つづきです。
●古いパラダイムの再生
国際政治についての学術研究は、冷戦が終わってから劇的に多様化した。アメリカ以外の学者たちの意見が目立つようになり、より多くのメソッドや理論が正統的なものとみなされるようになり、そして民族紛争や環境問題、そして国家の未来像についてのような、新しいテーマがそこかしこで論じられるようになった。
ところがそこで見られるようになった既視感も、それと同じくらい驚くべきものだ。
冷戦の終わりは伝統的な理論の間の戦いを解決するのではなく、ただ単にあらたな議論を開始しただけだった 。皮肉なことに、多くの国が民主制、自由市場、そして人権のような似たようなアイディアを賞賛するようになったにもかかわらず、専門家たちは今までにないほど分裂してきたのだ。
▼よみがえったリアリズム
冷戦の終わりによってリアリズムが過去のものになった宣言する人々も現れたが、それが終わったとする噂はかなり誇張されている。
最近のリアリストの学者たちの間で行なわれている議論で目立つものは、
相対的なパワーの獲得と絶対的なパワーの獲得に関するものだ 。「国際制度機関は国家に短期的な優位の獲得を我慢させて、より大きな長期的利益を目指さすように促す」というリベラルの制度学派の人々に反論する形で、ジョセフ・グリーコ(Joseph Grieco)やスティーブン・クラズナー(Stephen Krasner)のような人々は、アナーキーが国家に対して協力することによる絶対的なゲインと、その協力者たちの間でゲインの分配のされかたについて心配させるという点を指摘している。ここでのロジックは明快だ。もしある国がパートナーたちよりも大きなゲインを獲得できるのであれば、自分はより強力になって、逆にパートナーたちは最終的に脆弱になるということだ。
また、リアリストたちは新たな問題についても迅速にその分析の幅を広げている。たとえばバリー・ポーゼン(Barry Posen)は民族紛争についてリアリスト的な説明を行っており、多民族国家の崩壊はライバル同士の関係にある民族集団をアナーキーな状況に追い込むことになり、互いに対して強烈な恐怖を感じさせるようになり、互いに武力を使って相対的なポジションを上げようとすると指摘している。この問題は、ユーゴスラビアで見られたように、各民族集団の領土の中にライバルの民族集団の小さな居住区がある場合にはとくに激化することになるという。なぜなら、各集団はこの異質な少数派を「(予防的に)浄化」しようと考えたり、国境の外にいる味方の民族を中に引き戻して領土を拡大しようとするからだ。リアリストたちは(現在は明確な敵の存在しない)北大西洋条約機構(NATO)がストレスに直面して東側に拡大すると予測しており、それによってロシアとの関係を危うくすると見ている。他にもマイケル・マスタンデューノ(Micael Masutanduno)のような専門家は、「アメリカの対外政策は全体的にリアリストの原則に沿ったものであり、その行動はアメリカの圧倒的優位な状態を維持し、アメリカの国益を推進するための第二次大戦後の秩序を形成することを狙ったものである」と論じている。
冷戦後のリアリストのパラダイムの中で最も興味深い概念の発展は、その理論が「防御的(ディフェンシヴ)」と「攻撃的(オフェンシヴ)」に分かれてきたという点であろう。ウォルツ、ヴァン・エヴェラ、そしてジャック・スナイダー(Jack Snyder)のような
「ディフェンシヴ・リアリスト」たちは、「軍事的侵攻には国家にとっての固有の利益はない」という想定を持っており、そこから「領土拡大にかかるコストはそこから得られる利益よりも一般的に大きい」と主張 している。また、彼らは「大国戦争が起こるのは、主に国内の集団が脅威を過剰に評価して軍事力の効果に過大な期待をかけているからだ」と論じるのだ。
ところがこの見方はいくつかの点から批判を受けている。ランドール・シュウェラー(Randall Schweller)が指摘しているように、まず最初に批判されるのが、ネオリアリストの「国家は非常に不利な中でも、ただ生き残りを図るために現状維持を志向する」という想定だ。これによって国家は、アドルフ・ヒトラー率いるドイツや、ナポレオン・ボナパルテ率いるフランスのように、すでに持っている以上のものを熱望し、しかもその狙いを達成するためには殲滅戦も辞さないような略奪的な修正主義国家(revisionist states)の脅威を阻止するというのだが、この分析は怪しい。第二にピーター・リーバーマン(Peter Liberman)の『
占領は利益になるか? 』(Does Conquest Pay?)という本では、ナチスの西ヨーロッパ占領やソ連の東欧に対する覇権のようないくつもの例を挙げて、占領の利益はそのコストを上回ることが多く、 「軍事的な拡大がもう利益にはならない」という主張に疑問を投げかけている。 第三に、エリック・ラブス(Eric Labs)や
ジョン・ミアシャイマー (John Mearsheimer)、そして
ファリード・ザカリア (Fareed Zakaria )のようなオフェンシヴ・リアリストたちは、
アナーキーがすべての国に相対的なパワーの最大化に向かうように促すと主張 している。その理由は、単純にどの国家も本物の修正主義国家が絶対に登場しないと確信を持てないからだ。
このような違いは、リアリストたちがなぜヨーロッパの将来のような問題について合意できないのかについて教えてくれる。たとえばヴァン・エヴェラのようなディヴェンシヴ・リアリストたちは、戦争が利益を生むことはほとんどなく、そのほとんどは軍国主義や熱狂的なナショナリズム、もしくはいくつかのネジ曲がった国内的な要因の結果だとしている。ヴァン・エヴェラはこのような要因が冷戦後のヨーロッパにはほとんど存在していないために、この地域は「平和の機が熟している」と考えるのだ。ところがミアシャイマーやその他のオフェンシヴ・リアリストたちは、アナーキーがそれぞれの国の内部の特徴に関係なく、大国を互いに競わせるようにし、アメリカという調停者が撤退すれば、ヨーロッパではすぐに安全保障競争が復活すると考えるのだ。
▼リベラリズムの新たな生命
共産主義の敗北は、西側諸国で自己満足的な称賛の数々を生み出したが、この典型はフランシス・フクヤマ(Francis Fukuyama)による、人類の「
歴史の終わり 」に到達したという評判の悪い主張である。もちろん歴史がこの称賛のおかげで何かを変えたわけではないのだが、西洋の勝利はリベラル派の思想に大きな勇気を与えたのだ。
その中でも最も興味深い、重要な発展は、「民主制平和論」(democratic peace)についての活発な議論であろう。この最近の議論の流れはソ連崩壊以前からすでに始まっており、しかもその後にいくつもの民主制国家が新たに誕生して、その証拠が集まってきたことから影響力を高めたのである。
「民主制平和論」は「民主制は独裁制よりも平和的である」とするリベラル派の初期の主張を精緻化させたものである 。その論拠は、民主制国家もその他の種類の国と同じくらい戦争はするが、民主制国家同士は(絶対というわけではないが)ほとんど戦争しないという考えにある。マイケル・ドイル(Michael Doyle)やジェームス・リー・レイ(James Lee Ray)、そして
ブルース・ラセット (Bruce Russet)のような専門家たちは、この傾向について無数の説明を行っており、その中でも最も人気があるのが、民主制国家は同じような原則を持つ集団に対して軍事力の行使を禁止する、妥協の「規範」(norms)を持っているというものだ。近年の学術界の議論の中で、「民主制同士は戦わない」という意見ほどクリントン政権の民主的な支配圏の拡大への努力を正当化する上で影響力のあるものはない。
リベラル制度論者(Liberal institutionalists)たちも自分たちの理論を引き続き構築し続けており、まず一方で、その中心的な主張は段々と控えめなものになりつつある。
現代の制度機関は、国家同士が「お互いに利己的な国益に反する行動をできない」と合意した時に、協力関係の土台を敷く役割を果たすと言われている 。その一方で、ジョン・ダフィールド(John Duffield)やロバート・マッカラ(Robert McCalla)のような制度機関主義者たちは理論を拡大して、最も目立つところではNATOの研究などに応用している。これらの専門家たちは、NATOの高度に制度化された性質によって、主な敵の喪失(ソ連崩壊)にかかわらず、その後も生き残って順応していけたのかについて説明できるというのだ。
リベラル派の理論の経済分野の議論も、いまだに影響力が大きい。最近も多くの専門家たちが、世界市場の「グローバル化」や、国境を越えたネットワークや非政府組織の台頭、そしてグローバル・コミュニケーション技術の急速な拡散が、国家の力を弱めており、その焦点が軍事安全保障から経済・社会面での繁栄に移ってきたと論じている。もちろんその詳細は新しいものだが、基本的なロジックは見覚えのあるものだ。つまり
世界中の国家が経済・社会面での網にどんどんからめとられるようになると、このつながりを妨害する時に発生するコストが、国家の独断的な行動、とりわけ軍事力の行使を阻止する役割を果たす というのだ。
この視点が示しているのは、戦争の可能性が先進工業国の民主制国家の間ではほぼ消滅したまま続くということであり、他にも
中国とロシアを世界の資本主義のシステムに組み込んでしまえば、そのプロセスの間にこのような国々の中で強力な中間層の人口が増え、彼らが民主化への圧力を強めるために、繁栄と平和を推進することになる というのだ。これらの国々を経済発展に集中させてしまえば、競争は経済分野の中だけの話になる。
この視点は「実際にグローバル化している範囲は狭く、これらの変化はまだ国家という枠組みの中の環境で起こっている」と論じる専門家たちから批判されている。それでも「経済的な力が従来の大国政治を克服した」とする考えは専門家や知識人、そして政策家たちの間で広くもてはやされており、国家の役割が将来の学問の上の問題として重要なテーマでありつづける可能性は高い。
▼コンストラクティヴィストの理論
リアリズムとリベラリズムが、パワーや貿易のような物理的な要因に注目するのに対して、
コンストラクティヴィスト(社会構成主義)のアプローチでは、アイディアのインパクトに注目している 。国家をはじめから存在するものと仮定して生き残りを探っていると想定する代わりに、コンストラクティヴィストたちは、
国家の利益やアイデンティティーというものが、歴史的なプロセスによって大きく影響を受けてきたものであると見なしている 。彼らは社会の中で広く使われている
「言説」(ディスコース) というものにとりわけ注目するのだが、それは言説が信念や国益を反映して形成し、その国家に受け入れられる行動規範を確立するからだ。結果として、
コンストラクティヴィストたちはとりわけ変化を起こす要因に注意することになり、このアプローチは国際政治についてのラディカル派の理論では、冷戦中のマルクス主義の立場にとって代わる存在となった と言える。
冷戦の終わりはコンストラクティヴィストの理論を正統化するという意味で重要な役割を果たすことになった。なぜならリアリズムとリベラリズムは双方とも冷戦の終結を予測できなかったし、その理論からこの現象を説明することも困難だったからだ。ところがコンストラクティヴィストたちはこれを説明できたのである。具体的には、元ソ連代表のミハイル・ゴルバチョフが新たに「公共の安全保障」(common security)というアイディアを出したおかげでソ連の対外政策に革命を起こしたというものだ。
さらにいえば、われわれは古い規範が挑戦を受け、明確だった境界線が曖昧になり、アイデンティティーの問題が先鋭化している時代に生きているということから考えれば、専門家たちがこれらの問題を前面かつ中心におかずにはいられなくなったことは当然とも言えるのだ。コンストラクティヴィストの視点から言えば、冷戦後の時代の最も重要な問題は、「異なる集団が自らのアイデンティティーと利益をどのように捉えるか」ということになるのだ。もちろんこれは「パワーが無関係になった」というわけではないのだ、
コンストラクティヴィズムではアイディアとアイデンティティーの作られ方や、その発展の仕方、そして国家が自身の状況をどのように理解してどう対処するのかというところに影響を与える点が強調される 。したがってここで重要なのは、ヨーロッパの人々が自分たちのことを国家単位と大陸単位のどちらで定義するのか、ドイツと日本はより積極的に国際的な役割を果たすことを狙って自分たちの過去をどのように再定義するのか、そしてアメリカが「世界の警察官」というアイデンティティーを称賛するのか、それとも否定するのかという点になる。
コンストラクティヴィストの理論はきわめて多様であり、これらの問題については統一された予測のようなもの提供されない。純粋に概念的なレベルで、アレクサンダー・ウェント(Alexander Wendt)が「リアリストのアナーキーの捉え方では、なぜ国家間で紛争が起こるのかを適切に説明できない」と主張している。彼によれば、
本当に重要なのはアナーキーがどのように理解されているかという点 なのであり、論文のタイトルにあるように、「アナーキーは国家が思い描くもの」(anarchy is what states make of it)なのだ。別のコンストラクティヴィストの考えでは、領土国家の将来が主な研究対象となっており、国境を越えたコミュニケーションや共有された市民文化などが従来の領土国家に対する国民の忠誠心を切り崩しており、劇的に新しい形の政治的な動きを創造していると論じている。コンストラクティヴィストの中には規範(norms)の役割に注目している人々がおり、国際法やそれ以外の規範的な原則がこれまでの「国家主権」のような概念を衰退させ、国家権力が行使される際の目的の正統性を変えてしまったと論じている。ここで示したいくつかのコンストラクティヴィストの議論に共通するテーマは、
政治のアクターたちが自らのアイデンティティーや利益を形成して行動を変化する際に果たす「言説」の力 なのだ。
▼国内政治の再考
冷戦期においても、学者たちは国家の行動における国内政治のインパクトを常に探っていた。国内政治は「民主制平和論」の議論においては明らかに中心的な位置を占めるものであり、スナイダー、ジェフリー・フリードマン(Jeffrey Frieden)、そしてヘレン・ミルナー(Helen Milner)のような学者たちは国内の利益団体が国家の志向性に対してどのような(悪)影響を与えるのかということを論じている。また、ジョージ・ダウンズ(George Downs)やディヴィッド・ロック(David Rocke)などは、国内の制度機関が、国家にとって消え去ることのない不確実性に対処するための助けとなる可能性を示しており、心理学の専門家たちは、プロスペクト理論やその他の新しい理論を応用して、なぜ政策決定者が合理的な行動をできなくなるのかを説明している。
ここ十年間では「文化」という概念への関心も劇的に高まっており、これはコンストラクティヴィストの「アイディアと規範の重要性の強調」という部分とオーバーラップしている。
このトレンドは、その一部がアカデミック界(そして国民の間での議論)での文化的な問題についての興味の高まりを反映しているが、それは同時に、ソ連崩壊の後の部族、民族、文化面での紛争の急増という国際的な環境が反映されたものであると言える。
●将来の概念的なツール
これらの議論は国際政治における現代の学術研究の分野の広まりを反映しているが、
同時にそれが統合されていく予兆も見受けられる 。ほとんどのリアリストたちは、ナショナリズムや軍国主義、民族性、そしてそれ以外の国内的な要因も重要であることを認めており、リベラルたちは、国際間の行動におけるパワーの重要性を受け入れている。そして何人かのコンストラクティヴィストたちは、アイディアが最大のインパクトを持つのは、それが強力な国家によって支持され、物理的な力によって継続的に強化されたときであると認めているのだ。
これらのパラダイムの境界線は低くなっており、知的面で互いに「良いとこ取り」することは十分可能になってきている 。
まとめていえば、これらの競合する理論は、世界政治の重要な面をそれぞれ捉えている。
もしわれわれがこの中のたった一つの理論だけでしかものごとを考えられなくなってしまえば、われわれの理解は貧弱なものになってしまうはずだ 。将来の「完全な外交官」たちはリアリズムにとって不可避である「パワー」の役割の重要性の強調や、リベラリズムの国内からの圧力の認識、そしてコンストラクティヴィズムの変化についての考え方などを心に留めおくべきなのだ。
(了)
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