歴史秘話ヒストリア「オラたちの関ヶ原〜天下分け目の合戦VS.農民〜」 2014.09.17

慶長5年9月15日。
徳川家康率いる東軍と石田三成を中心とした西軍が激突した「関ヶ原の戦い」。
東軍か西軍か全国の大名を巻き込んだまさに天下分け目の合戦です。
実はこの時戦の行方を山の上から固唾をのんで見守っている人々がいました。
戦場から逃げてきた彼らがそこで見たもの。
それは…。
農業を営み戦とは関係のない暮らしを送っていた関ヶ原の人々。
しかし一夜にしてそこは戦場になりました。
その時の村人の行動が最新の調査で克明に分かってきました。
そこからは戦に巻き込まれた住民たちが必死にそしてしたたかに生き延びようとする姿が浮かび上がります。
教科書上の話で遠い昔の話みたいな感じがしますがまだまだこうやってその跡があるというか…。
突如村に現れた兵士たち。
村人の生活は一変してしまいます。
彼らは自らの身をどうやって守ったのでしょうか?そして何より大切にしていた村の暮らしは激しい戦闘でめちゃくちゃにされました。
このまま泣き寝入りしてなるものか!村人たちは敢然と立ち上がります。
合戦に勝利し天下を握った徳川家康に農民が命を懸けて要求したものとは何か?天下分け目の戦いの裏で村を守ろうと奮闘した人々の知られざる「関ヶ原の戦い」です。
ようこそ「歴史秘話ヒストリア」へ。
今宵は有名な「関ヶ原の戦い」をご覧頂きます。
こんにちは。
あらどちらさま?関ヶ原に暮らして40年の百姓ヒストリベエです。
当時関ヶ原一帯には何人くらいの人が住んでいたかご存じですか?ごめんなさい存じません。
8つの村合わせておよそ2,000人です。
じゃあこの人々は合戦の間一体どうしていたんでしょうか?そうですねえ…どこかに避難していたのかあるいは合戦に協力させられたのかしら。
ちょっと分かりませんね。
実は当時庶民の記録というのはほとんど残っていないんです。
しかし合戦で一番苦労したのは我々地元の民なんですよ。
あらそれは大変でしたねえ。
でも記録がないのにご苦労されたってどうして分かるんでしょうか?それは実際に関ヶ原に行ってみたら分かったんです。
関ヶ原に暮らす架空の農民ヒストリベエを演じる石井正則さん。
有名な人物よりも庶民の歴史に興味があるという石井さん。
今回初めて関ヶ原を訪れました。
僕が最初に向かったのは関ヶ原町の歴史民俗資料館。
ここに当時の関ヶ原を描いた絵があると聞いたからです。
あぁ…。
民家たくさんありますねえ。
慶長5年当時の関ヶ原を推定して真上から描いた油絵です。
中山道や北国街道など重要な街道沿いに多くの住居が描かれています。
中山道の北側の地区は山から流れる川を利用した水田が広がっています。
そして南側は主に畑や荒れ地が広がっていた事が分かります。
合戦当時ここには旧関ヶ原村を中心に8つの村におよそ2,000人が住んでいました。
かなり多くの方がここに暮らしてたんですね。
この絵の元になったのが関ヶ原の領主竹中重門が作らせた「検地帳」です。
年貢を決めるためのものでした。
2009年地元の有志が「検地帳」の地名と現在の住所を照らし合わせ当時の戸数や田畑の範囲などを2年がかりで調査。
その過程では関ヶ原の家々に伝わる逸話なども集められ合戦当時の詳しい村の様子が明らかになりました。
「関ヶ原の戦い」というねまあ何となく「関ヶ原」という原っぱ…原野があってそこが誰もいないから両軍がそこに集まってそこで今の…何て言うんですかね運動会の騎馬戦みたいにやるようなイメージで持ってますけどそれは実は間違いでやっぱり数百人の人が住んでるわけですからそういった人たちも戦争に巻き込まれたんだという意識がより鮮明になるかなと思ったんですよね。
当時関ヶ原に一番多く住んでいたのが農民。
しかしその暮らしは決して楽なものではありませんでした。
(おたえ)おめえさんお水!悪いな。
トリベエはええなあ。
きれいな嫁さんから水もろうて。
妬くな!一家4人家族の場合田んぼからは年に6石の米がとれます。
しかし年貢を納めると必要な量の半分しか残りません。
村人は稲を刈り取ったあとの田んぼで麦を育て貧しいながらも平穏に暮らしていました。
ところが村人たちの運命を一変させる出来事が起きます。
豊臣家の石田三成率いる西軍が徳川家康との決戦に向け進軍してきたのです。
総勢8万5,000の西軍は大坂城から伊勢などを攻略しながら東へ進み…大谷吉継の部隊600が重要な街道である中山道を抑えるため陣を敷く事になったのです。
大谷隊が陣をとった旧山中村で代々庄屋をしていた高木家です。
この家には西軍が村に協力を求めた書状が残っています。
こちらですか?はいこれが石田三成の書状でございます。
お待ち下さい。
はい。
お〜。
(高木)見事でしょう?これはどういった事が書いてあるんですか?いわゆる陣作りの場所案内とかねそれから陣作りに関する協力方をお願いしたいと。
こういうような内容でございますね。
西軍から要請を受けた庄屋は急遽村人たちを集めました。
何でわしらが働くんや!そうやそうや!どうせただ働きさせられるだけや。
領主様は何と言うとるんですか?さあ…それがさっぱり。
当時関ヶ原一帯を治めていたのは竹中重門という武将です。
秀吉に仕えた名軍師・竹中半兵衛の嫡男です。
実はこの時重門は西軍の一員として岐阜へ出陣していて留守でした。
この要請を受けるべきかどうか重門に伺いを立てる事はできません。
(心の声)西軍はご領主・竹中様のお味方。
従っても差し支えあるまい。
みんなここは言うとおりにしよう。
村人たちは西軍の武士に中山道をはじめ村周辺の道や地形などを詳しく案内しました。
更に陣地作りのために土木作業にも駆り出されます。
戦国時代の合戦では地元民の多くは無給で協力させられていました。
この間徳川家康の東軍も東海道を西へ進軍。
三成のいる大垣城に迫ります。
殺気だった何万もの兵士たち。
大軍の行く先々で村人たちは兵の乱暴を未然に防ぐためある手立てを講じました。
家康が岐阜に到着した時…これを見た家康は…。
おお早くも……と「大柿」と三成のいる「大垣城」を掛けたシャレに喜んだと伝えられています。
しかし柿を献上した人々のねらいは別のところにありました。
これは東軍の武将が岐阜の各地に出した「禁制」と言われるお触れです。
「兵士が家屋や畑に放火したり地元民に暴力を振るって迷惑をかけたりする事を堅く禁じる」と書かれています。
人々は柿だけでなく莫大な献金をして「禁制」をもらい安全を確保していたのです。
戦場にされたくない。
今帰ったよ。
しかし関ヶ原の人たちにはそんなお金はありませんでした。
村に大勢の兵士が来れば何をされるか分かりません。
それより心配なのはお前たちや。
「大坂夏の陣」の記録では兵士が女・子供を取っていったとあります。
関ヶ原が戦場になれば妻がさらわれてしまう危険がありました。
気を付けてな。
あんたこそ。
こんな時戦国時代の農村ではしばしば妻や子供を兵士の目の届かない山の中へ隠れさせました。
これも戦に巻き込まれないための村人の知恵です。
更に村では頭の痛い問題がありました。
おいそりゃそうと田んぼの方はどうやろう?ちょうど刈り入れ前や。
ほんとや!よりによってこれから戦とは…。
農作業が忙しい秋のしかも稲の刈り入れ前という大事な時期だったのです。
実はこれまで秋の収穫の季節に合戦を行う事は戦国時代の常識ではありえませんでした。
戦国時代初期農民は戦になると兵士として参加しました。
そのため大事な収穫期には合戦を行わないのが一般的です。
ところが戦国時代半ばになると農民は農業に兵士は合戦に専念させる「兵農分離」が進みました。
そのため武将たちはたとえ収穫期でも兵士を動員できるようになり農民に気を遣う必要がなくなったのです。
ひとたび戦が起きれば直接戦場にならなくても作物は全滅する恐れがありました。
関ヶ原の戦場を描いた絵には稲を刈る兵士の姿が描かれています。
敵に食糧が渡らないよう根こそぎ刈り取りいざとなれば火をつけてしまう事もあったのです。
これも領主様がいて下されば…。
しかたがない。
みんなで青田刈りするか。
しょうがねえな…。
そのため米の質が悪く収穫量も落ちます。
しかし戦が始まれば全てが台なしになってしまいます。
村人たちは急遽青田刈りをして僅かでも米を確保しようとしたのです。
関ヶ原の戦いは目前に迫っていました。
トリベエさん大変でしたねえ。
こんな時期に合戦するなんて大迷惑ですよ。
自分の領地でもない関ヶ原の民の事なんて誰も考えてくれません。
おまけに領主の竹中重門様はお留守ですものね。
そうなんですよ。
もうこうなったら自分の身は自分で守るしかありません!さあいよいよ東西両軍が激突する「関ヶ原の戦い」が始まります。
この大合戦の中関ヶ原の村人たちは無事に生き延びる事ができるのでしょうか?「歴史秘話ヒストリア」引き続きご覧下さい。
関ヶ原からおよそ14km離れた大垣城。
石田三成は当初関ヶ原ではなく大垣城を拠点に家康と戦う考えでした。
大垣城は当時まだ珍しかった天守を持ち周りに堀を巡らせた難攻不落の城と言われていました。
見渡せそうな…。
天守からは家康が陣を敷いた辺りがよく見えました。
この城を中心に戦えば非常に有利な事が分かります。
合戦前日の9月14日。
家康はなんとか三成を大垣城から引き離そうと一計を案じてこんな事を言いだしました。
大垣城にいる西軍はなかなか手ごわいぞ。
いっその事関ヶ原を抜けて近江大坂へと進んでゆくのはどうじゃ?このまま関ヶ原を通って西軍の本拠地大坂へ移動してしまおうというのです。
家康はこの案をあえて軍議で公言し西軍にも漏れるようにしたと言われます。
家康の発言はたちどころに三成の耳に届きました。
「このまま素通りさせてなるものか!」。
三成は東軍の行く手を塞ぐため急遽陣を移す事を決断します。
(三成)陣を敷くのは…関ヶ原じゃ!即刻ご準備下され!突如として何万もの兵が夜中に関ヶ原へ移動を開始。
関ヶ原の村人もこの三成の決定に巻き込まれていきます。
おいトリベエ起きろよ!何や?どしたんや?どうしたもこうしたもねえや!休んでいた村人たちにすぐさま招集がかけられました。
大垣城を出た三成は家康を迎え撃つため中山道や北国街道などを遮る形で関ヶ原に陣を敷く事にします。
西軍は朝になるまでにそれらの陣を完成させなければなりません。
そのため村人たちは徹夜で土木作業に従事しました。
そして東軍もまた関ヶ原へと軍を進め陣を構えます。
関ヶ原の住居地図の上に東西両軍の布陣を重ねてみます。
住宅街道農地など生活の場がことごとく戦場と化した事が分かります。
東軍の先鋒を任されたのは勇猛で知られる福島正則隊6,000でした。
旧松尾村にある福島正則の陣跡を訪ねてみると今は大きな杉の木がある神社となっていました。
その裏手には当時から栽培されていたというお茶畑が広がっています。
お茶畑が…。
これは戦が始まったら壊滅的な状態になってしまうでしょうね。
関ヶ原には濃い霧が立ちこめていました。
その中から何万という兵士の気配が伝わってきます。
いよいよ戦が始まる!村人たちは家から逃げ出しました。
旧野上村の真念寺の裏山にはこうした時に村人たちが集まる場所がありました。
だいぶ入ってきましたけど…。
そうですね。
何かちょっと平らな場所に出ましたね。
この辺りはどういった所なんですか?
(池田)ちょうど皆さんは…観音堂というのがあったんですか?はい。
あぁなるほど。
そういう場所だったんだ。
ちょうどここ平らになって今結構ねずっと歩いて登ってきましたけどここちょうど平らになってますもんね。
ちょうど関ヶ原合戦の頃は…
(池田)親から子まで。
みんなこっちや!おう!あんた!お〜おたえ。
大丈夫か?霧が深くてよう見えんなあ。
(銃声)東軍の鉄砲をきっかけに…霧が晴れると村人たちの眼下には関ヶ原に詰めかけた何万もの兵士が命を懸けて激突する風景が広がっていました。
おいあそこを見いや。
え?あれは…竹中様!?いつの間に徳川についたんやろ?西軍だったはずの関ヶ原の領主・竹中重門が東軍の一員として戦っています。
西軍のために一生懸命陣地作りに協力した村人たち。
しかし今領主が実は東軍に寝返っていたのを知ったのです。
関ヶ原にいる何万という東軍の兵士が石田三成の陣を目がけ田畑を進んでいきます。
兵士たちの足元には村人が丹精込めて育てた稲。
ああ!俺たちの田んぼが…。
もうあかんわ…。
殺到する東軍に対し三成はかねてから用意していた5門の大砲を使って攻撃。
撃て!
(砲声)戦闘は一進一退を繰り返します。
戦局が動かない事にいらだった家康は自ら指揮を執ろうと陣を前へ進めます。
これを見た三成は家康の首をあげる絶好の機会と捉えて合図ののろしを上げました。
(のろしが上がる音)総攻撃の合図じゃあ!のろしや。
石田様の本陣やねえか?他からも次々とのろしが上がっとるで。
合戦はいよいよ激しさを増していきます。
そして開戦からおよそ4時間たった正午すぎ。
村人たちが逃げた山の向かい側松尾山で大きな動きがありました。
これまで動かなかった西軍の小早川秀秋の軍およそ1万5,000が山を下りていきます。
しかし攻撃したのは同じ西軍の大谷隊でした。
かねて家康と内通していた…大谷隊は壊滅しそこから側面を突かれた西軍は総崩れとなります。
最後まで奮戦した石田三成の陣もついに敗退。
負けたのか…。
午後2時ごろ三成はじめ西軍の諸将が敗走し勝敗は決しました。
およそ6時間に及んだ関ヶ原の合戦は終わりを迎えようとしていました。
しかし村人たちの本当の戦いはここから始まるのです。
戦闘が終わって数時間後。
避難していた山から下りてきた村人たちがそこで見たものは…。
死体が累々と横たわる光景でした。
辺りに充満する火薬のにおい。
田畑は踏み潰され家屋は焼け落ちています。
合戦に勝利した家康の陣には諸将が続々と集まり…「徳川実紀」にはこの時家康は油断する事を戒めてこう言ったと記されています。
ところが地元には家康が全く違う行動をとった事が伝えられています。
何かありますね。
天下御踏石?これはどういったいわれがあるんですか?
(高木)この大岩を足でぺたぺたと踏んで「今俺は天下を踏んでるんだ」というような事から「天下御踏石」というふうになりました。
へ〜!合戦の翌日家康は庄屋の庭先で休息をとりそこで身内の家臣たちとこっそり勝ちどきを上げたと伝えられています。
この時家康は庭石を天下に見立ててぺたぺたと踏んでなんとも上機嫌だったとか。
竹中重門をこれへ!戦場に転がる遺体を集めて供養塔を作り丁重に弔うよう命じます。
その費用と地元への迷惑料も兼ねて…その日の内に家康は関ヶ原を離れ近江へと向かいます。
このころ関ヶ原の村々は深刻な事態に直面していました。
山の中に…落ち武者がウロウロしとるしあんな恐ろしい合戦があったんで怖がっとるんや。
戦で稲が全滅した今すぐに麦をまかなければ来年食べるものがありません。
みんな!ここで泣き寝入りしたら取り返しのつかん事になる。
やっぱり直訴するぞ。
直訴って誰にや?決まっとるやろ。
この戦の張本人家康様や!当時はやっぱり「自力救済」という言い方をしまして自分の力で自分たちを救わなければ誰も助けてくれないという思いがあるのでやはり当時は家康を動かさなければというのはあったと思いますね。
合戦から8日後の9月23日。
関ヶ原の村人はおよそ70km離れた大津城まで家康を追いかけてきています。
本日は恐れながらお願いがあってやって参りました。
何願いだと?申してみよ。
先の関ヶ原の戦において私ども地元の者たちは一同必死にお仕えいたしました。
しかしながら田畑は荒らされ戦を恐れた村人の多くは村に帰らず秋の麦をまく事もなりません。
このままでは村の存続に関わります。
なにとぞなにとぞ直々の禁制を下さりませ。
村人を安心して村に呼び戻すにはそれしかございません。
天下人になろうという家康にただの村人が直接禁制を要求。
もし機嫌を損ねれば自分の命はおろか村の運命も吹き飛んでしまいます。
まさに一世一代の賭けでした。
あい分かった。
ありがとうございます!9月23日関ヶ原の合戦が終わって8日後に初めて出された禁制です。
関ヶ原に残っていた兵に対し村人への乱暴狼藉家屋や畑への放火木や竹を勝手に切る事などを改めて家康の名前で禁止しました。
家康から直々に禁制が出された事で村はようやく落ち着きを取り戻しました。
逃げていた村人も戻り村を立て直す事ができたのです。
戦場からおよそ10km離れた…関ヶ原合戦では戦国時代によく見られた農民たちの落ち武者狩りは行われなかったと言われています。
民家の裏山にはその事をうかがわせるものがありました。
こちらですか?これはどういったお墓なんですか?これは私の親父それからおじいさんから聞いてる話によりますと関ヶ原合戦の落ち武者のお墓だと。
うちの近くまで逃げ延びてきた人がここで息絶えたというふうに聞いてるんですよ。
「客霊」って書いてあるんですよね。
あっほんとだ。
(松井)ここですね。
「お客さんの霊」という字で客霊。
(松井)まさしく私の身内の人間じゃないお墓だと思われるんですけどね。
合戦は村にとっては迷惑だったにちがいありません。
しかし村人は傷ついて逃げてきた兵を迎え入れました。
墓は家の守り仏として代々大切にされているそうです。
僕が最後に訪れたのは関ヶ原・東首塚です。
村人たちはここに武将たちの首や遺骸を集めて丁重に弔いました。
合戦が始まる前の丸太運びから合戦後の遺体の後始末まで。
その全てにわたって役目を負ったのは戦の勝ち負けとは関係のない関ヶ原の人々だったのです。
今宵の「歴史秘話ヒストリア」。
最後は戦いの犠牲者への思いやりを持ち続けた関ヶ原の人々それは今も受け継がれている。
そんなお話でお別れです。
高さ40cmほどの小さな石塔。
その多くは一つの石を削って作られた…兵士の遺族がわざわざふるさとから持参した石で作られたものだと言われます。
徳川幕府の世となり堂々と西軍を弔う事がはばかられた時代遺族は小ぶりな石をこっそり懐に忍ばせ関ヶ原まで運んできました。
村人は彼らを温かく迎えひそかに西軍の陣跡へ案内したといいます。
こうした村人の伝統は今も息づいています。
関ヶ原に代々暮らす高木さん。
30年前家を建てた時敷地から石塔や石仏がたくさん出土しました。
そのため庭の一角にお地蔵様と一緒に安置しています。
特に珍しいのが表面に五輪塔を刻んだだけの「一石五輪塔」。
その簡素な姿から戦で命を落とした兵とその家族の思いが伝わってくると高木さんは言います。
こういうのをここで祭ってるわけでございます。
高木さんの家では毎年お盆に僧侶を招いて供養を行ってきました。
関ヶ原の戦いから400年以上たった今もなお関ヶ原の人たちは戦で亡くなった名もなき人々を忘れる事はありません。

幼なじみの神守幹次郎殿は2014/09/17(水) 00:40〜01:25
NHK総合1・神戸
歴史秘話ヒストリア「オラたちの関ヶ原〜天下分け目の合戦VS.農民〜」[解][字][再]

「天下分け目」の関ヶ原の戦いの裏で、地元の村人はどうしていたのか?戦いに巻き込まれながらもしたたかに生き抜いた村人の知恵を新資料を元にドラマ仕立てで紹介する。

詳細情報
番組内容
慶長5年に行われた「天下分け目」の関ヶ原の戦い。当時関ヶ原一帯には約2000人の人が暮らしていた。2009年、小和田哲男さん(戦国史)の監修で、関ヶ原の検地帳をもとに史跡を徹底調査。従来の武士中心の記録には残らない「農民たちの関ヶ原」を浮かび上がらせた。番組では、関ヶ原各地の遺跡や伝承をもとに架空の農民を主人公とする再現ドラマを制作。関ヶ原合戦の裏で生き残りを図る村人たちの知られざる姿に迫る。
出演者
【出演】石井正則,【キャスター】渡邊あゆみ

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化

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