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騎乗者ウーヴァタ

Uvatha the Houseman

我が名はウーヴァタ
我が胸を焦がす者はない
我が魂を震わす者はない
我が前に立てる者はない
我が腕に砕けぬ者はない
我が身と対等の者はない
我は全知にして万能の王として君臨せり

其は真?


 騎乗者ウーヴァタ、第9の、そして最後のナズグル、あらゆる存在が彼を恐れました。そう、やもすれば冥王その人ですら。彼は従わせるに難く、屈服させる事はほとんど不可能でした。その魂は暴力で鎧われ、力強き腕は血にまみれていました。9人組の中でも最も恐怖を体現するナズグル、純粋なる暴力の申し子、抗議、哀願、悲鳴、理不尽さを咎めるあらゆる行動をあざ笑い粉砕する、それが彼でした。さあ、この暗き生を紹介しましょう。

 ウーヴァタの誕生は第2紀1970年、オルバマール(Olbamarl)のとある洞窟でのことでした。生まれた時に付けられた名はウーヴァタール・アキーフ(Uvathar Achef)といい、その父は祖国を追放された東ハンドの王子でした。ウーヴァタは生れ落ちたその瞬間から、流浪の人生を歩み始めたのです。

 この父はその息子に己に架せられた刑罰と転変の人生を共有させました。そしてそれを吸収していったウーヴァタは、ラオルキ(Laorki)の王座がしろしめすその版図への憎しみをつのらせながら成長してゆく事となったのです。

 彼は才気溢れる少年でした。そして、尋常ならざる残虐性をも発露してゆきました。この少年は騎馬民族であるヴァリアグの基準に照らし合わせても驚くべき早さで馬の扱いに熟練し、また7才にすら満たない年で月に1人以上の殺人に手を染めていたのです。

 18才になると、彼は父の興した反乱軍の中に軽騎兵隊長の地位に迎えられました。彼は優れた戦士であることも証明し、父の完全な勝利に貢献しました。こうして彼の父は1980年に上ハンドの王座に上ったものの、彼の手が及ばぬ闘争の最中に命を落としてしまいました。さらに権力を求める彼の伯父にあたる人物が宮廷を席捲することまで許してしまったのです。ウーヴァタには処刑命令が宣告されました(それがハンドの伝統だったのです)。

 若きウーヴァタは死の宣告から逃れ、下ハンドへと馬を駆りました。この地でウリグ・ウルポフ(Urig Urpof)王の信任を得た彼は、1999年には南ハンドを束ねる戦将に任じられました。軍を掌握した彼は、これを素早く自らへの利益に還元しました。つまり王座を簒奪したのです。続いて伯父への復讐を強行した彼は、2000年が暮れぬ内に上ハンドを崩壊に追いやりました。全てが終った後、図らずも彼は全ヴァリアグを統一していたのです。これはヴァリアグの歴史を紐解ける限りにおいて初の偉業でした。

 冥王サウロンは、モルドールとハンドの信頼関係を維持していく証として、2002年に力の指輪を提示しました。ウーヴァタはこれを承諾し、サウロン9人目の下僕たる恐るべき―真に恐るべき―ナズグルとなったのです。サウロンは己が暗き目的を達成するための手足としてヴァリアグ軍を欲しており、ウーヴァタはその指揮官として重宝されました。彼はヌアンの東境を安定させ、サウロンのため良くない兆しを一掃しました。

 ヴァリアグの文化は元々乱暴で野蛮とすら言えるもので、ウーヴァタ登場以前から長らくサウロンの影響下にありました。にも関わらず騎乗者は更に強大な同盟者を探し出し、闇の国の影響力を更に確実なものにしていきました。続く1200年間、ウーヴァタは呵責なくヴァリアグを支配し、サウロンの意志を執行しました。3259年には、(狂気のレンが支配する)チェイの軍と合流し、ハルガギス アハール(Khargagis Ahar)の屈服させる為の同盟を結んでいます。

 3262年、サウロンがヌメノールに投降して以降、ハンドの力はゆっくりと衰退して行きました。大没落の後、ウーヴァタはモルドールに馳せ参じ最後の同盟の軍と矛を交えました。しかし彼の王が放逐されると、他の8人と共に影の中へと投げ出されました。

第3紀

 ウーヴァタの帰還は1050年、場所はエファル・ドゥアス(Ephal Duath)最南西部のオルバマールでした。彼は自らの支配地に戻ってきたのです。彼は時の王ウォニッド・アイルボ(Uonid Irbo)を殺害し、王国の再建を強行しました。彼の恐怖と血に彩られた支配は、1640年までに南北の両ハンドを通して広がっていきました。彼はウーライリの中でも飛びぬけた残虐さを発揮し、あらゆる存在が彼を恐れました。結局、この支配は1640年に彼がハンドを離れる(モルドールでサウロン帰還の地ならしを行う為でした)まで終りませんでした。彼の不在は1856年までのことで、ヌアンから祖国に戻ったウーヴァタは、モルドールの忠実な同盟者であるヴァリアグを強化する為、鋼の支配を繰り広げました。彼は84年という短期間で完全にこの地を掌握しました。しかし1940年に彼がモルドールに発つと、東のアイガス(Igath)族が彼の故郷を落とすべく軍を起しました。この乱に対し、ウーヴァタ自身は事を構えずモルドールを離れる事もありませんでした。ウーヴァタの子孫であるオヴァタール・アキーフ(Ovathar Achef)ことオーヴァタ1世が鎮圧軍を指揮し、これを退けたのです。

 2000年、ウーヴァタはヴァリアグからの分遣隊を指揮し、ミナス・イシル強襲の一翼を担いました。2003年には故郷に戻り、この地に最後の支配をもたらしました。

 2951年、彼はアドゥナフェルとカムールに合流を命じられ、再建されたドル・グルドゥアへと赴きました。サウロンは公然と姿を顕し、9人組も主の意を受け、活発な行動を見せるようになりました。ウーヴァタに与えられた第1の任務はミナス・モルグル、バラド・ドゥア、ドル・グルドゥア間の余人には不可能な急使としての役割でした。この働きにより、闇の王はゴルゴロスの外で集められた軍を効率良く移動させるよう計画を練ることができたのです。ウーヴァタは3018〜19年の指輪戦争においては、他のナズグル達と同様に参戦しています。そして滅びもまた同様に、指輪の消失と共に影の中へと消えたのです。


騎乗者は、幽鬼達の中で最も反抗的かつ暴力的でした。ヴァリアグとしては長身の1メートル80センチでしたが、他のナズグルと比べると低めの身長でした。目の色は赤みがかった茶色、灰色の肌、そして黒髪を長く伸ばしていました。彼はヴァリアグの例に洩れず、濃い灰色の外套に赤と黒の対比を好みました。顔面を露出させた兜は蝙蝠を模り、頭を守る重要な防具として重用されていました。

from 『Gorgoroth』


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