October 6, 2014
トルコは聖戦(ジハード)を掲げる勢力に対抗する作戦に参加を決めたが、その背景にはスレイマン・シャーの墓が脅威にさらされているという事情がある。
シリアの泥沼化する内戦がなかったなら、スレイマン・シャーの墓は、おそらく地理学上のトリビア的存在のままだったことだろう。しかし、最近になって700年の歴史を持つこの墓所に脅威が迫り、これをきっかけにトルコがイスラム国(Islamic State: IS、ISISやISILとも呼ばれる)との戦いに加わることとなった。
何世紀も前から、この墓所はユーフラテス川の岸辺に建っていた。スレイマン・シャーは1236年、現在のシリアにあたる場所で、軍事作戦の最中にこの川で溺死したとされる。
スレイマン・シャーはオスマン帝国の開祖、オスマン1世の祖父にあたる人・・・
シリアの泥沼化する内戦がなかったなら、スレイマン・シャーの墓は、おそらく地理学上のトリビア的存在のままだったことだろう。しかし、最近になって700年の歴史を持つこの墓所に脅威が迫り、これをきっかけにトルコがイスラム国(Islamic State: IS、ISISやISILとも呼ばれる)との戦いに加わることとなった。
何世紀も前から、この墓所はユーフラテス川の岸辺に建っていた。スレイマン・シャーは1236年、現在のシリアにあたる場所で、軍事作戦の最中にこの川で溺死したとされる。
スレイマン・シャーはオスマン帝国の開祖、オスマン1世の祖父にあたる人物で、その墓と付随する廟は、神聖な史跡としてトルコの人々から崇められている。
1921年にはフランスとトルコの間で現代のシリアの国境を画定させるアンカラ条約が結ばれたが、この条約内の1条項により、かつてのオスマン帝国に縁を持つこの墓は、新生シリアの領土内でトルコの飛び地として残されることが定められた。墓所にはトルコ国旗が掲げられ、トルコ軍の儀仗兵がこの場所を守ることになった。
そして今も、この状態は続いている。墓自体は、タブカ・ダムの建設による水没を逃れるため、1973年にそれまでの場所から約80キロ上流に移設されたが、この地が本質的にトルコの領地であることに疑問が呈されたことはなかった。国境から32キロほどシリアに入った場所にあるとはいえ、法的、精神的、感情的な意味で、この墓所はボスポラス海峡にある金角湾と同様にトルコのものであると、同国の人々からは見られてきた。
しかし最近になって、この地域でISの過激派とシリア在住のクルド人武装組織との間で戦闘が激化し、多数の難民がトルコ国境に押し寄せる事態が起きている。墓所に近いアインアルアラブ(クルド名:コバニ)の町にISの兵士が迫る中、トルコの首脳は、スレイマン・シャーの墓がISの支配下に置かれ、さらには破壊された場合にどう対処すべきか、という問題を突きつけられている。ISはシリア領内でこれまでにも墓所やモスクを破壊してきた経緯があるからだ。
現地時間10月2日には、トルコ国会がISに対する軍事行動を許可する動議を賛成298票、反対98票で承認した。この決定にスレイマン・シャーの墓所の問題がどこまで影響を及ぼしていたかははっきりしないが、トルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領は、同国が主権を持つ領土とみなしている墓所を守るとの意向を繰り返し表明している。
2014年に入り、これまでこの穏やかな飛び地を守っていた30名ほどの若い徴集兵に代わって特殊部隊の人員60名が派遣された。さらに軍幹部のネジデット・オゼル氏は、トルコ軍にはこの墓所を守る兵士の支援に駆けつける準備があるとする声明を発している。
Photograph by AP