法大時代にクリーンアップを組んだ同級生の伊藤孔人(左)と長池德士【拡大】
1961年のセンバツに出場した後は、練習試合の誘いが多くなりました。1日に2試合なんて当たり前。ついに右肩を壊しました。なんとかごまかしながら投げて、春夏連続の甲子園出場をかけた徳島大会を迎えました。
1回戦は僕が投げて勝利。2回戦は格が下の相手だったので、監督が僕を休ませたら負けてしまいました。夏休みにやることがなくなってぶらぶらしていたら、徳島・撫養(むや)高にいい投手がいると耳にした南海の鶴岡一人監督が自宅まで来てくれて、「なんば(大阪)球場に入団テストを受けに来ないか」と誘われました。
《鶴岡一人は16年、広島県呉市出身。広島商高、法大を経て39年に南海へ入団し、1年目に本塁打王。40年から従軍し、復員後の46年に29歳で選手兼任監督となり、打点王も獲得した。53年から監督専任。68年まで南海一筋で指揮を執り、23年間でリーグ優勝11度(1リーグ時代の2度を含む)、日本一2度。通算1773勝は歴代最多。65年に野球殿堂入り。2000年、83歳で死去》