自分の環境を“地獄”と小学生が表現するかと、知人は言いましたが、小学生が学校を“生き地獄”だと言っているのを私は実際に聞いたことがあります。学校というものは、もう昔と違っているのだと思います。
約束の木曜。私は《ニートの取材をしたらその足で帰る》と魑魅魍魎に告げ、柚羽子の元へ向かった。
森の中を歩くのも、もうすでに慣れてきており、いつもの二倍近い速度で進むことができている。
そして……柚羽子はどこか悟ったような落ち着きをみせる表情で、家のドアの前に立っていた。
その姿を見るのは、何度目だろうか。
《見慣れた》まではいかないけれど、その前時代的な佇まいに斬新さを感じることもまた、なくなっている。
思い知るのはただ、その線の太い据わった目が、巫女の千早のように神々しく透き通る肌が、肩上で切り揃えた知性的な黒髪が、私はとても愛おしいのだという事実だけ。

ことに今日は彼女から一際、晩夏の北風のように涼やかな凛々しさを感じるのは……なぜだろう?
その答えは、部屋に招き入れられて初めて気づくことになる。
「ゆ、柚羽子、これって……片付け屋が来たの?」
「いいえ」
確かに、まだ三ヶ月に一度の片付け屋が来る時期ではない。
──部屋に入った私が見たのは、心地良い森の中の部屋。
瓦礫の山はすっかり姿を消し、飴色の夕陽に木の床や壁が温かに照らされている。
造花たちは花瓶や籠に美しく生けられており、それらは戸棚の上や床の隅をさり気なく飾っていた。
中央にマホガニーのテーブルが置かれ、柚羽子はそこにはあまり似つかわしくない、鮮烈な緑を放つ日本茶の入った陶器を置いている。
柚羽子の寝床も寛いだ椅子もないところを見ると、ここは、客間か作業場か、といったところなのだろう。
柚羽子に「どうぞ」と促されて席に座ると、彼女は立ったまま、慈愛に満ちた表情で横から私を見下ろす。
「カオン、あなたのおかげで《独房》から抜けることができたわ」
「そう……そうだったのね」
私には柚羽子の言葉の意図がすぐに理解できた。
彼女にとって《部屋を片付ける》ということは、《自らを赦して独房を出る》ことを意味するのである。
柚羽子はそっと、このおでこを抱き、青い着物の袖で私の顔を覆ってきた。
吊り床での抱擁とは違った、とても清澄で安らかな、海底のように青い静寂の世界。
「ありがとうカオン……本当に、ありがとう」
「柚羽子……、これは貴女の強さよ」
涙声になりそうなのを必死でこらえて告げると、柚羽子はそっと私から離れ、がっくりと俯いてしまう。
「私は……弱い女だわ」
「どうして……」
「…………」
しばしの沈黙の後、柚羽子は私の対面に座り、すぐに真摯な瞳で事情を話してくる。
「私は確かに、リーダーの少年に殺意を持って植木鉢をぶつけた。……でもねカオン、とどめを刺したのは私ではないの」
それを聞くと、私の心を覆っていた雲に切れ間ができ、それは見る見る大きくなって温かな光をもたらした。
「そんなことだろうと思ったわ。それで、とどめを刺したというのは……」
「全て……全て、話すわ」
そのときふと、部屋を照らす飴色の光が、厚い雲の出現によって遮られた。
そしてまた過去を語りだす柚羽子。
ただし前回がどこか恐る恐るの口調だったのに対し、今回はどこまでも落ち着き払った物言いで──
◆
カオン……、私は一度路地を立ち去った後、ふと思うことがあって、また現場へ戻ったわ。
そうなのよ。あの猫を早くお墓にでも埋めてあげなければ……って。
私、夜に抜け出しても誰にも気づかれないような家に住んでいたから、懐中電灯を持ってあの場所へ向かった。
路地に入ると、その場所はさっきとは比べ物にならないほど、強烈な血生臭さに満ちていたわ。
猫の体が腐るのには早すぎるし、事実、それは何かが腐った匂いではなかった。
そうすると、この耳に聞いたことのない男性の声が入ってきたの。
「何者だ!?」
懐中電灯で奥を照らすと、そこには……リーダーの死体と、さっきは存在しなかったはずの血の海、それから、その傍に立ち尽くす見知らぬ男の人。
それよりも何よりも私が驚いたのは、リーダーの倒れている向きが、私が殴ったときとは反対方向だったこと!
とりあえず……
「そのイジメリーダーを殺した者です」
半ば何かを諦めていた私がそう告げると、男性はギラリと目を光らせて、こちらへ歩いて来たわ。
「君は藤明人形店の娘……!? 違う、君じゃない! そいつを殺したのは、君じゃないんだ!」
「どういうことです……?」
「私の名前は……佐竹
光蔵、もう分かるね?」
「佐竹君の……!?」
私はすぐにこの男性が、リーダーや村北君がイジメていた佐竹君のお父さんなんだって、判ったわ。
「さよう。息子がイジメに遭っていたなど……全く知らずに過ごしてしまった。今からでも、息子に罪滅ぼしがしたい」
懐中電灯の明かりだけだったから、はっきりとは見えないけれど、その人はやけに風格のある男性で、時代錯誤のちょび髭が印象的だった。
「罪滅ぼし……まさか佐竹のおじさま、あなたがリーダーを!?」
人殺し呼ばわりされても、彼は全く動じずに堂々と首を横に振ったわ。
「いいや。違う。そいつを殺したのは……我が愛する息子だ」
「佐竹君が……」
驚きはしたけれど、違和感はなかったわね。リーダーたちが佐竹君にしていたことを思えば……。
「イジメられている子供というのは、その事実を人に知られたくないらしいな。だから息子は、そのリーダーが自分以外の者を痛めつける場面をおさえて、それを告発するつもりだったらしい」
「じゃあ、今日も……」
「そうだ! 君の猫を殺しに行くリーダーたちの後を、息子はつけて行ったらしい。そして君の猫を助けようとしたが、リーダーを前にすると足がガクついて何もできなかったことを、息子は悔やんでいたよ。藤明さんに申し訳ないとな」
「…………」
「すると藤明君、君は復讐のため、リーダーの頭を植木鉢で殴ったそうだな……ダメだよ、そんなことでは人は死なん」
「私は、仇を討ち損ねた……」
仇を討ち損ねた悔しさと、その仇がもう死んでいる事実に、私は数多の感情が入り混じった複雑な気持ちになったわ。
「さよう。気を失いはしたが、彼は生きていた。そしてそれを私の息子は見ていた。……君や村北という少年が立ち去るのを見計らい、リーダーに近寄ると、彼は弱々しく起き上がり、息も絶え絶えに、息子の名を呼んだらしい」
私には佐竹君の気持ちが手に取るように理解できた……。
「そのとき、佐竹君の中で何かが爆発した……」
「そのとおりだ! そのコンクリートで、彼の頭を百叩きにしたと言う。息子自身の恨み、そして猫を殺された君の恨みを込めてな!」
そして、私が殴り倒したときとは逆方向に倒れて逝ったということなんでしょう。
リーダーの傍には彼の血と共に、路地の排水溝の蓋と思われるコンクリートの塊が落ちていたわ。
「佐竹君……」
「だが子供だ……家に戻り、私の顔を見るとすぐ、息子は自分のしたことを全て話してきたよ。そして私が後始末をどうするか考えるため、一人ここへ赴いたという寸法だ。空き家に囲まれているのが幸いした。目撃者も居ないらしい」
目撃者……というと、あの笑い声のことが気になるわね。
でもそのときの私は、あの笑い声が猫のものだって思い込んでいた……。
息子の罪を語り終えると、佐竹のおじさまは試すような目でこちらを見てきた……
「ときに藤明君、学校はつらいかね?」
「はい……とても、つらいです。挙句の果てには愛する猫まで殺されて! まるで地獄です!」
自分が可笑しかった……
親でもなんでもない相手には、こうもすんなりと気持ちを打ち明けられるものなのかって。
正直に心内を明かすと、なぜか涙が止まらなくなって……。
それを見て佐竹のおじさまは、確信に満ちた笑顔を浮かべたわ。
「では、佐竹が君の《住処》を用意しよう」
「え……?」
「君はもう、何もせずとも良い。地獄のような学校へ行くことも、社会と関わることもせずと良い。ただ森の奥の小屋で、悠々自適に暮らさせてやろうと言うのだ」
学校生活に疲れ果てた私は一瞬だけ目を光らせたけれど、すぐにそれは大変なことなんだって気づいたわ。
「でも……」
私が躊躇すると、おじさまは堂々とした顔で路地から垣間見える夜空を見上げた……
「娘っこ一人、森の奥で暮らさせることなど、我が佐竹にとっては、庶民たちが犬小屋で犬を飼うのとさほど変わらん」
「…………」
「ああ、座興が過ぎたかな。お詫びしよう。君にとっても悪い話ではないと思うのだが、どうだ?」
小さかった私。
目の前の苦しみから逃れられるのならもう何でもいいと、半ば無意識の内に首を縦に振っていたわ。
するとおじさまは、とても厳しい目で私を見ろしてきた……
「その代わり条件がある! そのリーダーの少年を殺したのは……君だ! できる限り長く、森の中に隠れて生きてくれ! 私は息子を……佐竹グループの大切な跡取りである彼を、人殺しにするわけにはいかない……解ってくれ給え!」
「わかりました……でも、そんなことできますか?」
「藤明は大事な娘が居なくなれば、血眼になって探すだろう。だが、たかが人形店と、華やかりし我が佐竹グループとでは、赤子と巨人ほど力の差があろう。何をおいても君を隠し通す! 例えば警察が総力をあげるのならば、私は佐竹と交流のある警察上層部の者たちに力を借りよう。だから頼む! 息子の罪を、」
「かぶらせていただきますわ! ええもう、喜んで!」
おじさまが言い終わる前に、私は大喜びでその条件を呑んだわ。
「ありがとう……」
佐竹のおじさまは最後に、放置されて赤黒い塊になった私の猫を見下ろしたの。
「この猫もせめて、手厚く葬ってやろう」
「ありがとうございます……」
おじさまは血の塊となった猫を拾い上げると、重い足取りで歩き出したわ。
「ついてこい。葬儀に参加しろ」
「はい……」
歩きながらおじさまは、妙なことを訊いてきたわ。
「ときに藤明君、君はリーダーを殺す前、笑い声をあげたかね?」
「いいえ……」
だってあれは、その猫の笑い声だから。
「そうか。息子がな、あのとき、女の笑い声を聞いたと言うのだ。まあ、気のせいだろう」
カオン、それでね、愛する猫をきちんと見送った次の日からはもう、私はこの森の奥で生活を始めたのよ……。
◆
柚羽子の告白は完全に終わった。
そして、彼女の秘密も全て明らかになった。
だが……、黒幕と思われるその《笑い声をあげた女》という存在のことは、結局謎のままである。
しかし何より、柚羽子が殺人者でなかったと知ることができ、私は大いにこの胸を撫で下ろしていた。
「良かったわ、柚羽子が罪を犯していなくって……」
私の能天気な一言に、柚羽子はその瞳を鋭く尖らせる。
「カオン、それは違うわ。私は確かに殺意を持って、植木鉢をリーダーの後頭部にぶつけた。私が彼を殺そうとした事実は、決して消えはしないの」
その消極的な想いを、私はもうそろそろ吹き飛ばしてあげようと思った。
ドンとテーブルを叩いて立ち上がり、訴えるように柚羽子を見下ろす。
「だから! だから貴女は償いをしてきたじゃない!? 血の気の多さを呪って手首を切ったり、ゴミの山で虫に紛れて暮らしたり。──これって、実際に殺人罪で刑務所に入っている人よりつらい日々よ!」
「でも私は弱い女よ……。学校がつらいからといって、殺人者になることを受け入れた」
「それが罪なの? それが貴女という人間の傷になるというの? イジメが起きても放置してる学校なんて、堂々と願い下げしてやればいいのよっ!」どんっ!
啖呵を切りつつテーブルを叩くと、柚羽子はまたあの要らない言葉を放ってくる……
「ありがとう、カオン……」
私は居ても立ってもいられず、椅子に座る柚羽子の前に駆け寄り、その場に崩れ込むと、祈るようにその神々しい姿を見上げた。
「もう一度言うわ……もう自分を罪人だと思うのはやめて! 自分を許して……自由にしてあげて欲しいわ、もう」
「…………」
前を向いたままの柚羽子の体が小刻みに震えだすのを見ると……
私はその片腕を両手でつかみながら、腹の底からの告白をしていた……
「一人ではどうにもできないのなら、私がいつも傍に居て、助けてあげるから……! 貴女と一緒に生きたいの! 生きていきたいのよ!」
……驚いた。
私がこんな熱い人間だったなんて。私をここまで貶めた償いはしてもらわなければ……。
柚羽子は前を向いていた顔をゆっくりと、本当にゆっくりとこちらへ向け、
「ありがとう……」とまた、聞きたくない言葉を吐いてきた。ところが……「なんてもう、言わないわよ」
「柚羽子……!?」
柚羽子はそっと立ち上がると、温かい、しかしどこか誇らしげな笑みを浮かべてこちらを見下ろしてくる。
「いつも《ありがとう》ばかりでごめんなさいね。──わかったわ。カオン」
「柚羽子……?」
女神に許しを請う民のように柚羽子を見上げる私。
私のその〈柚羽子……?〉は、《一緒に生きてくれることを承諾してくれるの?》という意味であり……。
柚羽子が何も言わず、噛み締めるようにはっきりと頷いたとき……空を覆う雲は流れゆき、先ほどより幾らも温かな日暮れの光が、整然と片付けられた部屋を満たしてきたのだった。