あたし、じゅんときちゃったんです。
――朝日オワタ 今こそ徹底的に叩け!
「朝日は許せない」「捏造新聞だ」と言う人たちへ
大学の夏季集中講座、休み時間になると同時に一人の女子大生が近づいてきて、「先生、質問していいですか」と言った。
「ここ数日私の身の周りでも、朝日をつぶせとか売国メディアだとか日本を貶めたなどと言ったりLINEに書いたりしている若い世代がたくさんいます。でもそのほとんどが、8月5日と6日に掲載された朝日の検証記事すら読んでいません。ネットニュースや電車の中吊り広告の見出しだけを読んで、朝日は許せないとか捏造新聞だなどと言っています。そのレベルで従軍慰安婦は存在していなかったのに朝日が捏造したと真顔で言っている人もたくさんいます。こういう人たちに対しては何を言えばいいのでしょうか」
うーむ。質問されて僕も考え込む。彼女が言う「こういう人たち」は、長い文章を読んでくれない。まさか読めないわけではないのだろうけれど、読もうとしない。よほど忙しいのだろうな。たぶんこの文章も、長さ的にはそろそろ限界だろう。とっくに見出しの文字数を超過している。
ならばレベルを下げる。バカにしているわけではない。読めないわけではなくて読む気になれないのだということを僕は知っている。だから内容のレベルではなく、文章のレベルを高校生レベルに下げる。あるいは脚色する。通俗小説にする。以下は女子大生のモノローグだ。
* * *
あたし、じゅんときちゃったんです。ああ違った。私よくわからないんです。そもそも宇能鴻一郎のパロディなど今の高校生レベルじゃわからないわね。最初の「じゅんときちゃったんです」は読まなかったことにしてください。
とにかく私はわからないんです。何かというと朝日新聞の今の騒動のこと。私の周囲のほとんどの人が、朝日は「最低だ」とか「廃刊すべき!」などと書いたり言ったりしています。ネットを見ても、「売国新聞」とか「捏造を許すな」とか「日本人を貶めた」とかの書き込みばかり。月刊誌や週刊誌も同じです。例えば『週刊文春』9月18日号の中吊り広告は、特集タイトルが『朝日新聞が死んだ日』で、その後に『ロシアから帰国池上氏に平身低頭 ヒラメ役員の出世術』『役員会で殿ご乱心 「怒鳴る」「キレる」「当たり散らす」』『部下に責任押しつけ木村伊量社長はニューヨーク “高飛び”』『中国共産党に国を売った朝日新聞7人の戦犯』などと続きます
『週刊新潮』9月25日号中吊り広告には、『十八番の「自虐」はどこへ行った?「朝日新聞」謝罪が甘い!!!』が特集見出しで、『「朝日新聞」うわべだけの謝罪を看破する!』『「池上彰コラム」一転掲載を自画自賛した朝刊編集長を嗤う 作家百田尚樹』『「謝罪会見」に垣間見えた謝らない体質 櫻井よしこ』などと書かれています。どちらも広告の面積のほぼ5分の4が朝日批判。
月刊誌もすごいです。『WILL』11月号は、『総力大特集歴史の偽造!朝日新聞と従軍慰安婦』『西村眞悟 日本を腐らせ、亡国に誘う朝日新聞』『百田尚樹×井沢元彦 反省なき朝日には不買運動しかない!』『池田信夫×西岡力×片山さつき 「従軍慰安婦」は朝日の捏造だ』。『正論』10月号は『徹底批判150ページ! 特集朝日新聞炎上』『<<緊急座談会>>慰安婦・「第二の慰安婦」福島原発「撤退」問題 廃刊せよ! 消えぬ反日報道の大罪 ジャーナリスト櫻井よしこ/ジャーナリスト門田隆将/産経新聞政治部編集委員阿比留瑠比』『この偽善が鼻につく 朝日新聞への我が一撃 上智大学名誉教授渡部昇一/評論家西尾幹二』。
目次を書き写しながら気分がどんどん鬱になる
……こうして目次を書き写しながら、気分がどんどん鬱になります。本文はもっとすごいのでしょうか(読みながら気づいたけれど、書いている人の名前がいろいろ重なるんですね)。
子供のころに観た動物ドキュメンタリーで、怪我をして倒れたライオンだかゾウだったか大きな動物に、小さな肉食獣がたくさん群がっているシーンがありました。あれを想像してしまいます。決して朝日新聞が巨大というわけではなく(だって発行部数は読売のほうが多いのだから)、あくまでもイメージです。
私は今年19歳。都内の大学2年生です。メディア論という授業をとっています。教えているのは森達也という人です。前はテレビのディレクターをしていたと授業の初日に言っていました。何でそんな人が教授になれたのかしら。たまに新聞やテレビで顔や名前を見ます。ネットで調べると、非国民とか売国奴などとよく呼ばれています。でも私の見るところ、あれはかなり小物ね。どうやら左翼らしいから朝日の味方をしたいはずなのに、今は下手に擁護すると自分に火の粉が降りかかるとでも思っているのかしら。授業でもこの問題については触れません。でもとにかく他に訊ける人がいないので、どうして朝日はここまで叩かれているのですかと、授業が終わってから質問しました。
「うーん。この場で簡単に言える話じゃないなあ」
そう言ってから森先生は声をひそめて、「今夜付き合ってくれたら話していいよ」と言いました。その顔つきときたら本当に小狡そう。実はとんでもないセクハラ教授のようです。……ごめんなさい。余計な嘘をつきました。「ならば次の授業でこの問題について話し合おう」と、少し考えてから森先生は言いました。たぶんみんなに発言させて楽をしようとしているのだと思います。責任回避もできるしね。
翌週の授業で森先生は、まずは朝日の検証記事のコピーを全員に配ってから、「朝日新聞の問題とは何か」と黒板に書きました。
「嘘をついたことです」
テニス同好会のシンペーが真先に答えます。
「どんな嘘?」
「従軍慰安婦が強制連行されたという嘘です」
「それは朝日じゃなくて吉田何とかっていう人が嘘を本に書いたんじゃなかったっけ」
ジャーナリスト志望の俊樹が言いました。
「じゃあ朝日は騙されたということ?」
「ならば被害者になるの」
「それは違う」と先生があわてて言います。「一般の人なら騙されましたと言いわけできるかもしれないけれど、朝日新聞は報道機関です。しかも国家的な犯罪をめぐる大きなニュースなのだから、記事の裏取りや取材は重要です。結果的に朝日はそれを徹底して行わなかった。それは批判されて当然です」
「でも先生」と私は言いました。「朝日が最初に報道したころ、他の多くの新聞やテレビや雑誌なども、やっぱりこの吉田証言を信用して記事にしています」
「そうなの?!」と隣の席の幸ちゃんが驚いたように言いました。せめて検証記事くらい読んでよ。目の前にあるじゃない。でもそれを言ったら角が立つ。みんなにいじめられる。「まあそれは確かにそうだけど」と森先生は困ったように言いました。「でも他のメディアの多くは、吉田証言が怪しいとの情報があったので、報道しなくなっています」
「では朝日だけがずっと報道し続けたということなのかしら」
先生はますます困ったように首を横に振ります。「証言の真偽は確認できないと書いた97年以降、朝日も吉田証言を肯定するような記事は掲載していないはずです」
産経や読売はどのように報じていたのか
配付された朝日の検証紙面のコピーを手にしながら俊樹が、「えーと産経新聞は1993年に、大阪本社版の夕刊に『人権考』のタイトルで、吉田証言を大きく取り上げていたらしいです」と言いました。「9月1日の紙面でも、『加害 終わらぬ謝罪行脚』の見出しで、吉田氏が元慰安婦に謝罪している写真を掲載しています。そこでは『信憑性に疑問をとなえる声があがり始めた』と書きながらも、『被害証言がなくとも、それで強制連行がなかったともいえない。吉田さんが、証言者として重要なかぎを握っていることは確かだ』と報じているってさ」
「確認するけれど、それは朝日の記事じゃないよね」
「産経だよ。この連載は『第1回坂田記念ジャーナリズム賞』を受賞して書籍化さているらしい」
「産経新聞はその賞を辞退したのかしら」
「していないみたいね」
スマホの画面を見ながら、放送研究会の恭子が言いました。「坂田記念ジャーナリズム賞についてのウェブサイトには今も、1回目の受賞は産経新聞大阪本社『人権問題取材班』(代表・平田篤州社会部次長)って載っている」
「だめじゃん」
産経だけではない。読売新聞も92年8月15日の夕刊で、吉田氏が百人の朝鮮人女性を海南島に連行したことなどを話したと伝えている。同年8月12日と13日の朝刊で毎日新聞も、吉田氏が92年8月に謝罪のために訪韓した様子を報じている。改めて読み直してやっぱり不思議。これらの記述が本当なら(本当なのよね)、日本のメディアは総懺悔すべきじゃないのかしら。なぜこれほどに朝日だけを叩けるのかしら。だからあたしも発言しました。
「新聞各紙がこのように報じているということは、他のメディアもこれに倣っていると考えていいと思います。でも私の周りではみんな、朝日のこの指摘に対しては、自分の間違いの検証なのに見苦しいって怒っていました。確かに見苦しいと言えば見苦しいけれど、でも同じように吉田証言を事実として報道していた他の新聞やメディアが、今これほどに激しく朝日を叩けることが、やっぱりどうしても腑に落ちないんです」
朝日を叩く前に他紙も自分たちの記事を検証すべき
「でもさ」と俊樹が言う。「産経はそのあとに吉田証言は虚構と報じているんだぜ」
「じゃあ読売や毎日は虚構だと報じたの?」
「それぞれ検証はしていないから、はっきりはわからないけれど、特に報じてはいないようだな」
「データベースで調べたら」と森先生があわてて言う。「98年に読売は社説で虚偽だと書いている」
「吉田証言が虚偽だと書いているのですか」
「吉田証言とは書いていない。国連の従軍慰安婦に関する報告を批判する記述で、『詐話師とさえ評されるある日本人が創作した「慰安婦狩り物語」をそのまま引用するなど、きわめて粗雑なものだった』と書いている。後半にも『詐話師の偽書を称揚したり、勤労動員だった女子挺身隊を「慰安婦狩り」だったと歴史を偽造するような一部マスコミや市民グループ等』と記述しています」
「でも読売もその6年前には、『吉田氏が百人の朝鮮人女性を海南島に連行した』と書いているわけですよね。ならばその記事の訂正を、まずはすべきではないでしょうか」
「確かにそうだよな」
「謝罪はしているのですか」
「この社説ではしていない。だってそもそも、過去の自社の記事の過ちについては触れていないから、謝罪はするわけがない」
「じゃあ朝日と一緒じゃない」
「もっとたちが悪い」
「当たり前だろ」
シンペーが言う。
「朝日は他紙に比べても、従軍慰安婦の記事が圧倒的に多いんだから」
「うーん」と幸ちゃんが言う。「自分ところは少ないからって、多いことを理由にこれほど叩けるのかしら。同じといえば同じよ。少なくとも誤報の検証をしたのは朝日だけよ。ならば他紙も朝日を叩く前に、自分たちの記事の検証をすべきよ」
「だから読売と産経は虚構と報じたんだってば」
「そのときに産経は謝罪したのかな」
「どうなんだろ」
「朝日が責められるべきは誤報ではなく、修正が遅れたことだと思います。だって当の吉田氏自身が、もう20年も前に自分が書いたことは事実じゃないと認めているのに、朝日は記事を訂正しなかった」
森先生が言った。ちょっとおどおどしている。迂闊な発言をして朝日シンパと思われたらたまらないとでも思っているのかしら。やっぱり外見とは裏腹にけっこうチキンねこの人。すかさず俊樹が反論しました。
「でもちゃんとした訂正をしなかったことは他紙も同じじゃないでしょうか。朝日の検証記事を受けて共同通信社も、吉田証言を91年21月以降に7回報道したことを公表しています。でもやっぱり、訂正や謝罪はしていないようです」
聞きながら何となくわかってきた。吉田証言をとりあげた回数は、確かに朝日が圧倒的に多い。でも他の新聞も吉田証言に即した記事を掲載している。そしてその証言が虚偽だったと過去に認めたのは産経と読売だけで、他は認めてもいないし(正確にはわからないけれど、少なくともそんなニュースは記憶にない)、産経と読売も含めて誤報の検証や謝罪はいっさいしていない。
そんな他紙と他のメディアが、なぜこれほど朝日を叩けるのかしら。批判すること自体は間違いではない。批判は必要よ。でも今のこの状態は批判ではない。あまりに常軌を逸している。ほとんどネットの匿名掲示板。いい歳をした大人たちが、なぜこれほどに悪意を剥きだしにできるのかしら。だから気持ち悪くなる。だからあたしは鬱になる。
「とにかく間違えたのだから謝るべきだ」
シンペーが言いました。「それは社会のルールじゃないか」
「……社会のルールを安易に当て嵌めていいのかな」
少し考えてから先生が言いました。全員が沈黙します。この人は何を言い出すのかしら。
* * *
「ニューヨーク・タイムズ」は記事の過ちをどう訂正しているか
ここまでを書いたけれど、やはりこの企ては失敗だ。悪ふざけしているように思われるだろうな。だから女子大生のモノローグはここまでにして、以下は森先生の発言をまとめる。
多くのメディアは謝罪がないと朝日を批判する。そもそも発端の一つとなった池上彰のコラムにも、「過ちは潔く認め、謝罪する。これは国と国との関係であっても、新聞記者のモラルとしても、同じことではないでしょうか」「お詫びがなければ、試みは台無しです」などと記述されている。
そうだろうか。
ひとつの例を挙げる。朝日新聞が提携する米紙ニューヨーク・タイムズには「Corrections」というスペースがあって、過去の記事の過ちや間違いを、記者の裏取りが足りなかったとかニュースソースの選定に過ちがあったとか社内のチェック体制に不備があったなどと、間違えたその理由や背景などもしっかりと明記しながら訂正する。
ただしそこに謝罪のニュアンスはほとんどない。
言葉で謝罪はしないけれど、関与した記者の名前なども含めて、内部事情をすべて公開する。さらけだす。だから新聞を読む読者は、メディアも時には間違えたり虚偽を報道したりするのだというリテラシーを持つことができる。これは想像だけど、謝罪の強要はメディアを委縮させるとの意識があるのだろう。
メディアは自らの加害性を自覚すべきだ
朝日が慰安婦報道について間違いを認めるタイミングがあまりに遅すぎたことは確かだ。ならば朝日は8月5、6日付の検証記事で、間違えた理由だけではなく、訂正が遅れた理由も徹底的に検証して開示すべきだった。なぜ遅れたのか。誰がどう指示をしたのか。あるいは指示をしなかったのか。どんな力学が社内で働いたのか。これらの対応について責任ある人はいま、どのように弁明するのか。
とにかく徹底して自己開示する。さらけだす。必要と判断すれば記者やデスクの固有名を提示する。間違えた過程と背景を細部まで公開する。これがメディアの謝罪なのだ。
誰かに迷惑をかけたら謝る。確かにそれは社会の常識でありルールだ。でもその規範を、そのままメディアに当て嵌めるべきではない。
なぜならメディアの過ちは、取り返しのつかない事態を招く可能性がある。例えばかつてこの国を覆った戦争翼賛報道。ルワンダ虐殺におけるラジオ放送。あるいはイラク侵攻直前に米国のメディアが繰り広げた大量破壊兵器の報道など、メディアの間違いは時として、とてつもない被害に結びつく。多くの人が死ぬ。いまさら言葉で「ごめんなさい」とか「申し訳ない」などと言われても困る。謝罪の言葉などで追いつくはずがない。メディアが身に刻むべきは、「もしも間違えた場合は謝罪をする」的な規範ではなく、
「謝罪などでは取り返しのつかない加害行為を自分たちは誰かに与えてしてしまう可能性がある」
との自覚なのだ。
「間違えたら謝罪する」はメディア(組織)の論理だ。企業の論理と言い換えてもいい。そうして危機を最大限に回避する。つまりリスクヘッジ。とりあえず謝罪することで批判をやわらげる。でもメディアは、そうした組織の論理だけではなく、ジャーナリズム(個)の論理をも保持しなければならない。時にはリスクを回避しない。敢えて火中の栗を拾う。組織の不利益を覚悟で間違えた理由や背景をさらけだす。責任の所在を明らかにしてこれを公開する。もう一度書くけれど、それがメディアの謝罪なのだ。その意味で朝日の検証が徹底していないことは確かだ。それは批判されるべき。でもだからといって、上辺の謝罪やお詫びの言葉は必要ない。
何よりも、謝罪の強要は自分たちに跳ね返る。だって自分たちも同じ過ちをしたことを、そしてその検証や謝罪をしていないことを、他のメディアは実は知っているのだから。だから叩きながら委縮する。横並びの報道の傾向が強くなる。そして大きな過ちや悲劇を招く。それは歴史が証明している。最後にもう一度、女子大生のモノローグに戻る。
* * *
授業の終わりに森先生が、週刊文春今週号の池上彰さんのコラムのコピーを配りました。今回のタイトルは「罪なき者、石を投げよ」。かつて他の新聞の社内報の連載記事で、その社を批判する内容を書いたらいきなり連載が打ち切られたことなどに触れながら池上さんは、「一連の批判記事の中には本誌を筆頭に『売国』という文字まで登場しました。これには驚きました。(中略)朝日は批判されて当然ですが、批判にも節度が必要なのです」と書かれています。「朝日を批判し、自社の新聞を購読するように勧誘する他社のチラシが大量に配布されています。これを見て、批判は正しい報道を求めるためなのか、それとも商売のためなのか、と新聞業界全体に失望する読者を生み出すことを懸念します」とも。
あたし、やっぱりじゅんときちゃいました。感じる人は感じる。気づく人は気づく。
今のこの状態は異常で気持ち悪いと感じたあたしは、絶対に間違っていないと思います。