道はチェルノブイリ原子力発電所へと続いています。
今年2月。
いてつく道をひた走るマイクロバスの中に日本人の姿がありました。
福島県南相馬市で米作りを続ける…無人の町が見えてきました。
28年前の原発事故で強制移住の対象となった町です。
2人はふるさとの未来を考える手がかりを得たいとこの地に降り立ちました。
目に飛び込んできたのは廃村になった自治体の名を示すプレートの列です。
墓場的な…地域がね。
30km圏内がそんな状況になってるという。
う〜ん…ちょっと自分らの現実と見るとどうなのかなって感じですよね。
墓標のような96本のプレート。
希望を求めわらにもすがる思いでやって来た旅でした。
こんな大きな原発の事故が起きた中で生きる道がどういうふうにできる…やってるのかね。
福島にどういうふうにそれが見つける事ができるのかっていう事も含めて…。
思い切って来ました。
チェルノブイリ周辺を旅して回り2人はたくさんの出会いを体験します。
放射能汚染と格闘し続けてきた人々です。
人々の表情には事故のあと28年間の苦労をしのいできた誇りや明るさも見られました。
農家の人たちが手塩にかけて育てた食べ物にはふるさとへの愛情とこだわりが染み込んでいました。
2人は更にかつて汚染度が高く農業が禁止されていた畑を訪ねます。
豊かなこの大地を取り戻すため多くの努力がつぎ込まれた事を知りました。
2人の旅はふるさと福島を顧みる旅となりました。
日本人も同じ…日本人も同じです。
福島からチェルノブイリへ。
農業再生に懸ける2人の道のりを見つめました。
今も震災の傷跡を残す街道。
福島県南相馬市は太平洋に面していたため津波の直撃を受けました。
東日本大震災で1,000人を超える犠牲者を出しました。
南相馬市は南北に長い形をしています。
南の端から福島第一原発までの距離はおよそ10kmです。
震災前7万1,000だった人口は一時に減り今も6万4,000にとどまっています。
町では放射性物質を取り除く除染作業が続いています。
しかし予定の24%しか終わっていません。
市の南部は大部分が原発から20km以内。
避難指示解除準備区域に指定され宿泊が制限されています。
この20kmラインをまたいで広がるのが太田地区です。
かつて田園風景の美しかった太田地区。
市が原発事故後3年続けて米の作付けを見送ってきたため今では雑草に埋もれています。
しかし自力で除染方法を探り試験的に米を作っている農家もありました。
杉内清繁さんです。
(杉内)どうぞどうぞ。
(取材者)そのつっかえ棒が地震の時の?そう。
これがちょっと下がってしまって戸が開かなくなってしまった。
だからスムーズに開くようにちょっとジャッキアップをして。
杉内さんの先祖は江戸時代富山から移住してきました。
飢饉の時相馬藩が移住を認めたからです。
先祖が命懸けで開拓した田畑を杉内さんは守ってきました。
現在杉内さんは米を作っていますが販売はしていません。
汚染を免れたハウスの土で野菜を育てどうにか暮らしています。
(取材者)身軽ですね。
(杉内)年に似合わず?原発事故が起きたのは取り組んでいた有機米の栽培が軌道に乗りさあこれからという時でした。
妻の和子さんと2人つてを頼って避難生活を送りました。
しかし3か月後には南相馬に帰ってきました。
出荷する野菜はもちろんね自分のうちで食べるお野菜にしても全て検査して安全を確認してからでないと食べられないしね。
この農業をやり始めてもう30数年にもなるからね。
やっぱり土をいじってない自分でないと駄目だという事が避難してた時にすっごく感じたのね。
やっぱり自分は野菜作りが好きなんだなぁって思ったから。
検査しながらでも少しずつでもいいからお野菜作りを続けていきたいなって思ってます。
ちょっとねすぐ空になっちゃうの。
5匹もいるから。
もうちょっと待ってね〜。
ネズミよけの猫です。
(取材者)ネズミが来ないって事はよく働く猫ですか?
(和子)働くかもしれない。
モグラも捕ってくるよ。
餌食べてる時だけだよなでらせるの。
収穫した春菊を出荷します。
丹精込めて作り検査も実施して福島産として売りに出します。
最近は価格が持ち直しつつありますが一時は値が4割以上も急落しました。
水田が大規模に放射性物質で汚染されたのは世界で初めての事です。
そのため対策の研究も後手に回っているのが現状です。
そんな中杉内さんは有機米栽培で培った知識や探究心を注ぎ込み独自に安全な米作りを目指しました。
杉内さんが試験的に米作りを始めたのは震災翌年の2012年の事でした。
この時もみ殻を使った除染を試みました。
もみ殻は表面に凹凸が多く放射性セシウムが吸着すると聞いたからです。
そして田んぼの水の取り入れ口にもみ殻を置きセシウムの流入を防ごうと考えました。
この年に取れた米は国が定めたセシウムの基準値を下回りました。
この放射能は何一つ分かんない。
まして不透明な部分がいっぱいあるっていうのが現実だったんでね。
それ自分も分かんない分野を誰にどういうふうにして分かるものに理解のできるものにしていくかといったらばそれまた情けなくなるようなねこんな分かんないもの。
虚脱感に陥るようなそんな感じでしたねやっぱり。
何やったらいいのか分かんない。
いやぁでも疲れますわこれね。
疲れるなぁ。
頭の中がおかしくなりそうだもん。
分かんないのにきてこんなのやんなきゃ。
疲れますよ。
ほんとに疲れる。
去年10月。
杉内さんの田んぼで震災後2度目となる稲刈りが始まりました。
南相馬市は杉内さんのような田んぼを「実証田」と位置づけ収穫した米からデータを集めます。
太田地区では23軒の農家が実証田として米を収穫しました。
国は食品に含まれる放射性セシウムの基準を1kg当たり100ベクレルと定めています。
南相馬市ではこの前の年は基準値を超える米は出ませんでした。
(杉内)確かにきれい。
(取材者)粒もいい?
(杉内)粒もいいですね。
きれいですよ。
「納得のいく米が出来た」。
杉内さんは長年の経験からそれを確信しました。
透き通ってきれいな米になってますね。
まあまあいいじゃないですかねこれ。
あとは食べてどのくらいか味が良ければ。
乞うご期待。
太田地区の人々はこの年の米も問題なく基準値を下回り本格的な作付け再開に弾みがつくのではないかと期待していました。
杉内さんは稲刈りを中断して車に飛び乗りました。
向かったのは放射能測定センター。
市民団体がボランティアで運営しています。
(杉内)どうも。
こんにちは。
持ってきました。
1kg。
取れたてほやほやです。
(男性)これあれですね。
その時です。
1枚のデータが杉内さんに手渡されました。
1週間前杉内さんの田んぼから刈り取り前の稲を抽出して測定した時のデータでした。
玄米だね。
(男性)43924925。
1kg当たりの放射性セシウムが高いもので96ベクレルあります。
そうですね。
はいありがとうございました。
じゃよろしくお願いしま〜す。
基準値の100以下とはいえ予想もしない高い値でした。
「基準値以下に満足せずできるだけ0に近づけたい」。
杉内さんはそう思って1年間対策に力を注いできました。
(ため息)福島県内の米は全て出荷前に1袋ずつ放射能検査されます。
1kg当たり放射性セシウム100ベクレルの基準値以下の米だけが市場に回り超えるものは破棄されます。
2013年1,099万袋が検査されました。
その99.93%は測定下限値未満。
つまり放射性物質は検出されませんでした。
しかし杉内さんの住む太田地区では基準値100ベクレルを超える玄米が次々と見つかりました。
福島県内1,099万袋のうち基準値を超えた米は28袋。
うち27袋が太田地区に集中しました。
太田地区の専業農家奥村健郎さんです。
30年近く勤めた会社を早期退職したのは震災の2年前でした。
地元の農業をもり立てたいという思いがありました。
(拍手)地区の神社やその鳥居から延びる道電柱一本に至るまでふるさとの風景は幼い頃からの記憶と結びついています。
奥村さんは今回仲間と共に神社への一本道の両側に44枚の田んぼを作付けしていました。
その道は地域の行事「相馬野馬追」の重要な舞台。
美しい青田の中を行く騎馬行列はこの地域の誇りでした。
その田んぼから基準値を超える米が出たのです。
(奥村)去年も太田地区で7か所ぐらい実際やったんですがそんな高い数値はあんまり出なかったんですよ。
当然今年は下がるのかなと思ってたところが実際そうでなかったといいますかね。
それがちょっと予想しなかった部分かなと。
奥村さんは汚染抑制対策を調べ上げ稲が土の中のセシウムを吸収しにくくなるという方法をできる限り試しました。
奥村さんは工場の倉庫を借りてある事に使っています。
(取材者)それは全部どういう物置いてあるんですか?
(奥村)これは先ほど言った実証田の稲株と土ですね。
原発事故以来3年間田んぼ一枚一枚のデータをとり残してきました。
放射能汚染と闘うにはまず実態を把握し科学的な根拠をもとにして対策を練るべきだと考えたからです。
(奥村)農家だからやるとかじゃなくて全体的な今回の放射能汚染のそういった部分の一つの解決策になればと。
せっかくいい先祖からもらった部分を荒廃させるような形にはしたくないというのはありますし環境含めて守んなくちゃいけないのは私ら含めてこれから子供たちに託していかなきゃいけないし。
そういう思いはありますけどね。
南相馬市には原発事故が起きた2011年から多くの研究者がやって来て農家の人々を支援してきました。
河田さんはなぜ事故から2年以上たって突然米の汚染度が高くなったのかしかも太田地区に集中しているのはなぜか分析を進めました。
まあ驚きというか予想外ですよね。
野菜も米も去年よりも低くなる傾向があったんですけど。
ここに持ってくる米がなぜか高くなって去年よりもちょっと高いですね。
おととしよりも高い。
それで改めて分析してみると太田川流域が特に高い傾向があるという事がはっきりした。
これから原因を確かめてそれに対する対策をとる必要があるという事です。
河田さんは測定した空間線量を地図に重ねてみました。
すると太田川という川の存在が浮かび上がってきました。
(河田)ここからこう上がっていってこう行って上流に横川ダムっていうダムがあるんですね。
それが一つの特徴ですね。
(取材者)ダムの所だけ赤いというのはこれは?これはまあ非常に空間線量率の高い。
ここは森ですけどもね非常に高いわけです。
それも影響してる可能性はありますね。
ダムの底には周辺の山から流れ込む汚染された泥や葉が堆積しています。
放射性セシウムはダムから川を流れ田んぼに入り込んだ可能性があるのではないか。
作付け再開を目指していた南相馬市にとって今回の事態は予想外の出来事でした。
我々としても大変なショックを受けてるという状況でございます。
この因果関係につきましては今福島県更には国という事でなぜこのような結果になったのか今解析をしてるところでございますけども。
対策会議に集まったのはいずれも福島県各地で農業再生の取り組みをサポートしてきた研究者です。
南相馬では適切な対策をとれば農業再生は可能だという見方が広がりつつありました。
それがここへ来て寝耳に水の事態となりました。
ですから流域全体で水田を介してどのようにセシウムが上から…。
水が原因だという意見が出る一方で土壌が原因ではないかという指摘も出されました。
太田地区は砂地が多く稲がセシウムを吸収しやすいというのです。
しかしいずれの仮説も今回の事態を説明しきれるものではありませんでした。
結論が保留されたまま会議は終わりました。
太田地区の農家の代表が集まりました。
水はけのいい土とミネラル豊かな水で長年おいしい米を作ってきた人たちです。
この太田の里は非常に米はうまい米だという事で今まで市内の農協の各倉庫からは一番早く米がなくなるような話も聞いた事がございます。
その太田地区が今瀕死の状態にあるというような事で心配してるわけでございますが。
人々は土作りに手間を惜しまず米を作り続けてきました。
その土は手入れをせずに放置すると元に戻すのに同じ時間がかかるといいます。
いつまでも何年も何年もね放射能で闘ってて成果が出ないとなればそんなに続かないような感じするのかなと。
気持ちがね。
私も息子に「ほんとに来年また父ちゃん農業やんのかい?」と言われっけども今でも。
私はできればやりたいですよ機械も何もそろってますから。
やりたいですけどもただ本当に赤字しょってまで細々とした年金を私だってもう70ですから年金を全部売れない放射能の米作るために年金をつぎ込んでやって将来にいくのか。
そういう事を考えると私はちょっとどうなのかなぁと思って。
有機米を作ってきた杉内清繁さんです。
96ベクレルという米が田んぼのどの部分で出たものか調べていました。
これだ。
この辺だ。
この辺。
有機栽培に挑んだ時から一筋に作り上げてきた土でした。
米から予想外の放射性物質が検出された事で杉内さんの無念の気持ちは行き場がありません。
本当に悔しいのは悔しいけども誰にそれをぶつけていったらいいのかなぁ。
そういうのも悔しいね。
杉内さんはこの時この土地での米作りを断念せざるをえないのではないかと思い詰めていました。
(取材者)息子さんすごく頑張って闘ってらっしゃると思いますけどどうですか?頑張ってるつったって…
(取材者)息子さん一生懸命勉強して一生懸命やって。
頑張りきれっかって。
これは23年の佐渡のお米ね。
つい最近までは22年産の我が家の食べてたんですけど不思議な感じだね。
稲作農家なのにね。
不思議ですよねぇ。
おいしい米を作って喜んでもらい自分もその愛着ある米を食べて暮らしていく。
そんな日々が続くはずでした。
そうね何ていうかもう還暦すぎてから大変ないろんな事新しい事への挑戦でしょ。
それも頑張ってやってるから陰ながらではあるけどもね応援したいなとは思ってるんです。
杉内さんが有機米に取り組んだのは49歳の時。
農薬や化学肥料を使った農業に疑問を感じ自然環境に合わせて農作物を作りたいと考えたからでした。
最初の3年は1反当たり通常の半分しか取れませんでした。
研究を重ねた結果7俵の収穫を上げられるまでになりました。
3人の娘には「農業を継げ」と言った事はありません。
しかし時折トラクターの運転を練習してくれた時などちょっとうれしい気持ちになりました。
自分の力で納得できる農業を切り開いてきた杉内さん。
このころ眠れない日が続いていました。
(取材者)でもずっと米をやろうと思って放射能に負けないってやってらっしゃいますよねずっと。
うん。
でもだんだん分かってくるとなんか人間弱いな。
弱いわ。
(取材者)打ち勝てると思って信じてやってた?最初はね。
だってうちを守んなくちゃなんないもんな。
だって最後に帰ってくるとこはうちだもんな。
その最後に帰ってくるとこみすみすあの…目をつぶんなくちゃなんないというのはとても過酷なもんだな。
奥村さんは地区を回って米作りを再開しないかと呼びかけていました。
まず訪れたのは太田地区で農機具の修理を引き受けている高江孝一さんの倉庫です。
高江さんは自らも米を作ってきました。
しかし震災以降は一度も作付けをしていません。
もみすり機のベルトはネズミにかじられていました。
(奥村)やっぱり毎年使ってればそういった部分も少ねえんだよな。
それが3年使ってないから何ていうんだろうね虫が出てきたりするから。
ネズミとかがさ。
高江さんは農業を再開するかどうか迷ってきましたがこの日ようやく結論を出しました。
(高江)こういうふうにこういう癖がつくんですよ使ってないと。
こういうふうな。
(取材者)硬くなってるんですか?
(高江)こういう角が硬くなって駄目なんですね。
(取材者)じゃあ農業再開するっていっても簡単ではないですね?簡単…そうだね。
簡単ではないなぁ。
うん。
(取材者)それでも来年のためにはやりますか?うん。
ええまあねぇ自分生まれ育ったね自負できる地域だなと思ってますけど。
太田地区は400軒の農家を抱える農業主体の地域です。
農業再生は地域を守る事につながると奥村さんは考えています。
(奥村)諦めたんではしかたないでしょうそれは。
私らはいずれあと数十年で終わっちゃいますけどもその先ここに生きる人間がいますからね。
そういった部分いる限りはやっぱりこういった風景ねやっぱりつないでもらいたいなというのがありますよね。
太田地区での米作りに不安を感じていた杉内清繁さんは栃木県に向かっていました。
栃木県上三川町に杉内さんが20年来師と仰いできた人物がいます。
稲葉光國さんは有機米の研究家です。
杉内さんは稲葉さんからさまざまな技術や農業哲学を学んできました。
実は杉内さん稲葉さんと共にある研究に没頭してきました。
原発事故の直後から準備を開始し稲葉さんの研究所に設備を作って取り組み始めました。
それは菜種の搾油でした。
南相馬で栽培して採れた菜の花の種菜種です。
どんな種をどう搾ればいいか何度も試してきました。
杉内さんは米を作れない田んぼに菜の花を植えました。
菜の花は放射性セシウムを土壌から吸収する性質つまり除染する性質があります。
たとえ僅かずつでも確実に土壌からセシウムを除去する事ができるのです。
この菜種には1kg当たり80ベクレルほどのセシウムが含まれています。
しかし搾った油にはセシウムは移行しません。
セシウムを含んだ油かすは発酵させてバイオメタンガスを発生させ燃料として利用します。
残渣は低レベル放射性廃棄物として処理する計画です。
放射能汚染が0であるだけでなくエネルギーも生み出すという菜種油作り。
杉内さんにとって納得のいく仕事になりそうでした。
思いもしなかったですねこれは。
ほんとにこの年になってね油を搾るなんていう事は想像もしてなかったですけどもねどういう因果なのか。
でもきれいですよねこれ。
天からの贈り物です。
放射能に汚染されたとてつもなく手のつけようもないような環境汚染された中で唯一安全な。
ほんとに誰にでも正真正銘に食べる物として胸を張って薦められるものですから。
杉内さんいい結果が出ましたよ。
(杉内)えっ!?
(稲葉)いい結果が出ましたよ。
(杉内)びっくりした〜。
びっくりした。
(稲葉)菜種のね放射線量がどれぐらいあるかっていうね試験をしてきたわけですけども…。
この日極めて小さな値まで正確に測定できる機械で菜種油を測った結果が出ました。
(稲葉)これ以上の検出下限値ないだろうと思うんですけども。
それでNDなんですよ。
(杉内)はあ…はい。
(稲葉)菜種については全く問題ないという結果が出ましたんでやったかいがありました。
(杉内)胸ほっとしました。
百姓が百姓として生きるって事は食べ物を作るって事ですよ。
それを抜きにして百姓じゃないもんね。
だから自分の人生を否定されたわけですよ言ってみればね。
それをなんとか突破したいというねやむにやまれぬお気持ちだと思いますよね。
なかなか何をどうやっていいのか分かんないんだけども一つ一つこうやってきちっと理解のできる実態が見えたという事はほんと大きな励みに…励みになりますね。
奥村さんも新しい挑戦を始めていました。
畑での太陽光発電です。
この太陽光発電では1反当たり年間50万円の利益が見込めます。
今後もし農作物の価格が下がっても補填できると考えました。
パネルはその下でトラクターが動ける高さに設置され地面では農作物を作る事ができます。
安定した収入を見込めるこのシステムを地域再生の起爆剤にするつもりです。
まあこういった私らがある程度自由に20kmの村あいのすぐそばでありますけどもね何かできるという人間がやっていってあとは20km15km10kmとそういった所の農地の再生なんとかしたいっていう部分。
時間がかかるかもしんないけどもそういった部分も一つの私ら農家のやれる人の役目かなという…。
同じ太田地区の中でも20km圏内の避難指示解除準備区域は昼間は立ち入れますが住む事はできません。
ここは2年後の4月に避難指示が解除される予定です。
専業農家の江口喜久男さんはハウスでキュウリを栽培してきました。
(江口)これと7〜8反の田んぼで生活をしてたんで。
2年後には江口さんも自宅に戻り農業再開が可能です。
しかし現実は簡単ではありません。
これそのままなんです。
(取材者)これキュウリ?
(江口)キュウリです。
これが収穫始まって3日目か4日目。
市場に1日出したのかな。
2日出したのかな。
(取材者)そのまんまですか?
(江口)そのままです。
触るの嫌になったっていうのかな。
そろそろ整理してかなくちゃならないんだけどもなかなか…難しいですね。
なかなか…今66ですからあと2年。
市長の話では28年の4月1日からですか。
一応解除ってのが。
あと2年たってどれくらい動かれるのかそいつは難しいなと思ってるんですけども。
やってみたいという気持ちはあります。
江口さんが杉内さんの菜種の畑を見にきました。
菜種の栽培をやってみないかと杉内さんに勧められたのです。
しかし江口さんはより厳しい条件の下で果たして売れるものが作れるのか不安を振り払う事ができません。
先頭を切って農業を再開した杉内さんと奥村さん。
2人は地域の再生が自分たちにかかっているかのように重い責任を感じていました。
今年2月。
ウクライナ北部チェルノブイリへと続く道。
杉内さんと奥村さんはNPOの主催するスタディーツアーに参加しました。
2人はこのチェルノブイリの被災地で農業再生のヒントを得たいと思っていました。
事故を起こした4号炉はコンクリートで覆われ通称「石棺」と呼ばれています。
この日周囲の空間線量は毎時およそ2マイクロシーベルトでした。
事故から28年。
この地の人々の暮らしはどう変わってきたのか。
こんな大きな原発の事故が起きた中で生きる道がどういうふうにできる…やってるのかね。
福島にどういうふうにそれが見つける事ができるのかっていう事も含めて…。
思い切って来ました。
チェルノブイリ原発から西へ70km。
ジトーミル州ナロジチは太田地区と同様人の住めない区域を含む地区です。
2万7,000の人口は1/3に減りました。
避難した人戻ってきた人そのまま住み続けた人。
南相馬の住民と同じような苦労を既に重ねてきた人々が暮らしています。
町の中心部では週に6日市場が開かれています。
近隣の町からも農作物などを売る人が集まっていました。
案内するのは地元国立大学で農業を研究するニコライ・ディードゥフさんです。
原発事故の直後から現場に入り農家と共に農業再生に向け研究を続けてきました。
毎朝5時に隣接する放射能測定所が開かれそこで証明書が発行されます。
(通訳)こういう地元の方が持ち込むものは必ず事前にサンプルを提出して検査を受けまして汚染があるかどうか調べます。
人々は原発事故の被災者に出る僅かな年金を頼りに暮らしています。
去年から今年にかけてウクライナの政情は悪化の一途をたどっていました。
うん。
飴みたい。
水飴だよこれ。
(奥村)水飴みたいだな。
すごいな。
随分粘りがあるっていうか。
(奥村)これ土ついたままでさぁ…。
ニンジンは土がついたまま売られています。
検査をしっかりと受け続けそれをオープンにする事で消費者にも納得が生まれているようでした。
やっぱり安心感は一番必要なものだと思うのでそれは当然。
これから自分らの土地でも10年20年完全にもう…何ていいますかね測定しても出ないようなそこまではやっぱり出る限りは測定すべきだと思うし。
ディードゥフさんには2人に是非会わせたいという人がいました。
ナロジチで農業を拡大させている若き経営者だといいます。
原発事故の時は9歳でした。
(通訳)その他に彼は4人も子供がいて若いきれいな奥さんがいます。
風評被害という話あったんですがその部分については今はどんな形っていいますかそれはないのかどうなのか。
いやいやワクワクしてきちゃう。
ワクワクしますよ。
やっぱりねああいう…。
物静かですけどやっぱりしっかりしてるっていうか。
(取材者)太田地区はどうですか?なんとか育てたい。
候補者は若干名はいるのでその辺を期待しながら帰ってこの映像を見せて。
カヴェツキーさんが30頭から始めた牛の牧畜。
4年で400頭に増えました。
更に増やして牛乳をEUに輸出したいと考えています。
EUの安全基準は厳しいですがそれでもカヴェツキーさんは良いものを作れば注文は取れると自信を持っています。
ナロジチの中心から更に車で20km。
今は廃村となっている…原発事故直後空間線量は毎時30マイクロシーベルト以上ありました。
490世帯1,000人が暮らしていた村の全村民が強制的に避難させられました。
村に暮らしている人がいました。
事故直後避難したものの後に帰ってきた人です。
この村には今56人が住んでいます。
空間線量は毎時0.12マイクロシーベルトまで低くなり子育てを終えた高齢者が戻ってきています。
(笑い声)
(通訳)場所はいっぱいあるからここで住んでも構わないよって。
(杉内)おばあちゃんのおうちはどの辺なんですか?住んでるうちはどの辺?強制避難区域で取れる食べ物は売る事ができません。
自家用にするだけです。
鶏や豚を育て畑で取れる野菜を食べ年金で暮らしています。
家の裏の畑は春の種まきを前にきちんと手入れされている事が見て取れました。
そして小麦の芽も青く顔を出していました。
(杉内)日本人も同じ…日本人も同じです。
人間としての豊かさっていいますかねその辺が一番見てあのおばあちゃんもねその辺が…。
この農地をね汚染はされたけども何とかなる部分っていいますかその辺何となくねうれしかったっていうか。
まあ諦める必要ないなっていう感じですよね。
今年5月。
南相馬の遅い春。
震災以来4度目の春です。
(取材者)おはようございます。
あっおはようございます。
(杉内)ああごめんなさい。
おはようございます。
ああ上に上に。
ちょっと上に移動しますから。
和子さんは赤飯を炊いていました。
(取材者)今日はお赤飯なんですか?
(和子)そうね。
あの…田植えの始まりなのでね。
今まで心配して見守っててくれてたご先祖さんにね感謝の気持ちで。
どうか田植えが無事にね終わって今年も豊作になりますようにっていうふうな思いも込められてるかな。
開拓の苦労と共に始まった杉内家の農業。
減反高齢化原発事故。
次々に立ちふさがる課題を粘り強く乗り越えようとしてきました。
一度は米作りを諦めかけていた杉内さんでしたがチェルノブイリを訪問し放射能汚染に向き合う決心をしました。
今年は3枚の田んぼを作付けします。
有機栽培でコシヒカリを作る事にしました。
あらゆるデータをとり次の年更に次の年とつなげていくつもりです。
水の取り入れ口に置くもみ殻を増やすなどセシウム対策は更に万全を期しました。
今年南相馬市は4年ぶりに作付けの全面再開を宣言しました。
やる気のある農家に米作り再開を促す政策でした。
田植えをすると東京電力からの賠償金は支払われなくなるためそれが農業再開を阻む壁になります。
市は米作りをする農家に独自に奨励金を出して後押しする事にしました。
しかし田植えをした農家は去年の155軒から87軒に減りました。
作付け面積は震災前の栽培面積の2%です。
太田地区では去年の23軒が10軒になりました。
(カエルの鳴き声)
(取材者)カエルが鳴き始めましたね。
ここだけですよカエル鳴いてるの。
夜夕方になるとすごいですよ。
まあそっち側とか聞こえないけどこの水張ってある一角だけはすっごい声が聞こえますね。
まあそれが本来の姿でねカエルとかあとはツバメとかがね。
あっツバメが来た。
(奥村)これが本来の姿ですよね。
もっといっぱい来ればいいのにね。
7月。
海でも川でも遊べない子供たちが道の駅に作られた遊び場で歓声を上げていました。
あ〜!キャー!驚くべきニュースが飛び込んできたのはそんな夏の盛りでした。
太田地区の水田汚染について全く新たな事実が明らかになったのです。
「東京電力福島第一原子力発電所で去年8月に行われたがれきの撤去作業で放射性物質が飛散し福島県南相馬市の一部の水田を汚染したおそれがあるとして農林水産省が東京電力に対策を求めていた事が分かりました」。
これまで土なのか水なのか原因が分からないままになっていた太田地区の米の汚染。
その原因の一つだと疑われる事実が突然報じられたのです。
(ニュース)「農林水産省は原因の一つとして去年8月に福島第一原発3号機で行われたがれきの撤去作業で放射性物質が飛散したおそれがあるとして東京電力に対策を求めたという事です。
東京電力はがれきの撤去の際粉じんの飛散を抑える薬剤の散布などを強化すると説明したという事です。
しかし農林水産省と東京電力は南相馬市に原発での作業が影響しているおそれがある事を伝えていませんでした。
農林水産省は原因を特定した上で説明するつもりだったとしています」。
太田地区の人々は新聞やテレビの報道で初めてこの事実を知りました。
去年8月といえば高い放射線量が検出された米に影響したとしてもおかしくない時期です。
なぜすぐに情報を公開しなかったのか。
1年間原因究明のため格闘してきた奥村さんです。
早く知っていれば別の手だてをとる事もできたと悔やんでいます。
何ていうかね今更っていう感じですよね。
去年の10月ごろから100ベクレル超過出てたんですよね。
2月で一定程度の説明があってそれが新聞にすっぱ抜かれて今頃かっていう経緯っていいますか時間的な部分も含めて情けないというか。
国の持っていき方なりあとは東電の隠蔽的な部分も含めてやっぱり問題が多すぎますよね。
こういうふうな事故のような感じで飛んできてるという事が情報もなく何にもなく置き去りにされてる状況が平然と今も続いてるっていう。
怒ったってしょうがないもんな。
ほんとに腹立つけども誰にも怒ったって怒る相手も。
まさか東電に向かって怒ってもどうしようもないし。
原発のがれき撤去作業は今後も続きます。
また何か起きたとしてもすぐに対処できるよう早速対策をとりました。
放射性物質の飛散と風のデータを連動させて測定し土や水のデータと共に米の汚染原因をあらゆる観点から探るつもりです。
7月26日。
伝統行事「相馬野馬追」の日です。
震災の年以来行事は縮小した規模で行ってきましたが今年はほぼ震災前と同じ450頭の馬が参加しました。
震災前の野馬追来たっていう感じですね。
(取材者)やっぱり違います?そうっすねやっぱ。
田園風景の中歩くっつうのはやっぱ町なか歩くのとは違う感じというかね気分なんで。
(取材者)聞くとうれしいですか?いやそうですよ。
(男性)ここだけかもしれないっすけどまだまだ。
でもそうやって少しずつ震災前の姿に戻ってけば。
(馬の足音)奥村さんたちが丹精込めて作った青田の中勇壮な騎馬行列が進んでいきます。
待ちわびていたふるさとの風景が帰ってきました。
当然これから先も守っていくという部分が一番。
やっぱり山があってね田んぼがあって海があってっていうこの…地域としてはね。
太田地区で田植えをする農家は今年は減りました。
しかし荒れた自分の田んぼに手を入れ田起こしをした人は増えました。
杉内さんも20km圏内にある田んぼの草刈りをしていました。
いつかここでも米作りを再開させたいと考えています。
杉内さんにはずっと心に留めている詩があります。
高村光太郎の詩でいつも自分の前に道は…。
道って自分で切り開くしかないんですよ。
誰も教えてくれない。
まさに放射能のこの状況は行政も何もこれが安全でこれが危険だっていう事を真意の世界が伝わってこないから。
だからほんとにあの詩はまさにぴったり合ってるかも分かんないな。
「僕の前に道はない。
僕の後ろに道は出来る」。
2014/09/20(土) 00:00〜01:15
NHKEテレ1大阪
ETV特集「それでも道はできる〜福島・南相馬 コメ農家の挑戦〜」[字][再]
福島県南相馬市で農業再生に取り組む農家を1年追ったドキュメンタリー。放射能に対する不安を抱えながら研究を続け、今年2月にはチェルノブイリの農家を訪ねる旅に出た。
詳細情報
番組内容
原発20キロ圏の内と外にまたがる南相馬市太田地区。ここでは農家自らが放射性物質の移行を究明しようと田の水や土を細かく調べ研究者と共に試験田を作ってきた。さらに収入確保のために太陽光パネルを設置、売電事業を始めるなど農業の火を消さないよう努力を続けている。今年2月にはウクライナを訪問、チェルノブイリ原発事故で被災した農家に会い農業再生のヒントを探った。30年後の「ふるさと」を見据えた農家の取り組み。
出演者
【語り】上田早苗
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 文学・文芸
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz
OriginalNetworkID:32721(0x7FD1)
TransportStreamID:32721(0x7FD1)
ServiceID:2056(0x0808)
EventID:32140(0x7D8C)