ノーベル賞:「中村やったらできる」…異才ついに物理学賞

毎日新聞 2014年10月07日 20時45分(最終更新 10月07日 20時57分)

中村修二教授のノーベル物理学賞受賞を伝える米カリフォルニア大サンタバーバラ校のウェブサイト
中村修二教授のノーベル物理学賞受賞を伝える米カリフォルニア大サンタバーバラ校のウェブサイト

 ◇中村修二さん、学閥とは無縁 自分の腕で新分野切り開く

 「異才」「異能」。今年のノーベル物理学賞に決まった米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授、中村修二さん(60)には、こんな形容詞がついて回る。ブランドや学閥とは無縁の世界で、自分の腕と信念を頼りに、光エレクトロニクスの新分野を切り開いた。社会に対しては、製法の特許権をめぐる「200億円訴訟」(2004年1月東京地裁判決、控訴審で05年1月和解)を筆頭に、挑戦的な生き方で存在感を示し、日本の技術者・研究者像を塗り替えた。

 「失敗、失敗の人生ですよ」。中村さんは、自分の半生を振り返る時、いつも笑ってこう言う。

 高校時代、理論物理学者の湯川秀樹にあこがれながら「物理じゃ食えんぞ」という担任教師の説得で電子工学科に進んだこと。京セラに内定した後で、学生結婚した妻や子育て環境のことを思って地元の四国に残る決断をしたこと。日亜化学工業に入社して10年間、三つの大きな開発を達成しながら、社内で冷遇されたこと……。

 しかし、中村さんはその「逆境」にくじけなかった。悔しさをバネに、一歩も二歩も上を目指してきた。

 青色発光ダイオード(LED)の開発を思い立ったのは、入社10年目。それまで会社の指示で手がけた仕事が、結果的には大きな利益を生まず、限界を感じ始めていた。転機を求めて1988年、フロリダ大へ留学。しかしそこでも、10歳近く年下の学生たちに「論文を書かず、博士号も持っていない」と軽く見られ、思うように成果を出せないまま帰国する。当時の日亜化学では、論文発表すれば技術が外部に漏れるため、成果の公表は控えるという慣習があった。

 「研究者は論文を書いてなんぼ、と実感した」。帰国後、猛烈な勢いで研究に没頭する。当時の小川信雄社長(故人)に青色LEDの開発を直訴、「開発費にいくらかかるか」と聞かれ「3億円」と答えた。従来の開発費を大幅に上回る金額だったが、「ええわ、やれ」の一言で実現した。「私が大企業の一研究者だったら、社長に直訴なんてできなかった」と中村さん。

 市販の結晶成長装置を購入し、午前中に改造、午後は実験。翌朝また改造するという生活を2年続けた。通常は外部の業者に頼むため、1、2カ月の中断は当たり前だが、中村さんはすべて自前でこなし、驚異的なスピードでゴールに近づいていった。成果が出れば論文にして発表。それが「ナカムラ」の名を世界に広めた。それまで10年積み上げてきた技術と知識が、注ぎ込まれた。

 青色LED(93年)、青色レーザー(95年)と次々に世界初の開発を成し遂げた後、活躍の場を世界に求めた。99年末で退社し渡米。01年、古巣の日亜化学を相手取って、製造装置に関する特許権の移転などを求める訴訟を起こした。「技術者は企業の奴隷じゃない。イチロー並みの給料を要求して何が悪い」「超難関のウルトラクイズみたいな大学受験システムが、つまらない人間をつくりだす元凶」。歯に衣(きぬ)着せぬ直言で、独創の価値を社会に訴えた。

 「中村やったらできる」と見込んで、開発を任せてくれた日亜化学の小川社長は、「エベレストに世界中から人が集まるのは、世界一高いからや。世界一を目指せ」が口癖だった。小川社長は、社報で中村さんの仕事を「今後どれだけ世界の電子工業に利用され、人々に新しい仕事を与えるか分からない」とたたえたが、弟子のひのき舞台を見ることなく、02年9月、90歳で亡くなった。

最新写真特集