皇室のお妃をめぐる記事ですがこれ本当ですか?ある掲示板から拾いました
質問者
2009/7/518:53:52
皇室のお妃をめぐる記事ですがこれ本当ですか?ある掲示板から拾いました
昭和天皇に世継ぎがなかなかお生まれにならないとき側室制度が議論された。
このとき陛下は「良宮でいい」と側室を拒否されたが、
山屋他人大将のご息女寿々子さんが側室候補にあがったとき陛下は側室を賛成された。
しかし、皇后が不慮の妊娠をし、生まれたのは男の子。
寿々子さんが側室になられるのを期待した多くの国民たちは残念がっていた。
それから20年余りたった昭和30年ごろ、明仁皇太子のお妃候補に江頭優美子さんがあがった。
彼女の美しさに惹かれた明仁は求婚されたが粉屋の小娘である正田美智子と
政略結婚させられ、その後宮内庁から「せめて弟宮に優美子さんをお妃に」という声が出て
義宮に優美子さんを紹介させお二人は生涯をともに過ごそうと約束されたのに
種無し説が飛び回り、その結果優美子さんは義宮のもとを去ってしまう。
その後義宮は石女の津軽華子と結婚する羽目になり、生涯小梨という悲劇に見舞われる。
そして1980年代に入ったころ。どこにでもいるような庶民と交際する礼宮。
しかもその庶民とは3DKのレオパレス21のボロアパートに住む川嶋紀子だった。
昭和天皇とその側近から別れるよう命じられ、小和田礼子さんを紹介された。
同じ「礼」の字もあってか、お2人はすぐに気が合い、生涯をともに過ごされるところだったのに
紀子の誘惑により、礼宮は精神を病み、礼子さんを泣かせてしまう。
そのことを知った昭和天皇はご体調を崩され、
20年前の1989年(昭和64年)1月7日6時33分、吹上御所で崩御された。
まだ喪が明けていないというのに堂々と婚約を発表した礼宮と川嶋紀子。
即位式を挙げていないのに結婚し秋篠宮家を興した文仁と紀子。
その後、徳仁皇太子殿下が小和田雅子さんとご成婚され、
皇室は闇から救われたのである。2001年には敬宮愛子内親王殿下がご誕生。
やがては愛子内親王殿下が明るい未来を築き、すばらしき女帝になられるでしょう。
- 閲覧数:
- 17,813
- 回答数:
- 1
ベストアンサーに選ばれた回答
2009/7/603:25:59
余程小和田一家を祭り上げたい人が作ったのでしょうね。
(寿々子さんは雅子妃の母方の祖母、優美子さんは雅子妃の母)
雅子妃の母が今の天皇のお妃候補になった話なんて聞いた事がありません。
江頭家は軍人の家系で、戦後のお妃選びに軍人出身の家を選ぶとは思えません。
そもそもお妃選びは昭和28年頃から始まっていますが、当時考えられていたのは伯爵以上の元華族の家柄です。
戦後の混乱から没落している家も多く、体面が整えられないと断る家が続出してしまいました。
直接断るのではなく、候補とされた女性は次々に結婚してしまったのです。
そんな中で出会ったのが正田美智子さんでした。
一方で宮内庁でもお妃候補の範囲を広げ、名門女子大に打診し推薦してくれるように依頼しました。
聖心女子大学で一番に推薦してきたのが正田美智子さんでした。
こうして皇太子の希望もありお妃リストに加わり、会議を重ねた結果美智子さん一人に絞られたのです。
昭和天皇は賛成しましたが、皇族意識の抜けない皇后は反対しました。
そこで弟の義宮には、元華族で学習院出身の津軽華子さんが選ばれました。
雅子妃の母優美子さんは学習院ではありませんし、ここでも候補になる事はあり得ません。
又、昭和天皇は皇太子時代にヨーロッパに外遊され、一夫一婦制を強く意識していますので側室に賛成したという事はないです。
外遊から帰国してすぐに、女官制度を改めて既婚の女性でも通勤の女性でも良い事にしています。
(それ迄は女官は全て見込んで住み込みだったのです)
「良宮がいい」と言って側室を持たなかったのは、色んな本に書いてありますし有名な話です。
妄想たくましい人が女系でたどった因縁話ですね。
皇后美智子様や華子妃、紀子妃の描写があまりにひどくてお気の毒です。
ちょい足しを取り消しますが
よろしいですか?
- 取り消す
- キャンセル