歴史秘話ヒストリア「美しき夫婦の物語〜後水尾天皇と和子 愛の軌跡〜」 2014.09.17

「この人と一生添い遂げる」そう誓ったはずの二人。
けれども今や結婚した夫婦の3組に1組は離婚すると言われる時代です。
夫婦を長く続けるって本当に難しい事ですよね。
でも今からおよそ400年前家風も価値観も対極的で苦難に満ちた日々を送りながらもいつしか寄り添い支え合うようになったある夫婦がいました。
江戸時代初め天皇家に徳川将軍家の姫和子が嫁入りしました。
和子の使命それは将来の天皇を産む事。
しかしこの世紀の政略結婚平穏無事には進みません。
あげくの果ては…。
えぇい流せ!隠岐にでも流し奉れ!実家と嫁ぎ先が壮絶な争いを繰り広げその狭間に立つ和子を苦しめます。
これまで「ヒストリア」で数々の女性を演じてきた女優の宮嶋麻衣さん。
今回和子を演じるにあたって和子ゆかりの場所を訪ねその心境を探りました。
天皇家と徳川家とものすごい力を持った家を背負って嫁ぐわけですからいろんなプレッシャーもあったでしょうし楽しい人生だったのかそれとも苦しい人生だったのかいろんな事を知りたいなってとても興味があります。
「歴史秘話ヒストリア」。
今日は名門に生まれたがため数々の苦しみに見舞われながらも最後まで夫を支え抜いた一人の美しき女性の物語です。

(産声)江戸城に女の子の産声が響き渡りました。
徳川幕府2代将軍秀忠と妻・江のもとに生まれた末娘の和子です。
徳川家の記録にはこの日江戸中に良い香りがほのかに漂ったと記され和子誕生が喜ばれた様子を伝えています。
そして誰よりも和子の誕生に満足したのが祖父だった徳川家康です。
満面の笑みで孫を抱く家康。
しかしそこにはあるたくらみが潜んでいました。
家康にとって和子は天下統一の切り札だったのです。
和子が生まれた頃家康は江戸に幕府を開き最大の権力者となってはいたもののまだ全国の大名を従えるまでには至っていませんでした。
特に京都より西の国々には徳川に反感を抱く外様大名がそろっており反旗を翻す機会をうかがっていました。
天下を我がものとしわしが死んだ後も徳川があるじとしてこの国を治めるにはどうすればいいのか。
そこで家康が目をつけたのが和子です。
その子が次期天皇につけば徳川家は天皇家と血縁関係になりその後の天皇は徳川の血を引く事になる。
この和子が徳川家を未来永劫守ってくれるはずじゃ。
まことありがたき孫娘よ。
こうして和子が8歳の時11歳年上の後水尾天皇のもとへ嫁入りすなわち入内する事が決まりました。
ところが…間の悪い事に入内が決まった慶長19年豊臣家との戦い大坂の陣が勃発。
家が戦一色に染まる中婚礼の準備など悠長に進める事はできなかったのです。
ようやく戦いが終わったかと思うと今度は家康が亡くなってしまい徳川家は喪に服します。
こうした徳川家の事情により和子の嫁入りはどんどん延期されていきました。
そして入内が決定してから4年がたちようやく落ち着いて準備に入ろうとしたやさき…徳川家がモタモタしている間に後水尾天皇は他の女性と恋に落ち…徳川の意を踏みにじるかのような後水尾天皇の行為に…わしをばかにしよって!徳川の言いなりにならない後水尾天皇に対して秀忠は強硬な手段に打って出ます。
天皇が信頼する側近たちをさまざまな言いがかりをつけて処罰。
近しい人々を失った後水尾天皇は孤独に追いやられます。
この時天皇が書いた手紙が残っています。
事態を重く見た秀忠は配下の大名藤堂高虎を都に送りました。
京の都に乗り込んだ高虎は朝廷の公家たちを相手にこう言い放ちました。
「幕府のする事にこれ以上逆らうと言うのなら帝を島へ流しその責を負って自分は腹を切る」。
そして席を蹴って帰ってしまいます。
高虎の恫喝に恐れをなした公家衆は後水尾天皇を説得。
結局譲位は行われず再び和子の入内話が進む事になりました。
天皇家と徳川家に険悪な雰囲気が漂う中動き始めた嫁入り話。
和子はこの時13歳となっていました。
心の声私と帝が仲むつまじくなり両家を固く結び付けねばならぬ…。
江戸から京都に向かった和子は後水尾天皇のもとに嫁ぎます。
華やかに執り行われた嫁入りの儀式。
しかしその裏で武家と公家双方の不信感は増す一方でした。
牛車に乗って内裏へと入った和子。
そこに突然身分の高い女官が進み出てこう言いました。
「婚礼の際はお車の物見を開いてまず私どもにお顔をお見せ頂くのが慣例となっております」。
そこにまたもや現れたのが藤堂高虎。
大きな声で言い返します。
「控えられませい!今のお言葉無礼千万!」。
そして刀の柄に手をかけ女官を追い払ってしまいました。
公家衆にとってこうした武士の荒々しい行為はあまりにも野蛮に映りました。
表向きはつつがなく執り行われた入内の儀式。
しかし和子と後水尾天皇の間には深い溝が横たわり夫婦の行く末には暗雲が垂れ込めていました。
ようこそ「歴史秘話ヒストリア」へ。
家康が仕組んだのはまさに政略結婚。
当時の大名家の結婚は娘の意向などお構いなしに嫁入りさせるのがごく普通でした。
とはいえ和子が嫁いだのは所作も文化も万事が全く異なる天皇家。
和子と後水尾天皇のこの結婚は一体どうなってしまうのでしょうか。
遠く離れた京の都へ嫁いだ和子。
入内したあとも宮中になじめない日々が続いていました。
どうすれば夫と仲良くなれるのか。
そして公家や女官たちともうまくやっていけるのか。
和子は悩みます。
天皇のお后様からの思わぬ豪華な贈り物に女性たちの心も華やぎ和らいだ事でしょう。
特に徳川家では大切にされてきたものです。
武家の伝統に少しでも親しんでもらいたい。
そんな気持ちで和子は会を催したのかもしれません。
やがて宮中の人々は和子の素直で前向きな姿勢に少しずつ心を開いていきました。
心の声なんと面白き女子じゃ。
入内から6年がたった寛永3年。
幕府による大イベントが開かれる事になりました。
それは「二条城行幸」。
行幸を成功させるため和子も陰ながら動いていた。
そう思わせるものが二条城にありました。
二の丸御殿の前に広がるこの庭園。
荒々しい岩を組み合わせ武家らしい力強さを表現した庭の風景です。
でもこの二の丸庭園には実はもう一つ別の顔があると聞き案内して頂きました。
やって来たのは先ほどの場所から50mほど離れたふだんは入れない池の反対側。
宮嶋さんこちらの風景はいかがですか?先ほどとはまた雰囲気が変わりますね。
柔らかいイメージですね。
実は…池のほとりには行幸の間天皇が過ごす御殿が建てられ庭も大きく改造されたんだそうです。
最初に見た庭の風景はゴツゴツした石が印象に残る武家風なのに対しこちら側は奥行きのある開放的な景色となっています。
そうかもしれませんね。
行幸では料理でも二つの家の親密さがアピールされました。
天皇に振る舞われた料理を描いた貴重な絵巻が残されています。
いや〜長いですね。
どんどん遠くまで行ってしまう。
一部なんですね。
へ〜。
絵巻はなんと20m。
これでも出された料理の一部といいますからびっくり!豪華な宴の様子が目に浮かびます。
豪快に盛られた魚介類。
武家にふさわしい力強い勢いが表現されています。
一方こちらは宮廷風のお膳。
高貴な紫色の花をあしらい華麗で上品な雰囲気です。
それぞれの魅力を演出した膳を並べ天皇家と徳川家の融和を演出したようです。
部屋いっぱいにこのお三方が並びまして…和子の支えもあって徳川家が計画した行幸は大成功を収めました。
この事で夫婦の関係もよりよいものになっていく。
そう和子は確信したにちがいありません。
しかし幕府は天皇家との親密な関係をアピールする裏で天皇の行動を制限するさまざまな掟を定め…「禁中並公家諸法度」では「天皇の主な仕事は学問である」と規定して政治への関与を禁じました。
更には「勅許紫衣法度」では寺院における天皇の権力を奪います。
徳の高い僧侶のみ許された紫色の法衣「紫衣」。
それを授けるのは古来天皇の役割でした。
しかし幕府はその授与には事前に幕府の承認が必要だと定め天皇の実権を取り上げたのです。
天皇にとって屈辱的な幕府の仕打ち。
しかし…ただ言いなりになるしかありませんでした。
権力を奪われた天皇に課された唯一の使命。
それは…「一刻も早く世継ぎを!」。
後水尾天皇と和子は共に無言の圧力に苦しみ続けていました。
しかし…その間和子以外の女性が後水尾天皇の子供をもうけてもその子供たちは全て殺されていたと言われます。
そして入内してから7年目。
まこと皇子か!立派な御子に…皇子にございます。
和子にようやく念願の男の子が誕生します。
子供は「高仁親王」と名付けられます。
待ちに待った徳川家の血を引く天皇の誕生が現実的となりました。
二人はやっと「徳川家につながる皇子の誕生を」という重圧から解放されたのです。
しかし2年後幸せな時間はうたかたのごとく消え去ります。
高仁!二人の愛する息子高仁親王が病のため短い一生を終えました。
(泣き声)二人をようやく苦しみの世界から救ってくれた高仁親王の死。
その落胆ぶりは察するに余りあるものでした。
高仁…。
気力を失った後水尾天皇。
それでもなお幕府は天皇に対し権威剥奪の手を緩める事はありませんでした。
やがて追い詰められた天皇は思い切った行動に出ます。
そして…。
譲位である。
幕府に何の相談もせず天皇の位を降りると宣言したのです。
次の天皇には和子との娘女一宮を指名。
幕府の望みどおり徳川の血を引く人物が天皇となったかに見えます。
徳川と血のつながりのある者が代々天皇になるという目論見に対する抵抗だったのかもしれません。
そして天皇を島流しにするとまで言いだしました。
帝は天下の将軍家を愚弄なされるのか!えぇい流せ!隠岐にでも流し奉れ!父の怒りを静めなければ大変な事態になる。
京都に嫁入りして9年。
一度も江戸に帰る事なく徳川のために尽くしてきた和子。
その娘からの切なる手紙に秀忠の心は動きます。
「譲位の知らせには驚いたが…」。
あわや天皇の島流しという大騒動に発展するかもしれなかったこの事件。
和子の必死の仲立ちによって最悪の事態を回避する事ができたのです。
後水尾天皇の譲位により天皇家と徳川家の間で翻弄され続けてきた和子の人生も一つの区切りを迎えます。
和子は「東福門院」という称号を与えられ第二の人生を歩みだす事になりました。
そして「歴史秘話ヒストリア」。
さまざまなしがらみから解放された二人は美しい夫婦の楽園を誕生させます。
京都市の北東比叡山の麓に日本屈指の雄大さを誇る山荘があります。
山裾を利用した起伏に富んだ造り。
山並みを借景に広大な池をたたえ自然にあふれた庭園です。
四季折々の美しい景観を生み出すこの空間は実は譲位したあとの後水尾院と和子が手を取り合って作り上げたもの。
奇跡の庭園修学院離宮誕生に秘められた夫婦の愛の物語です。
政治の世界から離れた後水尾院と和子。
しかし譲位したとはいえ…そうした中…おしゃれが大好きだった和子が呉服屋に注文したという着物の記録が残されています。
こちらが東福門院が雁金屋という呉服屋に注文をした雛形帳でございます。
大胆な柄付けという事になります。
着物の背中に描かれた柄。
和子が注文したものは私が初めて目にするタイプの紋様でした。
大柄のモチーフがあしらわれ左肩から右肩へ平仮名の「つ」の文字を書くように柄付けされています。
この史料をもとに和子の小袖が復元されたと聞き訪ねました。
粋な柄ですね。
そうですね大胆な柄ですよね。
できるだけその当時の江戸時代の技術をそのまま使うというふうな事を心掛けて復元したものですから昔もこういう感じのものを東福門院はお召しになっていたというふうな事が言えるんじゃないかと思うんですけどね。
見る者の心をワクワクさせるようなダイナミックな紋様です。
それが評判となり市中でも大流行。
「御所染め」といってみんな和子をまねた着物を作るようになったそうです。
和子はこの時代のファッションリーダーのような存在でもあったんですね。
一方夫後水尾院も和子に負けない文化人として活躍しました。
中でも力を注いだのが「立花」。
京都の門跡寺院曼殊院には後水尾院が生けた立花の絵が残されています。
寛永11年。
譲位して間もない秋に手がけた立花。
山里のかれんな野の花々が麓を飾る山のように大ぶりの松の枝が生けられています。
花の世界を公家更には一般庶民にまで広げました。
おのおの自分の世界を持つようになった二人は晩年を迎える頃共通の夢を抱くようになります。
それは幕府の監視の目が光る御所を飛び出し自由な空気を味わえる夫婦の楽園を築く事。
修学院離宮の建設です。
「後水尾院は庭の模型をお作りになり草木の一本一本に至るまで職人に指示を出した」。
そこで和子の出番です。
夢をかなえるために…二人が力を合わせおよそ3年の歳月をかけた修学院離宮が完成。
御所を飛び出し足しげく通った夫婦の楽園。
しかしその仲むつまじい姿は史料にはほとんど残されていません。
二人はここでどのように過ごしていたのか。
その様子を想像してみましょう。
騒がしい京の町から2時間余りかけてたどりつくのが離宮の玄関口下御茶屋です。
御所では別々の御殿で過ごさなければならなかった二人はここで再会を喜んだのでしょうか。
下御茶屋を後にして歩きだすと見えてくるのが美しい山並み。
そして幾重にも連なる棚田の風景。
どこにでも見られた田舎の景色です。
田畑のあぜ道を自由に散策。
ここでだけ許される貴重な時間です。
そこには仲良く散歩を楽しむありふれた夫婦の姿がありました。
更に上御茶屋までは急な上り坂・石段が続きます。
手を取り合いようやくたどりつくのが簡素な建物隣雲亭。
振り向くと大パノラマが広がります。
長年自由を奪われてきた後水尾院と和子にとってこの開放感あふれる景色は何物にも代えがたいものだった事でしょう。
離宮の様子が描かれた屏風絵が残っています。
そこには釣りを楽しむ人や子連れで散策に訪れる女性池のそばで宴会を開く町衆の姿が描かれています。
なんとこの離宮には内と外を隔てる柵や塀といったものがなく一般の民衆も立ち入る事が許されていました。
ごく普通の人々の日常とともにある事。
それこそ二人が夢みた夫婦の楽園だったのです。
大きな意味で修学院離宮という最後の後水尾院の作品というのは…波乱の人生を送りながらも静かな晩年を過ごした和子は72歳で亡くなりました。
最愛の伴侶となっていた和子の死を悼み後水尾院が残した歌です。
「これほどつらい時に涙にぬれない袖などあるでしょうか。
浜辺の砂つぶほど数知れぬ人々が皆泣いています」。
和子の死後後水尾院は外出が減り塞ぎがちになったと言われます。
そして3か月が過ぎたある日の事。
一人離宮を訪ねた後水尾院は和子との日々をここで思い返していたのでしょうか。
二人で歩いた田舎のあぜ道。
二人で共に息を弾ませて上った急な坂道。
修学院離宮には58年間苦しみも喜びも共に分かち合い支え合った夫婦の思いが詰まっているのです。
和子の死から2年後。
後水尾院は和子を追うように85年の生涯を閉じます。
今宵の「歴史秘話ヒストリア」。
最後は修学院離宮には今も和子の人生を象徴するものが大切に残されている。
そんなお話でお別れです。
修学院離宮には和子が常日頃暮らしていた御所の一部が移築されています。
中御茶屋にある客殿です。
和子の真っすぐな性格を映し出したような光あふれる明るいお座敷。
そこには徳川家から天皇家へと嫁いできた和子の生涯を物語る「よすが」が残されています。
それは襖の引き手。
天皇家の象徴菊の紋と徳川家の葵の紋を一つにしたデザインです。
釘隠しは色とりどりの花を生けた車をかたどったもの。
立花を愛した後水尾院を慕う和子の気持ちが込められているようです。
後水尾天皇と和子が出会って間もない頃七夕に自分たちを重ねて詠んだ二人の歌が残されています。
「これから何年も夫婦として七夕の空に吹き渡る秋の風を眺めましょう」。
そう詠んだ後水尾天皇。
一方和子はこんな歌を詠んでいます。
「私も七夕の度にあなたとの逢瀬の約束を楽しみにしています」。
どんな障害も乗り越えて共に添い遂げようと誓った二人。
その強い絆が生んだ奇跡の庭園はこれからも私たちにすばらしい景色を見せ続けてくれる事でしょう。
2014/09/17(水) 22:00〜22:45
NHK総合1・神戸
歴史秘話ヒストリア「美しき夫婦の物語〜後水尾天皇と和子 愛の軌跡〜」[解][字]

徳川家康の政略で天皇家に嫁いだ和子。待ち受けていたのは苦難の連続。困難を乗り越え、晩年、夫と共に壮大な修学院離宮を完成させる。夫婦の楽園に込められた思いとは?

詳細情報
番組内容
江戸時代初期、世紀のロイヤルウエディングが執り行われた。家康の孫娘・和子の天皇家への嫁入りだ。その狙いは、徳川の血を継ぐ次期天皇を産むこと。しかし夫の女性問題や息子の死など、和子を次々と苦難が襲う。生来の気強さで多難を乗り越えた和子は、晩年、夫と共に、他に類を見ない壮大な庭園、修学院離宮を誕生させる。和子と夫・後水尾院は何を求めてこれほどの離宮を作り上げたのか。夫婦の楽園に秘められた愛の物語。
出演者
【出演】宮嶋麻衣,【キャスター】渡邊あゆみ

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
日本語
サンプリングレート : 48kHz
2/0モード(ステレオ)
日本語(解説)
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