MAHARAJA WEB SITE - BACK

MAHARAJA

SHIHO.

1968年(昭和43年)生まれ 宮崎県出身 血液O型

 1988年「GIPSY QUEEN」でデビューしディスコで大ブレイクする。さらに1990年「ZANZIBAR」も大ヒットし和製ユーロビートの歌姫として君臨する。その後、Tバックスタイルで学園祭の女王として脚光を浴び写真集や女優としても活躍。現在もアーティストとして活躍中。

独占インタビュー

マハラジャ・ウェブサイト(以下Mと省略): 本日は、お忙しいところお時間を頂きましてありがとうございます。マハラジャ・ウェブサイトでは今回、マハラジャで大ヒットしましたユーロビート「GIPSY QUEEN」「ZANZIBAR」でお馴染みのSHIHO.さんの特集を組むことにしました。どうぞ宜しくお願いします。

SHIHO.さん(以下Sと省略): こちらこそ宜しくお願いしまーす。

M: 早速ですがSHIHO.さんの字体に、いつの間にか「・(ドット)」が付いたのですね。

S: はい実はずっと前から付けたかったの。私あまり占いを信じないタイプなんですが、どの占い師さんに見てもらっても「字画数が1個あるのと無いのでは、まったくあなたは変わってくる」と言われるんです。それとモデルで同名の方もいますので・・・(笑)。数年前に付けました。

M: なるほど、では歌手になろうと思ったきっかけは?

S: 「歌手になる!」って意識し始めたのは14歳の頃ですね。勿論歌も好きなんですが、実は元「シブがき隊」の本木雅弘さんが大好きで、「2年B組 仙八先生」に出演していた頃、そう「仙八トリオ」とか「シブがきトリオ」とか言われていた時代からの大ファンなんです。それで乙女心から「絶対モックンのお嫁さんになる!」と考え、単純に結婚するにはこの世界に入るしかない!と・・・(笑)。それが歌手になるきっかけになったと思います。ちなみによそ行きの答えもありますが・・・いいですか・・・(笑)。

M: その頃のSHIHO.さんは、どんな子でしたか?

S: 今と比べると想像できないと思いますが、中学生時代は凄く寂しがりやの小心者で極度のアガリ性。どちらかと言えばクラスでは目立たない子でしたよ。下ネタなんて22歳まで男性の前では言った事なかったですからね。(笑)

M: 子供の頃のSHIHO.さんは、どんな曲を好んで聴いていたのですか?

S: 歌はピンクレディー全盛期の頃から大好きでしたが、私の生まれ育ったのは宮崎県の延岡市という田舎で、音楽の情報源はテレビとかラジオしかなかったんです。当時は長渕剛さんの「順子」等のフォークソングが多くかかっていたので、自然とその手の曲が好きになりました。だから今もフォークを聴くと落ち着きます。

M: 初めてディスコに行かれたのは?

S: 高校1年生の頃だったかな・・・店名は憶えてないですが一軒だけ地元にディスコがオープンして、ちょっと興味があったので親の目を盗んで行きました。

M: ディスコ初体験の感想は?

S: 興味は凄くあったのですが、人の多さに 圧倒されて「こんな世界もあるんだなー」とカルチャーショックを受けました。また知り合いばかりで、お祭りの延長の様な感じがしました。同時に賑やかな所って慣れてなかったし、それに宮崎市内に行くのは不良と言うイメージがあったので、どうしても「こ、怖〜い、、、」って感じてしまいました。でも何だか入ってはいけない場所へ入ってしまった様な、大人になれた様な気持ちが残りました。

M: それからディスコに通う事になったのですか?

S: 最初に「こ、怖〜い、、、」って印象が付いたので、ディスコにハマることはなかったですね。それに父親は物凄く厳しく門限は16時!しかも父親の厳しさは有名でしたから友達は遊びに誘ってくれなかったんです。またお小遣いを100円貰うのにも大変でしたので、宮崎市内へはバスなんかでは行けなく、自転車で約1時間かけて行かなくてはならなかったの。だから映画を観に行くのも一苦労でした。

M: 初めて洋楽に触れたのはそのディスコだったのですか?

S: 当時流行っていた「Y.M.O.」や運動会で流れた「アバ」の曲とかは耳にしていましたが、自分から好んで聴く事はなかったです。だからディスコで聴いた洋楽はとても新鮮に感じました。

M: では、歌手になろうと決断してからの行動は?

S: 私の転機って中学2年生の頃で、その時に両親が離婚したんです。私は3姉妹の長女なんですが3人共、父親に引き取られました。その後、父親が癌で入退院を繰り返す事になり、その入院期間中にオーデションを受け始めました。

M: 厳しい父親でも許してくれたのですか?

S: 絶対無理でした。だから入院中に内緒で応募してたんです。でも1次の書類選考は通過するんですが、毎回2次選考には行けなかったの。

M: なぜ2次選考に行けなかったのですか?

S: 2次選考になると福岡とか東京の会場まで行かなくてはならない。でも交通費が無いし自転車では行けない。せっかく1次選考が通過したのに2次選考に行けなく非常に悔しい思いが続きましたね。ところがある日、菊地桃子さん主演映画「パンツの穴」の続編で85年に公開した「パンツの穴・花柄畑でインプット」のオーデションを受けたんです。いつも通り1次選考が通過したんですが、今までのオーデションとの規模の違いに驚いて、この時初めて父親に正直に言いました。そしたら何も言わず福岡まで車で送ってくれたんです。それで東京で開催される最終オーデションの1枚の切符をかけて、最後の5人まで残りましたが残念ながら選ばれませんでした。その時選ばれたのが志村香さんでした。

M: 良いとこまで残れたのに落選して、ショックは受けませんでしたか?

S: それは無かったです。逆に最後の5人まで残れた事に自信が付きましたね。それにもっともっと東京が近く感じ取れるようになり、歌手になりたいという気持ちがさらに高まりました。

M: オーデション等では何を唄っていたのですか?

S: 宮崎市内のお祭りで、喉自慢大会などでは本田美奈子さんの「1986年のマリリン」やキョンキョンの「常夏娘」や中森明菜さんの「DSIRE−情熱−」なんかが18番で唄っていましたよ。(笑)ですからまだ洋楽なんかには縁がなかったですね。

M: 懐かしい曲ですね。それでは転機になったオーデションとは?

S: はい。16歳の時だったかな、地元の喉自慢大会に出て10人選ばれる所を惜しくも11番目だったんです。その時の審査員が地元のテレビにもよく出ていた有名な先生だったんですが、その先生からオーデション終了後に「11番の方ちょっといいですか?」と声を掛けられて「僕の知り合いの所のオーデションを受けてみない?」と言われたのが宮崎市内の某タレント養成場だったんです。最初は何のオーデションか分からなかったのですが、交通費が全額支給されるとの事だったので受けてみました。

M: 喉自慢大会は選ばれませんでしたけど、タレント養成場のオーデションには合格した訳ですね。

S: はい特待生として合格したんですが、このオーデションを受けた事が高校にバレてしまたんです。私の通っていた高校はミッションスクールだったので規律が厳しく、オーデションの「オ」の字も許されなかった。でも高校受験の面接時には「将来歌手になりたい!」と既に公言していたので学校では有名でした。(笑) それでオーデションを受けた事がバレて「坂本さん学校か歌か、どちらか選ぶまで学校に来てはいけません!」と卒業半年前に停学状態になりました。しかしタレント養成場のレッスンは日曜日なのに通う事を禁止されたのに納得がいかず、自分では学校を辞める気になりましたが、最終的には厳しい父親の許可が必要だった。

M: それで父親には説得できたのですか?

S: 私と同じ学校出身でよく内情を知っている叔母(父親の妹)から入院中の父親に「これだけ真剣に中学の頃から、歌手への夢を追いかけているのだから叶えさせてあげなさい!時代が変わって昔のお嬢さん学校とは違うのよ」と説得してもらったんです。するとあの厳しい父親が最後に「そんな学校なら喜んで辞めてやれ!」と、それで先生に「決めました。学校を辞めます」と言い、退学届けに「歌手になるため退学します」と書いて高校を辞めました。

M: それからタレント養成場に入って何を勉強したのですか?

S: タレント養成場の特待生と言っても学費が免除になるのは、演劇とダンスのレッスンだけで、私の習いたかった歌のレッスンは別途費用がかかってしまう。けれどお金をかけられないので、しかたなく演劇とダンスだけを勉強する事にしました。そして暫くバイトとレッスンの日々に明け暮れていましたが、そのうち自分には才能やセンスが無いと言うか・・・演劇やダンスには興味が無かったみたいで、やっていても正直言って面白くなくなってきたの。

M: では、上京したきっかけは?

S: 高校を退学して、年が明けた1月に父親が亡くなったんです。亡くなって直ぐにタレント養成場の東京本社で、社長の知り合いが独立してプロダクションを創ることになり「誰かいい娘がいないか?」と捜しているおりに福岡校へ話が言ったらしいのですが、福岡校には理想の子がいなく、「宮崎校なら1人いるぞ」と話になり、私に声がかかったのです。それで3月には上京して新しいプロダクションに入いりました。

M: 東京への話しは亡くなったお父さんからのプレゼントだったのかもしれませんね。それで東京でのスタートはどんな感じでしたか?

S: とにかく六本木は怖いイメージでした。「目が合うと連れ去られる!」と言われていたので、半年間はずっと下を見て歩き、一度も六本木の空を見た事がなかったのですよ。それで上京する条件として生活費は自分持ちだったので、夜はクラブでアルバイトをする事になり事務所の手配で何店かお店を紹介してくれたのです。その中で唯一歌が唄える高級しゃぶしゃぶ店で有名な「瀬里奈」の系列店の六本木「セリーネ」でアルバイトをする事に決めました。笑うと思いますが、お店では帽子・ブラウス・ミニスカート・ハイソックス・靴等、全て全身白で統一していましたよ(笑)。そして源氏名は「雅(ミヤビ)」、勿論大好きな本木雅弘さんの「雅」から取りました!

M: プロダクションでの活動は?

S: 出勤して11時から18時までずっと電話番です。レッスンやオーデションを受けさせてくれる話しだったのですが、できたばっかりの事務所だったので準備や雑用が多かったの。でも結局一度も仕事が無いまま、半年後に社長とマネージャーが急にいなくなってしまったのです

M: ・・・

S: それでどうしたらよいか分からなくなったけど、隣に別の経営者の事務所もあって、暫くそこの電話番とクラブでのアルバイトを続けました。しかし夜の仕事をする為に上京したわけではないので、凄くホームシックになって東京の生活が嫌になり電話番やクラブも徐々に行かなくなってしまったの。それをクラブの女の子が察してくれたみたいで、「あなたと同じ九州出身の従業員がいるカラオケパブに連れて行ってあげる。そこで悩み事があるなら相談すればいいよ!」と言ってくれて、一緒に行ったのが「六本木2001年」だったのです。

M: ここで初めてノヴァ21グループのお店と出会うわけですね。

S: そうです。気さくな従業員達に励まされて元気になり、それから常連になるくらい通い続けて、そのうちいろんな所から「おう、志穂!」と声が掛かるようになったのです。そしてあんなに怖がっていた六本木が楽しい街に感じるようになりました。でも最初の頃は2001年がマハラジャの系列店とは知りませんでしたし、2001年の成田恭教社長が成田勝さんの弟さんとも知らず気軽に「やっさん!」って呼んでいましたよ。(笑)

M: その頃の六本木2001年はどんなお店でしたか?

S: 現在の2001年はココ六本木ビル7階にありますが、当時は同じビルの地下1階にあったのです。とにかく芸能人が多く来店するお店でした。それにカラオケパブなのですがサパークラブ的なノリで、従業員の丁寧な接客やお笑いありの盛り上げなど、従来のカラオケ店とはまったく違う楽しいお店でした。それで私なんか開店前にお店に入り従業員と一緒に賄いを食べて、ソフトドリンクだけ飲んで閉店までずっとお店にいました。2001年って最後のお客様が帰るまで営業していたから朝方はいつも遅く、その頃には従業員は酔いつぶれていて、いつも最後に私が掃除機で店内清掃をするのです。そうそう2001年って「燃えるレター」というお決まりの盛り上げ曲があって最後に皆で歌うのです。あと有名な常連さんで「田中のお父ちゃん」ってもちろん知っていますよね?

M: すいません、知らないです。

S: 知らないの?それじゃノヴァ21通じゃないですよ!

M: (笑)他にノヴァ21グループで行った事のあるお店はありますか?

S: 2001年と同じビルの6Fにあった「六本木3001年」にも良く通いました。あと「緑の館」にも行きましたよ。それと2001年プロデュースの「ROSE MARIE」やバー「ESQUISSE」もね。私、エスキースにいたワニの「ベイビー」が大のお気に入りでしたが、心無いお客さんの行動により死んでしまったのにはショックでした。それと麻布十番のマハラジャには2001年や3001年のお客さんに何回か連れて行ってもらいました。

M: では、デビューのきっかけを教えてください。

S: はい。ある日、いつものように3001年で唄っていたら、大手のプロダクションから独立を控えていた社長と当時スタイリスト業界では知らない人はいなかったくらい有名な方が来店したのです。そしてスタイリストの方が「あいつ1人で来て唄っているよ。面白そうなヤツだな!」と言う事で、従業員を通して席に呼ばれて話しをしました。でも警戒してその時は出身地と歌手になりたくて上京した事しか言わなかったの。そしたら「本当にやる気があるなら俺の所にデモテープを持って来い!」って言ってくれたのです。

M: 六本木3001年、つまりノヴァ21グループの店舗でスカウトされたのですね。後にマハラジャで人気になるSHIHO.さんにとって運命的ですね。

S: そうですね。それでもう宮崎に帰るしかないと思っていた時で、最後に一か八かやってみる事にしたの。そして3001年で中森明菜さんの「DSIRE−情熱−」とキョンキョンの「ハートブレイカー」を唄ったデモテープを作ってもらい、撮影中の六本木スタジオに持参したのです。今でもよく憶えていますが、下の喫茶店で初めて自分のおかれている立場と今までの経過を正直に話しました。そしたら涙を溜めて「やるしかねーだろー!!」と言ってくれたのです。この感動的な一言でSHIHOが誕生したわけです。18歳でした。

M: それからデビューまでどのくらいかかりましたか?

S: 1987年11月1日に新しい事務所が立ち上がり、一期生としてスタートしたわけですが、デビューしたのが丁度1年後の1988年11月1日だったのです。ちなみに同じ所属には後にCCガールズになった藤原理恵さんや宇梶剛士さんもいらっしゃいました。

M: それではデビュー曲「ジプシークイーン」の誕生までのエピソードをお聞かせください。

S: はい。杏里さんの「悲しみがとまらない」、菊池桃子さんの「卒業」、中森明菜さんの「北ウィング」他、数々の大物歌手にヒット曲を提供していた林哲司さんが、新しいジャンルに挑戦したかった時期に私が紹介され「林さんとSHIHOとのコンビで面白い事をやろう」となったのです。で、「何が流行るか?」と議題になった時、世の中がマハラジャ全盛期だったので「ユーロビートでいかせよう!」と言う事に決まったのです。でも私は「ユーロビートってなんだろな・・・!?」みたいな(笑)。まぁ、唄えるなら演歌以外ならなんでも良かったのだけど、まさか洋楽を唄うとは思いませんでした。それで当時流行っていた「DEAD OR ALIVE」のようなアグレシッブな曲調よりも「ABBA」とかのキャンディポップス的な路線で行く事になり、出来たのがジプシークイーンでした。

M: ジプシークイーンを初めて聞いた感想は?

S: 最初にサビの部分「マンマンマン、ママミア♪」と聞かされて正直「何じゃこりゃ!」と思いましたね。後々この箇所を「ノンノンノン、ノノミヤ♪」って聞こえるとよく言われました。

M: 歌詞は最初から英語だったのですか?

S: いえ最初は日本語だったの。ちなみに名前も「志穂」と漢字表記でした。今でも日本語バージョンを聞くと赤面するくらい恥ずかしいです。しかもプロモーションとしてディスコで唄うとあまり反応が無く、お店から「日本語の曲を流すとお客さんが入らない」とか「日本語の曲はかけない方針」とか言われるようになったのです。それで急遽、英語バージョンを作ったのですがこれが大変でした。私は英語が得意ではない為、英語の歌詞にカタカナを全部ふって覚えたり、歌詞を訳して自分なりにストーリーを描き唄いこんで頭になじみこませました。さらに曲調をさらにダンサンブルにする為、当時ユーロビートのリミックスに実績があったリミックスチーム「M.I.D.」によって編曲されました。またディスコではピッチを上げてレコードを回すので、ボーカル部分が高く聞こえてしまい私が唄っているとは思われず、お客さんや取材人からジプシークイーンをカバーした歌手だと思われ事もよくありました。

M: 初めて自分の曲がレコードになった時の感想は?

S: 感激で言葉には表せないほどで、モックンにありがとうと言いたかった。ちなみにジプシークイーンのジャケットはハワイのダイヤモンドヘッドで撮り、プロモーションビデオもハワイで撮りました。

M: プロモーションのエピソードをお聞かせください。

S: 最初は有線放送が中心でしたが、1989年には全国のディスコ80箇所周ってプロモーションをしたのです。各都市でコーディネートしてくれる方に流行っているディスコを手配してくれるのですが、けっこうアポ無しの飛び込み営業もありました。何も知らずに入ったディスコがレゲエの店だったとか、それでも勢いにまかして「えーい!やちゃえ!」って唄うのです。すると全員総立ちで盛り上がり、こっちが逆に驚いた事もありました。

M: 人気が出てからも2001年には通っていたのですか?

S: 事務所から遊び人と言うイメージが付かないようスキャンダルを恐れて「六本木禁止令」が出たのですが、隠れて2001年や3001年には相変わらず通っていましたよ。でもバレバレでよく怒られていました。そしてそんな時なんと3001年にモックンが来店したのです!しかも地元で行ったシブがき隊の解散コンサートで、私がカスミソウの花束を渡した事を憶えてくれていたの。でも大ファンなのを隠していたら成田恭教社長がバラしてしまいワナワナでした(笑)。

M: 続いて「ザンジバル」についてお聞かせください。

S: :はい。事務所が合併して岩城滉一さんの妹分としてコンサートで唄わせてもらっていました。その時のバンマスが元「クリエーション」と言うバンドでボーカルをやっていたシミズヤスオさんと言うミュージシャンの方で、新曲ザンジバルをプロデュースする事になったのです。それで曲をよりディスコ受けするように当時の人気ディスコのカリスマDJにリミックスしてもらう事になり、A面の「FRONTLINE MIX」を東京マハラジャ地区のDJ 末木強さん、B面の「RED MONSTER MIX」を新宿系ディスコのDJ 松本みつぐさんに手がけてもらいました。ちなみに渋谷系のカリスマDJには「Sister Diva…(She Was Sixteen)」をリミックスして頂きました。

M: ジプシークイーンの時との違いは?

S: まずザンジバルを初めて聞いた時は純粋に「格好良い!」と思いました。それとプロデューサーが事務所に対してSHIHOに何でも与えているだけではなく、全部本人にやらせないと本物のミュージシャンにならないと言ったの。だからザンジバルからは衣装やフリ付けや演出等を全部自分でやる事になりました。これが凄く大変で、ダンスが苦手な私はマドンナのビデオを見たりしてフリ付けの研究をしました。

M: ザンジバルの時も全国のディスコを周ったのですか?

S: 1990年ザンジバルのプロモーションは、2ヶ月で北は札幌から南は沖縄まで全国のディスコ100箇所キャンペーンをやり遂げました。もう鬼のようなスケジュールで、一番凄かったのは名古屋の1日7ステージ、続いて札幌が6ステージ、大阪の5ステージです。勿論、全国のマハラジャも周りましたよ。だからそれだけ仕事でディスコに行っているとプライベートでは全く行く気がしなかったです。それどころかディスコに行くと吐き気がしてしまう。でも不思議とステージに立つと治るんですよね。

M: 全国のディスコを周られたわけですが、各地でノリの違いはありましたか?

S: ありましたね。例えば東京でも新宿は何でもありありで、お客さんと目があっただけで「キャー!」って盛り上がる。六本木は自分達が楽しければSHIHOも楽しく最高って感じです。どちらかと言うと大阪は新宿のノリに似ており、名古屋と札幌のノリは六本木に似ています。九州はまた独特で、盛り上がりたいのにちょっと周りの様子を見ちゃうクールな感じです。またマハラジャでも都市によっては盛り上がりのエンジンが掛かる時間が違っていました。

M: SHIHO.さんはジプシークイーンとザンジバルのイメージが強いですが、他の曲もご紹介ください。

S: はい。セカンドシングルが「PLASTIC MOON」、サードシングル「ぎりぎり誘惑」は浅岡ルリ子さん、後藤久美子さん、岩城滉一さん、国生さゆりさん、唐沢寿明さんが出演し1989年に放映したTBSドラマ「アイラブユーからはじめよう」の主題歌でした。「SECRET DANCER」はサビの部分が無理やりだったので唄いづらかったです。「BAD MAN」はニューヨークでプロモーションを撮り、参加して頂いたプロデューサーがマドンナのバックでギターをやっていた方で、とてもお金を掛けた曲でした。「ROCK THIS HOUSE」は最後のフェイドアウト時に「ロック、ロック、ロック ディス ハウス」と何度も繰り返しているうちに訛ってしまい何回も録り直した曲です。他には「YO! DJ!」「Baby Love」「Sister Diva…(She Was Sixteen)」「Love Make Me Feel」はディスコ仕様として12インチシングルがあります。また事務所を移籍してから出した「SHAKE YOUR BODY」は学園祭をターゲットにして振り付けが一番激しくSEXを連想させる曲です。「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」は宇崎竜童さんの「ダウンタウンヴギヴギバンド」のカバー曲で、最初は英語のラップバージョンで凄く格好良かったのですが、何度やっても唄え込めずプロデューサーの「だめだこりゃ」の一言でボツになり、日本語バージョンに替わってしまった曲です。そして「何時迄も LOVE YOU」とC/Wの「二人は大人」は演歌とユーロビートを混ぜたような変わった曲で、理由があって関東だけで60万枚突破し、全国では100万枚売れプラチナディスクを貰った隠れた大ヒット曲なんです。しかもマハラジャでプロモーションしましたし、唯一私の曲でカラオケに入っています。

M: SHIHO.さんにとってディスコ及びユーロビートとは?

S: 正直、プライベートではディスコは好きになれなかったです。でも自分の若い時はディスコ知らずにいたから、逆にディスコ通いで育った遊び人には憧れていました。それに私にとってユーロビートは心地良く、体は自然とあのリズムを刻んでいたのは事実です。ユーロビートがSHIHO.を創り、当時のディスコがSHIHO.を育てたわけで、実はSHIHO.が先のようで後なのです。ディスコやユーロビートがSHIHO.をいくらでも料理できたと思います。

M: SHIHO.さんにとってマハラジャとは?

S: あのマハラジャ全盛期は異常でした。今のクラブシーンには無い社会現象でしたよね。偉大なディスコでした。お店も従業員もそしてお客さんも全て・・・これからも絶対出てこないマハラジャとリンクできたのは、私にとって大変意味がある宝です。そして六本木、2001年、3001年、ユーロビート、マハラジャがSHIHO.を創ったと言っても過言ではないです。そうノヴァ21グループという存在が私の人生に大きな影響力を与えました。

M: 最後にSHIHO.さんの今後の活動や目標をお聞かせください。

S: 勿論、今でもディスコやクラブでのイベントで呼ばれたら唄いたいです。当時の人達や当時を知らない今の世代の人達が、あの時代を求めるならタイムスリップさせる存在であり続けたいと思っています。そして個人的には「ジプシークイーン」はもちろんの事、全裸でバラードを1曲唄うのが永遠の目標です。そうそう当時のマハラジャのお客さんを呼んで、昔マハラジャが「DEAD OR ALIVE」「KYLIE MINOGUE」「SINITTA」のコンサートイベントをやったように・・・

M: 本日はお忙しいところお時間を頂きありがとうございました。

S: こちらどうも、ありがとうございました。全国の皆さん!ディスコやクラブイベント等がありましたら是非、声を掛けてくださいね!

('04年 しゃぶ禅六本木店にて)

MAHARAJA WEB SITE

Copyright © 2007 Miehar. All Rights Reserved.

inserted by FC2 system