宅録ミュージシャン雑記 月に見下ろされて ~宅録ミュージシャン trifling beetleのブログ~

宅録ミュージシャン・trifling beetleの雑記帳&忘備録。
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ちょっと昔だが、テレビドラマとしては異例の2クールにわたって放送されていた「白い巨塔」というものがある。

これは何度もリメイクされていて、一番有名なのは、財前を田宮次郎が演じたものかと。

これは、小学生のころだと思うが、母親といっしょにリアルタイムで観ていたが、それはそれは凄かった。

ドラマの重厚感がハンパない。

渡辺岳夫のテーマソングも凄く好きだった。

最後は田宮次郎自身が放映中に自殺するという、なんともショッキングな幕切れであった。


このリメイクを唐沢寿行、江口洋介なんかの配役で行ったもののラストで登場した「財前から里見への手紙」なるものがネットに流布していたのは記憶に新しい。


里見へ

この手紙をもって僕の医師としての最後の仕事とする。
まず、僕の病態を解明するために、大河内教授に病理解剖をお願いしたい。
以下に、癌治療についての愚見を述べる。
癌の根治を考える際、第一選択はあくまで手術であるという考えは今も変わらない。

しかしながら、現実には僕自身の場合がそうであるように、
発見した時点で転移や播種をきたした進行症例がしばしば見受けられる。
その場合には、抗癌剤を含む全身治療が必要となるが、
残念ながら、未だ満足のいく成果には至っていない。
これからの癌治療の飛躍は、手術以外の治療法の発展にかかっている。
僕は、君がその一翼を担える数少ない医師であると信じている。
能力を持った者には、それを正しく行使する責務がある。
君には癌治療の発展に挑んでもらいたい。
遠くない未来に、癌による死がこの世からなくなることを信じている。

ひいては、僕の屍を病理解剖の後、君の研究材料の一石として役立てて欲しい。
「屍は生ける師なり」。

なお、自ら癌治療の第一線にある者が早期発見できず、
手術不能の癌で死すことを、心より恥じる。

財前五郎

対照的に医師二人を中心に展開されるドラマ。

医療界の腐食にメスを入れたという、かなり骨太な作品だ。


このドラマを見ていて思うが、どこだってそうなのではないのか。

例えばコンビニ業界、福祉業界、美容業界そうなんだろうと思うわけである。


本来あるべき姿に政治が持ち込まれてしまったときに、もうそれは魑魅魍魎な世界となってしまう。

人間の浅ましさがこれでもかと、地獄絵図よろしく展開されてゆくのだ。


政治的側面が強調されてきたときに、あなたの職場の雰囲気は正常といえますか?


あなたがサービス残業で必死に働いているのと同じ時間、上の人間はどこかで酒池肉林を喰らっているのかもしれませぬ。


笑い話だ。


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エジプトで積雪とか。


エジプトといえば北アフリカ。

まぁ、自分的には中東とアフリカの中間的イメージがある。

寒暖差が激しいとか、砂漠の国とか、なんちゅうか、あまり「暑いだけな国」という感覚がなかった。



カイロの雪は112年ぶりらしい。

あるタレントは「史上初!!」なんて吹聴しているが、これは誤りだそうだ。


112年前というと、1901年、つまり明治34年。

日露戦争より幾分前。


初めて雪を見る方々は学校や仕事を休んで、この珍しい景色を楽しんでいるとか。


その気持ちはわからんでもない。


世界的な寒波なのかな。

そういえば昨夜から急に寒さが身にしみるようになってきた。






どうしても伝えたかったけど、いまだにいえずじまいな言葉や気持ちなんて、誰にでも山ほどあるのでは?

自分もたくさんたくさんある。

たくさんありすぎて何がなんだか整理が追いつかない。

だからいくつかだけを拾い上げてみたことがある。

大概は愚にもつかないことだったが


ありがとうとさようなら。


そのなかでも、この言葉だけは、いつか、縁があったけど、もう永遠に会うこともないであろうそれぞれに、ちゃんと届いて欲しいと思う。

独善かもしれないけど、自己満足の一つかもしれないけど、でもいつか、時間を越えてでも伝わるといいなと、心から思う。


お世話になった人、もう永遠に会えない人、大切だった人


そういうみんなにいつか届くといいなと、謙虚に思う。


trifling beetle - OKMusic

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Wカップサッカーの相手国が決まり様々な意見が飛び交っている。




自分はどことあたろうと、今回も厳しいなと思わざるを得ない。

コートジボワール、ギリシャ、コロンビア。

一癖も二癖もある相手だ。


コートジボワールにはドロクバが健在。

以前のカメルーン代表のエムボマやソング、フォメのような存在だ。

前回は大会前の練習試合で日本と対戦、圧倒的に勝利した。

日本の守備はスピードと身体能力にただただ、捻り潰されるしかなかった。

この試合でトゥーリオがドロクバに接触、骨折させてしまうというアクシデントもあった。

アフリカの地元国である。優勝を虎視眈々と狙っていたであろうが、精神的な支柱を突如失ったのは非常に痛かったことだろう。

その因縁もある。

しかも初戦。

この試合の結果がすべてだと思う。


ギリシャはコンフェデで勝った事があった。

ヒデがいたジーコのチームでだ。

当時のギリシャはユーロで、あれよあれよというまに優勝し、コンフェデに出ていたチームだったが、あれは完全にフロッグの優勝だと思う。

が、それでもかなり「堅い」チームだった。

今回のチームはそれを上回る守備力を誇るという。

これもきわめて厄介で、難しい相手だ。

引き分けという結果なら御の字だろう。


コロンビアは地元南米チーム。

個人技に優れた「調子ノリ」という印象が強かった。

バルデラマにしてもイギータにしても本当にみていて楽しかったし。

ただ、一瞬の隙を突かれることが多く、何度か優勝候補にあげられながらも、いまだ彼岸を果たせていない。

1994年のアメリカ大会のチームなんかは凄かったが、アメリカ戦後での、あの「オウンゴール事件」なんかがとても象徴的だ。

サポーターも熱狂をはるかに超していて怖いし、サッカーくじが大々的に横行しており、マフィアが暗躍しているとも聞く。

オウンゴール殺人の動機も、くじで大損をしたマフィアによる射殺だったという。


いずれにしても普段対戦する機会がほぼないチームばかり。

その国の選手をじっくりと見ることも出来る。

なんかそういうのも含めてテレビ観戦できるのは嬉しい。

もちろん他の組み合わせも是非是非見たい。


大好きなフランスチームの下馬評は、今回もあまり高くないようだ。



サッカーにはそんなに詳しくはないが、試合を見るのはプロアマ問わず大好きなのである。



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ネットでの知名度が異常に増してしまい、退学になってしまった人がいるという。

SNSなんかも諸刃の剣だなぁ。


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あの日のことは忘れない。

というのも、ちょっとしたことが、あの日にあったからである。

たまたま見ていた試合だというだけで、どちらかのチームに思い入れしていたわけでもなんでもない。

ただ、見ていたら、そういうシーンがあったというだけだ。


1996年度の夏の甲子園大会決勝、熊本工業vs松山商業。

試合は同点で9回の裏の熊本工業の攻撃を向かえる。

一打サヨナラのチャンスで、バッターが放った打球がライト深めに守っていた右翼手の正面へ。

ワンアウトなので三塁ランナーはタッチアップの準備に入る。

十分にサヨナラ優勝の犠牲フライになる打球だ。


しかし右翼手はこれを好捕して、しかもホームでランナーを刺殺してしまうのだ。

大どんでん返しというべきダブルプレー。

ランナーの足は遅くはなかったと思う。

むしろ俊足だったのでは。

これが奇跡のバックホームと比喩されるシーンだった。

試合は、その後松山商業が延長で決勝点を入れて逃げ切り、優勝する。


偶然に見ていたシーンだがものすごくリアルに記憶している。



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あの日大事な人とずっと話し合いをし、そして「お互いに子供だから、少し距離を置いてみよう」という話をして、そして別れたところだった。


自分のマンションには彼女の荷物が、いくらか運び込まれていたのだが、それを運び出すのに立ち会うのはなんとなく未練がうずくようだったし、お互いに顔をあわせるのもなんとなくだったので、先に帰って運び出してください、その間、僕は時間をつぶしてるからと言うことで話がまとまっていた。

三ヶ月近く、ほぼ一緒に暮らしていたようなものだが、それでも荷物なんてたいしたものではない。

かばん二つ分程度だ。


昼下がりまで時間をつぶしてマンションに帰ったが、な、なんと、入り口で彼女とニアミスしてしまった。

後ろ髪を引かれまくる気持ちを押し殺し続けながらも、それでも泣く泣く、十分に時間をつぶしたはずだったけど


お化粧も落ちるぐらい泣いていたのが良くわかる顔で、でもその背中に何の声もかけられなかった。

茫然自失で見送るだけ。

銭湯の交差点を左に曲がってJR山科駅へと消えてゆく背中を追いかけることも、引き止めることもまったくできなかった。

あの日メイストーム吹き荒れる中を、笑うくらいにごっついカバンを抱えて、初めてこのマンションに来た道を、今度は逆に背中を見せて去ってゆく。

ドラマみたいにシーンだ(笑)。

なぜか涙は出なかったけど、体を引き裂かれているようで頭ん中がすごく痛かった。


あのシーンと、その後、気持ちガランとしたような自室で、とりあえずつけたテレビから流れてきたあのバックホームのシーンが、いつもリンクして蘇ってくる、諸刃の剣みたいに。



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島本理生の「ナラタージュ」は、「冬ソナ」のオマージュを非常に上手に取り込んだ作品だなと感心した。

ナラタージュ」とは、映画などで、主人公が回想の形で過去の出来事を物語ること。


これは、結婚を控えた泉が語る物語。


時間の流れは残酷で、その残酷な流れの中で、ふと今まで抑えてきた感情がどうしようもなく溢れ返ってくることが誰にでもあると思う。

抑えていた分その勢いは、とても激しく、膨大で、そして暴力的なこともある。

自分でうまくコントロールできないことさえもある。


時に熱く、時に冷たく

軽いせめぎ合いがひたすら続き、自己を消耗させてゆく。

しまいには過去の感情が今の自分の感情を序々に凌駕してしまい、感情失禁みたく自分を染め上げてしまうのだ。


しかし苦しさに心を歪めながらも、最後ははたと気がつく、これではいけないと。

やがて残酷に引き裂かれてゆく「自己」と「感情」。

とても切なくも、美しい物語だ。

理由もなく、だめだとわかりながらも、だけどこらえきれずに惹かれあう「運命の恋」。


ラストは人間の脆さが十分に描かれていた。

しかもこのラストは「物語の新たなる始まり」なのである。



さてさて、この物語の主人公は冬ソナでいうところの「ユジン」、そして先生は「ヨン様」に、小野君が「サンヒョク」のオマージュに当たると思う。

冬のソナタは、どこにその人気の秘密があるのか確かめようと思い、一応全部見た。

確かにツボを抑えていて面白かった。




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「YES」,「混ざり、ゆるやかになる、ふたりの色」,「アイニイクヨ」をクレオフーガにアップロード終了。


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主に風のない、日差しの強い真夏の真昼に、道路の先を見ると、一面に水を撒いたように見えることがある。

接近するとそこにはすでになく、さらに遠くへと移動してしまっている。

あたかも水溜りが逃げて行くようである。

これが蜃気楼の一種「逃げ水」。

舗装道路では細長いのが一般的だが、砂漠などで見たそれは、ホンマに水たまりのように丸い形をしていると聞いたことがある。

遊牧民がオアシスだと思って近づくと、それはさらに遠くへと逃げてゆくというアレだ。

ラクダとかは騙されないのだろうか??




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この逃げ水も、蜃気楼や浮島現象も、すべて空気密度の違いによる光の屈折が原因の大気現象だ。

太陽の日射により、大気の下部が低密度化、低屈折率化し、さらに上部からの光が地面近くで全反射し、あたかも水があるかのように見える現象が「逃げ水」、逆に冷たい海水などで大気の下部が冷却され、大気の上部が低屈折率化し、さらにそこに下方向への屈折が伴われ、遠方の物体がまるでぽかりと空中に浮かんでいるように見えるのが「蜃気楼、浮島現象」と定義されている。


大昔、関東平野の西部に広がる武蔵野は、どこまで行っても、ススキの原だったというが、この頃から逃げ水は、武蔵野を題材とした歌に詠みこまれている。

アスファルトや砂漠だけでなく、ススキの原っぱでも逃げ水現象は観察されるからだ。

ちなみに一般的に「逃げ水」は、春の代表的な季語とされているそうだ。





武蔵野は月に入るべき山もなし。尾花が末にかかる白雲 藤原通方


武蔵野はゆき行く道のはてもなし。帰れといへど、遠く来にけり 

釈迢空


東路にあるといふなり、逃げ水のにげかくれても世を過ぐるかな 

 俊頼 夫木抄



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ハウンドドッグが大好きだった頃がある。

マニアで言う「旧メンバー」の時代だ。

1980年代の始めの頃。


特に技術的にすごいって感じでもなかったが、ライブに行くとお祭り気分になり、ホンマ楽しかった。

お客もそんなに多くはなく、チケットも取りやすかったし。


で、ファンクラブなるもんにもしっかりと入っていて、郵送(笑)で会報が送られてくるのがまた楽しみの一つだった。


そのファンクラブの中の人達と個人的に文通や電話で情報交換をしたりもしていたのだが、ある時、「次のライブでドッグが解散かもしれないぜ」という情報が不意に回ってきた。


で、それを鵜呑みにしてはるばる日比谷の野外音楽堂にも行ったのだが、それは一応は本当の話だったが、大友康平がそれを撤回して、メンバーチェンジをしてバンドは継続。

やられた(笑)。


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ところで旧メンバーの海藤さん、愛称「海ちゃん」というベースマンがとても好きで、ライブに行くたびにすごく癒されていた気がする(笑)。

スーパーベーシストではなかったが、それなりに上手だったし、ステージ上で跳ね回る姿はかっこよかった。

曲を書いたりもしていたし、ハーモニーもきれいに付けていた。


そんな海ちゃんがアルバム「DREAMER」を最後に脱退して、藤村さん、高橋さんも脱退なんか自分の中でのハウンドドッグはぷっつりと切れてしまったのだ。



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その後、1985年初頭頃、ひょんなことから大阪厚生年金会館でドッグのライブがあることを知り、阪急と地下鉄を乗り継ぎひょっこりと行ったことがある。


その時点での最新版「DREAMER」の曲を中心に演奏してくれたが、ベーシストを見て驚愕した。

これまた大好きな鮫島さんだったからだ。


元ツイスト、腕は相当、ステージ上でも、その圧倒的なベースラインは、もうバリバリに目立っていた。

音圧やグルーブ感がハンパじゃない。

バンドをグイグイ引っ張っているという感じだ。


たしかそのステージではフェンダーのジャズベを使っていたと記憶している。

その後メジャーになるに連れて、キーボードとギター主体に音も変わり、鮫島さんもプレベ主体に変わって行き、そんなに目立つこともなくなっていってしまった。


しかし、あの加入当初はすごく泥臭くてホンマにかっこよかった。

他にもドラムスの橋本さん、ギターの西島さんも驚愕だったし、これはすごいことになったなと狂喜乱舞した。


その反面、仙台から出てきた田舎の兄ちゃん達が、楽器を持ってステージに上がると途端に豹変するというあの感覚は、もうそこにはほぼなかった。

洗練されたロックバンドという感覚だけがぽつんとステージに置き去りにされていて、なんというか少しだけ寂しいものを感じてしまった。


客もまばらな厚生年金でのあのライブ、とても懐かしい。



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CUT」という映画が気になって仕方がない。

西島俊之さんと常盤貴子さんの主演だそうだが、ベネチア音楽祭で絶賛された作品のようだ。

西島さん主演ということでかなり期待できる。

大好きな俳優の一人だからだ。


この映画についての、何らかのインタビュー動画を偶然見た。

監督はイタリア人監督。

場所もイタリア。

当然、会見もイタリア語で行われており、そう、同時通訳が入るアレだが、西島さんはその会見で、全くカッコを付けずにさらっと、非常に流暢な英語で受け答えしていた。

それがイタリア語に通訳されて流される。

これはこれでカッコよかった。


一方の常盤さんは、ここで全くカッコを付けずに、ありのままの、やや関西訛りな日本語で受け答えしていたのだが、これもまたすごく粋な感じだった。

「私はイタリア語も英語も話せないので」と、まずは笑いをとっておいて、そして肩肘張らずに日本語で。

こういうさりげなく(芝居がかっておらず)自然な感じもすごく魅力的だとおもったのだ。


ここで英語の会話能力もないのに見栄を張って、カッコをつけて、発音が変な英語なんかをドヤ顔で使う人は、ホンマにカッコ悪い。

興ざめするだろう。




いや、とにかくこの映画をぜひ探そうと思う。



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一匹の王様象がいた。

大きな象だ。

能力も力量も十二分。

その王様が小さい蟻たちを次々踏みつけて全滅を図ろうとする。


最初は余裕綽々でタカをくくって、舐めていた。

だが、しかししかし、あまりにも数が多いのと、的が小さ過ぎたりしててなかなかうまくいかない。


力量的、質量的にはその差は歴然だ。


しかしそのアドバンテージをうまく生かせず、なかなか目的を達せられないまま、まんまと蟻を逃してしまう。


逆に、夜、闇にまぎれた生き残りの蟻たちの大群が象に襲い掛かる。


目を食べられたり、はたまた鼻などから頭の中に侵入されて、脳に続く血管を食いちぎられる。


脳内出血を起こしたりして、とうとうたまらなくなってしまい、象は大地に倒されてしまう。


最後は「蟻葬」の餌食となり、見事にリベンジを果たされてしまうのだ。


...すごく象徴的なシーンだった。




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「サウンドスケープ」という言葉は、カナダの作曲家 R・マリー・シェーファー氏が、環境の中における音の存在を表現するものして提唱した言葉として有名だが、日本ではこれに「音の風景」という和訳が与えられている。

つまり、景観の中に景風や景色があるように、音の世界にも同様のものがあると定義された、「音と風景をセットにして捉える感覚」のことだそうだ


音楽も譜面の中ではただの音符の集合体だが、演奏され、音となって空気の中に溶け出した時、はじめてサウンドスケープの一部となる。


音は人の生活の中にごまんと溢れているが、それを普段、意識する機会が少なく、その存在自体があまり認識されていないのも事実だと思う。

騒音も、サウンドスケープのひとつである。


何げない生活上で、それまで意識しなかった音の風景を感じることは、独特の柔軟性を養い、魅力を感じるという。

音の聴き方が一新され、音の感受性が大きく変革されるからである。


こうやって音を意識し始めると、その風景をぜひ表現してみたいという動きさえ出てくる。

サウンドスケーピングというものだ。


自分はいつからか、このことに凄く深く、深く興味を持ち始めた。

街の中の音景色、田舎の地方都市のそれ、私生活の何げない一場面、思い出の中の景色表現したい題材は、ほんとうにたくさんあって、なんか収拾がつかない。


しかし、音景色を表現した楽曲、もとい音楽を聴いたときにぱっと風景が浮かぶ作品、には並々ならぬこだわりを持っていて、実はごく基本的なことだと思うが、これの実現は相当難しいと感じている、少なくとも自分には。

そういう技量も才能も少ないからだ


当然、創作するということは最初からそうじゃないかという突っ込みは、この際スルーさせてもらうが(笑)、音楽という絵の具で自分なりに納得できる絵が書けたときの痛快感は、そうそうあるものではなかった。

稀有で、ナニニモカエガタイ体験。

それがまんまと聞き手に伝わったときなどは、もう死んでも良いとさせ思えるものだ。


だからこそ、このことにこれからもこだわって創作して行けたらなと、日々精進している次第である。


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川上弘美の「夜の公園」は、基本軸はリリと幸夫の夫婦の物語ということで展開する。


そこにリリの親友・春名、暁と悟の兄弟などが絡んできて、彼らが築く奇妙な人間関係は縺れに縺れる。

そしてどこへと行くのか、前半にはまだ読めない。

語り手はリリ・幸夫・春名・暁の4人で、それぞれの物語が交互に展開されてゆくという構成。


彼らは、普通のように見えて、実はそうでない人たちである。

でも、普通じゃないことに、なぜか言い知れぬほどの深い共鳴をおぼえる。

かなりディープで、人間の醜さ全開な物語なのに、さらっとゆる~く感じられるのはなぜだろうか。


自分の中にもある醜さ、それを見せ付けられるからだろうか?

醜さを素直に受け入れることができるからだろうか?



不思議な感覚を携えた、とても面白い小説だった。



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不透明でありながらも、この国は外向きに生きてゆかねばもうどうしようもないことが明白な今、自分なりの哲学や思想を大事にすることはとても大事だと思う。

かけがえのないことだ。


しかし何度も何度も書いたし、そう思うのだが、それを無理やりに他人へと強要することはどうなのだろうか?

自分はこれは、「ファシズムの芽」のように感じてしまい、生理的に嫌悪する。


そういうシチュエーションは、この国においては非常に多いと思う。

見えない部分でだ。


ある引退した元芸能人の裏の顔、相撲界の閉鎖性とか、部活のしごき、どこかの市長か知事だかの内側での傍若無人ぶり、光が当たった問題もあったが、氷山の一部だと思う。

内向き閉鎖的な場所でのえげつないファシズムは、そこらじゅうにある気がする。


例えば調理界の師弟関係において、芸人の師弟関係において、人間としての尊厳を踏みにじることって多くはなかろうか?

シロを無理矢理クロといわされる、NOを無理矢理YESといわされる。


そういう外側からははっきりと見えない部分での、トンデモナイ暴言、虐待、いじめなんかの存在は、ごくフツーで日常茶飯事なのではないのか。

憂う。


そういう「暴力」を平気で振る当事者は自己正当化、自己弁護に終始して、半ば開き直ってこういうだろう「愛のムチだ」と。


失笑を禁じえない。

あなたの感覚を、万人が受け入れて当然だなんて思い上がってたらあかんで。


裸の王達は、所詮、裸なのだ。

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コンビニに買い物に行くと、ジョンとヨーコの「ハッピー・クリスマス」が流れていた。

もうすぐ、そうあと何日かすれば、今度はそれに加えて「ウーマン」、「スターティング・オーバー」の時期だ。

今年も自分は、自分なりにジョンの命日をしのぼうと思う。


何年か前、四国の南国の真ん中あたりで迎えた12・8は今でも忘れられない。

郊外型の地方スーパーの駐車場で、身を切るような寒さに身をすくませながらジョンの曲をヘビロテ状態で聞いた。


ものすごく辛かった。

死にたいとさえ思うくらいの寒さだった。


あのことがあるからこそ、今の自分があると思うし、また、もうあんな経験、思いは金輪際ゴメンだ。

二度としたくない。

絶対に嫌である。





「月に祈るピエロ」を見ていて思ったが、最高にポニーテールが似合う女優・常盤貴子さんは、ゆくゆくはこのドラマで競演していた八千草薫さんの様な、「名おばあちゃん役」がぴったりと来る女優さんになるのではなかろうか。


もっとも、まだまだかなり未来のことなのだが


なんかそんな気がした。



それにしても「常盤貴子の出演している映画、ドラマにハズレはない」とよくよく言われるが、全くその通りだと実感。

「ロングラブレター」での三崎結花役は、もうハマり役だったなと。



「眉山」は、あれはあれで面白かったし、「ゆりちかへ」もとても良かった。



「三崎」つながりで。

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失われた町/三崎亜記 著

『となり町戦争』では「公共事業という名の戦争」を描いた作者が、次作では30年に一度、「町の意識」が予告もなく、街を消滅させるという奇妙な世界を描いた。


「消滅管理局員」が、消えた住民の持ち物を集めて廃棄する「国選回収員」の消滅を食い止めるための、静かでたくましい戦いをみずみずしく描いており、とても面白かった。

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さて、「漂流教室~ロングラブレター~」のレビュー最終回である。


前回書いていた、コメディ的要素は、すべてが大事な伏線なのだと思うが、あえてこのドラマでは、重要なものを笑いでくるんで、わざと説得力がなさげに見せているのだとみた。なぜなら、ドラマのラストでは「今をおろそかにせず、大切にする」ことのかけがえのなさが、ベタなほどに描かれているからである。

かなり説教臭いテーマなのだ。


あるいは、とてもえげつなくシリアスな場面を、あえて「笑いを取ること」によって、茶化し、つまり手を抜いているとも言える。

原作世界の持つ、おどろおどろしくも重厚な世界観の再現を図ろうとしても、本当に至難を極める作業だと思う。


大林監督の「映画版」はそれに果敢に挑戦して、そしてこけた。

だから、そこを軽いタッチでさらっと表現して、うまく逃げるというか、そうしたのだろう。

コストもどれだけかかるのか想像もできないし。

逃げ方は中途半端だが、この程度に抑えていたほうが結果オーライだったと思う。

やりすぎると「わけのわからへんIWGP」になっていた可能性もある。

もうこうなると笑うことさえできない。

まあ、「カバチタレ!」と同じスタッフが作っているのだから、そういう作風になって当然か。


先のブログで「今、現在」の象徴は三崎結花役の常盤さんだと書いたが、そうつまり、「現実世界の未来」での常盤さんの死とは、すなわち絶望という現実を表していることにほかならないのである。
ではその絶望は、一体誰のそれなのか?
それは狭義で言えば窪塚くんのものなのだ。


そんな絶望と対峙している窪塚君が、常盤さんを今度こそ心から大切にするんだという気持ち、すなわち「穏やかで平凡な未来の生活」への祈りを込めて、「現実世界の過去」へと放ったラブレターが、なんと漂流前、まだ窪塚君が大学生の頃、ベンチで常盤さんに電話をかけようとしたあの瞬間へと見事に届くのである。
それが新たに「絶望がない、新・現実世界の未来」へと花を咲かせる...かも...というところでドラマが終わる。


ただこのラストシーンの真意は、よくわからないままで終了。
希望の芽が息吹き出したのだろうか...そういうことなのだと思う。

それが最後の最後の「砂漠が緑で埋まるシーン」につながるのだ。

これは「未来の書き換え」が行われたということで、未来へと飛ばされた「種子」は見事に発芽に成功し、そして、「現実世界の未来」で、まんまと地球は生き返ったのだと思う。


まあ、とどのつまりは、絶望的な「現実世界の未来」から、希望的な「現実世界の過去」へと、時空を超えて漂流してきたラブレターの断片が、なんとなく窪塚君の決断を喚起することになり、以前はかけることができなかった電話を、今度はちゃんとかけることにつながり、未来が変わり始める...かも...というオチだ。

漂流し、紛れ込んでしまった「現実世界の未来」では、彼は心ならずとも希望(三崎結花)を喪失し、絶望を抱えながら生きてゆく羽目になるのだが、平行進行しているもうひとつの世界(新・現実世界の現在と未来、やり直した現実世界)では、彼は「穏やかで平凡な未来と希望」を、きっと手に入れていることであろう。

なぜなら、ラストシーンでの常盤さんは、現在の象徴である「ピンク色」のケープを、窪塚君は未来の象徴である「黄色(正確にはパステル系の黄緑だが...)」のダウンジャケットを身につけているからだ。
現在と未来が、時空を超越、邂逅し、そしてひとつになった瞬間でハッピーエンドを迎える。

こうやって、心ならずとも時空によって「自己を引き裂かれていた人々」たちの、平行進行するパラレルワールドな物語は、一応は幕を下ろすことになる。先入観や一部分だけで変なドラマだと決め付けることなかれ。
目と心を凝らして見れば、様々なものを発見することも、ある。
ドラマ的には、失敗した感は否めないが、中に詰めていたテーマは「とても大事なこと」だ。
失敗、成功だけじゃなく、そのメッセージをどう受け止めて、どう実践してゆくのか。
それは視聴者一人ひとりに突きつけられた課題である。

「実践はつれ~よなぁ~」...浅海の言葉通りかもしれないが...。


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