稲葉振一郎氏への応答
稲葉さま
貴方のコメントは、貴方ご自身のブログに掲載されたものであり、わたくしへの私信ではなかったと思ひます。それゆゑ、わたくしがそれに応答しなかったことが礼節にもとるものとは思はれません。むしろ、他人のブログに出向いて行って応答を展開するのがご当人に迷惑なのではないかと忖度して遠慮してゐただけです。(もちろん、貴方がわたくしのブログにご訪問くださり、ご批判を頂戴することは、わたくしにとって迷惑などではありません。むしろありがたいことであるのは言ふまでもありません。)ご批判が周到な理解に裏付けられたものであり、応答が実りあるものになりさうな場合は、公開の場で反批判を組み立てるのも面白いかとは思ひますが、あなたのご批判は、もともとわたくしの問題意識を理解もせず、低次元の憶測に基づいてなされてゐるだけですから、応答には値しないと思ってゐたのです。それにもかかわらず、いけしゃあしゃあといっぱしの評論でも為してゐるかのやうに思ひ上がってをられるやうなので、今回は少し詳しく反論してみようと思ひ立ちました。
とは言っても、よく考へれば貴方を叩くだけではまったくつまらないので、できるだけわかりやすく貴方ご自身にも、貴方に似た考へをする他の方々にも、ある程度納得いただけるやうに(といふのは無理としても)、少なくとも問題意識が奈辺にあるのか、ともに探究心を刺激できるやうに、リサーチ・プログラムのやうなものを示したいと思ひます。それゆゑわたくしは、以下で貴方を「論破」しようなどとは考へないことにしませう。かういふ場合、相手のスキを鋭く突いてやり込めたり、きっちり自分の脇を固めてディフェンスをはかろうとしてみても、つまらないからです。むしろ、似たやうな問題に対して、わたくしとは違ふ解決であれ、模索しようとする人々を勇気づけ、あるいはそこへと誘惑できれば良しとせねばなりません。
なほ、戸田山氏を招いて行はれた合評会で「正面対決」にならなかったのは、出席者の多くが戸田山氏の立場について極めて乏しい理解しか持ってゐなかったので、もっぱらわたくしは彼の立場の「解説」をする役を演じてゐたからです。賛同するにせよ、批判するにせよ、一応理解した上でなくては始まりませんから。
戸田山氏はそこで、ミリカンには(わたくしの理解に反して)「内容」の理論と言へるものが実際には存在すること、それがフレーゲ・デイヴィドソン流の全体論的説明と異質な、接合不可能なものとは言へないこと、をごく図式的に説明されました。「正面対決」にならなかったのは、この戸田山氏の説明の意味が聴衆にうまく伝はらなかったので、わたくしがこの点に関するわたくしの批判を棚上げして、解説を引き受けたからです。
自由について
自由については何度も論じてきたので、反復ははばかられるところですが、必要な限りでわたくしの立場を書いておきます。
自由は、一人称帰属も三人称帰属も可能ですが、いづれの場合にも可謬的であり、「自由だと思ってゐたけど、さうではなかった」といふことが有り得ます。
ただし、自由は「全てか無か?」のやうに、有るか無いかどちらかに割り切れるやうなものと考へるべきではない。それは自由を過度に抽象化するものである。カントによれば、拷問されても偽証を拒否する「自由」は有る(!)ことになりますが、たとへさうだとしても、拷問されることなく自由に発言できる人の方がより自由であることは明らかだ、とわたくしは考へます。つまり、わたくしは自由には程度がある、あるいは自由には水準があると考へます。
結論から言へば、「決定論」といふ形而上学的立場は、この自由の水準の議論を不可能にしてしまふため、不毛であるとわたくしは考へてゐます。ただし、決定論を「論駁する」ことが可能だとも必要だとも考へません。なぜ必要とは考へないのかについては、拙著『古代ギリシアの精神』p−122〜132で詳しく論じたやうに、決定論はリサーチ・プログラムにすぎない「因果律」を、物自体に投影して無限の過程の実在であるかのやうに見なす「弁証論的仮象」にすぎないからです。
「決定論」が以上のような意味で不毛であることは、すでに当ブログで5月9日「ソフトな決定論について」で論じてをります。特に以下の下り
しかし、より詳細に見ると、重大な点で違ってゐる。決定論は、すべてのレヴェルでの期待可能性も、所詮同じく(どの時代でも同じように)決定されてゐると見なすのであり、したがって社会的に通常の期待可能性といふ基準が変化することを認めることができないか、あるいは単に見かけ上のものと見るしかない。ところが非決定論は、そこに明らかな区別を引き、期待可能性の(つまりは自由の)拡大について、規範的議論をなす余地がある。つまり、当然解決できると見なされる問題(それに対しては、責任を問へる)と、さうとは限らない問題(それに対しては責任を問へない)の区別、また後者についても通時的に前者へと移行し得るし、また移行すべきであることを、具体的事象に即して議論できるのである。つまり、解決法が発見され、それが社会的に共有されるにつれて(法の成立など)、社会的に当然なすことが可能な、またなすべきである行動が、拡大してゆく。それをなさないのは、以前は責任を問はれなかったのに、今や責任を逃れることはできなくなる。戦争犯罪や公害犯罪など。自由には、そのさまざまな水準や程度差があるのに、決定論はそれを無視せざるを得ないのである。
以上、要するに非決定論は自由の水準や拡大について語ることを許し、それによって法実務との連関に道を開く。なぜなら、裁判による法発見によって、たとえば公害問題を解決すべき筋道が示されれば、我々には実際に公害を避けるべき可能性が開けるからであり、社会が当然と見なす期待可能性の水準が変化するからである。したがって、それ以後公害によって環境破壊することは犯罪と見なされるやうになる。
以上を踏まへたうえで、自由を問題解決の場面でとらへること、問題解決が意味の生成であること、それは可能的なものの実現ではなく、可能性そのものの生成であると考へなければならないこと、などを論じてきましたが、ここでは詳細は省きます。拙著をご覧くだされば十分です。ただ、ここではそれが「進化論」とどういふ関係にあるか、それと「スターリン主義」の問題圏といかなる関係にあるか、だけを簡単に示しておきたいと思ゐます。
進化論を人間の合理性と接合しようとする試みは、イギリスのネオ・フレーゲ主義の哲学者たちにも多く見られます。第二の自然としての習慣に、合理性を着床させようとするJohn McDowellや、合理性の基本原理から進化論の成果を取り込もうとするChristopher Peacockeなど。ミリカンや戸田山氏ほど粗雑な自然主義ではありませんが、彼らも進化論と人間の合理性を親和的なものとみる点で一致してゐます。
わたくしは、基本的にその点に不賛成なのです。つまり、合理性を自然なものと考へることでは、言語の成立にまつはる不自然さ、亀裂、不整合性などが理解できないと考へるのです。狂気、幻想、無意識など、精神分析が明らかにした多くの現象の解明がこの点とかかはってゐますが、わたくしはこれをギリシア人の根本洞察とみなし、それを哲学の起源と理解してゐます。その意味で、哲学とは弁証法的なものといふことになります。つまり言語によってすべてを覆ひ尽くすことができないこと、に対する悲劇的自覚のことだと言ってもいいでせう。「自然は隠れることを好む」とヘラクレイトスが言ったとき、彼が示さうとしてゐたのは、素朴な自然主義とは正反対に、存在と言語の亀裂についてのこの意識だったといふこと。
しかし、この点は多くの現象の解明と密接に関連してゐるので、それらのすべての理解と切り離して述べても、容易に賛同は得られないでせう。結局、最後の決着は、そのやうに考へることがどのように豊かな洞察と展望を切り開くことに寄与できるかといふことを、広範な実例とともに示してゆくことでしかないのです。私自身いくつかの実例で、わたくしの考への生産性を示してきたつもりですが(たとへば、『神学・政治論』に所収された「神聖喜劇論」における象徴界の有り方など)、スターリン主義についての見方も、その一例として参照したものです。貴方が考へてゐるほど単純な連関ではないのです。
貴方が拙著『神学・政治論』をお読みになってゐないと思ひますので、ここで簡単に再論しておきますが、スターリン主義の同一性を、わたくしは50年代の「主体性論争」のパースペクティヴから理解してゐるのです。つまり、歴史を物質の自己展開として理解するトータルな世界観(唯物論)は、「主体性」を基本的に自然の必然性によって説明する自然主義に他なりません。ここに、「主体性」とか「自由意志」いふものを認めるか否かはともかく(私自身はそのような仮説は望み薄だと感じますが)、少なくとも問題が存在することを認めるか否かが、まさに問題なのです。問題の存在を認めない理論的立場を、わたくしは一般に「スターリン主義」と呼ぶのです。すべての自然主義や決定論や実在論が、基本的に問題の存在を認めることができないといふ点で、スターリン主義なのです。
貴方は、わたくしが「進化論よりキリスト教の方がましだ」と述べたことにこだはってをられるやうですが、その意味は理解できてゐない。重要なことは、キリスト教の歴史が問題の存在を明らかにする形で展開してきたのに対して、問題の隠蔽のもとに統一的世界観を展開する言説をスターリン主義として記述することは、実際のスターリン主義や、それにある意味で類似した他のイデオロギーの理論的解明につながるのです。その分析が実際、一部のテロリストのイデオロギーの解明にも役立つことを、わたくしは「テロリスト・アタの告白」(『神学・政治論』所収)で示したつもりです。実際、テロリストのイデオロギーを外から批判することは、あのブッシュ・ジュニア程度の知能でも容易にできることですが、彼らの精神と内在的に対決することは(といふのも内在的でないやうな対決は、真の対決では有り得ないからですが)、それ自体、本格的な思想的冒険に他ならないからです。
このやうなことを書き連ねながらも、おそらくわたくしの言葉は、貴方のやうな方には届かないのではないか、どんな言葉も風のやうに理解されないまま飛び過ぎるのではないか、と思はずにはをれません。我が国では、真摯に他人の言葉やイデオロギーを、その真の深みにおいて理解しようとするやうな精神の粘りが、もはや姿を消してしまったと思へるからです。それでも、せっかく書き記したのですから、そのまま載せることにします。
Posted by easter1916 at 23:45│
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