沖縄本島から北へおよそ300km。
鹿児島県悪石島沖。
この海の底に一隻の船が沈んでいます。
太平洋戦争のさなか沈没した対馬丸です。
昭和19年8月。
沖縄から疎開する子どもたちを乗せた対馬丸は長崎に向かっていました。
その途中アメリカ軍の潜水艦によって撃沈されました。
乗っていた子どもや教師など1,500人近くが犠牲になりました。
しかしこの悲劇は戦争中秘密にされました。
沈没後も疎開を進めるため日本軍が箝口令を敷いたからです。
戦後も沖縄の遺族や生存者たちは対馬丸について口をつぐみました。
しかし沈没から70年がたち変化が起きています。
81歳になる対馬丸の生存者です。
初めて自分の体験を手記に記しました。
99歳のこの女性は母に疎開を勧め対馬丸に乗せた事を今も悔やんでいます。
対馬丸の悲劇は多くの命を奪っただけでなく残された人の心に消えない傷を残しました。
戦争が残した傷痕を見つめます。
対馬丸の記憶を後世に伝えるため10年前に設立された記念館です。
修学旅行の生徒など年間1万5,000人余りが訪れます。
記念館の壁には犠牲になった人たちの遺影が並べられています。
子どもたちの遺品も展示されています。
この筆箱は小学3年生の女の子のものです。
疎開先に別の船で運ばれ親元に返ってきました。
女の子のお姉さんが使っていた書き取りのノート。
勉強が大好きで荷物の中に大切にしまわれていました。
遺品はあまり多くありません。
ほとんどが海に沈んでしまったためです。
しかし今年に入ってから記念館には遺族や生存者から写真や手記が次々と寄せられています。
当時中学1年生だった女の子の遺影。
4歳下の弟が寄贈しました。
なぜ70年たった今人々は遺品や手記を寄せたのか。
今年寄贈された生存者の手記です。
「その瞬間船全体が一斉に人々の悲鳴とお互いを呼び合う声泣き叫ぶ人の声に満たされた」。
「兵隊さーん!!助けてー!!助けてー!!」。
「その声は今でも耳から消せないのである」。
手記を書いた対馬丸の生存者真栄城嘉訓さん81歳です。
これまで対馬丸での体験を誰にも語った事はありませんでした。
昭和19年8月21日。
当時小学5年生だった真栄城さんはこの那覇の港から船に乗り込みました。
初めて本土に行ける。
真栄城さんは遠足に行くような気分だった事を覚えています。
対馬丸による疎開が進められた背景。
それは昭和19年7月にサイパンが陥落するなど戦況の悪化にありました。
日本軍は地上戦に向け沖縄に兵力を集結。
同時に沖縄県に対し10万人の民間人を県外に疎開させる命令を出しました。
疎開命令からおよそ1か月後。
児童などおよそ1,700人が乗った対馬丸は那覇から出港しました。
しかしその時既に対馬丸はアメリカ軍の潜水艦によって監視されていました。
それまでの航海で3,000人以上の兵士を中国から輸送していたためです。
出港して2日目。
長崎に向かっていた対馬丸は鹿児島県悪石島沖でアメリカ軍の潜水艦の攻撃を受けます。
対馬丸は3発の魚雷を受け沈没しました。
この時船に乗っていた真栄城さんは必死に甲板にはい出し真っ暗な海へ飛び込みました。
「甲板上に出て来てみると子供連れの母親や赤子をおぶった親そして身内にはぐれ泣き叫びながら動き回る子供等の姿が見えた」。
「海上に飛び降り辺りを見廻すと筏に乗っている者そのまま泳ぎ続けている者無数の人達が海上に浮いているではないか」。
「今さっき飛び込んだ筈の対馬丸が大分離れているのに気付いた」。
声として聞こえる。
真栄城さんは目の前に浮いていた木箱につかまる事ができました。
次の瞬間周りの声が消えました。
真栄城さんは4日間の漂流の末日本軍の哨戒艇に助けられました。
同級生を含む1,500人近くが犠牲になりました。
しかし対馬丸の沈没は秘密にされました。
軍が疎開を進めるため関係者に箝口令を敷いたのです。
救助された真栄城さんはそのまま疎開先で過ごし沖縄に帰ったのは戦争が終わってからでした。
真栄城さんは戦後も対馬丸について口を閉ざし続けました。
遭難して例えば…殊にね帰った時期はねそんな話…もうぶわ〜っとなるぐらい。
「助けてー!!助けてー!!」。
「私は今でも当時のその情景を思い出す」。
沈没から70年。
真栄城さんは自分の経験を手記に記しました。
我々と同じ。
我々があれ見て…真栄城さんはこの手記を孫たちに読んでもらい祖父が見た戦争を知ってほしいと考えています。
今年記念館に寄せられた資料の中には亡くなった家族の写真も数多く含まれています。
対馬丸で亡くなった小波津順子さんです。
遺族はこの写真を記念館に寄贈する事をずっとためらっていました。
亡くなった順子さんが暮らしていた町では54人が対馬丸で犠牲になりました。
記念館では寄贈者に対して聞き取り調査を行っています。
(ノック)こんにちは。
こんにちは。
ああ美代さんが…。
お邪魔します。
ああ美代さんこんにちは。
順子さんの娘小波津美代さん99歳です。
美代さんは70年間母の写真を寝室に飾り続けています。
私には…美代さんは母に対し取り返しのつかない後悔の念を抱いています。
婦人会のリーダーだった順子さんは地域の疎開のまとめ役でした。
当時役場に勤めていた美代さんも疎開した方が安全だと町の人たちに勧めていたと言います。
「護送もさせる」。
しかし国が疎開を進めていたのは住民の安全のためだけではありませんでした。
当時軍の命令を受けて沖縄県が作成した文書が国立公文書館に残されていました。
「沖縄が戦場になった際老人や子どもは軍の足手まといになる」。
兵士たちが次々と動員される中食糧需給を安定させるため疎開を進める必要があると記されていました。
美代さんはこうした事情や既に10隻以上の民間船が沈められていた事も知りませんでした。
美代さんは母と妹にも疎開を勧めました。
家を守るため自分一人沖縄に残った美代さん。
母と妹は地域の住民と共に対馬丸に乗り込み帰らぬ人となりました。
住民に…美代さん最後に1つだけ教えてほしいんですけどこの前…美代さんからの答えはありませんでした。
20年間一緒に暮らしているおいの隆さんです。
(隆)だから何回も言うけどもそうやって…だからお母さんの事あんまり言わないでしょ?僕らにも。
だけど私…。
気持ちだけれども…だからあなたが悪いという事にはならない訳。
だからいいか?明日から…100歳になったからもう忘れなさい。
すいませんねえ。
美代さんは70年を経た今も自責の念に苦しんでいます。
戦争による被害者でありながら自らを責め続けてきた対馬丸の生存者や遺族たち。
子どもを引率した教師もまた同じように自責の念に苦しんできました。
5年前に撮影された対馬丸の生存者へのインタビューです。
那覇市で国民学校の教師をしていた新崎美津子さんは80人以上の教え子を失いました。
受け取ってというか…新崎さんはこのインタビューの2年後亡くなりました。
(鈴の音)新崎さんの娘和子さんです。
新崎さんは生前ふるさとの沖縄に帰ろうとせず50年以上栃木県で暮らしました。
対馬丸の事を語ろうとしなかった母。
しかし亡くなる1年前見舞いに来た息子に教え子たちの姿が見えると話したと言います。
対馬丸の子どもの幻覚の話は聞いた事なかったけど。
ここでは…。
幻覚だと諭す息子に新崎さんは「本当にここにいた」と譲りませんでした。
和子さんは母の死後遺品の中からノートを見つけました。
そこには対馬丸の事を詠んだ短歌が60首余りつづられていました。
(上野)分かりますね。
それ分かってもうちょっと胸に詰まるものがちょっとあって。
新崎さんは生前遺族に会うのが怖いと語り慰霊祭への出席を断り続けていました。
和子さんは母の思いを少しでも遺族に伝えたいと考えるようになりました。
和子さんは何人もの遺族に連絡を取りましたが会ってくれる人はなかなか見つかりませんでした。
この日ようやく遺族の一人が会う事を了承してくれました。
(ドアが開く音)はい。
上野と申しますけれども…。
あ〜はいはい。
お待ちしてました。
どうぞ。
ありがとうございます。
対馬丸で亡くなった13歳の姉の事を忘れた事はありませんでした。
(神田)ずっとずっと思いながらね小さい時から思ってたから…入っていったら…。
(はなをすする音)すみません。
あ〜姉の仲間だなと思いましたね。
(上野)あそこに写真がいっぱい並んでますよね。
神田さんは船が沈没した事を知った遺族たちが教師にやり場のない怒りをぶつけた事を話しました。
そうですね。
だけど…伝えなくちゃいけないです。
今の気持ちよ。
まず黙って抱きしめたいかもしれません。
それしかできないじゃないですか。
それしかできないと思うんですよ。
ただそれだけ。
それしかできないと思うんです。
もし今お会いしたら。
和子さんはこの秋沖縄に行きほかの遺族たちも訪ねたいと考えています。
70年たった今も対馬丸の残した傷と向き合い続ける人々。
この日母の遺影を寄贈した小波津美代さんが記念館を訪れました。
犠牲になった子どもたちと並ぶ母の遺影。
美代さんはその前で語りかけました。
お母さんの身になればね…ごめんなさいね…本当に。
長い間ごめんなさいね。
美代さんは生きている限り記念館に通い続けたいと考えています。
最愛の母を亡くした美代さんがどうして自責の念に苦しみ続けなければならないのか。
戦争が残した傷の深さとその理不尽さを対馬丸の悲劇は物語っています。
(基子)
私は去年の夏男性から金をだまし取った詐欺2014/09/23(火) 00:40〜01:25
NHK総合1・神戸
地方発 ドキュメンタリー選「対馬丸 消えない傷〜沈没70年目の告白〜」[字]
昭和19年8月、沖縄を出航した疎開船「対馬丸」は、米潜水艦に撃沈され、子どもや教師など1500人近くが犠牲になった。70年を経ても消えない戦争の傷をみつめる。
詳細情報
番組内容
「思い出すだけで体が震える」と語る生存者の男性。「疎開に送り出した子どもたちの親に顔向けできない」という思いを抱える元教師。 昭和19年、学童疎開船「対馬丸」が撃沈され1500人近くが亡くなった。生存者や遺族は心に深い傷を負い、戦後も事件について語ってこなかった。しかし70年が経った今、「記念館」に、証言や遺品が次々と寄せられている。関係者たちは、いま何を思うのか。語られなかった悲劇に耳を傾ける。
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
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