(中央)は大韓帝国の最後の皇太子です。高宗の三男。韓国併合の直前に李完用(イワンヨウ)(後列左から3人面)親日内閣閣員とともに写した写真です。
写真右 甲午農民戦争の指導者・チョンボンジュン。1983年農民を率いて郡守の暴政に抗議、翌94年、東学の組織を通じて圧政に苦しむ各地の農民を組織して蜂起。5月には全州を占領したが、清国、つづいて日本の軍事介入を発起し、7月には日清戦争へと発展、朝鮮は事実上、日本の占領下に置かれた。チョンボンジュンは捕らえられ95年3月に処刑されました。


混乱し政治腐敗した朝鮮をめぐり1894年「日清戦争」が勃発し明治28年日清講和条約が結ばれますが、直後にロシア・ドイツ・フランス(三国干渉)が日本に干渉し戦利として清国から得た遼東半島を返還させられ、清国は三国に遼東半島を取られると共に各地の利権を奪われました。清国を見限った朝鮮政府「閔妃一派」は急速にロシアに接近し支援を要請し日本の影響力を遮断しロシアの固い防壁に守ってもらい、自主独立国家とは名ばかりのロシア傀儡政権へと身を落としていったのです。「南下政策」を抱くロシアにとっては願っても無い朝鮮からの支援依頼でした。日本は朝鮮におけるロシアの政治的・軍事的勢力を排除しない限り「朝鮮保護国化」への道は開けないことを思い知らされました。




写真左 日清戦争・仁川へ上陸する日本軍。朝鮮に宗主権を主張していた清国と、進出を企図した日本は甲午農民戦争への介入を契機に衝突。日本軍は1894年7月、日清両軍の撤退を主張する朝鮮王朝打倒のため王宮を占領して朝鮮兵を武装解除し、朝鮮を舞台に清国との戦争を開始しました。
写真右 日露戦争・大同付近を進軍する第46歩兵連隊。1904年2月10日朝鮮満州の覇権をめぐり日露は開戦。戦中の2月23日「日韓議定書」によって日本は朝鮮を実質的に保護国とし04年8月「第一日韓協約」で日本の「顧問政治」が始められ、戦後の05年11月「第2次日韓協約」(乙己保護条約)で日本は朝鮮の外交権を完全に奪い、また、朝鮮政府の上に君臨する統監府を設置しました。


明治36年ロシアが満州の占領を宣言し韓国と満州をめぐって一切の妥協を許さなくなった日露がついに衝突し、1904年旅順港でロシア艦隊を攻撃し「日露戦争」が勃発致しました。明治38年日本が勝利しアメリカの斡旋で「日露講和条約」が調印され、日本はロシアより韓国における政治・軍事・経済上の特権を受け継ぐ事を承認され樺太南半部を日本の領土としました。世界的には日米協定でアメリカがフィリッピンを支配することに対し、日本が韓国を支配することの実質的な相互承認であった事、そして日英協定では日本が韓国を支配する見返りとしてイギリスのインド支配を暗黙に承認する事でした。こうして第二次日韓条約が結ばれ「韓国統監府」が設置され韓国は完全に日本の「保護国」になったのです。私達はこの列強が後進国を支配すると言う当時の大韓民国と日本との時代をよく考える必要があります。




写真左 韓民族の衣装を着た伊藤博文。(後列中央)と夫人。(前列右から2人目)日清開戦の総理大臣でもあった伊藤博文は、日露戦時後の1905年12月から1909年6月にわたる3年半初代の韓国統監とした韓国併合への道を妬いた。統監辞任後の1909年10月26日満州ハルピン駅頭で安重根に狙撃され射殺されました。
写真右 最初の遺米使節団・朝米修好通商条約の締結をきっかけとして1883年にアメリカに政府使節団が派遣され、西欧文明を視察して帰国し開化運動に貢献いたしました。