世界遺産ドリーム対決!「もっと知りたい!クイズ富岡製糸場」 2014.10.03

(一同)万歳!今年6月日本が歓喜に沸いた。
世界遺産に登録された富岡製糸場。
明日は創業記念日です。
今年は世界遺産登録で大にぎわいですがオープンした当時も連日見物客が押し寄せました。
東京ドームより広い敷地面積を持つ…当時ヨーロッパでも多くて150台。
倍もでかい!まさに明治政府が全力で造り上げた…でもなぜこんな巨大な工場が造られたのか。
なぜ日本が世界一の生糸輸出国になれたのか。
皆さんご存じですか?実はその陰には官民が一体となって取り組んだ国造りへの情熱がありました。
富岡製糸場の登場は世界も変えました。
フランスが誇る絹織物産業の町リヨン。
日本の生糸はそのリヨンの危機を救い新たなデザインやファッションをもたらすきっかけともなったのです。
今回は…好奇心あふれる面々がクイズに挑みながら富岡製糸場の本当のすごさに迫ります。
今年142歳の富岡製糸場。
その心臓部は繰糸場です。
長さは140.4メートル。
なんとジャンボ機2機分に匹敵します。
中に入ると器械がずらり。
この工場は昭和62年に閉鎖されるまで実に115年間も活躍し続けたのです。
これほど巨大な製糸場を造るのは日本にとって初めての経験でした。
全てが手探りの中で日本人が工夫と努力を重ねて和洋折衷で造り上げたものだったのです。
広い作業スペースを確保するため中央に柱がありません。
屋根を支えるために三角形に部材を組み合わせる西洋のトラス構造を導入。
日本にはまだ電灯がなかったため室内に光がふんだんにさし込むよう大きなガラス窓がはめ込まれました。
しかし大量に作る事は難しかったのでフランスからわざわざ取り寄せたのです。
頑丈にするために骨組みは木造壁はレンガという木骨レンガ造りで建てられました。
使われたレンガの数百数十万個。
全て国産品です。
しかし建設が始まる以前地元にはレンガを作る技術もありませんでした。
突然ですがここで問題!この国産レンガを作るためにある職人が集められたというのですがそれはどんな人たちだったのでしょうか。
1番石垣などを作る石工。
2番陶芸品を作る陶工。
3番屋根瓦を作る瓦師。
さあお考え下さい!
(拍手)「世界遺産ドリーム対決!」司会の南原清隆です。
首藤奈知子です。
今日は世界遺産富岡製糸場と絹産業遺産群に関するクイズ対決です。
さあ早速の問題ですけれどもレンガを作ったのはどんな職人かという事ですが…。
正解した方には得点として富岡製糸場の工女さん人形を立てて頂きます。
すいませんそれ正解してから立てて下さい。
むちゃくちゃになってしまいますから。
群馬出身お願いしますよ。
分かりました!さあそれでは番号札をお出し下さい。
えっ?本当?分かれました。
さあ井森さん。
1番の石工というのは…。
近くにですね鬼石町っていうとこあるんですよ。
だからやっぱり石が当時から有名だったんじゃないかな。
なるほど。
さすが地元!近くですから職人さんにいらして頂くにも交通費もそんなにかからない…。
石工さん。
ちなみに富岡製糸場に行かれた事は…?しっかりは中は見てないんですがお話をたくさん頂いてるので。
行った事あるんですか?ないんですか?まだないです。
続いて菊川さん。
私3番の瓦師。
これはなぜ瓦師?レンガって多分焼きますよね。
瓦も焼くじゃないですか多分。
だから似てるのかなと思ったんですよ。
そしてパックンが2番陶工。
レンガは彫るものでもなくたたくものでもなく焼くものですから。
焼き物といったら陶芸品じゃないですか。
瓦も焼くんですけど菊川さんがそうおっしゃるまでは僕知らなかったです。
パックン富岡製糸場に行った事は…?僕この中で断トツ一番ゆかりある方だと思いますよ。
初めて泊まり込みのネタ合わせしたのは製糸工場のすぐ近くのマックンの実家です。
じゃあ見た事ある?ありますよ。
中入って…。
今はすごいちやほやされてるんですけど僕ら行った時はほとんど貸し切りだったんです。
さあ正解何なんでしょうか?VTRをご覧下さい。
果たして富岡製糸場のレンガを作った職人とは?おや?このレンガ丸が刻まれていますね。
これは文字のような記号。
一体何なのでしょう?実はこれ製造者を表す印。
日本の瓦師が自分の焼いた瓦に必ず入れる屋号なのです。
製糸場の屋根には数十万もの瓦。
この瓦を焼いた職人たちがレンガも焼いたのです。
新しい工場は極力日本人の手で造るべきという方針があったためです。
当時の窯を復元した人がいます。
製糸場のレンガを焼いた瓦師の子孫です。
(小林)私らもあの窯でレンガを焼いた事があるんですけど初めての窯は95%以上失敗でした。
当時の職人も最初は分厚いレンガの中まで火が通らずすぐに割れてしまったといいます。
数か月に及ぶ試行錯誤の末材料に石粒を混ぜ熱を伝えやすくする事でようやく丈夫なレンガを焼く事ができたのです。
これ見て下さいこれね。
いい味出してますよね。
色のむらもね職人の思いだとか苦労だとかそういうものがこういう味の中によみがえってくるようなそんな気がしますよね。
という訳で菊川さん大正解です!これ置いてもいいですか?どうぞ。
よく考えたら大量生産に慣れてるのは瓦師ですよね。
僕3番にします。
遅い遅い。
全てに対して遅い。
乗っかろうとしても駄目。
次行く時は石を探します。
ちょっと見ちゃうかも。
なかなかレンガの中に石が埋まってるの見た事ないんですけどそれ見たら「これはね熱伝導率が高いから中が焼けるようになりますよ」と。
自分の手柄にしないで下さい。
あそこのガイドさんできちゃいそう。
始まったばっかりだから。
まだまだありますよ。
菊川さんどうなんですか?木で出来て柱を中央使ってないっていうのは?普通は柱がたくさん…。
長いので棒長く渡すのってたわんじゃうじゃないですかだから絶対柱が必要じゃないですか何本も。
でもあの三角形の構造トラス構造っていうんですけどそれで力をちょっと分散させて強度を高めている。
それもねうまく計算してたのか…。
ああいうワイドスパンはすごいです本当に。
富岡製糸場は操業停止後も所有していた企業によって守られました。
「売らない貸さない壊さない」という方針のもと年間1億円という維持費をかけながら維持されているという事なんです。
しかし何でヨーロッパでも器械で150しか使わない。
それを300使ってる大きな工場を造ったのか。
実はですねこの設立には日本の国の命運が懸けられていたんです。
こちらをご覧下さい。
明治時代日本は欧米と並ぶ近代国家を目指していました。
そのために必要なのは産業を興し外貨を稼ぐ事。
当時日本が世界に輸出できたのは生糸とお茶くらいでした。
生糸は江戸時代から独自のノウハウを蓄積しておりその品質は外国人の間で大評判。
しかし手作業だったため生産量に限界があったのです。
そんな折フランスの生糸商人が政府にこんな話を持ち掛けてきました。
日本のために大量生産できる製糸場を造るべきです。
資金を全部出しますのでうちと明治政府の共同経営にしませんか?渡りに船のおいしい話。
しかし政府の重鎮伊藤博文はこう答えました。
一体なぜ断ったのでしょうか?伊藤博文は外国の資本が参入する事によって…明治政府は鉄道と並ぶ国家事業として日本の資本による製糸工場設立に取り組みます。
そのために技術指導者として白羽の矢を立てたのがフランス人…破格の高給で雇い入れ敷地選びから機材発注まで一切を任せました。
ブリュナは水と石炭が確保でき養蚕が盛んな事から富岡に世界最大規模の製糸工場を造る計画を政府に提出。
そして着工からわずか1年半というスピードで富岡製糸場を完成させたのです。
ブリュナは敷地内に300坪もある洋館を建てて家族と住みました。
フランスから製糸技術を伝える技術者も招きました。
日本各地にその製糸技術を伝えるために全国から若い女性たちが集められました。
寄宿舎で共同生活をしながらの8時間労働。
週に一度の休日も保障されていました。
現在富岡製糸場では工女たちの作業を復元した器械で見る事ができます。
ゆでて軟らかくなった繭から糸を取り出し次々に新しい糸を補充していくのです。
さなぎが透けて見えたら糸が無くなるしるし。
繭から髪の毛の3/3という細い糸をすかさず糸繰りの器械に投げ入れます。
腕が上がれば昇給する能力制。
袴にたすき姿の工女は元祖キャリアウーマン。
憧れの職業でした。
富岡製糸場が創業するとこれを手本にした工場が全国に次々と造られていきます。
富岡で修業した工女たちはふるさとに戻り今度は地元の工場で技術指導者として活躍していったのです。
10年もしないうちに全国に大小合わせ600以上もの器械製糸場が出来たといわれています。
そうして日本は世界一の生糸輸出国へと上り詰めたのです。
生糸がね近代日本を支える原動力だったんですけれども…。
西洋の技術を取り入れて一番すばらしい状態に仕上げて広めていくというのは日本の方はそれが得意ですよね。
学んでは改善させては広めるという。
しかもわずか着工から1年半であれだけのものを造ったんです。
器用ですね日本の人って。
多分たくさんの人集められて職人さんでワ〜ッてあそこに全部力エネルギー注ぎ込んで国の事業だからできたんでしょうね。
最初お金出すよって言われたけどそれはちょっと。
すごいリーダーシップというかかじを切るあの判断は半端ない。
エネルギー感じますよね当時としては。
よしこれをやるんだってこれを造るんだ。
伊藤さん今いらしたら相当喜びますね。
世界遺産に認定されたって言ったら。
そうだね。
個人的にお墓参り行って下さい。
(菊川)報告しましょう。
ねっ!実はですね今私たちの生活にとっても身近な銀行や新聞も生糸産業と共に発達したんですね。
生糸貿易で栄えた横浜では経済活動が活発となりまして第二国立銀行が登場しました。
更に日本最初の日刊新聞横濱毎日新聞も生糸商人の出資で誕生したと。
当時相場ですとか海外情勢などの情報が必要になったのでそれが新聞につながったと。
生糸がきっかけだったんですね。
本当すごいですね改めて考えると。
生糸は地方経済とも深く関わっていました。
ちょっとこちらの映像をご覧下さい。
群馬県前橋市大正2年に建てられた倉庫です。
ここにはたくさんの繭や生糸が収められていました。
広い空間ですよね。
でも所有していたのは製糸場や貿易商ではありません。
実はこの倉庫は銀行の持ち物。
かつて繭や生糸を担保として差し出す事でお金を借りる事ができたんだそうです。
(菊川)そんなに貴重なものだったと。
価値があったって事ですね。
今で言う不動産みたいな…。
土地みたいなもんですよこれ。
あと金とかね。
(井森)だからなんですかね私子どもの時も周りの農家がお蚕をいっぱい飼ってて東京に来て私「お蚕」って言ったらみんな「お蚕?蚕だよね」って。
「お」をつけてるんですよみんな地元の人って。
だからこれ見てたら本当お蚕様ぐらいの感じしますよね。
雰囲気で言ったらね。
本当に。
さて続きましては富岡製糸場設立に尽くしたポール・ブリュナの祖国フランスを訪ねます。
フランスと日本の間には生糸で結ばれた深いつながりがありました。
ご覧下さい。
パリに次ぐフランス第2の都市世界遺産の町リヨン。
この町にブリュナが日本に来るきっかけがあったのです。
リヨンの繁栄は15世紀に始まった絹織物産業が作り上げました。
鮮やかな花柄のこの絹織物。
ナポレオンが愛用した軍服。
リヨンの絹製品は貴族や王族がこぞって買い求める高級品でした。
リヨンの商工会議所の天井には絹織物の交易で栄えた様子が描かれています。
絹織物を手にしているのはアラブや中国など世界の商人。
中央のライオンはリヨンの町の象徴です。
しかしこの繁栄に危機が訪れました。
その危機に立ち向かったのがあの富岡製糸場の指導責任者ポール・ブリュナだったのです。
ブリュナは1840年リヨン近郊の町で生まれました。
街路樹は桑の木。
かつて養蚕が盛んだった頃の名残です。
ブリュナゆかりの場所に案内してもらいました。
この辺りにブリュナの父親の生糸工場がありました。
ブリュナの父は蒸気機関を使った生糸の器械をいち早く導入するなど当時でも革新的な経営をしていました。
しかしブリュナが16歳の時父の工場は倒産。
原因は…蚕が全滅する伝染病がヨーロッパ全土にまん延しリヨン周辺でも生糸の生産に大打撃を与えました。
絹織物産業が絶えるかもしれない。
成人したブリュナはリヨンで生糸の貿易商社に就職。
1866年には開港間もない横浜に生糸の買い付けに派遣されました。
日本の蚕は病気に強いと伝えられていたからです。
ブリュナは日本各地を調査し良質の生糸を生産できると確信しました。
彼は大量生産を可能にする計画書を明治政府に提出。
政府は近代的な富岡製糸場建設の指導責任者として彼を雇ったのです。
ブリュナが富岡製糸場経営の手本にした工場がありました。
従業員500人が働いていた大規模な工場でした。
このような広い部屋にこんなにたくさんのベッドが並んでいました。
ここで工女たちは寝泊まりしていたんですよ。
寄宿舎制度はフランスでもこの工場が初めて導入したものでした。
従業員たちが寝食を共にする共同生活を通じ規範や技術を教えるボネのシステム。
これは数百人規模の工女を抱える富岡製糸場にも有効なものだったのです。
富岡製糸場が創業した当初生産された生糸はブリュナの期待どおりほとんどフランスに輸出されていきました。
このアルバムには日本から運ばれた生糸の商標が大事に保管されています。
チョップと呼ばれる商標ラベルです。
こちらは富岡製糸場のもの。
日本初の器械製糸工場はフランスでも有名でした。
指導責任者であるブリュナの名前も誇らしげに記されています。
富岡以外にも福島県のものや岐阜県のものなど日本各地のチョップが残されていました。
趣向を凝らしたデザインの数々。
各地の製糸場がブランドとして確立していった事が分かります。
更にこれらの商標はフランス人に大きな刺激も与えました。
リヨンの絹織物職人たちは商標の日本的なデザインからアイデアを得て絹織物のデザインに取り入れようとしていたのです。
19世紀後半ヨーロッパではジャポニスムと呼ばれる日本趣味が流行していました。
商標ラベルのデザインまでもがリヨンの職人たちにインスピレーションを与えていたのです。
こちらは1752年創業の絹織物工房。
日本から輸入した生糸はこうした工房で絹製品になっていました。
やあ僕らの工房へようこそ。
昔ながらの手織りの職人はカニュと呼ばれます。
最盛期には何千人もいましたが今では6人ほどです。
創業以来の受注記録が大切に保管されています。
布のサンプルが貼られていますがこちらの納入先は…日付を見ると富岡の生糸が大量にリヨンに輸出されていた時期です。
オペラ座に日本の生糸が使われた可能性は十分にあると思います。
ヨーロッパ建築を代表するパリのオペラ座グラン・ホワイエ。
ここの絹のカーテンは富岡の生糸で織られているのかもしれません。
日本からの安くて良質な生糸はフランスの裕福な市民のファッションにも絹製品として取り入れられました。
さまざまな有名ブランドも生まれていったのです。
日本の生糸がなければ19世紀にリヨンの絹織物産業がこれほどの成功を世界で収めなかったと思います。
VTR見れば見るほど誇らしい気持ちですね群馬県民として。
いや本当に。
パリのオペラ座にも使われてるかもしれないなんて…。
多分そうじゃないですかね。
何て言うんですかね恩返しっていうかブリュナさんが教えて下さった技術とか工場の運営のしかたとか経営のしかたとかいろいろ教わって学んで助かったところもあるんですが恩返しとして結局良質で安いものを向こうに返してこれがもう本当に資本主義の最高の形なんですね。
お互いのやり取りでウィンウィンじゃないですか。
それでまさに糸みたいに結ばれちゃうんですね。
絆が出来ちゃうんですね。
どうした?急にいい事言いだしましたね。
ずっとVTRの間考えてました。
でもあの商標があるっていうのすごいですよね。
日本の富岡だけじゃなくて豊橋だったり…その商標がまたアートっぽくってすごい。
さあこの辺でリヨンのクイズいってみましょうか。
皆さんこちらをご覧下さい。
筒状のものがたくさん現れました。
東洋風なデザインに彩られています。
実はこれ19世紀後半から使われ生糸の公正な取り引きのためには欠かせないものでした。
果たして…3択です。
3択です。
(井森)もつれか水分か太さ。
そうです。
さあそれでは番号札をお出し下さい。
井森さんが2番の水分を抜く。
そして菊川さんも2番の水分を抜く。
パックンが3番太さをそろえる。
分かれました。
女性陣は水分を抜く。
水に弱いとか生糸が。
水分をしっかりカラカラに抜かないと切れやすいとかもしかしたら。
私は糸が切れるっていうよりも公正な取り引きに必要って言ってたのでいくら量が同じに見えても水分吸ってしまって重く換算されたら買った方は損してしまうじゃないですか。
だからそのためにちゃんと水分を抜いた状態でお金に換算するのかなと思いました。
よくできましたね。
全然違うじゃない。
そうじゃないと。
太さをそろえるのが大事だという。
よく見るとこれは筒型になってますよね。
これ遠心分離機。
くるくる回して水分を抜く。
…と思わせる引っ掛けだと思います。
遠心分離機に絶対見えるから逆に太さをそろえる器械だと思います。
太さどうやってそろえるの?多分あの…うん。
自信なくなってきましたね。
さあ正解はあるんでしょうか?VTRご覧下さい。
ここはかつて絹の取引所だった建物。
レリーフに刻まれているのは桑と蚕。
ここに置かれていたのがあの筒状の物体。
さあ何をするものなのでしょう?これは生糸の水分を抜く装置です。
これは水分検査器と呼ばれるもの。
中に生糸を入れ暖かい空気で乾燥させ完全に水分を抜いたあと重さを量る仕組みになっています。
生糸は古代ローマの時代には金と同じ重さで取り引きされるほど価値のあるものでした。
しかし生糸は常に多少の水分を含み環境によって重さが変わるので公正な取り引きの支障となっていたのです。
そこで水を抜いて生糸の重さを正確に量る必要がありこの装置が誕生したのです。
という事で…という訳でお二人正解です。
本当は菊川さんだけ正解ですけれども…。
(菊川)やった〜増えた。
やりましたよ!誰に言ったんですか?今。
群馬県の皆さんです。
生糸って取り扱いがやっぱ大変だったんですね。
生糸を作る工程や気候で水分量が変動してしまうんですね。
かつては大量の水を含ませるという不正も横行したという事でそのために水分検査器が…。
(パックン)まさに水増しですね。
実はですね同じものが富岡製糸場にもありました。
ブリュナがフランスから運ばせたものといわれていまして鶴亀松竹梅など日本の伝統的イメージが描かれていると。
絹ってどういったところが魅力があるすてきだと思います?肌触りがいい。
肌触りいいですね。
吸収もしてくれるし放出もしてくれるじゃないですか。
だから夏はサラサラだし冬でも暖かいからすごい。
見た目もきれいじゃないですか。
艶やかでね。
買い物に行った時にシルクの下着とか見るとやっぱりちょっとアダルティーな感じする。
井森さんもう十分アダルティーだと思いますけども。
年齢的には。
今年世界遺産に登録されたのは富岡製糸場だけではないんですよね?そうなんです。
ちょっとこちらをご覧下さい。
後ろに現れました。
これらも日本の生糸産業の技術革新に貢献したんです。
これ皆さんご存じでした?これはもう知ってました。
私の地元もあるんですよ。
どちらが…。
あの荒船風穴っていう…。
荒船風穴もう一回言って。
荒船風穴。
うわ〜!ぴったり!
(笑い声)風穴な感じするもん!何か井森風穴みたいな…。
さあ果たしてどんな所なのかクイズも出ます。
VTRご覧下さい。
こんにちは。
富岡が生んだ落語王子古今亭今輔でございます。
これはですね群馬県民では知らぬ者はないお国自慢の上毛かるたでございます。
この富岡製糸場を陰で支えた重要なお宅がこちら。
後ろにございます田島弥平旧宅でございます。
皆さん蚕は病気に弱いって知ってましたか?田島弥平さんはこの家を蚕に健康な卵を産んでもらうために建てたんだそうです。
その鍵は屋根の上のこの櫓。
う〜ん興味津々!さあ行ってみましょう!
どうもごめんください。
どうもどうも初めまして。
古今亭今輔と申します。
初めまして。
私田島と申します。
なんとこの世界遺産に住んでいらっしゃるとか
(今輔)あ〜なるほど!生活感ありますよね。
(田島)めちゃくちゃそうです。
(今輔)世界遺産の中にお住まいになられてるってこれ大変な事ですよね。
その辺もね私も何とも…。
(今輔)いやいやいやいや…。
お〜すごいですね。
2階広いですねこれ。
開けた空間ですよ随分。
この2階の蚕室と呼ばれる広間ではかつてずら〜っと棚が並び蚕を蛾になるまで育てていました。
蛾から蚕種と呼ばれる蚕の卵を産ませて養蚕農家に売っていたんですね
卵はこの種紙に産み付けられました
円い筒に1匹蛾を入れると中で500ほどの卵を産むんです。
この種紙かなり高価だったようで…
高い時は5円80銭だったって話を聞いた事があるんですけど巡査さんの月給よりも種紙1枚の方が高かったって…。
持って帰りたくなりますよ。
(田島)アハハハッ。
2階の上にはこの家最大の特徴櫓と呼ばれる空間
(今輔)おっ開く!
昔は窓を開ける事で室内のよどんだ空気を逃がして涼しい空気を取り込んでいたんだそうです。
弥平さんは丈夫な蚕を育てるためには新鮮な空気の循環が重要だと気付いて清涼育と呼ばれる育て方を編み出しました
この家は健康な卵を作るためにお蚕様の住み心地を優先した事で世界遺産に登録されたのです
こちらは同じ群馬の山奥。
蚕の卵を日本全国の農家から集め保管していた場所が…
日本のマチュピチュですか?ここは。
一年中冷た〜い風が噴き出してくる場所に小屋を建て最高で110万枚にも及ぶ種紙を預かっていたんです。
通常蚕は春暖かくなるとふ化しますが温度が低いとふ化しません。
涼しい風穴で保管し季節感を人工的にコントロールする事で多い時にはなんと年に5回以上も繭を作る事が可能になったんだそうです
(今輔)お〜来ました。
おっ!涼しいというかちょっと寒い感じですか?はい。
(今輔)じゃあちょっと入れて…。
おっ!これは来てますね風が。
すごいな。
ちょっとこっちでやってみよう。
こっちで。
石垣がわざと風が通るように隙間を作って積み上げられているのです
ちょっと測ってみましょうか。
ええ是非とも。
温度の方を。
外の気温は30℃を超えていますが石垣付近は…
(今輔)1.7!?自然が生んだ冷蔵庫ですね。
うん?奥をのぞくと氷も見えます。
なぜこんなに冷えるのかというと…
風穴の上は自然の岩が積み重なった沢になっているんです。
深い所の大きな岩が冬の間に冷やされて雪解け水や雨が隙間に流れ込んで氷になります。
沢を下る風がここを抜け冷風が噴き出すのです。
自然のパワーを巧みに利用した荒船風穴。
繭の生産回数を5倍以上にも増やし世界一の生糸輸出国になる原動力となったのです
更に蚕が繭になるまでの時間を大幅に短縮するシステムも生まれました。
それを編み出したのが高山長五郎さんです
当時60日もかかっていたお蚕の繭になる期間これを35日短縮しまして手間を半分にした画期的な飼育法になります。
それは気温を18℃から26℃の間に調整する事によって蚕の成長を早めるという方法でした。
寒い日には床の火鉢に火を入れて暖めるなど徹底した温度管理を行いました
長五郎さんはこの蚕部屋で育て方を教える学校も開きました
後に高山社の養蚕学校は全国に116校も出来たそうです。
ここで学んだ生徒たちは卒業すると高山社の種紙を買い均一で丈夫な繭を生産するお蚕ネットワークを広げました
生徒は中国や朝鮮半島からも来たそうですよ。
生糸の生産量は年々増加。
やがてその大半をアメリカに輸出するようになります。
太平洋戦争前まで半世紀も貴重な外貨を稼ぎ続け日本を支え続けてきたんです
富岡製糸場をはじめとする世界遺産は日本の近代国家への歩みを見続けていたんですね。
う〜んあっぱれ!
さあここで問題です!大事に大事に蚕を育てていた養蚕農家ですがこの地域ではある動物を神様としてあがめていたそうなんです。
さてそれは一体何の動物でしょうか?
さあどれでしょうか?
さあこれはもう群馬県民なら常識でございます!ねえ井森さん。
ネコニワトリサルも確かに私近所で見た事ありますよ。
うちの実家にもサル出てきた事ありますからね。
この最後の問題ですが工女さん人形2ポイントとなります。
逆転のチャンスです。
逆転大チャンス!頑張って下さい。
これは群馬県民の井森さんは最後に出してもらうという事でお二人からじゃあまず番号札をお出し下さい!パックン3番。
菊川さん1番。
そして井森さん!2番です。
2番!ニワトリ。
友達の家に何があったかなって思い出した時に確かにネコちゃんもいたような気がするんですよね。
あとねニワトリもいたんですよ。
なるほど。
朝を告げる「コケコッコ〜」って誰よりも早く起きるじゃないですかニワトリって。
その「コケコッコ〜」っていう音頭でお蚕が目覚めるんじゃないかと思うんです。
なるほど。
いやそうじゃなくて菊川さんは1番のネコ。
これは?やっぱり蚕を食べられないようにしないといけないと思った時に誰か食べる動物ってネズミかなと思ったんですよ。
そのネズミを駆除してくれるのってネコかなと思ってネコ様々なのかななんて。
ちゃんとした理論立てがありますね。
なるほど。
ただネコとかニワトリあまり神様っぽくないなあと。
神様っぽいのは?見ざる聞かざる言わざるというのも日光に施されまして何となくサルがあがめられる対象としてありうるかなという…。
もうこれ本当に厳しくないですか?僕この辺全然マックンから聞いてない。
正直苦しい。
答えが分かれましたけど正解はどれなんでしょうか?ご覧下さい。
養蚕農家の神様それは?
養蚕農家ではお蚕を食べるネズミ。
これが非常に困ったものだという事でこれに変わる天敵いわゆるネコですね。
ネコ神様としてあがめていました。
ネコを飼ってないうちはこのネコ神様の掛け軸こういうものを掲げましてあがめたと。
珍重しましたネコ神様をね。
群馬の殿様が描いた猫絵は特に御利益があるとされました。
4代にわたって描き続け猫絵の殿様として知られているんです
ヨーロッパに蚕の卵や生糸を輸出する時猫絵も添えられたといわれています
大事なお蚕様のためなら猫の手も借りたい。
日本の生糸産業の発展にはおニャンコが一役買っていたんですね
菊川さん完璧なお答え!大正解で〜す!工女さん人形2つ!うわ〜ジャジャン!うれしい。
風穴さん全然違いましたね。
ちょっと惜しかったですね!惜しくない惜しくない!友達んちがニワトリ何であれ飼ってたんだろ?
(笑い声)猫絵を蚕のお守りにするのは江戸時代からでして群馬埼玉長野一帯の習慣だという事なんですよね。
江戸後期よくネズミを捕るネコは馬よりも高い値がついたという記録もあると。
馬が1両だったのに対しネコが5両という。
全然違う!ネズミハンターとしてすごい達人のネコですね。
このVTRに出てたけど行った事あるんですか?風穴は。
さすがにないです。
ないんですか!多分これねすごい山奥っていうか長野と群馬県の県境ぐらいだと思うんですけど恐らく。
だからちょっと山道行くみたいなとこじゃなかったですか?本当グルグル道を下っていくと突然あるんですけれど…。
行った事あるんですか?この間行かせて頂きまして本当に冷たい空気が流れていて寒いぐらいなんですよ。
ずっといると。
ひんやりして。
だって1.7℃って言ってましたね。
年5回もそのサイクルを繰り返す事ができるように何て言うんですかね品質管理と組織力というのは今も日本の企業の特徴じゃないですか。
ここからできてるというかこれが象徴か原点か分からないですけどつながってますよね。
情熱って大切なんですね。
大切ですよ。
何か情熱懸けてる事ありますか?最近。
仕事一本です。
(笑い声)さて本日のクイズ対決結果を発表致します。
井森さん1ポイント!菊川さん4ポイント!パックン0ポイント!参りました!という事でクイズ対決の勝者は菊川さんでございま〜す!おめでとうございます!
(拍手)このようにクイズを通して見てみましたけどもいかがでしたでしょうか?和洋折衷っていう言葉が出てきましたよね。
工場の造りもそうですし技術もそうなんですけど結局西洋生まれのものが和風にアレンジされて改善されてまた世界に発信されるという…。
このプロセスはやっぱり大事だなと思いまして。
この西洋と東洋を結ぶものとして絹がやっぱり大きな存在だったんですね。
だって何世紀も前からあの交易の道はシルクロードと呼ばれてますからね。
そのシルクロードの目的地がマックンの実家だったと。
うちの相方世界遺産ですよ!それは本人にしか分からないですからもう。
これまで歴史とか文化を大切に守ってきて下さった人がいたっていうのも本当に感謝してるしあとはこれを次世代につなげていくっていう事も大事だなと思いながら見ました。
そのためにどうするんですか?井森さんは。
シルクの下着を購入しに行きます。
(笑い声)まずは!どうぞアダルティーになって下さい。
皆さん今日はどうもありがとうございました。
またお会いしましょう。
(拍手)2014/10/03(金) 22:00〜22:50
NHK総合1・神戸
世界遺産ドリーム対決!「もっと知りたい!クイズ富岡製糸場」[字]

世界遺産の「富岡製糸場」は、世界最大の規模だった。115年の歴史から、数々の秘話を現地やフランスへの取材で明らかにし、「富岡」が果たした役割を浮き上がらせる。

詳細情報
番組内容
世界遺産「富岡製糸場」は、明治日本の近代化の原動力だった。115年の歴史から数々の秘話を現地やフランスへの取材で明らかにする。なぜ世界最大の規模だったのか。なぜ仏式の製糸技術だったのか。なぜリヨンを救ったと言われる?なぜ短期間で世界一の生産量?政治家から瓦職人、工女、養蚕農家まで一体となり作り上げた日本の絹糸生産体制。それはまた各地域に金融機関や新聞の誕生も促し、日本の近代経済の基礎を作り上げた。
出演者
【ゲスト】宮崎美子,井森美幸,【司会】南原清隆,首藤奈知子,【語り】近藤泰郎,桜井洋子,【リポーター】六代目 古今亭今輔

ジャンル :
バラエティ – 旅バラエティ
情報/ワイドショー – 芸能・ワイドショー
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz

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