NHKアーカイブス「シリーズ1964 第1回 東京オリンピック」 2014.09.14

2014年上空からの東京の姿です。
2020年の東京オリンピックに向けて今大きな変貌を遂げようとしています。
この東京そして日本は今から50年前どのような姿だったのでしょうか。
1964年は東京オリンピックが開催された年。
戦後の日本にとって大きな転機となりました。
人々は何を考え何を目指していたのでしょうか。
「NHKアーカイブス」では今日から4回のシリーズで1964年に注目します。
国立競技場が見えてきました。
上段の真ん中聖火台が見えます。
50年前世界のアスリートたちの活躍に日本中が沸きました。
そして今6年後のオリンピックに向けて新しいスタジアムに建て替えられるその準備が始まっています。
シリーズ「1964」1回目の今日は50年前の東京オリンピックが世界に発信したメッセージがテーマです。
第2回は一千万都市へと膨張した東京。
地方では過疎化が進みました。
高度成長時代の光と影を見つめます。
第3回は若者文化です。
1964年「平凡パンチ」「ガロ」が創刊されました。
豊かになりつつあった時代の若者の心を読み解きます。
この年東海道新幹線が開業しました。
高度成長の中でさまざまな技術が爆発的に生まれました。
第4回は敗戦から立ち上がった技術者たちの思いに迫ります。
シリーズ「1964」。
まずは1964年がどのような年だったのか振り返ります。
1945年。
日本の戦後は焼け跡から再出発しました。
東京や大阪その街角に飢餓が日ごと多くの人々の上に忍び寄りつつあります。
家を焼かれ職を失った人々。
親兄弟を失った寄る辺なき孤児たち。
これら戦争の生んだ絶望の人々こそ苦悩する都会の姿です
翌年…自由と平和とを愛する文化国家を建設するように努めたいと思う。
民主主義と平和主義を旗印に日本は新しい国に生まれ変わる事を誓いました。
終戦から6年後の1951年。
日本はサンフランシスコ平和条約に調印。
独立を回復します。
1950年代半ばの神武景気。
テレビ冷蔵庫洗濯機の三種の神器が暮らしを潤しました。
1959年5年後に東京でオリンピックが開かれる事が決定。
(一同)万歳〜!
「よかったよかった」と興奮の渦巻き早速体育協会前にオリンピックの旗を揚げました
1960年池田内閣が誕生。
所得倍増を掲げました。
日本は未曽有の高度経済成長へ突き進んでいきます。
終戦から19年たった1964年。
「オリンピックまで」を合言葉に明けた今年は各地で国造りのいろいろな建設工事が力強く最後の仕上げに入りました。
首都東京の姿を一変させた高速道路工事は昼夜兼行で続けられました
高度成長と建設ラッシュ。
東京は人口が急増します。
大都市の機能まひは交通の面でも一層深刻です。
時差出勤の呼びかけも効果は薄く朝夕のラッシュアワーの混雑はますますひどくなるばかり
更に別の問題も。
オリンピックを控えた東京では30度を超す日照りが1か月近くも続いて深刻な水不足に見舞われました。
給水車に集まる人々です
朝から水が出なくて本当に困るんです。
赤ん坊のおっぱいの…ミルクやるね水もなくて。
人口急増に水源確保が追いつきません。
東京砂漠が流行語となりました。
一方で経済成長は続きます。
鉄鋼の生産はアメリカソビエトに次いで世界第3位となります。
この年IMF国際通貨基金で日本は為替の取引制限の対象から外れるなど先進国に仲間入りしました。
9月7日から東京で開かれたIMF国際通貨基金などの国際会議。
この会議は日本の成長ぶりを世界の金融政策の最高責任者に強く印象づけました
海外への観光旅行が自由化されたのもこの年でした。
羽田空港からはこの日を待ちわびた人たちが華やかな見送りを受けて飛び立っていきました
・「明日がある明日がある」人気歌手坂本九さんが歌うこの曲が時代の気分を象徴していました。
・「上野は俺らの心の駅だ」・「くじけちゃならない人生が」集団就職で地方から上京する若者たち。
金の卵と呼ばれた彼らを応援したのがこの曲でした。
・「まこ……」・「甘えてばかりでごめんネ」・「みこは……とっても幸福なの」・「君はどうしているだろか」・「あゝ東京の灯よ」・「いつまでも」・「街はいつでも」・「後姿の」・「幸せばかり」・「ウナ・セラ・ディ東京あゝ…」・「勝つと思うな思えば負けよ」この年お茶の間に流れたのはこんなCMでした。
「インド人もびっくり!S&Bカレー新型うまい!」。
「宣誓私たちはここに集い酒の肴にごはんのおかず朝飯前のお茶漬けに江戸むらさき花らっきょうかつをの塩辛葉唐がらしにいかの塩辛。
私たちは選ばれた桃屋の代表選手です。
栄えある五瓶のマークです。
私たちは堂々と何はなくとも食べましょう。
桃屋の瓶詰めは食べる事に意味がある」。
・「アチョイトネ四年たったら」オリンピックの準備は最終段階。
・「かたい約束夢じゃない」9月からは聖火ランナーが全都道府県を走りました。
・「オリンピックの顔と顔」・「ソレトトントトトント顔と顔」更に羽田空港と都心を結ぶモノレールが開業。
・「夢もとぶとぶ羽田東京15分」
(汽笛)10月1日夢の超特急が誕生。
最高時速210km。
東京と大阪を4時間で結ぶ新幹線は鉄道技術の粋を尽くしたものとして世界の注目を浴びました
10月10日青空の下東京オリンピックの開会式を迎えました。
(実況)燃えよオリンピックの聖なる火。
(実況)どうか上がりそうです。
上がった!上がりました!三宅見事に優勝の一瞬です。
レスリングも連戦連勝5種目に優勝という輝かしい成績です。
体操競技は男子の活躍が目覚ましく団体総合で優勝しました
(実況)今円谷見事に日の丸が揚がります!日の丸が揚がります!
3位に入賞。
メインスタジアムに初めての日の丸を揚げました
(実況)金メダルポイントです。
さあどうか。
日本のチャンスだ。
流れた。
おおっと!日本優勝しました。
日本金メダルを獲得しました。
東京オリンピックの成功は日本の戦後復興を世界に強く印象づけました。
早速ゲストをご紹介致します。
スタジオにはノンフィクション作家の保坂正康さんにお越し頂きました。
昭和史がご専門です。
どうぞよろしくお願い致します。
どうぞよろしくお願いします。
とても感慨深げに今のVTRご覧になっていましたが当時はどちらでどのように?私は東京で大学を出て2年目なんですが東京の銀座の広告関係の会社にいました。
ちょうど広告が社会で大きな力を持ってく時だったんですね。
それでどの企業も大量販売という事で広告費を使うようになりまして僕ら広告の末端にいる一兵隊もやはり随分お金の動きが変わってきたんだなという事を実感しましたね。
街の様子はどんな感じでしたか?オリンピックというふうなのがだんだん近づいてきてから空気が変わってったなという感じがしますね。
職場の近くの喫茶店などに私たちはよく行ってたんですがある時行ったらウエイトレスの女性たちが制服を着ているんですね。
「どうしたの?」って聞いたら「オリンピックで外国からいろんな人が来るから制服を作ったんだ」。
それで話ししてたら英会話も習ってるって言うんですね。
それで「Welcome」とか今日これを習ったとかそれから僕らがお金払って出ていく時には「Haveaniceday」なんて言うから…。
そういうウエイトレスの方たちも英語を習って外国人が来た時は軽い会話ができるようなそういう空気になっていきましたね。
高度経済成長がとにかくスタートしておりますよね。
そういう年でもありましたよね。
そういう中でどうでしょうか?昭和35年の11月に池田内閣が皆さんの給料を2倍にしますって言って国民の喝采を受けたんですね。
私たちは給料が2倍になるなんてすごい時代だなと思いましたけど。
経済主導に舵を切りながら日本社会が変わっていく。
その昭和35年からの最初の到達点第一段階といいますかね。
それが東京オリンピックだったと思うんです。
さしあたり昭和35年に高度成長にスタートを切った日本は昭和39年の東京オリンピックというのを一番近い目標としてこの国の経済を作っていったんじゃないかなという気がしますね。
そういう意味ではそういう中で働いているサラリーマンも含めてどういう思いで働いていたんでしょうかしらね。
私の一番親しい友達は霞ヶ関に高層ビルを造るんだという話をするんですね。
「高層ビルって何だ?」って聞いたら「四十何階」とかって。
「そんなビル出来るのか?」って言ったら「いや出来るんだよ」って言うんでね建築業界もこういうふうに変わっていくのか。
あるいは造船業界に行った友人もいたんですがそれはこれから船の受注は日本は底力を持ってるから世界でもいろんな国から受注が来るんだよという話を聞きながら日本の社会日本の経済というのが世界の中でそれなりの位置を占めていくんだなと。
同時にそれは私たちの社会全体が変わっていくんだなというのを25〜26歳でしたけど実感しましたね。
でもどうなんでしょう?高度経済成長の中ではオリンピックはどう考えたらよろしいですかね?やはりオリンピックというのは結果的に高度成長の中で可視化して目に見える形で示されたものだと思いますよ。
高度成長というと数字が右肩に上がったとか社会にエネルギーが充満していろいろな形の熱っぽい社会だったといいますが確かに見るところで言えば生活のインフラも上がってきますがしかしそれをもっと大きく可視化して示したのが東京オリンピックだったと思いますね。
その1964年の東京オリンピックは戦後復興の象徴として語られる事が多い訳ですが今日これからご覧頂くのは世界に平和のメッセージを発信したというもう一つの側面を描いた番組です。
ご覧下さい。
日本で戦後最大のイベントが開かれました。
東京オリンピックです。
(実況)聖火の入場であります。
この東京オリンピックの聖火は太平洋戦争中に日本軍が戦場としたアジアの国々をリレーされてきました。
あえて反日感情が渦巻く国々を巡る事で日本は真に平和の国になった事を世界に伝えようとしたのです。
これを計画したのは…東京にオリンピックを招致した中心人物の一人です。
1936年アドルフ・ヒトラーがナチスドイツの力を世界に見せつけた…その舞台裏で次回オリンピックの開催国に東京が決まります。
この時にも田畑は招致委員の一人として準備を進めました。
ところが日中戦争が始まると日本の領土拡張に反発したアメリカやイギリスなどが不参加を表明。
国威発揚のためのオリンピック。
それがいかにもろいものかを田畑は思い知らされました。
戦後日本は新憲法により平和国家に生まれ変わる事を宣言。
更にサンフランシスコ講和条約で国際社会に復帰しました。
しかしフィリピンで行われたアジア大会では日本人選手は観客から罵声を浴び石を投げつけられます。
田畑は感じます。
「アジア大会に出場はした。
しかし日本はこれで本当に国際舞台に復帰したとは言えない」。
田畑は途方もない夢を抱きます。
掲げたテーマは…しかし世界の人々は平和を唱える日本を信じてくれるのだろうか。
田畑はその切り札として10万人の手によってアジア各国を巡る大聖火リレーを計画しました。
今日は平和のメッセージを伝えた東京オリンピック。
その開催までの長く険しい道のりに迫ります。
ここは東京・千駄ヶ谷国立競技場です。
私は今43年前にここで行われた東京オリンピックの聖火がともった聖火台の横に立っております。
ここに立って下を見ますと思ったより以上の急勾配ですし思ったより以上に風が強い。
下からトーチを持って一段一段この階段を上がってきてここにピタッと止まってトーチを掲げて聖火台に点火する。
これはそう簡単な行為ではないという事を今思っております。
今日の「その時」はこの瞬間と致しました。
この聖火がともされたその瞬間であります。
東京オリンピックは昭和15年に開催が決定されていましたが戦争で中止になりました。
そして太平洋戦争が終わったあと再び東京招致運動が起こるんですけどもその中心になって動いたのが今日の主人公田畑政治です。
日本の水泳界の指導者でありました。
田畑はこの東京オリンピックを日本が名実共に完全に平和国家になったんだという事を全世界に訴える機会にしたいと思いました。
そこで彼が注目したのが聖火です。
より正確に言うならばこの聖火がこの東京に運ばれてくる経路です。
彼はそのコースを戦時中に日本軍が大きな迷惑をかけたアジア諸国を巡るという事を考えたのです。
今日はこの東京オリンピックを舞台にお話を展開してまいりますがまずは日本がオリンピックを開こうと思ったその時代背景から番組を起こしていきたいと思います。
ナチス体制下のドイツ・ベルリンでオリンピックが開催されました。
10万人を収容するスタジアムで行われた壮大な開会式。
アドルフ・ヒトラーはドイツ国家の威信を世界にアピールするため大会に全力を傾注します。
日本からは249人の選手役員が参加しました。
その中に日本水泳チームの総監督当時37歳の田畑政治もいました。
(実況)前畑頑張れ頑張れ!前畑リード!前畑頑張れ!200m平泳ぎの前畑秀子をはじめ田畑率いる日本水泳陣は4個の金メダルを獲得し世界にその強さを知らしめます。
田畑の言葉です。
実はこの時昭和15年に開かれる次回のオリンピックに東京市が立候補していました。
東京市長の記した立候補の目的です。
「オリンピック大会は世界の全民族によりて支持せらるるものにあり。
国威の発揚に寄与するところ多大なる」。
満州国を建国し欧米列強に肩を並べた日本。
首都東京でオリンピックを開催する事によりその国威を全世界に示そうとしたのです。
東京のライバルはフィンランドのヘルシンキ。
ベルリン大会の舞台裏で誘致活動を行っていた日本代表団はヒトラーのもとを訪ねています。
ヒトラーは開催国の元首としてIOC国際オリンピック委員会に強い影響力を持っていたからです。
日本の代表団はヒトラーへ羽織袴と日本刀を贈り東京開催への協力を要請しました。
ヒトラーは即答します。
ヒトラーの快諾には裏がありました。
日本と同盟を結びソ連を東西からけん制したいともくろんでいたのです。
4日後開催国を決めるIOCの総会が開かれました。
投票結果は…次回の開催国は東京に決定。
田畑は喜びます。
ベルリンオリンピックの3か月後。
日独防共協定が締結されました。
日本とドイツは連合国と対抗していく事になります。
明くる昭和12年7月。
日本は廬溝橋事件を機に日中戦争に突入していきます。
そのさなか田畑は東京オリンピック組織委員となり開催に向けた準備を始めます。
目標参加国はベルリン大会を上回る58か国。
駒沢には収容人数12万人という世界最大の競技場が計画されます。
ところが昭和13年5月。
田畑のもとへ衝撃的な知らせが入ります。
不参加を表明したアメリカの記録が残っていました。
「東京大会もベルリン大会と同様国際平和および親善というオリンピック本来の目的達成に貢献するところはなかろう」。
続々と届く不参加の申し出に田畑は打ちのめされます。
国家の総力を戦争に集中させていきます。
しかしやがて戦局は悪化の一途をたどります。
ベルリンオリンピックで金メダルを取った選手をはじめ数多くの田畑のまな弟子が命を落としていきました。
田畑はがく然としました。
それは東京オリンピックで聖火がともる19年前の事でした。
ゲストのご紹介です。
慶應義塾大学名誉教授の池井優さんです。
ようこそいらっしゃいました。
よろしくお願い致します。
池井さんは外交史がご専門でらっしゃいます。
池井さんにまず伺いたいのはオリンピックの在り方の変遷です。
オリンピックというのはそもそもスポーツを通じて仲良くなりましょう。
平和のために貢献しましょうという事なんですがそうはなかなかいかないんですね。
特にベルリンオリンピックの時から国威発揚と国家の宣伝のためにオリンピックを利用しようという事になりまして。
東京でオリンピックをやるという事は当時紀元2600年ですから神武天皇以来の日本の威容を世界に大いに知らしめたい。
国威発揚でいこうというのが大きく働いていたと思いますね。
田畑にしてみればどうせオリンピックをやるなら国を挙げて国家規模で壮大に厳粛にやろうと思っていたんでしょうね。
その意図はあったと思うのですが残念ながら事態が進行していくにつれて自分が手塩にかけて育てた選手教え子たちが戦場に消えていくとかオリンピック選手なるゆえに戦場での活躍が誇大にマスメディアによって取り上げられるとか。
どうも自分の考えている事と違って政治的な道具にされてしまったという事ではないでしょうかね。
昭和15年の東京オリンピックは田畑の夢は戦争のために破れてしまいました。
しかもその戦争のために田畑の教え子は死んでいきました。
田畑の落ち込みは相当なものだったと思うんですね。
そんな中ですから東京にオリンピックを再び招致するという事は当時にとっては夢のまた夢といった状況であった訳でございます。
昭和21年敗戦から1年目の夏。
田畑は新聞記者の仕事のかたわら学生の水泳大会に足を運ぶようになりました。
プールの水道設備は戦争により破壊されたまま。
選手たちは汚れた水の中で泳いでいました。
その中には後に日本水泳チームの中心選手になっていく古橋廣之進もいました。
もうとにかく眉毛とかヒゲの生えているとこは全部アオサがくっついてて。
真っ青なヒゲ生やしたみたいな形になっちゃうんですよ。
中はドロドロですが目を開けて泳がないと泳げないんです。
泳ぎというのは。
だからドロドロでも目を開けて練習を続けてやってたんですよ。
劣悪な環境の中でも練習を続ける選手たちに田畑は心を打たれます。
昭和22年。
ロンドンで戦後初めてのオリンピックが開催される事が決まりました。
田畑は若い選手を参加させようと電報をロンドンに送りました。
数日後ロンドンから返事が届きます。
イギリスは戦争中日本軍に撃沈された戦艦の名前を挙げ参加を拒否してきたのです。
この年日本は新憲法により戦争の放棄と戦力の不保持を宣言。
平和国家として歩む決意を世界に示しました。
しかし日本に対する世界の目は変わっていなかったのです。
ところが昭和27年にヘルシンキで行われるオリンピックへ日本の参加が突然認められます。
なぜ急に参加が認められたのか。
開会式観衆から一斉にブーイングを受ける国がありました。
共産主義陣営の盟主ソビエト連邦です。
ソ連は国家による集中的なトレーニングを積んだプロ顔負けのステートアマと呼ばれる選手団を送り込んできました。
ヘルシンキ大会はアメリカを中心とする自由主義陣営とソビエトを中心とする共産主義陣営がメダルの争奪を通して激突する東西冷戦の舞台となっていたのです。
この年サンフランシスコ講和条約が正式に発効。
日本は西側陣営の一員として国際社会に復帰します。
日本が予想外に早くオリンピックに参加できたのは東側陣営という巨大な敵が登場したからにすぎなかったのです。
田畑の心中は複雑でした。
昭和29年マニラで開かれた第2回アジア大会に日本は参加しました。
ここで田畑は日本に対するアジア諸国の本心を知る事になります。
開会式田畑率いる日本選手団に片言の日本語がかけられます。
日本の水泳選手は100m自由形などで金メダルを獲得。
しかし飛んでくる石や木切れで表彰台にも立てないほどでした。
日本人選手団にはフィリピン軍の兵士が護衛につき移動のバスの前後は戦車に挟まれていました。
田畑は痛感します。
そしてこの時田畑は途方もない事を思いつきます。
昭和32年田畑は行動を起こしました。
向かったのは首相官邸です。
総理大臣岸信介に東京でのオリンピック開催を申し出たのです。
しかし岸の反応は冷ややかでした。
一方国民は自分たちの生活に精いっぱい。
「世界的なイベントを」などという夢を抱く余裕はありませんでした。
そのころの田畑をよく知る新聞記者時代の後輩中条一雄さんです。
何でオリンピックなんか。
このみんな飢え死に…。
まだまだ経済が回復してない頃に何を言いだすんだバカ野郎という声があったんですよ。
田畑さんはいつか絶対呼んでこれるというその思い込みの激しさというのがねえ…。
世の中とずれている部分もあるんですけどよさですねえ。
こういう周囲の空気だったからこそ田畑は強く思います。
それは東京オリンピック開会式で聖火がともる7年前の事でした。
戦後日本がオリンピックに復帰したのは昭和27年のヘルシンキ大会でした。
しかしこのヘルシンキ大会もそれまでと同じように国威発揚の大舞台の一つだったのです。
時あたかも米ソ冷戦の時代。
日本はこの年サンフランシスコ講和条約が正式に発効して西側陣営の一員として国際社会に復帰を果たします。
そしてその2年後日本はアジア大会にも出場するんですね。
しかしその時に田畑が見たものは太平洋戦争当時日本軍が迷惑をかけたアジアの国々に残る反日感情のすさまじさでした。
田畑は考えます。
国を挙げて大スポーツイベントをする以上そこが国威発揚の場になる事は否めないのではないかと。
それじゃそこで発想を転換したらどうだろうかと。
国を挙げて国家規模で壮大なイベントをするならそれを通してその国の最も大切なメッセージを全世界に発信する事ができるんじゃないだろうかと。
日本はもう戦争はしないんだ。
本当に平和を願う国に生まれ変わったんだというメッセージを全世界に伝えよう。
そのためにはオリンピックしかないと彼は思う訳ですね。
しかし周囲の状況はそんなに甘いものではありませんでした。
第一当時の日本国の総理大臣の反応が当初は極めて冷ややかだったのであります。
しかしそういう状況の中で皆さんいよいよ今日の「その時」を迎えるのです。
東京でのオリンピック開催を熱心に説く田畑。
しかし何も進展しません。
八方塞がりの中とにかく状況を打開するため田畑は一計を案じます。
ヒントになったのはヘルシンキオリンピックの時に聞いたIOC委員の言葉でした。
田畑が試算したオリンピックの経費は当時のお金で200億円でした。
一方観光収入は384億円と見積もりました。
経費を差し引いても十分黒字が出る。
田畑はその数字を政府東京都など各方面にアピールします。
それが功を奏しました。
やがて国家的事業として協力するという岸首相の言質まで取り付けたのです。
田畑は東京オリンピック準備委員会を設置。
7年後に開催予定のオリンピックに立候補を表明します。
次のオリンピック開催地を決めるIOC総会が開かれました。
開催権を得るには各国のIOC委員が持つ計58票のうちの過半数30票が最低限必要です。
開催地に決定しました。
招致の成功を受け東京では壮大なインフラの整備が始まりました。
首都高速道路の建設。
アジアで最大の大きさになる国立競技場。
外国人を迎え入れるための大型ホテルの建設ラッシュ。
準備に忙殺される田畑。
しかし一つの懸念が日増しに膨らんでいきました。
考え続けた田畑は賭けに出ます。
聖火をかつて日本軍が戦場としたアジア諸国を経て日本に運ぶ計画を発表。
聖火というオリンピックの象徴でアジアの人々に自分たちの思いを伝えたいと考えたのです。
更に田畑は表明します。
しかし異論が噴出しました。
田畑は訴えます。
東京オリンピック開会式の2か月前採火式が行われました。
日本は本当に平和の祭典をする事ができるのだろうか。
そんな中田畑は不安を抱きながらもなんとかアジアを巡る聖火リレーを実現するのです。
ビルマではかつて日本軍が中国イギリス軍相手に激しい戦闘を繰り広げおよそ5万人の民衆が犠牲になっていました。
ランナーが東京への聖火を掲げ走り始めます。
すると…沿道からシュプレヒコールが上がります。
日本語での声援でした。
聖火はタイを経てマレー半島を南下。
マレーシア・クアラルンプールへとリレーされます。
9月3日フィリピン。
アジア大会で田畑たちが「オイ」「コラ」「バカヤロウ」と罵声を浴びた場所です。
ところが今度は2万人のマニラ市民から温かい声援が送られました。
聖火は香港台湾を経て9月7日まだアメリカの統治下にあった沖縄に到着します。
平和への願いを込めた聖火は沖縄の人々に総出で迎えられます。
そして広島へ。
6万人が見守る中平和記念公園を聖火ランナーが走り抜けました。
刻一刻と最終聖火ランナー入場の時間が近づきます。
最終ランナーは田畑が最後までこだわった人物です。
(拍手)
(実況)拍手が起こりました。
聖火の入場であります。
オレンジの炎白煙をなびかせて聖火が入場してまいりました。
栄光の最終走者は昭和20年8月6日生まれ坂井義則君です。
19年前の8月6日原爆が落とされたその日に広島で生まれた坂井義則選手です。
(実況)ついに坂井君は聖火台に立ちます。
日本の秋の大空を背景にすっくと立った坂井義則君。
そして「その時」。
国立競技場に聖火がともされました。
94の国と地域から5,500人が参加した東京大会開会式。
その様子は世界で初めてカラーで衛星中継されおよそ10億人が見つめました。
外国のメディアは開会式をこう伝えました。
アジアで初めて開催されたオリンピック東京大会。
それは日本が平和を願う国に変わった事を初めて世界の国々が実感した瞬間でした。
池井さん今日の「その時」をどうお捉えになりますか?やっぱり田畑さんは大した人だと思いますね。
1つは当時の日本人はほとんど聖火というのがギリシャから日本に直接空路を運ばれてきたと思っていたんです。
ところがかつて戦場にしたアジアの国々を巡り巡って日本に持ってくる。
それによって平和日本というものをアジアの国々にアピールしようという事がありました。
それからもう一つは聖火の最終ランナーですね。
原爆が落ちた日に広島で生まれた坂井君という青年を起用してアメリカが反対しようと何しようとこれこそ平和のメッセージだという事を伝えようとした。
日本という国が国際社会に真に復帰したきっかけとなったと思いますね。
最初が占領を脱して独立をした時。
第2番目が国際連合に加盟を許された時。
そして第3が東京オリンピック。
特に東京オリンピックの場合は世界に対して今までフジヤマゲイシャの日本が平和でもっていい国じゃないかと。
きちんとしたメッセージがあった。
あったですね。
これで日本は平和を愛する国だという事を世界に伝える事ができた。
もう最高のメッセージだったと思いますね。
どうもありがとうございました。
「幻の」とそして「現実の」と。
2つの東京オリンピックの招致に大いに力を貸した田畑政治。
そして昭和39年1964年の東京オリンピックを成功に導いた田畑政治。
しかし彼にはその東京オリンピックに心残りが一つあったんですね。
それは何だったのか。
そして1964年昭和39年の東京オリンピックの閉会式のもよう。
こんな話をご紹介しながら今日はお別れしたいと思います。
今夜もご覧頂きありがとうございました。
(実況)松村がバックトスだ!磯部!決まりました。
日本中が沸き立った東京オリンピック。
女子バレーボール東洋の魔女の活躍。
柔道神永とヘーシンクの歴史的対決。
マラソン円谷幸吉の力走。
15日間の競技は全て終了。
閉会式を迎えます。
この時観衆はオリンピック史上かつてなかった光景を目にする事になります。
当初開会式と同じように国別に整然と行進する予定だった選手たちがなんと一団となって現れたのです。
このハプニングに東京国立競技場は平和の喜びで覆われました。
東京オリンピックを成功させた田畑政治は昭和59年8月25日その生涯を終えます。
享年85。
2008年中国・北京で次回オリンピックが開催されます。
その第一歩を後押ししたのが田畑でした。
実は田畑には東京オリンピックで思い残した事が一つだけありました。
それは国交がなかったからとはいえ聖火リレーが中国と朝鮮半島を通る事ができなかった事。
とりわけ中国をオリンピックに招けなかった事でした。
昭和46年に日本で開かれた…田畑もその実現に尽力しました。
日本卓球連盟の招きで国際大会から遠ざかっていた中国選手団が参加。
中国のオリンピック復帰に道を開きます。
まだ日中が国交を回復していない時代のスポーツを通した交流。
後に来日した中国のIOC委員は目を真っ赤にしながら田畑を何度も抱き締めました。
田畑の言葉です。
聖火リレーで使われたトーチをお借りしてまいりました。
都内を走ったランナーが実際に使ったトーチなんですね。
これこんなふうにご覧になるのはもちろん初めて…?初めてですね。
もしあれでしたらお持ち頂いて。
実際にこう持って走ったんですね。
そんなに重くはないですね。
でも例えばこれで2kmとか走ると…。
2km走るとやはり大変ですね。
東京オリンピックの時にはこれ自体が一つのシンボルになって生命力を持ってた訳ですけどこれに触れる事によって私たちもまた私自身もその時の人と一体化するっていうのかな。
そういう心理状態になりますね。
このトーチがアジアを回りました。
この意義はどんなふうに…?私はここに吹き込まれているのは友情とかそれから人と人のつながりとか連帯とかそういった言葉がこういった形を作ってるんだと思えばこれ自体が時代を超えて時間を超えて私たちにこれを見る度に何かを訴えてくるというような感じがしますね。
アジアを聖火が回ったという事でアジアの友好という意味ではどんなふうにお考えになりますか?やはりアジアに対して日本が戦争という形で多くの迷惑をかけたのは事実ですからその迷惑をやはり謙虚に反省していく。
同時に立ち直る。
そういう事を克服して新しい平和な日本を作っていくっていう事をやはり伝えていくというか伝える役があったと思うんです。
ちょっとこの図を使って説明したいんですけど昭和6年9月満州事変が起きます。
それから14年たった時昭和20年の8月になると世界の60か国と戦争をする状態になっている。
そして日本はアメリカを中心とする連合国に敗れて国土の大半ががれきの山と化すという事ですね。
私たちの国はこの僅か14年でこういった悲劇的な軍事を中心とした政策によってこういう悲劇的な形になったんですね。
逆にこっち側の14年というのは昭和35年11月に池田首相が皆さんの月給を2倍にしますと言いました。
高度成長政策を進めていきます。
経済は右肩上がりで上がっていきます。
ずっといって昭和48年11月で第4次中東戦争があって日本へ石油が入ってくるのが産油国の制裁で止まってしまう。
そのあとこの高度成長は一頓挫して低成長に移っていくんですがこれも14年なんですね。
保坂さんは軍事の14年そして経済の14年という形でおっしゃってる訳なんですが東京オリンピックという事で見ますと戦後昭和20年から昭和39年ですからたった19年であそこまで開催できるようになったと。
それはどんなふうに考えて…?2つの理由があると思います。
一つはこの軍事の14年にですね。
日本の社会にはいろんな能力がある人がいます。
エコノミストであろうがジャーナリストであろうがとにかく思想家であろうがいろんな優秀な人がいっぱいいました。
そういう人たちは軍事の14年全部抑えられていたんですね。
そういった人たちの能力が軍事以外の局面で発揮されていく事になった。
主に抑えられていたエコノミスト経済人経済政策立案者たち。
この人たちは軍事に従属する経済じゃなくて人々が豊かになるための経済をやっぱりやるべきだというのでここで抑えられていた能力がこちら側に発揮されてきたんだと思います。
そういった人たちの能力がやはりこの機に花が咲いてったんだなと思いますね。
それから人々は戦争はこりごりだ。
戦争で人が亡くなるとか他国と争って憎しみの感情を持つとかそういうのはこりごりだというのがこの戦後の歴史の中に流れてると思いますね。
軍事で物を解決しないんだという事を理解してからはとにかくまず豊かになる。
それから自由に物を考える。
それから民主主義のいろんな権利とかそういうものは大事なんだとかっていうふうなそういった形で社会の中に入ってくっていうんですかね。
そういう事を了解点を作っていったと思いますね。
まあそういう事の先駆的な…先ほどの「その時歴史が動いた」を見て田畑政治という人はその先駆的な意味を持ってたなというふうに感じました。
先駆的。
ええ。
この方はやはりヒトラーの時代のオリンピックの政治主導のオリンピックに対して不満を持ちました。
オリンピックに本当に必要なのは何だ。
国威の発揚とかそれから戦争の時代の憎しみの中の感情そのものではないんだと。
それを全部解き放されていく。
そして国民と国民のそれぞれの国民の融和とかそれから協調とかそれから世界平和ですね。
そういうものを理念に据えないとオリンピックというのは成り立たないんだという事をこの方はこの早い段階からそれを指摘してたんですね。
平和っていう事で考えますと例えばアジアでアジア大会の時には罵声を浴びました。
でもそのあと10年後の東京オリンピックでは歓迎されたんですよね聖火リレーの時に。
それはその間に何が…?日本がアジアで戦争という形で迷惑かけたっていうのはいろんな国にそれぞれ迷惑をかけたという形はあるんですが日本軍の戦いの中でやはりフィリピンの人市民というのをだいぶ戦闘に巻き込まれて殺害した形になってるんですね。
日本の兵士たちの反省の気持ちあるいは日本自体がやはりフィリピンに正式に謝罪もしてますしね。
そういった形ではあるんですがフィリピンの国民としては納得できないというので昭和29年戦争が終わって9年の段階ではまだ許せないというので罵声を浴びせる。
それが10年たって感情が収まっていくのはもちろん日本側が正式にいろんな形での謝罪というのはあります。
あるいは賠償していくあるいは経済援助で支えるという事もやります。
同時に国民同士の交流も深まります。
その象徴はやっぱり昭和37年ですからオリンピックの2年前に現在の天皇陛下皇后陛下ご夫妻当時皇太子ご夫妻ですがフィリピン訪問したんですね。
もちろんこれフィリピンだけではなくて東南アジア訪問されたんですがフィリピンの人たちにものすごく自省のきいたそしてある意味でいえば謝罪もきちんと示すような態度でフィリピン社会と交流したんです。
そういったいろんな要素が絡み合ってフィリピンの人たちの中でも少しずつ日本へ対する憎しみが薄れていったと思います。
田畑政治という人はその憎しみが薄れていくという事をやはり形としてちゃんとお互いに理解しよう確認しようというので聖火を持ってフィリピンを走ったんだと思います。
実際にフィリピンの人たちは歓迎して罵声を浴びせたりそういった東京でのオリンピックに対して何か批判的なという形ではない空気を作ったんですね。
そういう事をやはり田畑さんは具体的に示したかったんだと思います。
どうなんでしょう?改めて今日お話を伺ってきた訳ですがその1964年の東京オリンピックがもたらしたものと言いますか改めて伺うとどういう事になりますかしら?私たちは昭和という時代を振り返った時に戦争という忌まわしい記憶を持ってますしそれは記録としても残さなきゃいけないんですが東京オリンピックというのはその忌まわしい記憶を消したり記録を消したりするものではなくてその戦争という記憶記録そしてスポーツ本来の持ってる意味それから友好とか交流のしかたというものを可視化したそれこそ見せてくれた大きな昭和史の中の金字塔と言いますかそれこそ昭和史の中の金メダルだと思いますよ。
それほどやっぱり重みのある。
特にその背景にこの田畑さんという人の考え方があっていろんな時代を見てきたがゆえにやはりオリンピックはその中で何が問われているんだろうという事を一生懸命自分で作っていったんですね。
田畑さんの残された精神と言いますか遺産と言いますか。
それは私たちの国に根づかせなきゃいけない。
東京オリンピックというものをもう一度あの原点に返って作り上げるという意気込みが必要じゃないですか。
今日は本当にどうもありがとうございました。
どうも失礼致しました。
東京オリンピック聖火リレーの最終ランナー坂井義則さんが9月10日亡くなりました。
50年前の聖火リレーは平和のメッセージを伝えました。
6年後私たちは何をメッセージするのでしょうか
2014/09/14(日) 13:55〜15:05
NHK総合1・神戸
NHKアーカイブス「シリーズ1964 第1回 東京オリンピック」[字]

東京五輪が開催された1964年は、日本が復興を果たし、経済成長を加速させた節目の年。当時の日本人は何を目指していたのかを読み解き、今後日本が進むべき道を考える。

詳細情報
番組内容
【ゲスト】ノンフィクション作家…保坂正康,【キャスター】桜井洋子
出演者
【ゲスト】ノンフィクション作家…保坂正康,【キャスター】桜井洋子

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – インタビュー・討論

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