堕ちた「ノーベル賞受賞者」野依良治――理研「長期支配」で汚れた晩節
選択 9月30日(火)19時0分配信
日本の科学界を揺るがした、理化学研究所「STAP細胞騒動」の余震はいまだ続いている。八月五日に神戸の理研発生・再生科学総合研究センター(CDB)施設内で自ら命を絶った笹井芳樹副センター長。死に場所を理研に求めた理由は本人しかわからない。
「研究者として追い詰められていたのは確かだ。しかし彼は理研に失望したのだろう」
断定するように語るのは理研職員の一人だ。STAP細胞での研究不正そのものの責任は、小保方晴子氏をはじめとする論文筆者に帰す。しかし、理研の対応がまずかったと、この職員が続ける。
「理研の体質と今回の問題は無関係ではない。現在の体質は、十一年間トップに座っている野依良治氏が作ったものだ」
野依氏は一九三八年、兵庫県で生まれた。灘中学、高校から京都大学工学部に進学し、六七年には博士号を取得している。野依氏はその後三十歳から名古屋大学に移り、以後一貫して名大でキャリアを積んだ。後にノーベル化学賞を受賞した不斉合成の研究も名古屋時代の成果である。研究者として順調に三十四歳で教授となった野依氏だが、そのキャラクターは激情型で傲慢だと本人を知る研究者が打ち明ける。
「周囲のスタッフには恐れられ、意に沿わぬことがあると怒鳴り散らしていた」
その後小さな研究室だけでは物足りなくなったのか、組織のトップを目指し始める。九七年に理学部長、二〇〇〇年には物質科学国際研究センターにてセンター長に就いた。しかしこのとき既に六十二歳、周囲の誰もが「上がりポスト」と考えていたという。キャラクターからくる人望のなさゆえにそれ以上の出世の目はなかったのだ。ここで終われば、野依氏は「ちょっと政治的野心の強い、優秀な化学屋」という日本に数多いる研究者の一人だった。
翌〇一年、ノーベル化学賞を受賞したことで状況が変化する。ただ、野依氏の名大内での地位が向上することはなかった。〇二年に行われた学長選に満を持して出馬した野依氏は一次投票、二次投票まではトップだったが、決選投票で敗れたという。ノーベル賞の威光をもってしても、野依氏をトップにしたくない勢力が勝ったことが窺える。
しかしこれが奏功し、野依氏は翌年空席となった理研理事長に滑り込んだ。名大というお山の大将ではなく、日本の科学界トップになったのだ。某国立大学教授の一人は、「野依氏の行動は功罪併せ持つ」と断ったうえでこう語る。
「野依氏は稀有な人材。過去のノーベル賞受賞者であれだけ政治的な動きができる人はいなかった。そのことが日本の科学界にもたらしたものもある」
理研理事長となった野依氏は、政府委員なども精力的に務めて、予算獲得に邁進する。それは理研だけでなく、科学界全体が恩恵を受けた。民主党政権時代に理研のスーパーコンピューター「京」が事業仕分けの対象になると、他のノーベル賞受賞者を引き連れて会見し、舌鋒鋭く批判した。この国立大学教授は「これまであんなことをできる発信力を持った科学者はいなかった」と振り返る。
この過程で、野依氏は徐々に科学界の「聖域」となり、表立って物申す人間がいなくなった。西日本のある研究者は、STAP細胞問題が起きた後、知人にこうメールした。
「野依帝が堕ちた」
STAP細胞騒動でも、科学界のドンとなった野依氏らしいエピソードがある。
六月五日、論文共著者の若山照彦山梨大学教授は埼玉県和光市の理研本部にいた。若山氏は翌日に会見を予定しており、小保方氏から渡されたSTAP細胞とされる細胞の解析結果を公表するつもりだった。それを察知した理研から呼び出されたのだ。その場で若山氏は野依理事長から詰問された。会議室には理事全員と若山氏の元上司、竹市雅俊CDBセンター長もネットを通じて参加していた。
「記者会見でなにを発表しようというのか」
野依氏は決して内容を知りたいわけではなかったのだろう。若山氏は解析結果を詳しく説明したが、最終的には会見を延期するように伝えられただけだった。要は「理研の前で余計なことをするな」と恫喝したのだ。
最終更新:9月30日(火)19時0分
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