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夜明けの死インドゥア

Indur Dawndeath

讃とうべきかな、日を、光を
常つ闇よ、優しき隠惑よ、
いざ我が後に退かん
陽に光る血は美しき哉
冷たき骸に日は虚しき
洞の眼に陽は届かぬ
夜が明ければ、全てが明らかとならん
冷たき夜明、今ぞ来たれり
さあ、暗闇の到るを乞うが良い


 ナズグルの一人、“夜明けの死”の異名を持つインドゥアは遥か南方、中つ国最南の地を治める王でした。底の無い暗き魂に突き動かされ、常に血にまみれ、猜疑に満ちた視線に曝されてきた彼は、ある意味ナズグルの中のナズグルと言えるかも知れません。豊かな自然と高度な文明、偉大なる“じゅう”の闊歩する日の光強き南方、影暗き第4のナズグルの物語はここから始まります。

 ジィ・インドゥア(Ji Indur)は第2紀1955年、エンドール最南端の街コルラン(Korlan)にて、この世に生を受けました。この地を治めていたのはコロナンデ(Koronande)という共和制国家です。キラン族(Kiran)という部族の合議により運営される国家で、インドゥアはキラン族の中でも裕福な一家の嫡子として生まれました。彼は若くして政治の世界へと足を踏み入れると、史上最年少の若さで施政者として選出されました。彼は、その始まりから大いなる野心に満ちた若者であったのです。

 彼がコロナンデ評議会のメンバーとなった時期は、ちょうどヌメノ−ルが中つ国へと支配の手を広げていた時期と一致していました。彼は西方からの影響力を排除すべく、更なる権力を求め、争いました。しかしタル・キルヤタン王の下ヌメノ−ルの威光はいや増し、ドゥネダインの戦艦がキラン近海に現れるようにまでなると、この若き施政者の心に不安が兆しました。エダインの影響力の増大は、キランの政治基盤を揺るがす物であったからです。彼の執政府の弱体化によって不安に駆られたインドゥアは、キランの豊富な商取引を阻害するものとしてヌメノ−ルを告発し、各方面に援助を求めました。西方国がエルドールに抱き、益々大きく育っていた反感が明るみに出ると、インドゥアはエルフの同盟者をも得ました。

 1977年、ジィ・インドゥアはキランを律する議会を掌握しました。彼の支持者達はキラン議会に取って代わると、若き指導者をコーランの王に選出し、かくてコロナンデはその年の終わりに王制へと転換しました。不幸なことに、この変革はコーラン人の反発を招き、彼等は自由と共和制への復帰を求め、23年にも及ぶ動乱と背離がこの国を悩ませました。

 転機は2000年に訪れました。ドゥネダインが支配するタントゥラク(Tanturak)の地に“魔術師(Magician)”が到着したのです。彼等は西方王の臣であり、反抗勢には最後の審判が下されるものと予想されました。エダインの植民地とコロナンデとの関係は、戦争の瀬戸際まで悪化し、キラン人は恐怖に怯え、対抗の為に民族の統一を求めました。インドゥアは望まれない戦と自身の不安定な政権を支えるため、厭戦・反対派が集まる公式行事をあえて黙認することを決定し、全ては順調に進むかにみえました。

 しかし、コルランの知事であるロラン・クリエン(Loran Klien)が大聴衆の前に立ち、共和制への復帰を提案すると、民衆は熱狂的に答え、たちまち暴動にまで発展しました。ジィ・インドゥアは民の突然な変節に衝撃を受け、東へ、ムーマクの地(Mumakan)へと逃走しました。ここは、18世紀中頃からサウロンの代理人達の暗躍する地となっていました。彼等の助力と自身の強い主張により、この廃王はかの地を避難所とすることに成功します。冥王サウロンは、この王の追放を南方を掌中に治めるための好機と見、彼に新たな王座を提示したのです。2001年、力ある第4の指輪がサウロンより下されました。いと暗き盟約が若き王の魂をもって成され、ジィ・インドゥアはここに指輪の幽鬼と化し、主に代わってムーマクの王座を掴み取りました。

 今やムーマクの主となったジィ・インドゥアは、かの地の神話的な建国王“神君”アマアブの再来という伝説を纏い、名をジィ・アマアブ2世(Ji Amaav second)と改めました。このナズグルは崩壊した国家において、己が支援を集めることにほとんど苦労せずに済みました。彼は1261年もの長きに渡ってアマル(Amaru)の聖なる街を支配し、隣国に対し働きかけを続けてきました。彼の煽動に乗ったタントゥラクの地は叛乱の狼煙を上げ、彼の古き故国であるコルランは孤立することとなりました。とは言え、彼は目的を果たすには至らず、むしろ遠ざかることとなりました。アル=ファラゾンの中つ国侵攻によってタントゥラクはヌメノールの法治下に戻り、インドゥアの支配は断ち切られました。

 彼はヌメノ−ルの没落まで東へと逃れました。そしてその後、最後の同盟軍に対抗すべくモルドールに入りました。しかし、他のウーライリ同様、インドゥアも闇の王と結び付けられた身であり、主と共に影へと転落しました。

第3紀

 インドゥアと呼ばれるこの幽鬼が中つ国に帰還し、再び形をとったのは1050年の終りのことでした。彼はエ・ソルール・サール(E-Sorul Sare)の島で2世紀を与し、力の回復に努めました。やがて古きムーマクの王国に再び狙いを定めると、時機の到来を待ちました。ムーマクの乗り手達はインドゥアの支配下にあり、1250年には彼の王国の再建に成功しました。1264年、サウロンはこの指輪の幽鬼にアルドールの砦へ飛び、当地のエルフと人との会議(Elven Ardan Council)との同盟を探るよう命じました。しかしかの地には、多くの古い諍いが今なお影を落としており、暗き宮廷の交渉は遅々として進みませんでした。インドゥアは彼の主に対し、この侮辱に復讐をもって酬いるべく進言しました。が、主はこれを許さず、むしろ待つことを命じました。

 サウロンの力は未だ非常に弱く、その力を公然と振るうことは(遥かな南方においてさえ)、彼の正体を暴く結果となるかも知れなかったからです。言うまでも無く、インドゥアはこの決定に不満を抱き、密かにエルフの宮廷への恨みを募らせていったのです。

 1365年、“魔術師”の支配下にあったタントゥラクは、コロナンデに戦線を布告しました。そして7年に及ぶ軍事行動の結果、近隣の共和国はほとんどが膝を屈したのです。インドゥアはキラン人の国が崩壊の際に達するのを待ち、1372年に彼等との和解に同意しました。コロナンデを崩壊から救うに際して、これは当にぎりぎりのタイミングでの仲裁でした。そしてこれにより、インドゥアの古の故国への影響力は、かって無いまでに大きくなったのです。この時代、インドゥアの敵手達は、その多くが表舞台からの退場を余儀なくされました。夜、眠っている間に命を断たれ、夜明けと共に忌まわしい死に様が顕わになったのです。誰にも確証は掴めなかったにも関わらず、インドゥアには今後長らく付きまとう2つ名が冠せられました。曰く、“夜明けの死”と。

 彼のジィ・アマアヴ3世としての統治は1264年から1640年という長いものでした。1640年、インドゥアは北へ、つまりモルドールへと発ち(妖術王を除いた)他の7人と合流しました。サウロンの帰還に備えて、黒の国を再編する時が来たのです。インドゥアは“不浄の”レンとバラド・ラスにて合流し、かってのゴンドールの塔の改装指揮を執りました。1652年には北へ赴き、1975年の妖術王の帰還まで他の7人と協議の下、カラス・アングレン(Carach Angren)の支配を引き継ぎました。2000年には、ミナス・イシル襲撃のためゴルゴロスの軍を糾合しました。月の塔が陥落すると、カラス・アングレンの指揮は強力なオログ、ブゥラカウル(Bulrakur)に委ねられました。

 2460年、インドゥアは南方に赴き、アマアヴ4世としてかの地を支配しました。2941年には、この最後の支配を終えるとミナス・モルグルへと戻りました。時ここに到り、インドゥアも含めナズグル達による支配の指輪探索行が行なわれたのです。探索が失敗に終わると、彼はミナス・ティリス襲撃のためムーマクの兵団を編成しました。ペレンノールの野において彼等は、ナズグルの王がエオウィンの前に屈する様を見ることとなりました。インドゥア自身はこの戦いを生き延び、他のナズグル達と同様、モランノンの戦いにおいて鷲達の来襲を防ぎました。そしてホビットを止めるべく滅びの山へと飛び…、1つの指輪の崩壊と共に闇の中へと永遠に失せたのです。主と共に。


 インドゥアは9人組中で最も背が高く(2番目は妖術王)、痩身で暗色の肌と黒い目の持ち主でした。彼はムーマクの王座に就いた時より、かの国の装束を纏うようになりました。皮の乗馬当てが付いた灰色の綿のズボン、軽い胴着、そしてムーマクの“じゅう”を形どり象牙で象眼した兜を被りその面を晒していました。


from 『Gorgoroth』


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