福島県浪江町に江戸時代から伝わる請戸の田植踊です
しかし突然襲ってきた津波と原発事故。
避難を余儀なくされた踊り子たちはこの校舎を後にし着のみ着のままちりぢりになりました
浪江町を含む双葉郡に福島第一原発はあります
事故から3年半。
帰還困難区域には特別な許可がなければ入る事はできません。
居住制限区域と避難指示解除準備区域には日中だけ入る事はできますが居住は禁じられています。
除染や原発の廃炉など課題が多く今の子供たちの次の世代になっても元の生活に戻れるか分からない地域もあります
(生徒たち)おはようございます。
双葉郡の学校の多くは町や村の役場が避難した先で再開されました。
しかし県外で生活を始めた人も多くほとんどの学校で生徒の数は減り続けています。
双葉郡全体では震災前のおよそ10分の1になりました
そこで双葉郡の教育委員会は福島大学などの協力を得て新たなビジョンを打ち立てました。
来年度郡内に中高一貫校を開校し復興の担い手となる人材育成を目指します
双葉郡では去年9月から子供未来会議を開催。
子供たちと教育関係者が集まり中高一貫校でどんな授業をすればよいか意見を交わしてきました
話し合いの中から見えてきた新しい教育の姿それが「動く授業」でした。
一方的な座学だけではなく自ら動き考えながら学びたいという声です。
実際の授業に先駆けこの番組では今年3月「動く授業」を双葉郡の子供たちと行ってみる事にしました。
先生として迎えたのは福島の詩人和合亮一さんです。
和合さんは高校で国語を教えるかたわら日本を代表する若手詩人として活躍してきました。
震災後はツイッターで怒りや悲しみふるさとへの思いをつづった「詩の礫」を発信。
全国から注目を集めています
和合さんはまず子供たちを外に連れ出して「動く授業」を始めました。
自然に触れながら「ふるさと」という言葉を違う表現で表すとどうなるか言葉を探していきます
探した言葉を持ち寄って最後はみんなで詩を作りました
(拍手)
そして今回は2度目の「動く授業」。
舞台は前回に続いて双葉郡と同じように豊かな自然が残る郡山市柳橋地区です
こんにちは。
(和合山根)こんにちは。
福島の子供たちの言葉を未来に残す事が大切だと考えている和合さん。
今回は子供たちに100年後に向けた手紙を書いてもらおうとしています
原発の事故を経験して何を今大切に思ってそれで何を言葉として伝えていきたいか。
あくまでも前回もそうだったんですけども100年後でも残る言葉を今回は具体的に未来の子供たちに宛てるという形で手渡すという形で想像を巡らしてもらいたいなというふうに思ってます。
授業は地域の伝統芸能も披露されるこの集会所で行います
こんにちは。
集まったのは避難生活を送ってきた双葉郡の子供たち
あっ宙君。
お久しぶり。
こんにちは。
厳しい体験を重ねてきた子供たちが100年後の福島に暮らす子供たちに手紙を書く授業。
子供たちはどんな言葉を未来に贈るのでしょうか
さあ今日はどんな授業になるでしょうか。
2回目の「動く授業」の先生をご紹介しましょう。
和合亮一さんです。
どうぞ。
(拍手)はい皆さんこんにちは。
(一同)こんにちは。
前回に引き続いてね「ふるさと」という事と皆さんの今の暮らしという事といろんな事を思い巡らしながら言葉について考えていってもらいたいと思っています。
という事で思い出してもらいたいんですけど先生の方から実は手紙を皆さんに出しました。
読んでくれたかな?読んだ?
授業を前に和合さんは子供たちに一通の手紙を送っていました
「何でも良いです持ってきてもらえませんか」。
この写真とかもな…。
(猪狩)何か友達の事を思い出せるしちょっと懐かしいなぁって。
この中に結構手紙入ってるんですけど。
(取材者)まだあるの?いや…このぐらいかな。
これとか浪江の時に仲良かった子にもらった手紙ですね。
ずっと取ってなくて今何してるかも分かんない。
まず皆さんからその大事なものを紹介してもらいたいと思います。
はいどうぞ。
私の名前は鈴木ひとみです。
私が大事なものと思っているのはこの人形です。
これは大熊町の家にあったもので小さい頃からずっと持っていたものなので一時帰宅でお母さんに持ってきてもらった時はすごいうれしかったです。
名前あるの?イチゴちゃん?あ〜かわいい。
首がすごいね。
(鈴木)かなり使ったので。
この他にもいろんなぬいぐるみがいたんですけど1匹しか持ってこれなかったんで。
やっぱイチゴを見ると他の人形も思い出します。
なるほどね。
この中では唯一東京から来てくれたんですね。
幾橋真柚子です。
富岡から持ってきたよさこいの写真です。
4月に行われるはずだった桜祭りに出るためにみんなで練習してきた踊りとかも踊れなくて唯一残ってる写真がこれだったんで。
あなたどれですか?お〜真ん中で。
スターじゃん。
浪江町出身の高校1年生の横山和佳奈です。
私が今一番大切にしているものは小学校6年間で使ったランドセルです。
このランドセルは震災があった時に学校にあったんですけど学校も津波にのまれちゃって自衛隊の方が持ってきてくれたんですね。
その時の唯一自分が請戸にいたという証拠になるものというか家にあったものは全部流されちゃったので唯一手元に残ったのがこのランドセルなので大切にしています。
いや〜…それは大事なものだわ。
浪江中学校2年の大江真美子です。
私が今大切に思ってるものはこの手紙です。
震災後に手紙交換をしてて友達今こういう事してるんだとか普通に学校通えてるんだと思って安心できて。
やっぱ手紙って大切だなと思ったから持ってきました。
そのお友達とは今は?今は手紙交換はしてないです。
引っ越しちゃったみたいで住所分かんなくなっちゃって。
メールじゃなくて手紙というのはどうして?メールだと自分で書かないで打って書くからあんまり気持ちが伝わらないって感じなんですけど手紙だと直筆で字の書いた強さとかそれで気持ちの強さとかも伝わるからいいなと思います。
なるほど。
ありがとうございました。
大事なものありがとうございました。
(拍手)え〜と今大江さんすごい大事な事を言ったね。
言葉を書く強さや大きさあるいは弱さやかすれた感じとかそういうものに気持ちが表れるんだと話してくれたんだけど先生はずっと詩を書いてきてこんなふうに思ってます。
言葉には光があるんだなと思う。
明かりがあるんだなと思う。
この辺りね今日は明るいから全ての風景見えますけど夜になったらね真っ暗だと思うよ。
だけどその時に1軒2軒明かりがあったり電灯があったりするとほっとするよね。
暗い所で「あ〜明かりついてる」「電灯ついてる」。
そこでそれを目指して行くでしょ。
言葉も同じなんだと思うんだよね。
言葉には明かりがあるんだと思います。
それで今から震災を経験して皆さんと同じその後頑張っている3人のゲストの方にお話を頂きます。
光を感じるなとかこの言葉は大事な言葉だな。
耳を相手の方に向けながら大事にお話を聴いてもらいたいと思います。
まず初めは災害救助の最前線に立った消防団の方の話です
皆さんこんにちは。
(一同)こんにちは。
ただいまご紹介頂きました南相馬市消防団長4月からなりました長澤初男です。
長澤さんは津波にのまれたふるさとの南相馬市で救助活動にあたりました
多くの遺体を収容した体験を話してくれました
ご覧のように若い自衛隊員が腰までつかってやってくれた状態ですね。
ここで夫婦含めた5人の遺体それから私の同級生。
同級生だと分からないくらい遺体が損傷というよりも分からないですね水も飲んでますし。
そのくらいの状態がありました。
そして区役所の職員1か月後に発見しまして…これは若い職員だったんですがほんとにきれいな状態でお渡しできたという事である意味では安堵したところであります。
そういう方々が無念な思いで亡くなった状態を我々できるだけきれいな状態でお返ししたいという事で頑張ってきました。
せっかくの機会ですから長澤さんに質問をしてもらいたいと思っていますが。
やっぱり私も地域が津波にのまれてしまったというのもあるんですけど捜索するのって正直怖かったりしなかったんですか?まず恐怖感というのは全然持たない。
それから遺体もいっぱい見てるわけですが嫌な思いをしたら触られないですね。
そういう怖さというものは全然ありませんでした。
ありがとうございます。
最後に皆さんにメッセージを差し上げたいと思いますが。
無念の思いを遂げた友達仲間その人たちの分生かされてる命大事にして頑張って下さい。
ありがとうございました。
(拍手)ありがとうございます。
2人目は浪江町請戸地区の佐々木繁子さんです。
佐々木さんは地域の伝統芸能を守り続けてきました
江戸時代から伝わる請戸の田植踊。
毎年2月地元の小学生が踊り神様に奉納してきました
しかし津波に襲われ請戸地区は壊滅。
更に原発事故によって踊り子たちは全国にちりぢりになりました
このまま田植踊を終わらせたくない。
それまで指導してきた佐々木さんは子供たちを集め練習を再開しました
そして震災から5か月後請戸の田植踊は復活しました。
それから全国で25回の公演を行い仮設住宅にも出向いて人々を励まし続けています
踊り子の中には家族を失った子がたくさんいます。
その中に元踊り子なんですが私にねうつむきながら「佐々木さん踊ってもいいですか」って聞いてきたんですね。
実はお父さんは町の消防団として3.11の震災の時に住民を救出してから知人の車で避難するのを最後にいまだに行方不明のままです。
私は「お父さんの供養になるから踊って」ってお願いしたんだね。
仮設住宅のおじいちゃんおばあちゃん皆さん話を聞くと「ああこんなにちっちぇ子供がな頑張ってるのに俺らだって生きてかなきゃなんねえ」ってすごい生きる力をもらったよという言葉を頂きました。
あ〜ほんとにこれやってよかったなって自分も生きる力をもちろんもらってますし続けてきてよかったなというのがありますね。
是非その唄を。
披露してよろしいでしょうか?披露して頂けるんですか?ありがとうございます。
震災当時の踊り子で今も田植踊を続ける横山和佳奈さんと一緒に唄を披露してもらいます
・「おしなでおしなでおしなでさ」・「エ〜エ〜一本植えて」・「これはこれは」・「千本となれや」・「かえしてかえしてかえしてさ」
(拍手)いや〜すばらしい!
最後は川内村で旅館を経営している井出茂さんです
皆さんこんにちは。
はじめまして。
井出さんは発電所の作業員などの世話をするため全村避難のあとも村にとどまっていました。
村の人は誰もいないふるさとで井出さんは村の再生を願い続けていました
福島を僕一人で頑張っても福島が何とかなるわけではないけども何とかしなくちゃいけない。
そういう思いだけでした。
5月の3日に僕はこいのぼりをあげます。
誰もいないんですよ川内村に。
僕はこいのぼりをあげるんです3匹。
悠々と泳いでる姿を見て子供たちの健やかな成長を願いました。
ただ僕はね思ったのはうちの中に一人で居るという事。
話し相手がいないという事。
表を見ると歩いているのは猫と犬。
たまに通るのは自衛隊の装甲車。
それから東京電力のタイベックススーツを着て走っている車ですよね。
こういったものを見た時に僕は川内村はいていいんだろうか。
戒厳令そのものなんです。
バリケードが立ててあってまさに戒厳令そのもので非常に孤独を感じました。
やっぱり人間って人がいないと人として生きられないんだなとその時に感じました。
その時に何をやったかというと実は僕は走りだしたんです。
当時体重90kg。
100mも歩くと腰が痛くなったり息がぜいぜいはあはあして走れない。
最初は歩いたり少しずつ走ったりしながら体重が最終的には75kgまで落ちました。
何でそういう事をしたかというと自分が自分自身であるために自分を確認するために走ってたんですね実はね。
走りながらどうかみんなが健やかで川内村に戻ってこれますようにという思いを持って走り続けました。
僕はランニングから学んだたった一つの事があります。
諦めたらゴールはないという事なんです。
諦めないで走り続ける事がゴールを引き寄せる事だしその事をね今日は皆さんに分かって頂けたらうれしいなというふうに思います。
はい以上です。
どうもありがとうございました。
(拍手)今3人の大人の方からの話を聞きました。
話を聞いてどう思いましたか?もし今がどんなに悪い状況だとしてもそれを諦めないでどんどんよりよくしていって次の世代に受け継いでいったりしていくのでそれはすごいなと思いました。
井出さんがふるさとに戻るお話をすごくされてましたけども小泉さんはどうですか?実は私の家族の中で私とお父さんは「帰りたい」って言ってるんですけどお母さんとかはもう帰らなくていいんじゃないかってなってて。
それでも私は絶対に帰りたいというふうに思ってて。
今まで帰りたいっていう思いが私たちを支えてくれる大人の方もいるという事を知ってより一層きちんと帰って自分の町を元の状態とか復興に結び付けられる人になりたいなって思いました。
はい。
ありがとうございます。
私自身最近3年もたって震災への思いがだんだん薄れてきてる部分があってそれでもテレビとかで見る度に「ああ忘れちゃいけないよな」って思う反面こっちでの生活がだんだん安定してきてる人もいるわけでその中でこれからどうなっていくのかなってすごい疑問に思ってるのが率直な今の思い。
うんうん。
はいありがとう。
だんだんとこの震災の事を忘れていってしまうんじゃないかそういう気持ちがあるという話をしてくれたよね。
だけど考えてほしいの。
その心配の裏側には忘れちゃいけない事なんだというふうにねそれはみんながそれぞれ怖い体験したり悔しい体験したり悲しい体験寂しい体験をしたから。
100年たった時に多分この世にみんなは存在していない可能性は高いですよね。
その時にこの震災をどう伝えられるんだろうか。
難しい問題だよね。
これは皆さんの問題なんです。
先生たち大人たちの問題でもあるんだけどみんなの問題なの。
このみんなの問題だという事を考えてほしいの。
ですので100年後の自分たちの未来の子供たちに向けて手紙を書いてほしい。
早速始めたいと思いま〜す。
和合さんが出した課題は「100年後の子供たちに宛てた手紙」
子供たちは便箋と筆記用具を持って思い思いの場所で手紙を書きます
100年後
自分のふるさとはどうなっているのだろうか
自分は何を伝えたいのか
原発事故で家族と逃げ惑ったあの日の事
忘れたい事と忘れてはいけない事
小学5年生の鈴木ひとみさん。
一人離れて何かを見つめています
ひ〜さんひ〜さんひ〜さん。
ペン貸して。
いいよ。
友達といたふるさとの町
子供たちはどんな思いを100年後の未来に贈るのでしょうか
これからその書いた手紙をね皆さんに読んでもらいたいと思います。
そこで一つ皆さんに更にお願いがあるのはここに立って向かっている人は今の現在の自分という事で手紙を読むんだけどこっち側を見ている人たちは100年後の世界にいると思って手紙を受け止めて下さい。
お願いします。
(拍手)「私は100年前の子供です。
緑豊かでセミが鳴いている所でこの手紙を書いています。
あなたは東日本大震災という恐ろしいものを知っていますか?それは大地震津波たくさんの犠牲者が出ました。
戦争と同じくらい恐ろしいものです。
家町ふるさとそしてみんなの笑顔が奪われていったのです。
でも支え合おう助け合おうと思う人たちのおかげで私たちは頑張れてこれました。
私が伝えたい事はこの東日本大震災の事をいつまでも忘れないでほしいのです。
大変な事があったけれど支え合い生きてきた人たちその人たちの事をいつまでも思ってほしいのです」。
はいありがとう。
(拍手)「あなたは今何を経験していますか?私は2011年3月11日に小学3年生の時に東日本大震災を経験しました。
私はあの日小学校で帰りの会をしていました。
父は仕事母は用事を済ませ家に帰ってくる途中弟は児童館そして一番私が誰よりも心配していたのが生まれて間もない妹でした。
妹は海岸近くのおばあちゃんちにいました。
私は机の下に潜りながら机の脚にしがみつき妹の名前を大きな声で必死に叫びました。
叫びながら心の中ではもう駄目だと少しずつ諦めかけてました。
でも担任の先生の指示に従いながら避難していくと避難所におばあちゃんに抱かれた妹がいました。
私はホッとしその場に座り込んでしまいました。
正直すごくすごくうれしかったです。
涙が出ました。
この時に私は改めて家族の大切さというものを知りました。
私はその日から家族を一番に考えるようになりました。
私はこれからも家族を大切にして生きていきたいと思います。
あなたも何よりも家族を大切にしていって下さい」。
(拍手)いいお手紙だね〜!妹さんはお名前何て言うの?じんと来ましたね。
感想をじゃあお願いします。
「家族はかけがえのない存在」って言ってたのが一番何か…やっぱり家族が一番大切だっていうのが分かりました。
「君は浪江町という町を知っていますか?海も山もある自然がたくさんな浪江町に人は住んでいますか?浪江町の請戸は私のふるさとです。
多分100年後の請戸に住んでいる人はいないでしょう。
場所も知っている人も少ないかもしれません。
この手紙を書いている私は今請戸の田植踊という踊りを伝承しようと頑張っているところです。
ふるさとがなくなっても10年20年いや100年後まで伝えていこうと頑張っています。
私はこの先も踊りを続けていきたい。
私はその一心です。
この手紙を読んでいる君が請戸の田植踊を知っている事を信じています」。
(拍手)「元気ですか?今の広野町はどうなっていますか?きっと頑張っている事を確信しています。
2011年に東日本大震災が起きました。
とても強い地震。
津波や原発事故を恐れ3年半ほどたった今でも住人は激減しました。
そちらはどうですか?大変だと思いますが自然を増やしにぎやかで世界に一つだけの町をつくって下さい。
次の世代にも受け継がせもっともっと進化させて下さい」。
(拍手)はいありがとう〜。
まあ先生はね「世界でたった一つしかない町」そこがすごくいいと思いました。
ふるさともねたった一つなんだよね。
「私は今天国にいる100年前の子供です。
東日本大震災という大きな地震津波がありました。
そこでたくさんの人が犠牲になりました。
大事な友達親友そして家族が亡くなってしまった一番つらい悲しい事が起こり自分のふるさとへ帰る事ができないというつらい事でした。
私は未来の人にこんな事を伝えたい。
それは『生きる事を大切に』という事です。
犠牲になった方々もまだ生き続けたいという気持ちがあったと思います。
だから絶対生きるという事大事な命があるという事を幸せだ幸せなんだなと思って下さい。
そして今生きているという事を忘れないで下さい」。
(拍手)横山さんどう思いましたか?100年後の子供たちもいろんな悩みとかあったら生きる事を放棄したいと思う人もいるかもしれないんですけどこういうのを読んで命は大切なんだって思ってくれるんじゃないかなって思いました。
うんうん。
「私は今仮設住宅に住んでいます。
休日には野菜を売りに来てくれる方や集会所でイベントを行う方もいます。
震災があってから私はこの『人と人との支え合い』を強く感じるようになりました。
今私が手紙を書けているのもその支え合いがあったおかげです。
人と人との支え合いは何か大きな事故や震災によって初めて生まれるものではありません。
友達に支えられたり親に支えられたりあるいは自分が誰かを支えたり。
その当たり前の中の支え合いをどうか大事にして下さい。
人と人との支え合いを大事にしてつらい事や悲しい事を乗り越えて下さい。
そして支え合いのおかげで震災に負けずに頑張れた人がたくさんいた事を忘れないで下さい」。
(拍手)小泉さんはふるさとに帰りたい?絶対。
という話だったよね。
私の一つの夢として「中学校の教師になりたい」という夢があってその「中学校の教師になりたい」という夢の一番の目標が新しく広野町に出来る中高一貫校で働く事なのでそういうところでまた双葉郡の人たちと長く接していきたいっていうかそういう思いがあります。
ふ〜んすごい!どうもありがとう!
(拍手)先生はこの手紙を書いてそして自分の思いを伝えるという事で今回の動く授業はもうゴールそのものだなというふうに思ったんです。
だけどもう一つ先生が感じた事は言葉に出来ないという事が必ずあると思うんです。
その手紙の表じゃなくて裏側にも本当は伝えたい事ってあると思うんだよね。
ふるさとの風景ふるさとのすばらしさそこにまだ戻れていないというつらさ悲しみかもしれない。
そういうものまで手紙に込めて書くという事は言葉に出来ない事なんだから難しい事だと思う。
だけど言葉に出来ない事を諦めない。
その「諦めない」という姿を50年後そして100年後の子供たちにみんなが見せてほしい。
それがこの震災を伝える言葉なんだ手紙なんだ手渡していきたい事なんだというふうに先生は思いました。
みんなが今日一日どんな事を感じたのか感想として聞かせてもらおうかな。
震災を経験してつらい事もいっぱいあったけど震災のおかげで分かった事とかもたくさんあったから今回の動く授業はすごくいい体験になりました。
優来ちゃんを呼び続けた。
「優来優来」って呼んでたの?すごく迫力がありましたね。
ああいう事を書いたの初めて?震災後初めて形になるものに自分の思いを表したのは初めてだったのでこれからも家族を大切にしていこうと強く思いました。
東日本大震災を忘れたいっていう大人も結構いるけど私もほんとに怖い思いをして忘れたい忘れたいって思ってたりもしてたんですけどこの動く授業として忘れちゃ駄目なんだなって変わりました。
子供たちが書いた手紙
子供たちは言葉に出来ない事を言葉にする事を始めました
「例えば100年後の福島を生きる君に手紙を書くとしたのなら何を書けばよいのだろう。
福島の風景を暮らしをふとした笑顔をふるさとの海のきらめきを光を雲を風を心を季節を鳥のさえずりを。
本当の悲しみを怒りを感謝を祈りを言葉を声を便箋の上に載せたいのだけれど私は何を君に手渡したいのか。
この心を渡したい。
そのすべてを文字にする事など出来ないけれど読んでください。
読んで欲しい。
私達の今の本当の素顔を。
未来の君に」。
福島の子供たちが体験した地震津波そして原発事故。
更にその後の避難生活の中で一人一人がさまざまな事を感じて考えていた事が子供たちの書いた手紙から分かりました。
思いのこもったすばらしい手紙だったと思います。
さて福島の会津地方を舞台にした去年の大河ドラマ「八重の桜」。
その主人公を演じた綾瀬はるかさんが福島各地を訪ねる…人々に出会って自然と文化の魅力を訪ねる旅ですが今回は下郷町の大内宿です。
大内宿は江戸時代に宿場町として栄えました。
現在は40軒ほどの店が並んでいます。
(店主)ようこそ大内へ。
こんにちは。
(綾瀬)これ何?こうやってこうやって…。
いやできねえそれ!
お客さんは震災前の8割まで回復しました
写ったかな?写ってる!いい感じに。
大内宿で綾瀬さんが見つけたのは名物のそばです。
なんとねぎを箸の代わりに使うんです
阿部大地さんは震災のあと実家のそば屋さんに戻って店の力になろうと現在修業中です
(綾瀬)これ前の方が薄い。
息子の倫人です。
こんにちは。
お子さんができて気持ちは変わったりしました?変わりましたね。
みんなに「ちゃんとしなきゃ駄目なんだぞ」とかって言われて…ママ似かな?
かやぶき屋根が連なる大内宿ですが昭和50年ごろにはトタン屋根に替える家が増えました
地元の人たちは自ら職人さんから技術を学んでかやぶきを復活させていきました
江戸時代の風景が残る大内宿。
そこで暮らす人たちの思いが伝わってきますよね。
是非皆さんも訪ねてみてはいかがでしょうか?さあ「ふくしまに恋して」のホームページでは綾瀬さん自身が撮影した写真など旅の様子を紹介しています。
そちらも是非ご覧になって下さい。
それでは被災した地域で暮らす皆さんの思い福島市の皆さんです。
苦しいけど前向きに頑張っています。
私は双葉町から避難してこの仮設で間もなく3年半近くになります。
町の復興に何年何か月かかるか見通しはないと思ってます。
それより住民個人個人が早くそれぞれの場所で自分で例えばうちを造って町が復興するまで待つ。
避難してきた農家のお母さんたちの自立支援を目標として福島の駅前通りに産直カフェーをオープンいたしました。
県の補助金でこちらのお店を運営しているんですけれども農家の皆さんを支えつつこのお店の自立を目標にしています。
県内外の方にたくさん来て頂いて…飯舘村で牧場経営をしていましたが今は福島市の復興牧場で働いています。
来年にはもう一つ新しい牧場が出来る予定です。
2014/09/21(日) 10:05〜10:53
NHK総合1・神戸
明日へ−支えあおう− 復興サポート▽未来に贈る 子どもの言葉〜双葉郡Part2[字]
福島の詩人・和合亮一さんと福島の子どもたちで行う2回目の授業。「100年後の子どもへの手紙」をテーマに、原発事故を経験した子どもたちがのこしたい言葉を未来に贈る
詳細情報
番組内容
4月に放送した「未来に贈る 子どもの言葉」の2回目。復興サポーターは福島の詩人で高校の国語教師の和合亮一さん。今回は福島の子どもたちに「100年後の子どもたちへ向けた手紙」を書いてもらう。原発事故を経験し、故郷を奪われた子どもたちが、これまで胸に秘めてきた辛い思いや悲しみを初めて文字にする。いつまでも忘れてはならないと書き記した原発事故の体験。子どもたちはどんな言葉を未来に贈ろうとしたのだろうか。
出演者
【出演】復興サポーター…和合亮一,【司会】山根基世
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
情報/ワイドショー – その他
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