NHKアーカイブス「シリーズ1964 第2回 変わる東京〜五輪景気の光と影〜」 2014.09.23

今から半世紀前東京オリンピックに沸いた1964年は戦後日本の転機となった年でした。
人々は何を考え何を目指していたのでしょうか。
NHKアーカイブスシリーズ「1964」。
第2回は「変わる東京」。
オリンピックを目指してビルが次々と建ち高速道路が川を覆い人と車が街を埋め尽くしました
通勤ラッシュは生存競争の厳しさを身近に感じさせる。
1,000万分の1という実感である。
押し合いへし合いの末満員電車に乗り込んだ乗客はまず今日一日の最初の勝利感を味わう事ができる。
人口が急増し世界で初めて1,000万人を超える巨大都市となった東京。
東京はどのように変貌を遂げたのでしょうか
一方地方の村では急速に人口が流出。
過疎化が進んでいました
長い間人の喜びや悲しみの歴史をつづってきた家々が雪山の深い霧の中に音もなく崩れていきます。
当時のドキュメンタリー番組が見つめた日本の光と影。
今再びオリンピックに向けて大きく変わりつつある東京。
そして地方の再生を考えます
NHKアーカイブスシリーズ「1964」。
第2回の今日は高度経済成長は何をもたらしたのか。
東京と地方象徴的な映像から考えてまいります。
ゲストご紹介致します。
お二方にお越し頂きました。
まず作家の関川夏央さんでいらっしゃいます。
どうぞよろしくお願い致します。
そしてもうお一方コミュニティデザイナーの山崎亮さんです。
お願い致します。
地域が抱える課題をそこに住んでいる人たち自身が解決するために地域の人々を結び付けるというコミュニティデザインに取り組んでいらっしゃいます。
どうぞよろしくお願い致します。
まずは関川さんですが多くの作品で「昭和」をテーマに書いてらっしゃいますけどその思いはどの辺りからなんでしょうか?昭和といっても昭和戦後ですけれどその時代に私は生まれて物心が付いて人となった訳ですが。
49年生まれ。
そうしますとだから自分がこのような人間になったのは自分のパーソナリティーだけではなくて時代の刻印もあるだろうと。
その刻印とは一体何であるかという事を知りたいとは思いますよね。
新潟県のご出身長岡のご出身ですけど当時どうでしょうか。
子どもの頃東京にはどんなイメージをお持ちだったんですか?東京のイメージは山の向こうにある遠い所なんですよね。
いつかは遠い所に行ってみたいというイメージは持ってましたよね。
もう一つは61年ですから昭和36年からテレビが変わったんですよね。
NHKで例えば「夢であいましょう」とかあるいは「若い季節」とかつまり生なのにすごいショーをやる訳ですよ。
そういうものをやる場所というのに魅力を感じましたね。
昔から芸事が好きだったものですから。
そのテレビから東京都会の情報もたくさん入って…。
いやテレビはそういうものを作るモダニズムが商売になる場所という認識ですね。
いろんな情報を発信する場所が東京と…。
いつかは自分も発信してみようと。
中心ですからね要するに…。
田舎で発信してもそれは町内ですから。
さあお隣山崎さんは73年のお生まれですね。
だから今関川さんがおっしゃった番組の名前が全然分からない。
そうでしたよね。
「何だろう?その番組は」って思いながら…。
ただ印象としては何かそういう新しいテレビの仕組みであったりとかそれから高度経済成長期ですから道路であったり高い建物が建ったりするちょうどそのころなのですげえキラキラ輝いててこれからいろんな事が実現されていくんだっていう時代だったんだなというのは何となく歴史の教科書を読みながら感じていますね。
それではまずその当時の東京を記録した番組からご覧頂きます。
1962年オリンピックの2年前ですね。
東京は世界で初めて人口1,000万人を超えました。
その時の特集番組「一千万人の東京」からご覧下さい。
何万とも知れないとりどりの光が東京の街を彩っている。
しかし光の海のように見えるこの輝きの一つ一つによく見れば私たちの生活の影が万華鏡のように映し出されているのが分かる。
浅草。
そして銀座。
この盛り場の灯にはきっと人生の哀歓が秘められているに違いない。
ゴルフ場では昼間の商談の続きがささやかれているかもしれない。
団地やアパートの中では赤ん坊を囲んだ一家団らんがあるだろう。
無数の光の下で1,000万人の東京の市民生活が営まれているのだ。
江戸という言葉が初めて歴史に現れたのは11世紀末の事である。
爾来800年我々の祖先は武蔵野を開いてこの街を育てさまざまな理想の上に揺るぎない都市を築いた。
それがいつか1,000万人の東京になった。
しかし人々は考える。
世界一という東京。
一体それが何なのだろう。
人口を世界一にするために無理やりに人間を押し込んだようなものではないか。
押し込められて苦労しているのは俺たちだ。
これはどうした事だろう。
そうだ。
もしかすると東京は生き物なのかもしれない。
貪欲な胃袋に1,000万の人間をパックリ飲み込んで勝手に育っていくやっかいな生き物なのかもしれない。

(駅員)ガラス危ないですよ。
まっすぐまっすぐ。
まっすぐ入ります。
(笛)
(笛)通勤ラッシュは生存競争の厳しさを身近に感じさせる。
1,000万分の1という実感である。
押し合いへし合いの末満員電車に乗り込んだ乗客はまず今日一日の最初の勝利感を味わう事ができる。
現代の生活は単調なリズムを持った流れの中にある。
流れは夕方には全く向きを変えて逆の方向をたどって帰っていく。
ところが東京は時としてこの単調なリズムの中に突拍子もない不協和音を持ち込んでくる。
ある時は平凡な市民にスターの栄光を与えて有頂天にしたりまたある時は交通事故などの災いを降らせて失意のどん底に陥れる。
流れの外から眺めると人間はまるで何かに吸い寄せられていくありん坊の行列のように見える。
この人たちはサラリーマンやBG。
つまりホワイトカラーであろう。
行列はやがてしぶきのように四散してそれぞれの職場へ吸い込まれるように消えていく。
そのころオフィス街のビルはにわかに活気づいてくる。
デパートではエスカレーターが動き始めやわらかい音楽が流れだす。
BGはもう持ち場に就いて取って置きの笑顔で客を迎える。
ここに1人。
これは違う。
これは本物だ。
客扱いの職場は愛きょうが大切だ。
そのサービスいかんで高価な商品が次々と売れていく。
(店員)まあ同年配の女の方が給料以上の物をまとめてお買い物になるという事は非常にコンプレックスを感じましたですね。
(取材者)もう慣れました?
(店員)ええ。
慣れまして今ではそういった事を切り離して考えられます。
売り場の華やかさに比べて彼女たちの食堂には一種独特の熱気が籠もる。
BGの生活本能が飾らない姿を見せるからだろう。
BGは職場向きと個人向きの2つの顔を持つ必要がある。
しかしここでもあまり個性を発揮し過ぎる事は禁物だ。
何しろ競争相手が多いのだから。
何事もマネキン人形のように身だしなみをよくしている事である。
一方サラリーマンはと見ればこれもさほど気楽な稼業ではなさそうだ。
こんな窮屈な思いをするくらいなら何で田舎の学校の教師に就職しないのかと漱石が笑いそうである。
しかしサラリーマンの夢はもっと別のところにある。
この椅子の魅力。
その上には安定と自由が待っている。
8,000人の卒業式といわれるこの大学からは出世コースを目指してホワイトカラーの卵が大量に巣立っていく。
東京は大学の数学生の数ともに世界一だといわれている。
東京の胃袋はこの大量なエネルギーを飲み込んで消化してしまうのである。
胃袋の中では絶えず非人間化の過程が進行する。
人間の意思を無力化する作業である。
息苦しい職場の中でとかく自己を見失いがちな東京の生活。
そこで人それぞれに抵抗を試みようとする。
一番手近なところに酒の匂いがある。
(男1)東京の1,000万のうちの一人なんだからさ飲んでる時とかね会社で仕事やってる時にあんまり俺は俺だって感じがしないんですよね。
俺はどこにいるんだいなと考える時はありますね。
そういう時ね…。
それでねあれがねどういう影響を及ぼしたか僕には分かんないんですよね。
ちょいちょいこう自分で皮肉な目では見るんですよね。
この野郎こんな事やってなんとかごまかしてるわいというふうにね。
しかしねそれがねそれをやっぱりやっている事によってどうやらこう俺は俺だぞっていう感じを抱くんですね。
「俺いるんだぞ!」ってやつだ。
若者たちはもっと感覚的に自分たちの世界を作り出す。
彼らのたまり場では夜通しモダンジャズがリズムをかきたてる。
彼らもこうやって自己の発展に努めているのだろうか。

(男2)日本…現在東京に住んでて東京が嫌になるっていうともう逃げる道ないしね。
もちろん東京で生活するとね実際地方行くともう生活できないからね。
本当に僕なんかもう3日。
3日ぐらい。
もう嫌で嫌で東京帰りたい。
…で東京来るとまたマンネリでしょ。
嫌でしょ。
…で逃げるとこないでしょ。

(男3)思想なんか作ってたって追いつかねえもんな。
作んない方がいいね。
銭の方がいいよ。

(男4)僕は本当にねもうブラジル行きたくてしょうがないの。

(女1)住宅?住宅は関係ない。
自分のうちがあるからいいんだ。
うん。
ありゃあいい。
誰でもなぜ東京にはこんなに人間が集まったのだろうと一度は考えたに違いない。
ここに一つ答えがある。
それは東京の生活水準がほかの地方より2倍高いという事実なのだ。
人間はより高い生活を求めている。
水が低きについて流れるように人は生活の高きを追って集まる。
東京ほど今の日本の中で人間の生活本能を満たしてくれる都会はない。
ただ上を見れば限りがないのが東京だ。
手が届きそうでかなえられない望みは時として楽しみから苦痛に変わり心を狂わせる。
そんな満たされた生活の主人公は一体誰なのだろう。
東京には私たちにとってぜいたくなものが多すぎはしない。
また私たちの生活に必要なものが欠けてはいやしないだろう。
東京は1,000万人の都民がかくあれかしと願う姿になっているのだろう。
去る2月1,000万人の東京が誕生するまで私たちは数々のつらい経験を乗り越えてきた。
この歳月を振り返る時私たちは東京の復興がいかに急速なテンポで進んだかを改めて思い出すのだ。
都市計画の理想もこの速力の前には入り込む余地がなかった。
都市計画の青写真は今までにも数え切れないほど作られたがその度に一人で膨れ上がる東京の現実に追いつけなかった。
東京のエネルギーは都市の理想図を全く無視して無謀なほど多くの人口を吸収していった。
国会議事堂を中心としてあらゆる政府機関が東京に集中した結果それに伴う数十万の人口に生活の手段を与えた。
大工業地帯が戦災で壊滅したあとシャボテンのように不格好な中小工場地帯が密集した住宅の中に復旧した。
教育機関も東京に集まった。
街の騒音に取り囲まれながら東京の大学という響きが平均の重みを持つ世の中では学生が集まる一方だった。
こうして徳川幕府以来の中央集権的な社会構造が鮮やかに再建されその中心に東京は座を占めたのである。
成長期の子どものように何でもガツガツと飲み込んだ東京は反面人の住みにくい潤いのない街になってしまった。
何か大事なものを忘れているのである。
下町に行くと昔懐かしい風景の数々が残っている。
例えば浅草の観音堂。
ここには土に染みついた人間のにおいがある。
境内にしつらえられた護摩は線香の煙が万病に効くという言い伝えがあって一年中人足が絶えない。
ビルの中や酒場の都会人の息苦しい表情に比べてここには人間のふるさとを思わせる温かさが残っているようだ。
てんびんを担いで魚を売って歩くこの商売を魚屋仲間では方角師と呼んでいる。
方角師とは今日は東明日は西と足の向くまま商売をして歩くところから起こったものだろう。
東京には方角師はもう12〜13人しか残っていない。
うらいさんはその数少ない一人である。
(うらい)そうですね。
まあ我々たちには売って歩いてるのにはまあ昔の方がいいね。
危なくなくのんびりとお客と商売ができるからね。
今なんかそばへ買いにうちのとこ…玄関先の所へ買いにつけてもどこから自動車が来るか分かんねえからおちおち品物を買いにかばうんでお客と話している形勢がないもの。
あんまり…。
ぐずぐずしてられないもの。
そうでしょと思うんだわね。
実際昔なら「買ってくんねえのか?いけねえのか?奧さん!」ってこう言わなくても「おばさん!」ってこう言って「カニ買ってくれよ」ってこう言えるけどさ今そうじゃないよ。
今のまあ…「はいじゃあ奧さん。
カニでもいきませんか?」と言ったら「カニは高いからね」ってこういうふうに一言に言うからね。
うらいさんは佃島に生まれて佃島で育った根っからの江戸っ子である。
佃の人は大半がうらいさんのような土地っ子で死んだら郷里の田舎にお墓を建てるというような人はほとんどいない。
町並みは東京で最も江戸の面影を残している。
だから自分たちの町を大切にする気持ちを持っている。
しかしこの町もだんだん変わろうとしている。
ある奧さんはこう語る。
(女2)変わっていくと思うんです。
その事に対して別に建て替えちゃった方がいいとか急に変えるというような事もなくて別にそれが悪い面だった訳じゃないですか。
自然に残っていれば名残としてあるだけでやっぱり自然に変わっていく事には抵抗もできないんじゃないかと思うんですね。
ですから橋が架かればそれだけでも今まで続きの所はその橋一本だった訳ですね。
ですからそこらに物を出しておいても無くなるって事もなかったし鍵を掛けないで寝ても泥棒が入るって事もまずない訳ですね。
ところが橋が架かって地続きになればそういう事できませんでしょ。
普通のとこと同じように自然に変わってくる訳じゃないんでしょうか。
この町ではつい先頃まで戸締まりの必要がなかったというよそ者のいない町だ。
しかしやがて隅田川を渡る橋が来る。
佃にとって橋は文明の象徴である。
毎日何千台という自動車が通るといっぺんにここも変わってしまうだろう。
先日町会が開かれて橋が架かった時の心配を相談した。
皆子どもの時から友達づきあいの人たちだ。
当人同士ばかりかお互いに先代先々代から同じ町内の人間として助け合ってきた。
だから発音も遠慮がなく議論百出である。
子どもと交通事故の問題。
駐車場の対策。
文明はやっかいなものを持ち込んでくる。
しかしほかが変わってここだけが変わらなければいつか取り残されて史跡になってしまうだろう。
東京に住む人は時の流れから身を避ける事はできない。
東京は動く都会だ。
歴史と共に動き日本の歩みと共に動いている。
江戸はもう帰ってこないだろう。
人類の歴史が水と共にあったように都会の発達も水に沿って起こった。
東京では今盛んに川が埋め立てられていく。
日本橋も新しい国道の通路に当たって堀が埋め立てられている。
文明とは破壊なのであろうか。
コンクリートと鉄で固められていく都会には水や緑や土の香りは再びよみがえらないのだろうか。
ここで私たちは東京の未来についてのもう一つの可能性を期待する。
それは政治への期待である。
東東京都知事は2年前ずぶの素人から一躍日本中で最も重要な政治家の一人になった。
それだけに理想もあり悩みも多いと自ら率直に現状を披瀝してくれる。
(東)現在あまりに当面の問題に追われてね。
当面の問題というのは例えば道を1つ造るにしても何にしても折衝交渉が大変なんだな。
そういうような事も時間とエネルギーを消耗させられるんです。
もう既に数年前からね東京は今に人間が集まり過ぎると。
その集まってくんのは理由があるんですけどね。
そりゃ東京に来れば何となく生きていけるっていうかね。
まあアリが蜜のとこに集まってくるようにとにかくみんな東京っていう街は嫌な街だ嫌な街だと言いながら集まってくるとこを見ると何とも言えん東京には引力があるというかな。
だから増えていきますよ。
何としたってこれは増えていきますよ。
だから結局プラスの引力の中心を砕いて分散するっていう事のほかに方法はありませんよね。
もっともっとほかに東京と同じようじゃなくてもいいけどある程度大きな引力が日本全国にたくさん増えてくりゃね。
1,000万人に膨れ上がって独自の意思を持ち始めた東京。
その巨大なエネルギーの前に人間は小さく無力にさえ見える。
東京はどうあるだろう。
そしてそこに住む人間は果たして私たちの知恵は東京の意思を征服する事ができるだろうか。
将来の不安解消のために勇気を奮ってやる。
物質文明の中で1,000万人の東京は機能をまひさせて落日のように衰えていくだろうか。
それともまた混乱の中から新しい人間的な都市像を生み出すだろうか。
「一千万人の東京」からご覧頂きましたけども何か印象に残った映像とかありますか?髪形ですね。
当時はBGといったんですけどOLの方の事なんですけどその方のヘアスタイルが大体よく似てるんですよ。
皆さん。
ええそれがちょうど東京オリンピックのバレーボールの選手の主将だった河西昌枝さんの髪形とそっくりなんですよね。
という事は河西さんその影響下にあって地獄のような練習をしながらあの髪形だけは絶対に監督から守ったと。
それから爪も伸ばしてそれも守ったと。
それ以外のところでは全てをバレーボールのために犠牲にしたとおっしゃってましたけれどあああの髪形なんだと思いながら。
山崎さんどうでした?どんなふうにご覧になりました?オフィスに働いている人たちの無表情さはやっぱり今の東京とは違う無表情さでしたね。
もう表情何にもなくそしてデパートの1階で「皆さんに飛び切りの笑顔を」って言ってる女性が全然笑ってなかったですよね。
笑っていそうだけど目は笑ってない。
笑ってないですよね。
ああいう…もう少し表情ってやわらかいもんなんじゃないかなと思ったんですけど。
要するに仕事をしながら笑ったりするのははしたないと。
やっぱりそうなんですね。
そういう文化がまだ残ってたのがそれがこの60年代に入れ代わり始めるんじゃないかな。
ああなるほど。
それに引き換えて夜飲んでる時の人の表情ってのはだいぶやわらかいしそれからお昼ごはん食べてる時の女性の表情もやっぱりかなりうれしそうでしたからオンとオフをかなり切り替えてるなという印象がありますが。
一番やわらかかったのはやっぱり佃島の人たちでしょうね。
東京の中にもやっぱりああいう笑顔だったり表情できる場所があってそれが徐々に徐々になくなっていってオフィスの顔へいくっていう事をかなり進めていった時期だったんだろうと思います。
さあそれにしてもその東京引力と言いましょうか言い方もありましたけれどもこれだけ東京急激に膨張させたそれは何だと関川さん思われますか?一番大きな原因は人口増ですよ。
とにかく当時の恐怖というのはこのあとの時代の方がもっと甚だしいですが人口圧力で日本は駄目になるんじゃないかってぐらいに。
要するにこの時代で大体年に100万人増えてたんですよね。
政令指定都市が1つ半ぐらい。
その中のパーセンテージとしては大きいけれど30万人ずつ東京に来てた。
あと産業構造の変化とかそういうのはどうなんでしょうかね。
それは大きいですよ。
皮肉な事ですけど農地解放をしたおかげで耕作面積がものすごく小さくなったんですよね。
そのあとで要するに日本の場合手間がかかる農業林業ですからどうしたって値段が高い。
そこに貿易自由化が絡むと産業としてはちょっとなかなか立ち行きにくくなる訳ですよね。
だからその意味では東京に人口が増えるのは東京の引力もさる事ながら極めて自然な事です。
関川さん高校卒業後上京された訳なんですけどもどうでしょう?実際に東京に来られて魅力と言いましょうかどんなふうに感じられたのか。
僕はあんまり田舎で暮らすつもりはなかったのはさっきも申し上げたように僕は芸事が好きですから芸事の中心に行きたかったってだけですよ。
東京に行けば名画座とか映画も見られる訳ですから田舎だと当時はまだ映画館ありましたけど全部封切館なんですよね。
我々は昔の映画を見たいんですよそれを2本100円で見たいと。
それは東京にしかないだろう近くにはね。
だからそれは大きい。
だからそういうふうな文化的な吸引力もかなり強かったと思いますよ。
映画とか音楽とか美術館とかそういうものに引かれて私どもは来たけれどでもやっぱり地域にいるといろんな何かちょっと窮屈なところもあったんでその辺りいかがですか?まあ窮屈といえばそれはあれですよね。
全員が知り合いで何かね窓の外を見張ってるようなおばあさんがいるとかね。
それは多少窮屈だよね。
昨日どこで何をしたかってすぐ知られてしまうんですよね。
そうそう。
それはちょっとうるさいですよ。
だからといって何て言うか東京に行って彼らのように酒場に行ってセロニアス・モンクのジャズに浸りたいとは思ってなかったけどね。
東京出てきたらどうでしたか?やっぱりそれは相当自由な感じになりました?自由と孤独だろうね。
あとは貧乏だよね。
仕送りをなんとかしながら暮らしていく訳だから。
この3つは経験したんだけどでもそれは当然の事だろうという認識はあった。
ああそうですか。
自由と孤独。
人のつながりという意味ではどんなふうにお聞きになりました?多分みんなで何か一緒になって活動を起こしていくとかみんなで自分たちの安全を守っていくとかある種の安全というだけではなくて安心感みたいなものを作るのは難しい街になっていたのではないかなと思いますね。
だから働く場所もあるし一緒に働いている人もいるし周りにはいっぱい人がいるんだけど安心できるっていう感じはすごく作りにくいという街になっていったのは東京なんだろうと思いますね。
あのころ既にという事ですよね。
佃島の話をお聞きしてると本当にそれを感じましたね。
それより少し前の江戸から入ってきた東京の場合は安全であるという事をお話されてましたけれども泥棒も入らないしっていう。
でもそれだけではなくて心底安心している何かがあったんでしょうね。
それがやっぱり安心できなくなってくる。
これはいくら監視カメラをいっぱいつけても安心できないものは安心できませんからそういう街に変わりつつあった時代なのかなっていう気がしますね。
ここまで膨張する東京を見てまいりましたがその一方で地方では人口の流出が始まっていました。
実際に1964年にNHKが放送した番組の多くで過疎化ですとか出稼ぎなど地方の問題が描かれています。
続いてはそうした番組の一つ。
「日本の素顔廃屋の村」からご覧下さい。
なお番組中現在の放送では使っていない表現が含まれておりますがそのまま放送致します。
人知れず村が絶えました。
長い間人の喜びや悲しみの歴史をつづってきた家々が雪山の深い霧の中に音もなく崩れていきます。
凍りついた幻のように魂を失った死骸のように廃屋は醜いむなしさをさらしています。
再び訪れる人もなく底知れない不気味な静けさの中で生活のぬくもりが冷え過去の全てが埋もれていきます。
大勢の人の長い間暮らしてきた村が突然滅びていくという到底信じられない現実が今我々の目の前でしかも全国各地の山村の部落で相次いで起きているのです。
奈良県宇陀郡榛原町荷坂部落。
この村は三重県との境に近い山間の部落で1,000年を超える歴史を持つといわれます。
かつての戸数は19戸。
人々はイノシシの害に悩まされながら平均50アールという狭い耕地で農業を営んできました。
しかし農業だけでは自給自足が精いっぱいだったといわれ村人は周囲の山林労務に出かけて現金収入を得ていました。
ところが昭和34年伊勢湾台風で村は大きな被害を受け多くの田畑が失われました。
村が崩れ始めたのはちょうどそのころだったといわれます。
村の人たちは先を争うように家をあげて村を離れていきました。
離村の嵐が去ったあとには7戸の家族と12戸の廃屋が残されました。
しかも残った家族のうちの半数以上が既に村を去りました。
村の消滅の時はもう目の前に迫っています。
中国山地の深い山ひだに張り付いたような村。
広島県山県郡戸河内町田代部落は去年の暮れ最後の家族が去ってついに全くの無人部落になりました。
かつてこの土地には14世帯50人の人たちが住んでいました。
町に通ずる20kmの山道は冬には雪のために決まって途絶するという文字どおりの僻村の地です。
冷害と雪害と極端な生活の不便。
しかしここには600年に近い村の歴史が築かれてきました。
それは暗いあまりにも長い歴史だったに違いありません。
家や土地の買い手があろうはずもなく村は風雪の中に朽ち果てていきます。
全ては戦後それも実際には昭和36年から僅か2年間に起きた出来事でした。
戸河内町に隣り合わせた加計町都賀尾部落。
雪に埋もれた廃屋の村にただ一戸取り残されたように生活している家族がありました。
この5年間に20戸の家族が村を去り佐々木さん一家3人だけが残されたのだという事です。
農民はあらゆる苦難に耐えて土に生きるといわれてきました。
確かに農民は信じられないほどの険しい山を開いて田畑を作りその実りの少ない土地にしがみついて生きてきました。
今離村が雪崩のように起きている所はそうした山深い秘境ともいえる山岳地帯の農村です。
私たちが取材した中国地方や近畿地方の山村をはじめとしてこうした激しい離村現象は北陸中部そして四国地方など全国的な広がりを見せ始めています。
しかしその実態はまだほとんど分かっていません。
村を捨てた人たちにその動機を尋ねますと答えはいつも決まっています。
子どもたちが学校に通うのが大変である。
作物が実らない。
大雪が降る。
サルやイノシシが作物を荒らす。
急病人が出た時に困る。
町に遠いため文化生活ができない。
どれを取ってみても当然すぎるほどの理由です。
しかしそれらはどれも今突然起こった障害ではありません。
山の村は遠い昔から険しく冬には必ず雪に埋まったはずです。
そうした苦しい生活に1,000年近くも耐えてきた村が今現在突如として耐えられなくなったのにはもっと深い訳があるに違いありません。
大阪まで50分。
一昔前までは忘れられていたような田舎の駅に今では急行電車が止まるようになりました。
都市が労働力を求め農村の労働者が洪水のように流れ始めたからです。
都市と農村の労働条件の格差。
そして何よりも所得の格差がこうした現象を生み出しました。
それは確かに山村崩壊の最も大きな原因であったに違いありません。
しかし程度の差こそあれ農業と工業の間には昔から所得の格差があり都市は幾度も農民の力を求めました。
その度に農民は出稼ぎという形で都市に労働力を提供してきました。
しかしいまだかつて一度も山村が崩れ去る事はなかったのです。
日ごとに寂れていく山奥の町。
組合の赤字も人口の減少とともに増えていきます。
農協の売店には荒物雑貨の類しか見当たりません。
食べ物は売れる前に腐ってしまうのだという事です。
こうしたあまりにも激しい山村の離村現象はそれを取り巻く社会情勢の変化もさる事ながら農村社会自身の内側に更に大きな原因が潜んでいるといわなければなりません。
つまり農家を土地に縛りつけ束縛してきた力が今なくなった事が人々を離村に踏み切らせた決定的な理由だと思うのです。
広島県戸河内町農協専務のこうのさんは更にこう考えます。
この学校は40年前に建てられ小学生と中学生合わせて30人を教育していました。
しかし今中学生は一人もなく中学校は閉鎖されました。
小学校の教室では3人の児童が勉強しています。
6年生のまえたみこさんとその妹で4年生のよしこさん。
そして3年生のふじたたかのり君。
これが横川小学校児童の全員です。
そしてもう一人たかのり君の妹のさちこちゃんがまだ学校に上がる前ですがうちにいても遊び相手がいないためみんなと一緒にこの教室に通っています。
先生の方は担任のきぬい先生とその奥さんそれに校長先生を加えて3人。
つまり先生3人に生徒3人の学校です。
教室の壁にはかつての生徒の家を書き込んだ地図が貼ってあります。
しかしこの2年の間に名前は次々に消されていきました。
お別れの会が毎週のように開かれたといいます。
村を去った人たちは自分の子どもたちの幸せとよりよい教育を求めたに違いありません。
しかしその結果この子どもたちは教育の場を奪われてしまったのです。
村を去る事は残った村人を置き去りにする事です。
不自由な生活から抜け出せばそのあとには更に不自由な生活が残ります。
村が崩れ始めたら途中で止まる事なく次第に速度を増して一挙に崩れる謎はこうした理由によるのだといえます。
確かに長い間かかって村が滅びたという話を聞きません。
廃屋の村は短い時間にこつ然と現れるのです。
我々は更にそうした悲劇を実証するもう一つの現実をここに見る事ができます。
ここも中国山地の深い奥地の村。
島根県匹見町広見部落。
ここでは今から10年前に30戸の村人が力を合わせて自家発電装置を完成。
老人は長生きを喜び村人は文化の光に涙を流し村の一層の発展を誓い合ったといいます。
しかし今喜びの火は再び消えようとしているのです。
この村では去年1年間に27戸が家をあげて村を去り7戸が残されました。
発電設備に要した借金もまだ払い終わっていない上に維持費が残った7戸の上にかぶさってきたのです。
7戸だけでは到底この発電設備を維持する事はできません。
村人は寄り集まってその悩みを書き記しともし火を消さないでほしいと町当局へ救いの陳情を続けているのです。
この町工場には山村から移住してきた2組の夫婦が働いています。
日給は手当を含めて男が1,100円女が700円ぐらいです。
夫婦合わせると月に5万円を超えるといいますからかつて山で山林労務に出て2万円程度の収入であった事を思えば倍以上の収入の増加だといいます。
しかしこの人たちは特に恵まれた例だと言わなければなりません。
多くの人たちは特別の技術や知識を持たず年齢も多いために臨時工や日雇いという不安定な形で就労しています。
去年の暮れ無人の部落となった広島県戸河内町田代部落の人たちは町に移住してきてからも時折報恩講という集まりを開き先祖の供養をしています。
人々は都会生活の困難を語り合い見捨ててきた故郷に今更ながら限りない郷愁を寄せるのです。
ここでは苦しみと貧しさにあふれていたはずの村がさも幸せな楽園であったかのごとくに語られます。
旧正月の元日廃屋の村にささやかな行列が続きました。
村を挙げての初詣に6人の大人と1人の子どもが参列しました。
これが参加できる村人の全てでした。
村の氏神は特に信仰のあつい氏子たちに守られ1,000年の歴史を築いてきたといわれます。
かつては100人を超える氏子でうずまったという境内も今はがらんとしたたたずまいです。
村を去った者は都会の孤独の中で失われていく故郷に限りない郷愁を寄せ残った者は崩れ去る歴史の重みに耐えかねています。
しかし村を守りたいという全ての人々の願いをよそに山の村は確実にしかも急激に滅びていきます。
それは人の力を超えた大いなる時の流れというべきかもしれません。
しかしその事は同時に山村に対する政策の不在をも意味しているのです。
村の人たちは再び巡ってきた新しい年に一体何を期待し神の前にどんな事を祈ろうというのでしょうか。
「廃屋の村」からご覧頂きましたが関川さんいかがでしたか?ここの番組で感じたのは村というコミュニティーは全体でそれまであった全体で一つなんですよね。
全体がそろっていて屋根ふきができるし雪かきができるしお祭りができる。
言いかえると誰かが欠け落ちちゃうとそれ全てできなくなるんですよね。
もう既に分散が始まっているからそうなった場合には全ての村の行事ができなくなるんですよね。
だから先はあまりないだろうという悲しみを感じましたね。
いかがですか?山崎さんは。
僕は本当にだからいろんな地域行かして頂いて高齢の方々に聞く話を映像で見て本当にこういう状態だったんだというのを実感しました。
実際に聞かれたりした事もあるんですか?そうですね。
昔はなこんなに大変だったという話を聞きますので。
ところが皆さんお話しするあとに映像にもあったとおり大変だったけどこういういいところもあったという話に徐々に徐々に移っていくんですよ。
何か温かい感じになっていくんですね。
我々はその話聞くと最後の方は温かい気持ちになってて「どうもありがとうございましたいいお話お聞きできました」と言って帰る頃には何となく昔もいい雰囲気だったと…。
思ってしまうけれども実はこういう厳しい現実があったという。
もう一回改めて映像で見てみるとやっぱり非常に厳しい時代があったんだなというのを再確認しましたね。
何がやっぱりそんなふうに温かい気持ちになるんでしょうね。
一つは懐かしみだと思いますね。
大きく昔のいい思い出だけがず〜っと残っていますのでそういう懐かしい事っていうのを今の生活と対比させてどこが足りてないかっていうとやっぱり先ほどの話にあったように火を囲んでいろりでいろいろな話がざっくばらんにできた。
みんなが息子も娘も個室に入っちゃったりあるいは都会に出てっちゃったりする事なく…。
みんな一緒だった。
そういう時代。
あの辺りは懐かしみとして言葉に出てくるんだろうなという気がしますね。
過疎という言葉が出来たのはちょうどこのころなんですがこの50年を考えてみますとさまざま地域振興策がありまして成果もあったかもしれない。
そして限界もある。
その辺りはどんなふうにご覧になりますか?成果としてはいろんなものがあったと思いますしいわゆるハードのインフラですね。
交通もかなり便利になったとは思いますしいろんな物流が隅々まで行き渡るようになってきたと思いますのである一定の成果はあったんだろうと思いますが。
ただ道路が通れば結局自分たちの村に何かが来るのと同時に村の人たちはどんどん外へ出ていっちゃう事になる事もありましたのでこの50年やってきた事にうまくいったところとうまくいかなかったところが常にセットで現れてきたんだろうと思うんですね。
その結果うまくいかなかったところがどんどんどんどん積み重なっていって今の日本の集落の状況になっていってるんだろうと思います。
それと同じようにちょっと波があってやっぱり田舎へ帰ろうとかこれからは地方の時代だっていう掛け声が何年かごとに起きるんですよね。
そうですね。
ふるさと回帰運動とかいろいろありましたからね。
起きては挫折するっていう事が何度も繰り返されてきたなという気がしますね。
それはなぜなんですかね。
やはり情報っていう事が一方向だったので双方向になるまでの間はやはり情報を知れば都会の方に見に行きたくなっちゃいますしテレビが映ればそのテレビの先で起きてる事を見に行きたくなりますから一方向の情報の時はその情報によって集落から人が出ていってしまうと。
ネットが出来てから普及してからはだいぶ変わるんじゃない?だいぶ変わると思いますね。
やっぱり先ほどの一方向だったものが双方向に変わってきましたのでそういうネットでいろんなものが注文できるようになってきたりそれからそういうものがちゃんと手に入る事になってそして田舎暮らししているところの本当の部分を情報発信できるようになってくるとやっぱりそこの層みたいなのが無くなってきてちゃんと分かった上で集落に入っていこうという人たちが増えてくるという事は今起きていると思いますね。
そうすると今のそういう動きはどうでしょうか?例えば僕は1週間前ぐらいに徳島県の神山町という所にお邪魔したんですね。
徳島市内から30分ぐらい車で山の中に行く所なんですが東京や大阪に本社があるような事務所のサテライトオフィスが今続々と集まっている場所でして光ケーブルでとっても速い高度な回線が引かれているという事が大きくて東京の例えばテレビの番組を作っているような所のサテライトだったりとかいろんな仕事ができるようになってきてると。
わざわざ東京の丸の内や新宿の高い家賃払ってあんなにぎゅうぎゅうな所でやらなくてもいいんじゃないかという人たちが仕事をするようになってきた。
自然の中で。
ネットを通じてまたそれは情報として。
それが双方向になると逆に都会から田舎に行ってもいいなと思う人たちが増えてきたというのは実は田舎には固定費が安くて済む家があるんだとか。
自然もあります。
自然もある。
それから農協や流通業者を介さなければとっても安く農産物を仕入れる事ができる現実を知ったりした人たちがやっぱりそのまま地域に入り込んでいってそこで小さなカフェーをやり始めるというような事も起きてますね。
これは山奥にカフェー作って食っていけるのかとみんなが心配するんですが6割の売り上げは作ったクッキー等のインターネット販売だというんですね。
(2人)なるほどね。
やっぱりその地域のおじいちゃんおばあちゃんが育てているような自分用に作った有機的なショウガをジンジャークッキーとして練り込んだり安全安心の農作物で地域の方々に買ってもらえるような加工品を作っていくという事で結構豊かに暮らしている都会から移住した人たちが増え始めてますね。
それをもたらした条件というのはいろいろあるんですが一つはやっぱり道路インフラを70年代から80年代にかけてすごい整えた事。
それが成果として大きいでしょうね。
あれがないとちょっとそういう山間部には行けないしね。
そういう中でじゃあ具体的にそれを推し進めていくには何をどうしたらいいと思いますか?一つは地域の人たちのつながりをもう一度かつてとは違う形で実現させていく必要があるでしょうね。
やっぱり集落で運命共同体のように誰か一人欠けたら駄目だというつながりの中ではかなりのプレッシャーがありますしみんなもう今はそういう事を我慢するというのもなかなか難しくなってきてますからそうではなくてある程度個人主義は受け入れた上でだけれども協力する時は一緒に協力するよというつながり方の練習というのをひょっとしたら集落にお住まいの方々自身がやっていかなきゃいけなくなるのかもしれないと思いますね。
あれですか?村のお祭りはしないんですか?やります。
やってます。
それはすばらしいね。
特に神山が面白いのはあんまり締めつけたら人がいなくなるって事を何年も経験で分かっているので割と緩〜くお祭り参加したかったら来て下さいという感じで接しているのもうまいところだと思いますね。
最後になりますが2020年のオリンピックをきっかけに変わろうとしている東京ですがこれからどんな街になっていってほしいと何が必要だと思われますでしょうか?もうあるべきものはみんなあるから特に欲しいものはないというのが本当のところじゃないですか。
ただ一番足りないのは何て言うか青年と中年の人材なんで外国の方がオリンピックを契機に日本見物をしてできたら居ついてもらった方がいいのかもしれないというふうには思いますよ。
やっぱりつながりは相当足りてないような気がします。
人と人のつながり。
はい。
だから若い人それから高齢の方いろんなタイプの世代の方もいるしひょっとしたらこれからいろんな人種の方も来ると思いますが来ただけではなかなかこれが機能しないという事になりますからこの人たちが一体どこで出会ってそしてどれぐらい心地のいいつながりを作ってしかしあんまり束縛されないで過ごしていくのかという仕組みを緩やかに作っていかなきゃいけない気がするんですね。
今はまだその出会うところがなかなか少ないのとつながるきっかけがなかなかないですね。
「よろしくつながりましょうよ」っていうふうに握手をしようとすると多分怪しまれますよね今の東京はね。
お祭りとかお神楽とかお芝居はいいんじゃない?いいと思いますね。
ある期間を決めてみんなで一緒に仕事をする。
そこだけやってくれればいいみたいな。
まさにそうだと思いますね。
東京で一時期隣人祭りというのをみんなでやろうっていって…。
隣人祭り?隣同士の祭り。
そうですね。
別に祭りの日ではないんだけれども隣近所の人誘ってちょっと何か楽しい事やりましょうよというのを小規模でいろんな所でやりましょうという事をやり始めた人たちがいましたね。
持ち寄りで何か一緒に話してどんな仕事してんのか今何に興味あるのかという話しては解散できると。
でも時期が来たらまた一緒に集まって何かやると。
こういうところから安心感みたいなものも生まれてくるでしょうしひょっとしたら新しい仕事を共同で起こしちゃう人が出てくるかもしれない。
そんなきっかけが今の東京にはもう少しあるといいんじゃないかなと思いますね。
本当に今日はどうもありがとうございました。
今日はお二方にお話を伺いました。
ありがとうございました。
2014/09/23(火) 13:50〜15:00
NHK総合1・神戸
NHKアーカイブス「シリーズ1964 第2回 変わる東京〜五輪景気の光と影〜」[字]

シリーズ1964、2回目は、東京五輪に向けて建設ラッシュと人口膨張が続いていた東京と、その一方で過疎化が始まっていた地方の現実を見つめる。高度経済成長の光と影。

詳細情報
番組内容
【ゲスト】ルポライター・作家…関川夏央,コミュニティデザイナー・京都造形芸術大学教授…山崎亮,【キャスター】桜井洋子
出演者
【ゲスト】ルポライター・作家…関川夏央,コミュニティデザイナー・京都造形芸術大学教授…山崎亮,【キャスター】桜井洋子

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ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
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ドキュメンタリー/教養 – インタビュー・討論

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz

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