「おいしい生活」ってどんな味?80年代のニッポンはそんなにおいしかったのか?辛いけどおいしいや。
街にはものがあふれ不思議なコピーが宙を舞う。
そんな時代のホットスポットは最先端の業界人が集結する原宿そして若者の街として劇的に生まれ変わった渋谷だった。
新しいカルチャーが続々登場。
百花繚乱に咲き乱れた…そこには時代を切り開く驚きのクリエイターたちがいた。
今宵の「ニッポン戦後サブカルチャー史」は80年代パート2。
経済的繁栄の頂点を迎えたニッポンが狂騒の中で産み落としたものとは?ナビゲーターは…。
80年代の何が変わったかっていうとコピーライターになりたい人たちが出てきたって事なんです。
まさに80年代伝説の演劇ユニット「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」を立ち上げた演劇界の奇才宮沢章夫。
愛と独断のサブカルチャー論が今回も炸裂する。
80年代ってひと言で言っちゃうとうちらにとって「あぁあのバブルの時でしょ?」。
共に旅に出るのはジャニーズきってのサブカル男子…そして制服を偏愛する文化系アイドル…ミュージシャンRIPSLYMEのRYO−Zも参戦!さあもう一度「おいしい」80年代を味わってみよう!何ですか?いよいよ80年代もそろそろ終わりに近づいてきましたが今日は広告の話。
で特に80年代に入ってある局面にその業界が達したんではないかという感じがするんです。
でその中でも注目されたのが「コピーライター」という人たちですね。
今ではコピーライターっていうのはもう一般化されてるじゃないですか。
こういうコピー知ってますか?あぁ知ってますね。
「楽しいロンドン」。
「愉快なロンドン」。
知らないですね。
「愉快なロンドン」知らない?
(西田)知らないです。
「ロンドン」って何ですか?キャバレーでしたっけ?「楽しいロンドン愉快なロンドンロンドンロンドン」っていうねこういうコピーがあった。
ありましたね。
他に先週ゲルニカの話しましたね。
ゲルニカにいた戸川純さんが出たCMのコピーがおしりだって…「おしりだって洗ってほしい」。
それは知ってます。
知ってる?
(西田)はい。
あっほんと。
これはどこで知ったんだろう?「トイレの歴史」みたいな本を読んで知りました。
意外なとこで知ってるなあ。
じゃああとは「私はコレでやめました」。
(風間RYO−Z)あ〜!「私はコレで会社をやめました」ってやつですね。
80年代にさまざまなコピーが出てきたんだけどそこには「コピーライター」っていう言葉に対するまたそれまでの感覚とは違う言語感覚を持った人たちが現れたって事ではないかというふうに思います。
80年代はそれまでにないさまざまな広告表現が一気に花開いた時代だった。
未曽有の物質的な豊かさの中次から次へと新商品が登場。
ものを買う「消費」という行為自体が自己実現になる。
そんな気分が社会に広がる。
もはや広告は商品の機能や値段の違いを訴えるだけでは済まなくなっていた。
むしろ商品そのものの機能ではなくイメージの差異化を競うようになった。
「私はこの禁煙パイポでたばこをやめました」。
「私はコレで会社をやめました」。
「皆さんお元気ですか?」。
「皆様手が汚れたら洗いますよね」。
「美しい人はより美しくそうでない方は…」。
「そうでない場合には…?」。
「それなりに写ります」。
「それなりに…」。
広告が次々に流行語を生んだ。
資本主義の最前線でどこまで遊べるか。
広告はいわばゲリラ戦を展開していた。
「ハエハエカカカキンチョール」。
「ちょっと変ですねやっぱり抜きましょう。
ハエハエカカカキンチョール!」。
「ハエハエカカカキンチョール」。
「よろしいんじゃないですか?」。
80年代広告文化を象徴するこのCM。
商品の説明は一切ない。
ディレクターの川崎徹は言う。
ただ無駄を考えるのって難しいんですよねとってもね。
やっぱりどうしても情報が有効なものに全部なってっちゃう。
一生懸命考えてくと。
だからそこを…ちょっと分かりにくい言葉だけど「抜く」っていうかね。
だから「抜けた」っていう感じはある分かるんです。
そうすると大体成功するんですよ。
そんなものが広告の中で大量に許された事自体はやっぱりちょっと奇跡的な事かもしれないですね。
80年代企業の広告費は好景気を背景に一気に上昇。
既に1980年の時点で10年前と比べて3倍に。
89年にはおよそ5兆円にも膨らんだ。
広告ってやっぱり効率を求められるわけですよ。
高いスポットのお金払ってるからできるだけ効率よく自分たちのメッセージを伝えたいと思うあまりに自分たちの言いたい事だけ言って惨敗するっていうのが今でも広告の80%ぐらいはそうだと思うんだけども。
一回そこから離れて…商品そのものではなくある価値観を表現する。
広告は自立した表現になりうるのかという冒険の第一線を走っていたのがコピーライター糸井重里だ。
これらのコピーにはスポンサーである百貨店の商品をPRしようという意図は直接的には見えない。
そのかわりに同時代を生きる消費者のライフスタイルへの意識に訴えかけるのだ。
当時糸井は「朝日ジャーナル」の名物連載で編集長筑紫哲也の問いにこう答えている。
「広告もまた思想である」という宣言。
80年代の広告は単なる商品広告の枠を超えて私たちの生活を揺さぶった。
開高健って知ってますか?作家で。
ちょっと分からない。
分かんないか。
それから山口瞳。
…という人たちがいましてこの人たちは「寿屋」という会社でコピーライターをやってたんです。
その後2人とも文学者になるわけです。
でねこの当時1950年から60年代にかけての話なんだけどそれは文学の方が上だっていう意識がどっかにあったはずなの。
この人たちもやっぱ結局小説を書きたかったんですよ。
文学の方向に行きたいと思ってた。
80年代の何が変わったかっていうとコピーライターがコピーライターとして自立した。
コピーライターになりたい人たちが出てきたって事なんです。
憧れの職業と言われるものになっていった。
そう。
そこにだからやっぱり今の糸井さん川崎徹さん。
こうして広告を作る事自体広告作りっていうもの自体にクリエーティビティーを発揮していった人たちが出現したっていうのが。
しかもそこにCMそのものが作品になっていくっていう。
名作が次々と生まれたわけですよね。
だから中でも…あっだからこれですよね。
ウディ・アレンを使って「おいしい生活」。
しかし「おいしい生活」って一体何だろうかっていう分からなかった。
ところが…と言われると「おいしい生活」というのを厳密にそれを理解しようとしても分からないけれどもしかしそこからイメージされてくるものは非常に膨らむわけですね。
それぞれの「おいしい生活」っていうので宮沢さんは「おいしい生活」ってこれは何だと思ってるんですか?先生的には。
僕はねこれは後での話にも通じますけど何でもないものでもいいんですよ。
コップでもいいんですよ。
コップでもいいんだけど皿でもいいんだけどそれが1つ1個ある事によってものが1個ある事によって私の生活が変わる時がある。
「あれが欲しいなあ」と思ってるものってあるじゃない。
それはレコードプレーヤーでもいいんです。
高いもんじゃなくていい。
安いもんでもいい。
それが来た時に僕の生活は豊かになってくるという事なんかが「おいしい生活」と感じますけどね。
今だと例えば面白い場面が出来た時に「それおいしいね」みたいな。
そういう「おいしい」って言い方もするようになってきてね。
それこそイメージのある種の戦略ですよね。
購買意欲を高めようという。
そこに何が大事だったかというと皿は…今さっき僕が言ったように何か買ってきたものがここにあるという事はその皿があるからという事以上にそこに情報が書かれてるんですよ。
皿1枚にいろんな事の情報が。
「あなたは美人」とか…それは分かんないけど「あなたの生活は豊か」「あなたは幸せ」というような情報が書かれてるんですよ。
その情報を売ってるんだというのがそれをよしとするかどうかはちょっと別問題なんですけど。
広告は商品に「イメージ」や「情報」を付加価値としてプラスした。
高度消費社会の中で「モノ」はモノ自体の価値とは別に「幸せ」「かっこいい」といった記号としての価値を持つようになる。
そんな中でコピーは人々のライフスタイル自体に訴えかけるメッセージとなってゆく。
コピーが文学作品のように批評の対象になる。
広告が文化として注目される時代の始まりだった。
そこで出てくるのがやっぱり言葉の問題だと思うんですよ。
言葉っていうものがこれだけ別の感覚を我々にもたらすんだっていう事はあるでしょう。
誰かが自分の思想を語ってる時って自分の思想を語ってるじゃないですか。
コピーライターがものを言葉をチョイスする時ってその商品に対してとか企業に対してっていうのを人にアピールする事を考えて言葉を紡ぎ出すじゃないですか。
となると時代に対して言葉を紡ぎ出すからやっぱりその時代を見るためにはやっぱりコピーライターってすっごいいいと思うんですよね。
その時代の質感というか肌感覚。
ここにはやはり「思想」というものが含まれている。
糸井さんが言ってた「思想」。
でもいろんな言葉の中に思想は入っているしもっと違う言葉があるんじゃないかっていう中に出てきたのが椎名誠っていう人なんですね。
それが「昭和軽薄体」って言われるもので…。
「昭和軽薄体」とは80年代前半に現れたくだけたしゃべり口調が特徴の独特な文体の事。
…など日本語の音をアルファベットで表記する「ABC文体」。
「こーゆーふーに」など長音を伸ばして表記したり本来カタカナでないものをカタカナ表記にする。
こんな文章が80年代エッセーやコラムで広く流行した。
「昭和軽薄体」はそれまでの言葉というものを一度解体するようなインパクトを持った。
こーゆー試みもあったのでR。
近代以降の言葉とそれまでの言葉っていうのは違うというのもありますけどそれに近いものがここで起こったと。
言葉の変化が80年代以降起こるわけですね。
僕は椎名誠さんについてやそれから他にも嵐山光三郎さんとか南伸坊さん。
南伸坊さんの「面白くっても大丈夫」っていうこのタイトル自体がすごいですから。
「石油ストーブあれはいけないとその友達は断定したのである」といきなりの書き方ですけどね。
何がだっていう。
「何があった?」と思いますもんね。
思いますね。
でもそういう事が無思想であると言われるかもしれないというこの文体そのものの中に思想がないと言われるかもしれないけどもそれ自体が思想であったと。
こういうふうに書く事自体が思想である。
それは川崎徹さんがおっしゃってた「抜ける」感。
無価値になる。
無価値にする事によってそこで我々がその無価値なものに向かい合う事で何かを想像していく事ができる。
逆にね。
受け取る側に信頼度を置くという事はあるじゃないですか。
僕は演劇をやってる人間なのでこんな事言っちゃ失礼ですが時々観客をばかにしてるのかという劇に出会う時があるんです。
稽古場で稽古をしてて別の稽古場の前を通ったらその稽古場から聞こえてきたせりふが「ここは3階よ。
5階まではまだ2階あるわ」って当たり前の事言ってるんだよ。
そんな親切にしてくれなくてもいいわけです。
それは価値があるかもしれない。
分かりやすさとか何か伝えるという事の価値はあるかも。
伝えないっていう事だってもしかしたら価値がある。
別の価値があるかもしれない。
そこに受け止める側は違う想像力を発揮するという事はあると思うんですね。
ウディ・アレンがねこうやってるっていう事で恋愛映画をよく撮られる方が和服を着て温泉街にどなたかご婦人と…みたいなおいしい生活感をね少し…。
俺それ想像しなかったなあ。
(笑い声)だから多様性ですよね。
やっぱり見る人の。
言葉としての面白さだけじゃなくて言葉を通じて世界を見るっていう時に最初例えば親の言葉を通じて世界を見ますよね。
親からの言葉。
そのあと学校へ行って学校で教えられた言葉を通じて世界を見る。
ところがある日とんでもない言葉に出会うんじゃない?それは歌の歌詞かもしれない。
小説の言葉かもしれない。
そういう事を通じて我々は世界を見ているという意味で言うとこのコピーもまた一つの文化になった。
ただの宣伝のための言葉ではなくてそれ自体が日本語の中の別の文化を形成したと考えられると思うんですけどね。
不思議な広告が世を賑わしていた頃原宿が注目の街となっていった。
「タケノコ族」や「ローラー族」などが次々と出現。
何かと言えば若者たちが集まり新しいカルチャーが生み出されてゆく。
なぜそれが原宿だったのか?原宿には戦後アメリカ軍の兵舎であるワシントンハイツがあった。
街には米軍向けの商店が増えアメリカ文化の匂いが漂っていた。
そんな日本の中の「アメリカ」を象徴していたのが神宮前交差点にあったセントラルアパート。
米軍関係者の共同住宅だったこのアパートには60年代から徐々に文化人が住むようになった。
70年代には新進のファッションデザイナーが事務所を構え近くで店を開業する者も現れた。
そして80年代にはカメラマンコピーライターイラストレーターといったいわゆる業界人が集うようになる。
そこにはこんな人もよく現れた。
まあ原宿のセントラルアパート行けば大体一とおりの音楽家がいてグラフィックデザイナーコピーライターカメラマンがほとんどいるっていう。
だから一日中そこに入り浸ってたりする事ありました。
まず糸井さんの事務所行ってそうすると吉本ばななさんがバイトしてたりそれから林真理子さんがよくいて。
セントラルアパートをはじめ原宿には異業種のクリエイターたちがごく自然に交流する場所が半径1km以内にひしきめき合っていた。
その拠点の一つがピテカントロプス・エレクトス。
ここはかつて宮沢も仕事で訪れていた場所だ。
「日本初のクラブ」と言われ海外からもアーティストが来日。
パフォーマンスやアートイベントなどが行われた最先端の表現の場だった。
それでピテカントロプス・エレクトスに出入りするようになったと。
出入りするっていうのは別にお客として行くわけではなくて仕事で行くっていう。
踊りには行かなかったんですか?行きません!でもまあいろんなライブ見ましたよ。
どういうイベントが行われてたんですか?外国から来たバンドとかもやってたしMUTEBEATとかそれからMELON。
MELONは佐藤チカと中西俊夫を中心に結成された伝説のバンド。
ピテカントロプスでライブを行い80年代のクラブカルチャーの中心にいた。
何で原宿だったのかという事なんですよ。
新宿が1972年に終わった。
新宿の60年代的なもの60年代的な活気っていう「盛り場」としてのよかった新宿っていうのは一番よかったのは1972年までの事。
もちろんそのあとも新宿の盛り場としてはあるわけですけど今現在まで。
でもある文化的な潮流というものがあったとしたらそれが新宿から渋谷方向に流れてくるっていう事の一つ大きな意味があるんじゃないかっていう事をずっと考えてたんですよ。
でずっと地図を見ててねえっとね…ここに文化服装学院があります。
そしてここに桑沢デザイン研究所。
桑沢デザイン研究所というのはドイツにあった「バウハウス」っていうデザインを教える学校があったんですよ。
そこの教育を取り入れたと言われてます。
この2点にとってここの卒業生たちがどこに行くかって考えた時にいきなり新宿じゃなかったんですよ。
恐らく。
だって店出そうとしたり「マンションメーカー」っていってマンションの一室で服を作ってそれでブランド立ち上げてる人たちがその部屋を借りるのに高い所高かった。
ところがここら辺にもう少し安い所があったのとそこはやっぱり色がついてないというような事になるんだと思うんですけどやっぱり手垢がついてないとかっていうその事に惹かれる場所であった。
土地の持ってる力だった。
やっぱりその原宿って先週やったみたいにどこかYMOが持ってたりとかポップさだったりキャッチーさだったりそういう魅力がある人たちは新宿とはやっぱりちょっと棲み分けが違ったんでしょうね。
明らかに違ったと思うよね。
この原宿という土地を宮沢さんが選んだ理由っていうのは先人たちがたくさんいろんな活動をしてたからなんですか?それはね僕は演劇っていうものからどうやって遠ざかるかっていう事しか考えてなかったんです。
当時やってたのはラジカル・ガジベリビンバ・システムというものなんですけどねできるだけ演劇じゃない事をやろうと。
演劇っぽくない事をやろうという事をやってたんです。
皆さんこんにちは。
「世界の文学を語る」の時間がやって来ました。
今日はジャマイカの文学です。
それではご紹介しましょう。
「ジャマイカの太陽はまぶしい」などの著書でおなじみの作家のボブさんです。
今日はよろしくお願いします。
そして今回の通訳を担当して頂きますジャマイカ原住民の…。
ゴラド!よろしくお願いします。
え〜今のジャマイカではどのような文学が多く読まれているかその辺を聞いてみて下さい。
(ジャマイカ語風に)
(ジャマイカ語風に)ジャマイカでは漱石それから外ですかそれと村上春樹が特に…はい。
(ジャマイカ語風に)ふ〜んなるほどねえ。
日本の文学がよく読まれているというわけですね。
まあ外や漱石は分かるにしても村上春樹が読まれているというのが実に意外でしたね。
80年代宮沢章夫が先鋭的な作品を発表する場に選んだのはそれまでの演劇の街新宿ではなく原宿だった。
・「ラジカルガジベリビンバビンバビンバシステム」上演後のカーテンコールも観客のどぎもを抜いた。
・「見た事ない聞いた事ないステージ見た事ない聞いた事ないステージ」・「ラジカル・ガジベリビンバ・システムラジカル・ガジベリビンバ」・「見た事ない聞いた事ないステージ見た事ない聞いた事ないステージ」・「見た事ない聞いた事ないステージラジカル・ガジベリビンバ」
(RYO−Z)ラップじゃないですか。
そうなんです。
すっごい先取りですよね。
(RYO−Z)ねえすごい。
これそうだねえ。
へえ〜。
一切客席見なかったですもんね今。
これカーテンコールっていうよりかはオープニングっていうくらいの勢いが。
(RYO−Z)今から始まるぜみたいな。
これはやっぱり新宿ではないと思ったんですか?そうだねえ。
ミスター宮沢章夫!そんな中この時代80年代一つのメディアがまた新しく出来た。
それは「カセットマガジン」って言われるものなんです。
カセットマガジン?カセットブック。
「カセットブック」とかそういうものを皆さんは知らないですか?知らないです。
あんまり実際は…。
実際のものは知らないです。
この上に置くのも何ですけどこれは「TRA」っていう名前のカセットブックですね。
(RYO−Z)一緒になってるって事ですね。
あっこれオマケじゃなくてどちらかと言うとこれがあって初めて成立するカセットブックっていうものなんだ。
カセットテープと書籍や雑誌が一つになった「カセットブック」。
これが80年代の新しい表現の受け皿ともなった。
小説と音楽対談と音楽など内容は多彩でメジャーから新進気鋭のアーティストまで多くは自主制作の形で世に出された。
「カセットブック」というジャンルを世に知らしめた先駆けだ。
「ニューアーティストカタログ」と銘打たれ音とビジュアルが一体となってアーティストの世界観を表現する斬新な試みだった。
この「TRA」が生まれた背景には何があったのか。
自分たちのメディアが欲しかったという事ですね。
自分たちの周りに才能のある仲間がたくさんいるんだけれどもそういうちょっと発表の場というものが欲しかった。
個性的な人たちが多かったんですよ身の回りに。
格好も奇抜だしやる事もちょっと変わってるしほんとに表現する事もとっても面白いし。
そういうこうパッと見て分かる個性があってそういう何かすごく個性的なものをどう扱っていくと言うと何だけど自分の中でも表現して人に見せていけるかっていう。
そういう事がすごく素直にできたというか素直にしようと思った結果が何かああいう「TRA」というものになったかなあ。
まあでもどっか素直じゃなかったんだけどね。
「TRA」っていうのも「ART」の逆読みだったりするしちょっとこうシニカルなっていうか。
あっあった!これちょっと申し訳ないなと思うのは封切ってないんだよ。
MUTEBEAT。
これ開けていいって言うんだよ。
今ここ初めてついに…。
じゃあちょっとね開けようと思います。
(RYO−Z)30年の時を…。
人間不器用だと大変だっていう。
(笑い声)開いた!開けちゃったなあ。
(RYO−Z)お〜すげえ!かっこいい!かっこいいなあ。
こうやって包んであるんですよ。
あっ破いちゃった。
破きましたね?ゆっくりいきましょう。
貴重なものです。
(RYO−Z)うわっすごい!しかもこういうのに包んであるという。
(RYO−Z)うわ〜すげえ!チョコレートみたいになってるんですね。
「チョコレートみたい」って言うのは君たち健全だなあ。
(RYO−Z)いやいやいや他の言い方しましょうか?NHK的じゃない言い方。
じゃないやつになっちゃいますけど。
こういう…時間かかったなあ。
(RYO−Z)すごいでもかっこいい。
これちょっとじゃあMUTEBEATの…。
(RYO−Z)これは今でも欲しい感じじゃない?グッズとして。
ねえ?うんかっこいい。
え〜と…PLAYこれか。
MUTEBEAT大好きなんだよね。
(RYO−Z)いいっすねかっこいいっすね。
(RYO−Z)すげえなおしゃれだなあ。
これうその新聞だ。
(RYO−Z)そこまで凝ってるんだ。
作り込んであるんですね。
(RYO−Z)ここまで作って。
かっこいい。
これ買ってきて開けて興奮するよね再生するまで。
ワクワクしますね。
このカセットブックってやっぱり出た時は衝撃的だったんですか?だから知らないっていうかメジャーなシーンに出てこない特にピテカン近辺とかねそういう所にいた人たちを紹介するっていう事がまず第一でしょ。
それからメディアとしてカセットというのはさ売ってはいたよね。
でもこういうデザインとビジュアルとセットになって作られてるっていうのはなかったわけ。
音とそれから読むものとそれからデザインこの写真作品でもある。
作り手たちがデザイナーであり伊島薫写真家の伊島さんであるという事の大きさって大きな意味があったと思うんですよね。
原宿を中心に生まれた先鋭的な文化は大量消費社会と結び付きながら変容してゆく。
その舞台となったのが渋谷だった。
今や東京カルチャーの代名詞として世界的に知られる渋谷の始まりも80年代だった。
きっかけはこのストリートである。
70年代初頭ここは「区役所通り」と呼ばれ文字どおり区役所と簡易旅館が数軒ある程度の通りにすぎなかったところが70年代後半突如変貌してゆく。
73年に大型のファッションビルがオープンすると歩道が拡張・整備され名前も「公園通り」へと改名。
ヨーロッパ風の赤い電話ボックスも設置され華やかさが演出されてゆく。
この公園通りの開発に乗り出したのがある百貨店グループ。
その中心にいたのが経営者の堤清二と後に堤からファッションビルの経営を託される増田通二だった。
堤清二は百貨店の経営者でありながら「井喬」という作家としてのもう一つの顔を持っていた。
そんな堤はさまざまな文化事業を展開してゆく。
前衛的な演劇を行う劇場。
まだ日本であまり紹介されていない現代美術を扱う美術館。
更にミニシアター系の映画館やワールドミュージックはじめさまざまな音楽を扱う大型レコードショップなど。
文化の最先端を紹介すると同時に新しい表現を受け入れる土壌を生み出していった。
百貨店が街づくりにまで及ぶ文化事業に取り組んだ訳は…。
堤が美術館の開館のために記した挨拶文にはこんな言葉がある。
それが新しい文化を作るための堤の思想だった。
この公園通りが整備されるまでというのは本当に何でもない街だったらしいんですよ。
(一同)へ〜。
僕も知らないんです。
ただ渋谷ってご存じのように谷底じゃないですか。
谷底という言い方悪いんですけどここが非常に低い所ですよね。
全体が坂道になってる。
この公園通りと言われてる今ある場所というのはあの通りはかつては区役所に行くためだけの道だった。
「区役所通り」と言われてた。
そこに堤清二さんと増田通二さん2人がここを歩いてて何か予感したんですね。
ここは将来発展するかもしれないという事でここを開発するわけですよね。
それは単にパルコを建てただけじゃないんですよ。
通り全体を変えちゃうわけですよ。
電話ボックス作っちゃうしね。
それから歩道を広くしちゃって歩道を整備するのにもお金かけた。
それだけやるともうここには新しい何かが出来てしまうという事なんですよ。
その事が渋谷を大きく変えていくという事になるし渋谷にまた別の魅力をもたらしたなと思うんです。
堤さんというのは西武グループの西武百貨店の社長ですけども井喬という作家でもあるんですね。
それは言葉の世界の人間であったのと経営者であるという事の違う人格でやってたわけじゃなくて1つの人格の中に2つの顔を持ってたという事はすごく大きな意味があるし。
それはいろんなものに対するアンチテーゼみたいなものを彼は持ち続けてたんじゃないかと思うんですね。
それでこれは西武美術館が開館する時の堤清二さんの文章があるんですがこれは宣言なんですね。
「時代精神の根據地として」。
これが堤さんのある種文化に対する宣言。
その中にこういう言葉があるんですね。
そこでやっぱり何か倉庫みたいにただ飾ってあるとかあるいはただ余暇を過ごすためのそういう場所ではない。
そこが刺激してくれる何かを我々に見る側にもたらす。
だからこそ足を運ぶ場所であるという事につながっていけるかどうかという事なんだと思うんですよね。
それがこの宣言の中にある堤さんの言ってるあの言葉の意味だと思うんです。
時代精神の拠点として今何をすべきか。
堤の経営は経済の論理と文化の論理を両輪に進んでいく。
その堤の精神を引き継ぎ渋谷の街づくりを更に進めていったのが…増田はファッションビル展開の一環として公園通りのタウン誌の制作を思いつく。
そんな時増田の前に現れたのがかつて劇団「天井桟敷」にいた萩原朔美や榎本了壱たちだった。
雑誌編集のノウハウのない彼らに編集を任せ1974年タウン誌「ビックリハウス」が創刊される。
でもいざねタウン誌作ったらニュースがなくて大変っていう。
もう西武劇場…まあパルコ劇場のニュースぐらいは入れたとしてもあとはほとんど何もないわけですよ。
でもこのころ「anan」がものすごい人気で女性誌の新しいスタイルを作った雑誌として注目を集めていて私たちはあのような雑誌を作りたいねというので申し訳ないけれども「anan」風に「wanwan」という。
「ビックリハウス」は次第にパロディー色の強いカルチャー誌となり読者投稿の名企画を連発。
若い読者を巻き込んで独特の盛り上がりを見せてゆく。
最近ビックリした出来事を投稿するコーナー「ビックラゲーション」。
面白フレーズをカレンダー形式にした「御教訓カレンダー」。
「筆おろし塾」では書道の腕ではなくネタで勝負する。
更に糸井重里主宰の「ヘンタイよいこ新聞」。
「キモチワルイものは何か」「コワイものは何か」などのお題に読者が答えるコーナーも大人気に。
常連の投稿者は「ハウサー」と呼ばれその中には後に新しい文化の担い手となるクリエイターたちも名を連ねていた。
「ビックリハウス」が当時の若者の支持を集めたのはなぜだったのか。
何かに対する対抗意識というのがあったのかなと思うんですね。
まあ70年の大学闘争というかそこが終わった時点で何かもう何か壊していったり反対していくというかもっとクリエーションしていく時代になってきてんじゃないのかなという感じはあったと思うんですよね。
だからそろそろもう壊したり反対しないで何か作ろうぜというような雰囲気がじわっとこう出てきてる雰囲気だったと思いますね。
そして渋谷は若者向けのイベントの場として盛り上がっていく。
プロと素人が入り交じったお笑いネタ見せ大会…まだ新人だった竹中直人やとんねるずが入賞。
お笑いを目指す若者の登竜門となった。
こちらは「モダーンコレクション」というライブイベント。
レトロムード漂う独特な世界観を歌う戸川純上野耕路らのゲルニカや京都で結成された伝説のインディーズバンドEP−4そして過激なパフォーマンスで話題を集めていたファンクバンドの暗黒大陸じゃがたらなど個性的で新しい音楽を志向する若手ミュージシャンの活躍の場となった。
そんな公園通りが生み出す文化を発信していたのがNHKの若者向け番組「YOU」。
そこでは糸井重里を司会に人気のアーティストが数多く出演した。
「あっウディ・アレンになっちゃったらボロ着ててもいいんだなと」。
「ハーハハ!お待たせ!いや〜元気だった?君にそろえて赤い眼鏡かけてきたぜ」。
「ちょっと落ち着いてここに座ってくれないかしら」。
「俺落ち着くのって苦手なんだよ」。
「ゲルニカの戸川純さんです。
どうぞこちらの方にお越し下さい」。
(拍手)「私が好きなのは昭和30年代から40年代にかけての…。
日本的だと思うんですけど」。
そんな渋谷では日常的にアートを楽しむイベントもまた目立っていた。
当時はまだ珍しかったウォールペインティングの数々。
それまで美術館の中にあったアートが外に飛び出し渋谷の街の景色を変えた。
更に日常的に誰もが知っている広告を題材にしたパロディーの美術展も開催された。
真面目な美術とは一味違うアートは評判となり会場には若者が長蛇の列を成した。
こうしたアートイベントで話題をさらった一つの作品がある。
段ボールを切り張りしたキャンバスにアクリル絵の具でペイントしたこれまで誰も見た事のない作品だった。
作者は当時芸大の学生だった日比野克彦。
なぜこんな作品が生まれたのか。
自分たちの時代を表現するものを作んなくちゃいけないというそういう意識はありましたよね。
それまではアート美術というのは当然日本の芸術大学もそうだけども西洋美術というものをベースにしてその文脈というのを勉強してその中から自分たちの時代を作るというような流れがある中でその美に対しての反対方向性。
そこじゃないんじゃないかなという意識はありましたね。
渋谷のカルチャーってやっぱりアート系のその中でもいわゆる気まぐれな若者の移ろいやすい若者の文化をいつもす〜っとすくい取ってくれてちゃんとフレームの中にここで最初発信していいよというその拠点の雰囲気は渋谷は作っているというのはその80年代の渋谷の遺産として今でもあるような気がしますけど。
80年代渋谷カルチャー。
本格派も変化球も何でもあり。
パロディーキッチュヘタウマだって大丈夫。
あらゆる事が許される空気に満ちていた。
面白いなって思ったのが一番最初に広告をやったじゃないですか今日の最初に。
今まで新宿だったり原宿だったりというのはもちろん仕掛けた人はいるのかもしれないけど人が集まってきた感じじゃないですか。
けど渋谷って明確にこれを想像して仕掛けた人がいる街。
今は巨大モールってあるじゃない。
ショッピングモール。
あれを作る感覚に近いと思う。
街ごと。
街路地の面白さというのはあるわけでそういう何か地形的な面白さというのはあった。
だから意外と渋谷って狭いでしょう。
新宿って広いんだよね意外と。
それに比べると渋谷のこの狭さが何か生み出すものとしてあったんじゃないかと思いますね。
ここの交差点でみんながもう大騒ぎしてスクランブル交差点でハイタッチなんてしちゃったりとかして。
サッカーで。
けどあれは新宿ではあまり起きないじゃないですか。
他の街で起きないじゃないですか。
渋谷だから起きるじゃないですか。
ある時を境にしてそうなってったという気がするね。
90年代ですけど90年代とかにすごいその若者の街というのがより濃くなったじゃないですか。
すごい若者の街というふうに実際以上に若者感を推されてより若者が来るようになったみたいな。
だから何かこの街にとんねるずって言われるとすごいよく分かる感じがするんですよね何か。
なるほど。
ここまで僕は今広告について新しい表現になったとかそれから西武セゾングループが果たした役割という事をかなり肯定的に話してきたつもりなんだけど全部丸ごと肯定できるのかというとそういうわけではない。
全部認めてるわけではない。
そうではないものももちろんあったんです。
80年代後半世はバブル経済へと突入。
その追い風を受けながら人々の消費への欲望はどんどん膨らんでいった。
そして私たちは「24時間タタカエマスカ」とつぶやきながら華やかな消費のために働き続けた。
日本社会はフル回転し続けた。
そんな過剰な消費のあとに残されていたのはどんな風景だったのか。
思想家浅田彰は漫画家岡崎京子との対談の中で80年代を振り返りこう語っている。
過剰な消費の中では新しいものがすぐに廃れてしまう。
バブルで加速する経済のサイクルは常に新しい価値を貪りあらゆるものをただの「記号」と化す。
そんな風景を生み出していたのだ。
だから85年に確かにプラザ合意があってそれがあの日本のバブルを生み出していくわけですよね。
その事に我々はちょっと浮かれてたところどこかにある。
先週も話したようにやっぱどこかに不安感。
この状況というのはいつまで続くのかという不安感というのがあるわけですね。
それで90年代に入っていくという感じはあったわけです。
もう一つは先週話したように記号。
浅田彰さんが80年代の終わりぐらいにある場所で語っていたのは「記号がジャンクになって堆積しているというのが現在の風景だ」と。
僕はそれは廃墟になった遊園地じゃないかと思ったんです。
廃墟になった遊園地に見えたんです。
それが80年代が終わった辺りで感じた事ですね。
その時90年に「遊園地再生」という。
その廃墟になった遊園地はどうやってどのようにしたら再生できるのかという芝居がやりたかった。
例えば廃墟になった遊園地の中に観覧車があると。
それはもう動かないかもしれない。
でもそれがただね少しでも動いたらその時のきしむような音というのが何か次の時代につながるんじゃないかなと思ったというのはありますよね。
ただその廃墟は90年代に向かってどういう姿になっていくかというのがこれから先このお話はまだつながっていくと。
80年代の終わり。
冷戦が終結し世界は一つへと向かっていくかに見えた。
そして豊かさの頂点を極めた日本の一つの時代もまた終わろうとしていた。
糸井重里はかつて「おいしい生活」についてこう語った。
あの時があるから今がある。
「ニッポン戦後サブカルチャー史」。
2014/09/12(金) 23:00〜23:55
NHKEテレ1大阪
ニッポン戦後サブカルチャー史 第7回「80年代(2)“おいしい生活”って何?」[字]
80年代、斬新なコピーやイメージCMの傑作が次々登場し、広告文化が花開く。消費社会の極みで何が起こったのか?クリエイターが集まった原宿、急激に変貌する渋谷物語も
詳細情報
番組内容
「不思議大好き」「おいしい生活」…80年代、一世をふうびした広告のコピーだ。商品を宣伝するだけではないイメージCMやナンセンスCMが次々と登場し、豊かな広告文化が花開く。コピーライターが憧れの職業に。消費社会の極みで何が起こっていたのか?をひも解く。その頃、原宿には先鋭的なクリエイターが集い、一種のサロン文化が生まれていた。そして、渋谷では斬新なイベントが開催。若者の街へと変貌を遂げていく。
出演者
【出演】劇作家・岸田戯曲賞作家…宮沢章夫,【ゲスト】風間俊介,西田藍,RYO−Z,日比野克彦,ミック板谷,【語り】小松由佳
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz
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