長池德士【拡大】
法大では1年の秋(1962年)の新人戦で2本塁打を放ち、2年の春に初めてベンチ入り。3年の秋、打率・354(48打数17安打)で首位打者になりました。
法大が全日程を終えた時点では2位。トップは早慶戦を残す早大の1年生、林田真人でした。1浪して慶大へ進み、投手をやっていた2歳上の兄(英樹さん)がいる横浜市日吉の慶大合宿所へ遊びに行くと、兄と同じ4年生でエースの渡辺泰輔さん(南海で通算54勝)が「お前に首位打者を取らせてやる」と言ってくれました。林田は早慶戦で7打数1安打に終わり、・324(34打数11安打)。本当にタイトルが転がり込んできました。
4年の春は優勝し、僕は外野手で3季連続のベストナイン。卒業後は南海入りを信じて疑わなかったのですが、運命を変える制度ができました。ドラフトです。
《ドラフト制度は契約金の高騰を抑える目的で導入され、65年11月17日、東京・日比谷の日生会館で第1回会議が開催された。当時は事前に各球団が獲得希望選手に順位をつけた名簿をコミッショナー事務局に提出し、1位が重複した場合は抽選で交渉権を得た(2位以降はウエーバー順)。指名の最少は南海の4人、最多は広島の18人。12球団で計132人が指名されたが、入団した選手は52人しかいなかった》