日本一コンサートをする男と日本一ロックなクリエイター。
ほぼ同じじゃん。
ほぼ同じ。
音楽と広告それぞれの世界で活躍しながら共通点の多い2人が大切な音楽を持ち寄り語り合います。
デビューから40年。
美しい言葉でつづられた詩と叙情的なメロディーで多くのファンを魅了しています。
・「俺の本音を聴いておけ」去年コンサートでは前人未到の4,000回を達成しました。
出した小説は次々ベストセラーに。
微妙な感情のあやをすくい取る表現はさだまさしならでは。
発表した小説がほとんど映画化される稀有な存在です。
更に近年はバラエティー番組にも挑戦。
音楽の枠を超えてあらゆるメディアで才能を発揮する表現者です。
リンゴイチゴブドウ。
しかし多くの栄光を手にする陰には想像を絶する挫折と深い葛藤の日々がありました。
CMやポスターキャンペーンなどを手がける広告業界の売れっ子クリエイターです。
代表作は音楽ファンなら誰でも知ってるこのポスター。
更に強烈なインパクトを残すCMで次々と世間を驚かせてきました。
「くっちゃらはぴはぴハイチュウくっちゃらはぴはぴ」。
「これが正式な名称でございます」。
・「Iloveyoubabyふくしま」2011年には「紅白歌合戦」にも出場。
ミュージシャンとしても大きな注目を集めます。
・「ふくしまが好き」日本のトップクリエイターとして常に斬新な手法で表現を続ける箭内。
しかし日の目を見たのは30を過ぎてから。
遅咲きの才能の陰には数多くの挫折と音楽へ憧れ続けた日々がありました。
数々の挫折を乗り越え成功へとたどりついた2人は東日本大震災をきっかけに音楽の本当の意味と向き合います。
ミュージシャンとクリエイター。
ともに常識を破り我が道を切り開いてきた表現者の軌跡と到達点。
心に残る音楽を通して2人の人生を見つめていきます。
ソロデビューから5年。
次々とヒット曲を発表してきたさだは音楽以外でも大きな注目を集めます。
それは映画製作。
自らが監督主演を務めるドキュメンタリー映画。
中国の大河長江の源流をたどりました。
中国は両親が青春時代を過ごした思い出の場所。
さだにとっては自分のルーツをたどる旅でもありました。
しかし2年にも及ぶ撮影は過酷を極めます。
さだは何度も命の危険にさらされながら映画を撮り続けました。
やっぱり中国がすごい好きだったんで日中国交回復のあとまず中国へ行ってみようと思って。
行くんだったらカメラ持ってってドキュメンタリー作っちゃえっていうむちゃな発想でね。
中国で今我々の言うロケバスみたいので僕助手席に座ってね運転手さんの脇座ってずっとこう移動する間起きてる。
みんなうつらうつらしてる中で僕だけ起きてて。
何か気になるものがあったら止めて。
「あれ撮るよ」。
取材して撮るっていう。
その間移動する間何かやっぱり音楽が聴きたかったんだけど言葉を聞きたくなかったんだろうな。
そんなさだの心を癒やしてくれたのが言葉ではなく音で語りかけてくるジョージ・ベンソンのギター。
吹き抜ける風のような音色でした。
ジョージ・ベンソンちょうどこのころはやったんですけどこういう演奏曲が気が楽だったというのあるのかも分からない。
今突風吹いたら全員死ぬなっていう現場ず〜っとだから。
「あっ今滑ったら俺命ないな」っていう所をず〜っとやってきてるから命があっただけもうけ物って感じかな。
過酷な撮影の日々を乗り越え完成した映画は全国120館で公開されるヒットとなります。
しかし製作費をかけ過ぎたためさだは莫大な借金を背負う事になりました。
まあドキュメンタリーって金かかりますよ。
びっくりするぐらい。
何にかかったんですかあんなに。
人件費それからフィルム代。
そっか。
28億借金しましたからね個人で。
ですよね。
もう自暴自棄だったなあれ。
「え〜っ…返せない」と思ったなまず。
「無理だ」と思ってシャッターがガンガンガンガンって下りてくる感じだったね。
人生終わったなって。
だけどプロが貸したんだったら根拠があって貸したんだろうと。
こいつ返せると思わないやつに貸すか?「じゃ返せんじゃない?」っていうこの…ポジティブシンキング。
今思えば破れかぶれだった。
これもう今返し終わった…。
30年かかったけど。
本当に大変だったね。
でもお客さんがよく来てくれた。
俺についてきてくれたっていうか俺を支えてくれた。
コンサートずっとお客さん入り続けたから。
だからあのころ声が出なくなるぐらい歌ったからね。
ジョージ・ベンソンっていうのは28億の借金と共に僕のここにありますよ。
一方箭内は2003年に独立したあともトップクリエイターとしてヒットCMを作り続けていました。
そして2005年ライフワークとなる仕事を始めます。
フリーペーパー「月刊風とロック」の創刊です。
少年時代から憧れたロックの世界。
好きなミュージシャンに次々会えれば内なるロック魂にもう一度火が付く。
撮影編集全てを一人で手がけ自分の本当に好きなものだけを追い求めました。
自費で作った雑誌をタダで配るという常識破りをなぜしたのか。
その原動力は意外にも中学時代に聴いたさだの名曲。
当時世間を驚かせた12分半にも及ぶ楽曲。
この曲から箭内は常識にとらわれず生きる事を学んでいました。
振り返ればさださんに影響をもらった部分っていろいろあるなって思った時に一つはこれなんですよね。
「親父の一番長い日」。
やっていいんだと。
ああそういう事?やっちゃっていいんだ。
3分って思ってたものが12分でいいんだっていうのは衝撃だったっていうか割と若い頃にこれを聴けたので「いいんだよ」っていう事をいろいろ…。
借金していいんだと。
赤字だったり負債っていう事が悲しいだけの事じゃないんだっていうふうに僕は思えたから。
毎号毎号定価0円で「月刊風とロック」っていうのを作ってるんですけど。
偉いよね。
あれもね28億はいかないんですけど結構大きいマンション多分買えるんですよ。
28億の借金を背負いながらも歌い続けるさだの姿は採算度外視で雑誌を作る箭内に大きな力を与えていました。
箭内がさだに共感するのは雑誌以外にも大きな借金を背負った経験があったからです。
父親がずっと借金してて。
28億なんて規模じゃないんですが商売が下手で。
「これどうすんの?」って聞くと死ぬ時にちょうど生命保険で全部返せるように計算して生命保険入ってるからって言われてて。
会社に入ったばっかりの頃親父が倒れたって会社に電話が来て。
行ってみたらもう長くないよってなって。
じゃあちょっと生命保険どうなってんのか調べようよっていったら3日前に失効になってたんですよ。
えっ。
滞納で。
保険料の。
結局その借金10年ぐらい返してたんですよね。
だから借金仲間みたいな気持ちがすごく僕さださんにシンパシーあるんですよね。
借金に負けず逆にそれをパワーに変える道を2人は選んでいました。
その先には最も憧れた人物との運命の出会いが待っていました。
・「舞いあがれ風船の」1980年代前半からさだは映画での負債を返すため年間100回ものコンサートをこなすようになっていました。
・「あなたは教えてくれた」そんな全国を飛び回る日々コンサートの本当の意味を教えてくれたのは…。
中学時代に出会ったさだのギターサウンドの原点ポール・サイモンでした。
この「StillCrazyAfterAllTheseYears」っていう曲は今でも僕の理想のアルバムです。
このアルバムは。
こんなアルバムが作りたいと思う。
何一つ一曲欠けても駄目だし曲順もこうでなきゃ駄目だと思うし。
そんなアルバム作りたいなと思うね。
ポール・サイモン「プレイボーイ」か何かのインタビューで「たかが音楽いつでもやめられる」って小見出しを読んだの。
激怒してね。
俺がこんな憧れてるのにね「たかが」って言うなよみたいな。
「いつでもやめられる」とか言ってくれるなよみたいな。
冗談半分でポール・サイモンに会いたいって言ったの。
そしたらポール・サイモンのところへそれが届いて「ニューヨークに来てくれるんだったら会う。
20分だけ時間つくる」って言われて。
さだは迷わず渡米します。
そして少年時代から憧れたポール・サイモンと運命の出会いを果たします。
「夢供養」ってアルバム持ってったんだけどそしたらバッて破いて「聴こう」って言って一緒に聴いてくれて。
「ギターさ弾き方とかさ僕に似てるよね」とか「当たり前だろ」とか思いながら。
で話しして「何で会いに来たの?」って聞かれたから肝心な事聞かなきゃと思って。
「あなたに憧れてる人がいるのに『たかが』とか『いつでもやめられる』というのはどういう意味だ?」って言ったら「ああそれは簡単だ。
音楽っていうのは生まれた瞬間なんだ。
僕らがライブでそれを演奏するのは再現芸術っていってあの生まれた瞬間を共有できないかなと思って上塗りしてるだけだ。
生まれた瞬間が音楽なんだよ。
つまり音楽は常に過去へ向かって進行してるんだ」。
なるほどなと思って腑に落ちてね。
ポール・サイモン哲学者だなと思って感動してね。
これは忘れないでおこうと思って。
コンサートは音楽の生まれた瞬間の喜びを共有する再現芸術。
さだはその瞬間を再現する喜びを多くの人と分かち合うため現在まで4,000回を超えるコンサートを続けています。
一瞬できたかなって思う瞬間はあるの。
四千五十何回やってきて「おっできたかな」って思ったの3回ぐらいあったよ。
どういう時なんですか?その3回っていうのは。
全てがうまくいってる。
自分の体調ももちろんお客さんの体調これ大事なんですよ。
それでバンドの連中の体調がよくてね。
パンッて出た音がよくてね。
それにパンッて歌った声がよくてね「ああいいじゃん今日」って時の間奏のギターがまたよくてっていうのが相乗効果を生んでいって。
そしてデビューから30年を迎えようとしていた2000年代。
さだはコンサートの日々を続けながらもまた新たな挑戦を始めます。
その豊かな表現力で描かれた物語は人気を博し次々と映画化され大ヒットを記録します。
50を越えても歌手としての常識を破って挑戦を続けるさだ。
活動の幅は大きく広がっていました。
絶対会社出てくわよ。
(笑い)一方箭内も少年時代からずっと憧れてきたミュージシャンと対面を果たします。
キング・オブ・ロック忌野清志郎。
箭内はこのポスターをはじめさまざまな広告の仕事で憧れの清志郎と交流を持つようになりました。
僕は清志郎さんがとにかく大好きで。
清志郎さんっていうと「愛し合ってるかい?」って必ず言ってて。
昔ライブで聞いてた頃は「イエ〜イ」ってみんなを盛り上げるための掛け声だって思って聞いてたんですけど今世の中を見渡すと結構みんな愛し合ってないなと。
「愛してる」って言う人はたくさんいるんだけどお互いがちゃんと尊敬し合って違いを認め合って愛し合うって実はすごく難しい事なんだな必要な事なんだなっていうのを感じるんですよね。
しかし2009年5月清志郎はがんで亡くなります。
箭内はその年の暮れ武道館で行われたイベントで清志郎を復活させます。
武道館に清志郎さんがポツンと現れるっていう映像を作ったんですよ。
それがね自分が今まで作った映像だったり広告だったりの中で多分一番よくできたんじゃないかなっていうぐらい本当にそこに清志郎さんがいるように見えたんですよね。
やっぱり清志郎さんがいなくなった時にみんな「ありがとう」とも言ったし「寂しい」とも「悲しい」とも言ったけどそれだけじゃ音楽って駄目なんじゃないかなって思って。
あの…何て言うのかな。
バトンを次渡す。
そう。
じゃあ受け取った自分が何をするかで初めて清志郎さんに返せるんじゃないかなっていうのはすごくありますね。
だから音楽ってその場だけのものじゃなくてね行動させる力何かそういう力を自分たちが受け取る側が自分の発言としてね発信しなきゃいけないなとは思いますけどね。
箭内は自身も子どもの頃から憧れた音楽の世界で行動を始めます。
仕事を通じて出会ったふるさと福島のミュージシャンとバンドを結成。
高校時代に諦めた夢がついに実現します。
憧れの人から大きな力をもらい…しかし2011年3月11日東日本大震災が発生します。
震災を通して2人は音楽の持つ本当の意味と向き合います。
津波や原発事故により深刻な被害を受けた福島。
ふるさとに恩返しをするのは今しかないと箭内はすぐさま行動を起こします。
震災の僅か6日後首都圏の電力事情を考え名古屋でレコーディング。
・「ふくしまが」完成した曲はすぐにリリースされその収益を災害対策本部に全額寄付する事を決めました。
ふるさとへの思いが詰まったこの歌を届けました。
すごく焦ったんですよね。
何をしたら福島の人に心強いと思ってもらえるだろうっていう。
そういう時にエールっていうのは送るのも勇気がいるし。
つい「頑張ってね」とか言っちゃうよね。
頑張ってる人に。
頑張ってる人に言っちゃいけないよね。
僕らのこの歌は「好き」ってしか言ってないんですよね。
もちろん原発の事も歌ってないし「頑張ろう」っても言ってないし。
ただそれが福島の人たちに…届けていく中で忘れられないのが6月ごろなんですけど福島に住んでいた女性の方と話をした時に「この歌がちょっとつらいんです」と。
「この歌を聴くとずっとずっと福島で頑張んなきゃいけないって思ってしまうんだ」って言われて。
だから歌っていろんな届き方がするんだなってその時思ったんですよね。
「この歌ずっと歌って下さい」って言ってくれる方もいれば「あのころ思い出すから聴きたくない」と言う人もいるし。
いろんな人にとってのいろんな歌にこの曲がなってるんだなっていうのを…。
それはもう歌の非常に重要な横顔だよね。
福島でこれを歌った時にね若い人だけじゃないんですよ。
ワ〜ッとおじいちゃんおばあちゃんもいれば子どもたちもいて。
世代を超える訳だ。
音楽が。
ええ。
本当に面白い事言えばみんなワ〜ッて笑ってくれるし泣きながら一緒に歌ってくれるし。
そうなんだよねそのエネルギー。
エンターテインメントって人が笑ったり泣いたりできる場所ってねそれをきちんと作る事がエンターテインメントの使命の一つなんじゃないかなって思って。
そして年末には「紅白歌合戦」に出場する事が決まります。
箭内にはどうしても「紅白」で伝えたいメッセージがありました。
「紅白」はどうしても出たかったんですよ。
だからこの歌が出て5月ぐらいからメンバーに「12月31日絶対空けといて」と。
「カウントダウンライブとかそういうの勝手に入れないで」って言って。
「何で?」って言ったら「紅白歌合戦」出るからって言って。
すごいな。
福島を広告できる一番大きな場所だと思ったんですよね。
MCっていうか嵐がインタビューをしてくれる尺がちょっとだけあって。
始まる前に。
ここで何を言うかが絶対大事だなって。
それはクリエイターとしては非常に重要なとこだよね。
広告っていうのがただの職業じゃなくて僕にとっては思いを的確に伝えるための技術を勉強させてもらってるんだなっていうふうに思ってたんで。
台本に書いてあった事じゃない事を絶対言おうと。
すっごく演奏以上にあの時間をすごく大事に考えましたね。
(相葉)今夜はどんな思いで歌って下さいますか?そうですねあと何時間かで新しい年やって来ますけどまだ何も終わってないんですよ。
本当に悔しい思いでいっぱいです。
今日は皆さんに福島の事を忘れてもらわないために歌いにみんなで来ました。
Iloveyou&Ineedyouふくしま!それがふるさとの人たちに代わって箭内が全国に届けたメッセージでした。
力貸してくれ!ふくしま!ふくしま!ふくしま!ふくしま!
(拍手)一方さだは震災後音楽にできる事など何もないと自分の無力さを感じる日々を送っていました。
そんなさだに再び歌う勇気をくれたのが自らが主題歌を歌うこの番組です。
・「なによりあなたが元気でよかった」震災から1か月半後の5月1日さだは初めて被災後の東北を訪れました。
お疲れさまです。
きっかけは番組で出会った人を一緒に励ましてほしいという笑福亭鶴瓶からの願いでした。
こんにちは。
こんにちは。
大変だったね。
大変だったね。
そして避難所となっていたお寺で歌を披露する事になったのです。
音楽って無力だと思ってたから何の役にも立たないと思ったし自分がもしも被災した立場だったら歌い手が来て歌いますって言ったら「うるせえ」って言うと思ったのね僕は。
だからすっごく怖かった行くのが。
行ったらねみんなうれしそうに笑ってくれるんだよな。
何かくだらない事言うとゲラゲラって笑って。
何か歌うとふっと涙ぐんだりする人があるの見ててね…。
「ああ俺にも居場所がある」って思ったな。
「ああそうかさだまさしはこういう時のために有名になったんだな」と思うし。
初めて生まれて初めて…。
避難所で歌ってる時に「ヒット曲っていうのはこういう時のためにあるんだ」と思った瞬間に「ヒットがなければ駄目だ。
もっと欲しい」って初めて思った。
それ以来自分が行ける所はできるだけ行こうと思って。
やっぱり…。
かけられる言葉なんてないっていう事だけは分かってる。
何言ってもうそに聞こえるから。
ただ黙って歌ってただ黙って冗談言って「楽しんだ?」って言って「何か役に立った?」って言って帰ってくるのが僕らの仕事だって事をようやく思い当たった。
(拍手)歌手生活40年。
さだが最も音楽の意味を感じた瞬間でした。
(拍手)いまだ解決策の見えないふるさと福島のため箭内は精力的に活動を続けています。
CMに対しても少しずつ考え方が変わり始めてきました。
CMのために福山さんに書いてもらったんですよね。
僕に結婚情報誌の仕事が来てCMには内田裕也さんと樹木希林さんに出て頂いて。
いろんな事やっぱり言われたんですよね。
ずっと別居してる2人をなぜこんな幸せな商品のコマーシャルに出すのかって言う人もいたんだけど2人にしか分からない事があって結婚式のその日だけじゃなくてねずっと人生を共にしてく中でいろんな事がある事が結婚なんじゃないかというふうにあの2人を見てて思ったんでだったら絶対2人で一度CMに出てほしいなって強く思ったんですよね。
結婚のいいところって何でしょうね。
ノーコメント。
ロックンロール。
こればっかり。
優しく温かいメッセージ。
それが箭内の新たなスタイルです。
10年以上前は何でもいいから目立ちたいと思ってね。
何でもいいからヒット作が欲しい。
人がもしかしたらちょっとぐらい傷ついたり怒られたりしても自分が目立てばいいやと思ってコマーシャルを作ってた時期もあったんだけどどんどんどんどん…。
震災も大きな事ですけど何にも起きなくても…。
CMの中で。
すごい静かなCMでも誰かが何かを感じてくれたり元気になってくれたりしたらそれでいいんだっていうふうに思えるようになったんですよね。
一方還暦を越えたさだの挑戦はロック。
これまでとは違う自分を表現するためパートナーに箭内を選び2人は今年初めて出会いました。
さだの最新アルバム「第二楽章」。
このデザインは箭内が手がけました。
タイトルどおり新たな一歩を歩み始めたさだのために箭内はデビュー当時のさだにそっくりな人物をジャケットにしました。
「ああさだまさしでしょ」で終わらせたくなかったんですよ。
聴いてみないとみんなが思ってるさだまさしじゃないかもよっていうそういう入り口を作りたかったんです。
見事できたね。
ジャケットのふざけてることね。
まあ真剣にふざけましたけど。
さだまさしっていうこう…既成概念っていうか固定観念っていうかそれを壊しながら実はそこに戻ってくるっていう。
一周してほしかったっていうのが僕の中ではありましたね。
やっぱり何かこう「あっまだ俺やんなきゃ」っていう。
ともすれば年とともにみんなサボっていくしコンサートやらなくなるし。
隠居的な状況に入って都合のいい時だけ出てくるみたいな。
「駄目よ」って言われたような気がする。
「ずっと現場で走んなさい」って言われたような気がしてそういう意味ではすごい強いエールをもらったなと思う。
最後に2人に聞きました。
人生の最期に聴きたい曲は何ですか?長澤まさみちゃん。
これは発売されてないんですよ。
レコーディングはされてるんですが。
「月刊風とロック」って僕がずっと赤字を出し続けてるフリーペーパーがあってそれが100部を迎えるって時に音楽プロデューサーの亀田誠治さんがプロデュースをしてくれて宮藤官九郎さんが詞を書いてくれて斉藤和義さんが曲を作ってくれて。
今まで「風とロック」に出てくれた大切な…友達と言ったらちょっと申し訳ないですけど大好きな人たちが歌いつないでくれてるものなんです。
これをね自分がこの世界からいなくなる時聴けたらどんなに幸せだろうなっていうふうに思える曲をもらえたっていうのがすごいうれしかったです。
いいなあ。
僕はねこの一曲っていうのはその時作りたいと思う。
死ぬ間際にどっかで自分で何か歌いたいな。
新しいもの誰も聴いた事ないもの歌いたいなと思ったんでね。
さだがそう考えるきっかけに若くしてこの世を去った俳人石橋秀野の存在があります。
秀野の俳句への情熱はすさまじく結核で亡くなる死の目前まで句を詠み続けました。
秀野が最期に残した句です。
7月に倒れて9月にそのまま亡くなってるんだけど運ばれてく担送車救急車の中でね彼女が自分の句帳に青鉛筆で書きなぐったのが最後の句なんです。
自分がこれから死んじゃかも分かんないっていう時にペンを持つ青鉛筆を持つすごさとね「子は担送車に追ひつけず」って母親っていうのはこんなにすごいのかと。
今自分が死にゆく時に子どもの事考えてんのかって考えた時に死んでゆく時に俺は何を歌うんだろうっていうのは自分に問いかけながら生きてたいなと思いますね。
だから「最期に聴きたい曲ありますか?」っていって誰にも聞こえないかも分かんないけど俺はそこで何か歌いたいなって今思ってるんですよ。
人生を彩った音楽は記憶を鮮やかに呼び覚まします。
人生の大切な10曲。
あなたはどんな音楽を選びますか。
2014/09/18(木) 00:00〜00:45
NHKEテレ1大阪
ミュージック・ポートレイト「さだまさし×箭内道彦 第2夜」[字][再]
さだまさしと箭内道彦が人生の10曲を語り合う後編。東日本大震災後、被災地で歌うことが「怖かった」さだが現場で初めて歌った歌とは?▽家族になろうよ・福山雅治▽ほか
詳細情報
番組内容
さだまさしと箭内道彦が人生の10曲を語り合う後編。映画制作で28億の莫大な借金を負ったさだの心を癒やした曲は?憧れの忌野清志郎と出会った箭内が彼から受けとったバトンを託した音楽とは?東日本大震災で二人は音楽の力とその限界に直面する。その時紅白歌合戦で箭内が発したメッセージは?被災地で歌うことが「怖かった」というさだが現場で初めて歌った歌とは?▽ポール・サイモン▽「家族になろうよ」福山雅治▽ほか
出演者
【出演】さだまさし,箭内道彦,【語り】ヒロ寺平
ジャンル :
音楽 – その他
趣味/教育 – 音楽・美術・工芸
バラエティ – トークバラエティ
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
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